ウマ娘競バ史 1968 〜『ウイポ10 2026』体験版プレイ記〜   作:geko

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6話 空白のページ

◆タニノハローモア視点

 

 冬の終わりの鴨川沿いは、刃物のような冷たい風が吹いている。

 東の空がようやく白み始めたばかりの薄暗い時間。すれ違うのは、新聞配達の自転車と、首を竦めながら犬の散歩をする老人くらいのものだ。

 ウチは息を白く染めながら、等間隔に並んだ河川敷の敷石をひたすらに蹴り続けていた。

 

 ターフの芝とは違う、硬く反発するアスファルトの感触。足裏から伝わる衝撃を膝のクッションで殺し、推進力へと変換していく。四拍子のリズムで冷たい空気を肺の底まで吸い込み、限界まで熱して吐き出す。

 頭の中にあるのは、一つだけ。きさらぎ賞の直線で見た、あの理不尽なまでのマーチスの背中。届かなかった5バ身という絶望的な距離。

 それを埋めるための歩幅。脚の回転。重心の落とし方。

 頭の中でトレーナーのノートに書かれた数式を反芻しながら、ただ黙々とアスファルトを叩く。肺の奥が血の味で焼けるように痛いが、ペースは絶対に落とさない。

 

「おや、ハローモアちゃん、おはようさん!」

 

 コースを変えて出町柳の商店街を抜ける時、顔馴染みの総菜屋のおばちゃんが、シャッターを開けながら声をかけてきた。

 店先から漂ってくる、ラードで揚げられた熱々のコロッケの匂い。休日の朝の、平和で暴力的な香り。空きっ腹が反射的に鳴り、喉の奥がゴクリと鳴った。

 

「今日も朝からえらいねえ。ほれ、揚げたてや。一個食べてきなさいな。おまけしとくから」

 

 茶色い紙袋を差し出され、ウチは一瞬だけ足を止めた。

 少し前なら、迷わず受け取って頬張っていただろう。言い知れぬ不安と恐怖を、胃袋を物理的に満たすことで無理やり誤魔化すために。

 

「……ごめんな、おばちゃん。今は、ええわ」

「あら、珍しい」

 

 ウチはジャージのジッパーを首元まで引き上げながら、ニッと口の端を吊り上げた。

 おばちゃんは目を丸くした後、何かを察したのか、少しだけ嬉しそうに「きばりや」と手を振ってくれた。

 

 軽く頭を下げ、再び冬の風の中へと駆け出す。

 コロッケの匂いが遠ざかると同時に、ごまかしのきかない強烈な空腹感が胃袋を締め上げた。痛い。だが、今のウチにはこの身体的な痛みがひどく心地よかった。

 満たされたらアカン。腹を空かせた獣のままでなければ、アイツの首元には届かない。

 

 ウチは歯を食いしばり、空腹のまま、もう一段階ギアを上げて地面を蹴りつけた。

 

◆ファインローズ視点

 

 古書のインクと、微かに埃を帯びた紙の匂いが好きだ。

 休日の昼下がり。私は市街地の裏通りにある古書店で、静かに書棚の間を歩いていた。

 

 この時間が、私は何よりも落ち着く。

 入り口近くの思想書の棚を抜け、奥の海外文学のコーナーへと向かう。革張りの背表紙に並ぶタイトルを指先でなぞりながら、作者が構築した完璧な世界へと意識を沈めていく。

 そこには他者の不確定なノイズも、理不尽な才能の暴力も存在しない。すべてが論理と修辞によって、あらかじめ決められた美しい結末へと向かっていく。

 一冊の詩集を手に取り、ページを開く。だが、活字の組み方と余白のバランスがどうにも美しくなく、私は静かにそれを元の隙間へと戻した。

 

 しばらく棚を巡り、冷徹で無駄のない文体で綴られた、薄い一冊を見つけ出した。

 そっと抜き出しページを開くと、かすれた活字が整然と並んでいた。この感情を徹底して排した乾いた世界観は、今の私の精神状態にとてもよく馴染むはずだ。

 

「今日は、それかい」

 

 レジへ向かうと、奥の椅子に座っていた白髪の老主人が、眼鏡の奥の目を細めて微笑んだ。

 

「ええ。装丁も活字の並びも、とても美しいわ」

「お嬢さんに買ってもらえると、本も喜ぶよ。いつも本当に、綺麗に読んでくれるからね」

「どうも」

 

 短い会釈を交わし、紙袋を受け取って外へ出る。

 老主人は何も聞かなかった。それが、私がこの店を好む理由の一つだった。

 薄い雲の切れ間から、微かに春の気配を含んだ陽射しがアスファルトに落ちていた。

 

 桜花賞への切符を懸けた『フィリーズレビュー』。

 その舞台で私が演じるべき脚本は、すでに私の中で完成している。計算の狂いは一切ない。あとは、本番のターフという舞台の上で、ただ淡々とそれを実証するだけでいい。

 

 木造の下宿屋へと続く緩やかな坂道に差し掛かった時だった。

 遠くから、規則正しい硬質な音が聞こえてきた。ザッ、ザッ、ザッ。荒々しいが、寸分の狂いもない四拍子のリズム。

 その足音の主が誰かなど、考えるまでもない。

 

「……予定より、少し早いわね」

 

 私は小さくため息をつき、胸に抱えた紙袋の感触を確かめた。

 美味しいダージリンを淹れて、一人の静かな活字の世界を楽しむはずだったのだ。だが、あの騒がしく不器用なチームメイトが帰ってきてしまえば、その静寂はすぐに破られてしまうだろう。

 

 まあ、いい。あの子がどれだけ限界まで自分を追い込んできたか、その荒い息遣いを聞きながら紅茶を飲むのも、悪くはない。

 私は少しだけ歩幅を広げ、足音の鳴る方へと帰路を急いだ。

 

◆トレーナー視点

 

 夜のトレーナー室。

 私はデスクのスタンドライトだけを点け、開いたノートの真ん中に一本の線を引いた。

 

 左半分には、ローズの次走『フィリーズレビュー』へ向けた調整メニュー。エルフィンステークスを完璧な走りで制した彼女は、現在も淀みなく仕上がっている。このままいけば、桜花賞へ向けて一切の不安はない。

 問題は、右半分だ。

 ハローモア。皐月賞への切符を掴むための、彼女の次走。

 

 私の鉛筆の芯は、宙に浮いたまま止まっていた。

 頭に浮かぶのは『若葉ステークス』。阪神、芝2000メートル。オープン特別であり、メンバーの層を考えても手堅く勝ち負けに持ち込める。確実な賞金加算と、皐月賞への優先出走権。計算式としては、これが最も理にかなった安全ルートだ。

 だが、鉛筆を下ろすことができない。

 

――やれることやって負けたんやったら、あとはもっとやれること増やすだけや。

 

 あの日、控え室で彼女が見せた獰猛な笑顔が脳裏に焼き付いている。

 若葉ステークスで手堅く勝つことは「やれることを増やす」ことになるのだろうか。あの絶望的な5バ身差を埋めるための武器に、このローテーションはなり得るのか。

 

「……」

 

 私は小さく息を吐き、右ページを真っ白なまま残してノートを閉じた。

 明日、彼女の顔を見てから決めよう。今の私一人では、彼女の熱量を正しく計算できそうになかった。

 

 

 翌朝。

 吐く息が白く染まる京都レース場校の芝コースで、ハローモアは規定のタイム通りに追い切りを終えた。

 

「……ふぅ、どうや。タイムピッタシやろ」

 

 肩で大きく息をしながら戻ってきた彼女に、私はストップウォッチを見せて頷いた。

 

「ええ、完璧よ。きさらぎ賞の時よりも、さらに終いの踏み込みが力強くなっているわ」

「おん。あいつの背中、嫌でも焼き付いとるからな」

 

 彼女は首にかけたタオルで汗を拭い、泥の跳ねたジャージの裾を軽く叩いた。

 その瞳の奥には、やはり静かで熱い炎が燻っている。

 

「ハローモア。次走のことなんだけど」

 

 私が空白のノートを開きかけた、その時だった。

 

「若葉ステークスやろ、考えてたの」

 

 彼女は私の言葉を遮り、真っ直ぐに私の目を見て言った。

 私は思わず言葉を失った。昨晩、私が悩み抜き、結局書き込むことができなかった文字を、彼女はすでに見透かしていたのだ。

 

「メンバー構成とローテーションを考えたら、そこが一番手堅い。……せやけど」

 

 冷たい朝の空気を切り裂くように、彼女の低い声が響いた。

 

「ウチ、逃げたないんや」

 

 私はノートを持つ手に、無意識に力を込めた。

 

「どうせ皐月賞でマーチスと戦わなあかんのやったら、今さら安全な道なんか走っても意味ないやろ。ウチは、アイツの首元に喰らいつきたいんや。そのためやったら……一番キツい道、選んだるわ。スプリングステークスや。京都の借りは、中山で返す」

 

 ハローモアは一歩前に踏み出し、獰猛な笑みを浮かべた。

 私は、たまらず口元を手で覆い、小さく笑いをこぼしてしまった。大人が一晩かけても答えを出せなかった空白のページを、この泥臭い挑戦者は一瞬で、最も過酷な色に塗り潰してしまったのだ。

 

「……本当に、計算が立たない子ね」

「なんや、文句あるんか?」

「いいえ。最高の答えよ。……やってやろうじゃない。中山のターフで、もう一度あなたの逃げを叩きつけてきなさい」

 

 私は、真っ白だった右ページに力強く『スプリングステークス』と書き殴った。

 鉛筆の芯が折れそうなほどの筆圧で。

 

 

 その日の夕食後。

 ハローモアが食堂を出てからしばらく、私たちは無言だった。

 食器を片付ける音もなく、テレビもついていない。聞こえるのは、ストーブの燃焼音と、ローズが文庫本のページをめくる微かな音。

 そして窓の外では、ハローモアの足音がだんだんと遠ざかっていく。出町柳の夜の空気に溶け込んで、やがて完全に聞こえなくなった。

 食堂に、静寂が戻る。

 

「スプリングステークスにしたの」

 

 手元の文庫本から視線を上げず、ローズが不意に口を開いた。

 

「ええ」

 

 私が短く答えると、ローズはパタン、と読んでいた文庫本を閉じ、目の前に置かれたティーカップを両手で静かに包み込んだ。

 ティーカップの縁に添えられた白魚のような指先に、微かに力がこもっている。

 

「中山の因縁から逃げ回るようなウマ娘なら、このチームの『基準』にすら届かない。計算で天才に勝てないのなら、盤面ごと泥沼に引きずり込むしかないでしょうね。……本当に、不器用なチームだこと」

 

 彼女はゆっくりと紅茶を口に含み、再び文庫本を開いた。

 私は小さく息を吐き、自分の手元のノートに視線を落とした。

 

 

 3月。クラシック戦線への最終切符を懸けたトライアルレースの季節。

 私はデスクに向かい、ノートの左右のページを同時に睨みつけていた。

 

 右ページには、ハローモアのスプリングステークスへ向けた、限界ギリギリのハードトレーニング。天才の盤面を泥沼に引きずり込むための、狂気じみた計算式。

 左ページには、ローズのフィリーズレビューへ向けた、一切の狂いも許されない繊細な調整メニュー。桜花賞へ向けて、完璧な走りをさらに研ぎ澄ますための最適解。

 

 二人の担当ウマ娘。

 ベクトルも、才能の形も、戦う舞台すらも全く異なる二つの才能を、私は同時に最高潮へと導かなければならない。ノートを持つ手に、じわりと重い汗が滲む。

 だが、恐怖はなかった。

 

 カリカリ、と。鉛筆の音だけが、夜のトレーナー室に響いていた。

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