ウマ娘競バ史 1968 〜『ウイポ10 2026』体験版プレイ記〜   作:geko

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タニノハローモア視点


8話 規格外の怪物

 中山レース場の地下バ道は、ひどく冷たい空気が澱んでいた。

 コンクリートの壁に反響する蹄鉄の音を聞きながら、ウチは深く息を吸い込んだ。肺の奥が粟立つ。京成杯で7バ身差という絶望を叩きつけられ、廊下を磨き回るほどに心が砕けた、因縁の場所。

 でも、今のウチの足の震えは、恐怖から来るものではない。腹の底で渦巻く獰猛な飢えが、早くターフの芝を喰いちぎりたくて暴れているだけだ。

 

「ハローモア」

 

 不意に横から声をかけられ、ウチは視線を向けた。

 そこに立っていたのは、マーチスだった。だが、いつもパドックへ向かう前に見せる、春の遠足に来た子供のような屈託のない笑顔は、今のコイツの顔には微塵もなかった。

 普段なら「控え室の暖房が気持ちよくて寝とったわー」と欠伸の一つでも噛み殺しているはずの口元は、一文字に固く結ばれている。放っている気配が、きさらぎ賞の時とは全く違った。ピリピリとした、皮膚を刺すような静電気を帯びている。

 

「……なんや。今日は随分と、ええ顔しとるやんけ」

「おん」

 

 マーチスは短く頷き、ウチの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「今日はボク、ハローモアにかまってる場合ちゃうねん」

 

 かまってる場合ではない。

 その言葉の重みを、ウチの肌が瞬時に理解した。マーチスの視線はすでにウチを通り越し、もっと先の、途方もなく巨大な『何か』へと向けられている。

 

 地下の冷たい空気を押し潰すような、異様に重い足音が近づいてきた。

 ウチとマーチスのすぐ脇を、一人のウマ娘が通り過ぎていく。

 

 タケシバオー。

 規格外の怪物。足運びそのものは淡々としているのに、一歩踏み出すごとにコンクリートの床が軋んでいる錯覚に陥るほどの、圧倒的な質量。

 すれ違いざま、彼女はほんの一瞥だけ、ウチたちの方へ視線を向けた。

 言葉はない。だが、そこにはアサカオーが見せるような、住む世界が違う者を視界に入れない『優雅な無視』とは全く違う、暴力的で泥臭い重圧が宿っていた。

 

(……なんや、これ)

 

 ただ一瞥されただけだというのに、呼吸が浅くなる。スマートな天才たちとは違う、泥まみれの力強さでターフをねじ伏せる側のウマ娘。ウチと同じ側のはずなのに、放っている格が絶望的なまでに違った。

 タケシバオーはそのまま何も言わず、パドックへと続く光の中へ消えていった。

 

 マーチスがウチから視線を外し、その怪物の背中を、射殺すような鋭い目つきで追っている。

 ……ああ、そうか。

 ここはもう、ウチとマーチスの二人の世界やないんやな。あの圧倒的な天才すらも余裕をなくし、獲物の首を狙う一人の獣にならざるを得ない、本当の怪物たちの巣窟。

 

 ウチは獰猛に口角を吊り上げた。

 最高や。その狂った盤面ごと、ウチの逃げで全部ひっくり返したる。

 

 

 パドック裏の待機所。トレーナーは分厚いノートを開き、ウチの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「大外の15番枠。それに加えて、今回は逃げウマ娘が多すぎるわ」

 

 視線の先にあるノートの右ページには、びっしりと黒鉛の跡が残っている。夜通しで書き殴られたであろう、熱を帯びた数式。

 

「無理に前には行かないこと。ハナを主張してハイペースで競り合えば、確実にタケシバオーとマーチスの的になる。……分かるわね?」

「おん。分かっとる」

 

 ウチは短く答えた。

 頭では完全に理解している。大外から無理にハナを奪いにいけば無駄に脚を使う。ここで意地を張れば、中山の直線で待っているのは京成杯以上の残酷な結末だ。これは、トレーナーが一晩かけて絞り出した唯一の勝機の形。

 せやけど。

 

 足の裏が、靴底の蹄鉄越しに地面の感触を貪りたがっている。

 大腿四頭筋が勝手に熱を持ち、心臓が急き立てるように血を送り出す。

 視線の先、トンネルの向こうに見える中山の緑。あの日、絶望を叩きつけられたターフの匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。

 

 腹の底の獰猛な飢えが「今すぐ先頭に立って、全部喰いちぎったれや」と暴れている。

 前へ。誰よりも前へ。その本能を理性の数式で押さえつけるのは、摩擦で胃の腑が焼け焦げるほど苦しかった。

 

「……すごい顔をしているわよ、ハローモア」

 

 トレーナーが、少しだけ口元を緩めて言った。

 

「しゃあないやろ。腹ペコで目の前にご馳走出されとるんやから」

 

 ウチは自分の太ももをバンと力強く叩き、無理やり筋肉の疼きを散らした。

 

「我慢の先にあるモンが、一番美味いんやろ。信じとるで、アンタの計算」

 

 トレーナーは無言で頷き、ノートをパタンと閉じた。

 

 

 ゲートの扉が弾け飛ぶ音が、冷たい空気を切り裂いた。

 

 大外15番枠。スタート直後、内の枠から何人ものウマ娘が殺到し、我先にとハナを奪いに行く。巻き上がる芝。怒号のような息遣い。

 ウチの本能が「前へ行け」と叫ぶ。だが、ウチは奥歯が砕けるほど強く噛み締め、その衝動を力ずくで押さえつけた。

 外側へ押し出され、前のバ群を見る形になる。大外を回されるロス。ハイペースで流れる集団。展開としては最悪に近い。だが、ウチの頭の中は驚くほど冷え切っていた。

 

 トレーナーの数式が、ウチの身体を縛り付けている。この最悪な展開の中で、最善のルートをなぞること。腹の底で暴れる飢えを、今はひたすら胃袋の奥に閉じ込める。

 向正面。芝の跳ねる視界の先に、異様な気配があった。

 

 先団の後ろ、絶好のポジションを悠然と進む巨大な質量。タケシバオーだ。

 前のウマ娘たちがペース争いで息を乱す中、彼女だけが全く別の重力圏にいるかのように、地鳴りがしそうな力強いリズムを刻んでいる。背中から放たれる、泥臭く暴力的な重圧。同じ芝の上を走っているはずなのに、彼女が踏み込むたびに地面が悲鳴を上げているような錯覚に陥る。

 

 第3コーナー。

 先頭集団の脚が鈍り始めたその瞬間、怪物が動いた。

 いや、動いたのではない。彼女の周りだけ、空間の作りが根本から違うのだ。先頭集団の外へ持ち出すや否や、全く力みのないフォームのまま、他者が止まって見えるほどの速度で一気に抜け出していく。

 理屈ではない。戦術でもない。ただの、純粋で暴力的な身体能力の差。

 

(これが……規格外、っちゅうやつか)

 

 ウチは息を呑んだ。だが、絶望はしない。

 

 第4コーナーを回り、中山の短い直線へ向く。

 京成杯で完全に脚が止まり、7バ身という絶望を味わった因縁の直線。

 

「……喰いちぎったるっ!」

 

 ウチは胃の腑に閉じ込めていた飢えを、一気にターフへと解き放った。

 大腿四頭筋が弾け、地面を叩き割るように加速する。我慢に我慢を重ねた脚は、まだ死んでいない。前にいる失速したウマ娘たちを、大外から次々と飲み込んでいく。

 

 だが、その遥か前方を行く怪物の背中は、あまりにも遠かった。

 

 その時だ。

 内側の密集したバ群が、弾け飛ぶように割れた。

 

 泥まみれの隙間から、一筋の弾丸が飛び出してくる。マーチスだった。

 いつも春の陽だまりのように笑っていたその顔は、今は夜叉のように歪み、目は血走っている。なりふり構わず、ただ前を行くタケシバオーの首元だけを睨みつけ、死に物狂いで脚を伸ばす。

 天才の余裕など、そこには微塵もない。獲物を逃すまいとする、ただの飢えた獣の姿がそこにあった。

 

 ゴール板が迫る。

 マーチスの猛追。だが、タケシバオーの暴力的な背中には、あと少し届かない。

 歓声と悲鳴が入り混じる中、怪物が1着で駆け抜けた。

 続いて、マーチス。

 ウチは、その二つの途方もない背中を見つめながら、3番目でゴール板を駆け抜けた。

 

 

 レース直後の地下バ道は、荒々しい呼吸と汗の匂いが充満していた。

 ウチは膝に手をつき、肺の奥から熱い空気を吐き出した。大外から脚を溜め、泥まみれになりながらもぎ取った3着。皐月賞への切符。

 

 重い靴音が近づいてくる。顔を上げると、先頭を駆け抜けた怪物がこちらに向かって歩いてきていた。

 ウチの横を通り過ぎる瞬間、彼女はパドックの時と同じように、再びほんの一瞥だけこちらへ視線を投げた。言葉はない。ただ圧倒的な事実だけをそこに置いて、怪物は薄暗い通路の奥へと消えていった。

 

「……あー、もう!」

 

 不意に、すぐ横で声が弾けた。

 振り向くと、マーチスが乱れた前髪を両手でわしゃわしゃと掻き回していた。直線の夜叉のような顔はどこへやら、いつもの屈託のない、それでいてひどく悔しそうな顔つきに戻っている。

 

「あいつムカつくー! なんなんあの脚、バケモンやんか! なあハローモア、皐月では絶対にあいつに借り返したろな!」

 

 無防備に近づいてきて、ウチの背中をバンバンと叩く。

 さっきまでのヒリヒリとした殺気は嘘のように消え去っていた。同じ怪物に敗れた者同士の、妙な連帯感。ウチは体操着の袖で額にこびりついた芝と汗を拭い、フッと息を吐いて口角を吊り上げた。

 

「……アホか。ウチはあんたにも借り返さなあかんねん」

「えー? ボクはええやんか、とりあえずは」

「よーないわ。首洗って待っとれ」

 

 ウチはマーチスの手を軽く払い、トレーナーが待つ方向へと歩き出した。

 喉はカラカラで、胃袋は焼け焦げたように痛い。だが、足取りは驚くほど軽かった。

 

 

 薄暗いコンクリートの廊下を抜けると、待機所の壁際でタオルと水筒を持ったトレーナーと、その隣で文庫本に目を落とすローズの姿があった。

 ウチは、トレーナーが差し出したスポーツドリンクの水筒を引ったくるように受け取り、半分を一気に喉へ流し込んだ。

 冷たい液体が、焦げ付いた胃の腑に染み渡っていく。

 

「……ぷはっ。アカン、悔しいはずやのにマーチスの奴にすっかり毒気抜かれてしもたわ」

 

 ウチが口元を手の甲で乱暴に拭いながら笑うと、トレーナーは呆れたように、けれど確かな熱を帯びた目でウチを見た。

 

「最悪の展開の中で、よく我慢したわ。私の言ったことを信じ抜いてくれたわね」

「おん。おかげで胃に穴が空きそうやったけどな。皐月賞への切符、しっかり毟り取ってきたで」

 

 ウチが泥だらけの胸を張ると、壁に背を預けていたローズが、ページからゆっくりと視線を上げた。

 

「今日の展開で3着。……まあ、及第点ね」

 

 相変わらずの、氷のように冷たく平坦な声。

 だが、彼女はそこですぐに視線を戻さず、ほんの一拍だけ間を置いた。

 

「不利な状況でも、自分にできる走りをしたでしょう。それは認めるわ」

 

 言い切るや否や、ローズはすぐに視線を文庫本の活字へと落とした。

 ウチは少しだけ目を丸くして、それからニヤリと歯を見せて笑った。

 

「なんや、ローズ。ウチのこと褒めてくれとるんか?」

「事実を述べただけよ」

 

 ページをめくる微かな紙の音が、冷たい地下通路に響く。ウチとトレーナーは顔を見合わせ、小さく笑いをこぼした。

 ウチは空になったボトルを握りしめ、もう一度、暗い通路の奥――泥にまみれたターフへと続く光の方を振り返った。

 

 怪物タケシバオーの暴力的な背中。そして、夜叉のように牙を剥いた獣、マーチス。

 借りを返す相手は、ハッキリした。

 待っとれ、皐月賞。春の中山で、今度こそウチの逃げで全部喰いちぎったる。

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