共振のダンジョニア   作:心からのありがとうを君に

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第4話 蒼穹

 

 水曜日の朝は、よく晴れていた。

 

 遼太は世田谷のアパートを出て、最寄り駅までの十八分を歩きながらポーチの中身を確認した。ダンジョン産鉄のボルトナット十セット、救急キット、携帯食二つ、水筒。腰には岸本が選んでくれた新しいショートソード。ダンジョン産の鉄鉱石入りで、振動の伝導率が高い一振り。

 

 三度目の品川中層洞。

 

 気づけば、水曜日が品川攻略の日として生活に定着しつつあった。月曜と火曜は渋谷浅層洞でソロ稼ぎ、水曜は凛と品川、木曜以降はまた渋谷。Eランク探索者にしては贅沢なルーティンだが、品川で得られる収入と経験値がそれを支えている。

 

 三週間前まで、遼太の世界はEランクダンジョンの中で完結していた。ストーンビートルと戦い、数千円を稼ぎ、もやし炒めを食べて眠る。その繰り返し。それが今では、Dランクダンジョンの鉱石フロアまで足を伸ばしている。一人では絶対に到達できなかった場所に。

 

 品川駅の港南口を出て、ダンジョン庁の管理施設へ向かう。ゲート前には約束の五分前に着いた。

 

 凛はもう来ていた。いつもの黒いジャケットに軽装アーマー、長い黒髪を一つにまとめた姿。渋谷浅層洞の暗がりの中で初めて見たときと変わらない。

 

 だが、変わったこともある。

 

「おはよう」

 

 凛が言った。

 

 一度目の品川攻略では、凛は自分から挨拶をしなかった。二度目は遼太が声をかけてから短く返した。三度目の今日、凛の方から「おはよう」が出た。

 

 小さな変化だ。だが遼太にとっては、Lv.5がLv.6になったときと同じくらい確かな進歩だった。

 

「おはようございます。──あ、そうだ。一つ提案があるんだけど」

 

「何」

 

「もう三回目だし、名前で呼んでいいですか。氷室さんだとちょっと距離感あるなと思って。凛さん、でどうですか」

 

 凛が遼太を見た。数秒の間があった。

 

「……好きにして」

 

「了解。じゃあ凛さんで。──凛さんも遼太でいいよ」

 

「……考えておく」

 

 考えておく。凛の常套句だ。だがこの言葉が実際には「今はまだ無理だけど、否定はしない」という意味であることを、遼太はこの三週間で学んでいた。

 

 受付でパーティ登録を済ませ、ゲートをくぐった。

 

     

 

 地下一階。西側ルートの入口。

 

 遼太は右手を壁につけ、振動探知を走らせた。三度目ともなると、品川中層洞の岩盤の「手触り」が身体に染み込んでいる。壁の向こうの構造が、前回との差分として自然に浮かび上がる。

 

 最初のトラップ地帯。壁に触れたまま十歩ほど歩き、床下の圧力式トラップの位置を特定する。遼太が左手で通路の右壁を指し示し──ようとしたとき、凛がすでに右壁沿いに足を向けていた。

 

 遼太の手の動きを見ていたのだ。壁に触れた後、遼太の指先が微かに反応する方向を。

 

「……もう説明いらない?」

 

 遼太が苦笑すると、凛は振り返らずに答えた。

 

「あなたが壁に触れた後、右手の指が引く方向に危険がある。引かない方向が安全。二回目で気づいた」

 

「よく見てるな……」

 

「パーティメンバーの癖を把握するのは基本よ」

 

 淡々とした口調だったが、それは凛が遼太を「パーティメンバー」として観察し、理解しようとしていることを意味していた。遼太は小さく笑い、凛の後に続いた。

 

 地下二階。ロックリザードが二体、天井に張り付いて待ち伏せていた。

 

 凛の右手が動く。空気中の水分が凝結し、氷の槍が形成される。遼太はその気配を感じた瞬間、反射的に半歩右に体をずらしていた。氷の槍が遼太のいた場所を通過し、天井のリザードを射抜く。間髪入れず二本目がもう一体を貫いた。

 

「避け方を覚えたのね」

 

 凛が言った。驚きではなく、確認するような声だった。

 

「凛さんの氷、右手から放つとき微妙に左に弧を描くんだ。初速が速いから直線に見えるけど、実際には射出の瞬間に手首が僅かに回旋してる。二回見たら大体わかる」

 

 凛の足が一瞬止まった。振り返って遼太を見る目に、見慣れない色があった。

 

「……物理学専攻は伊達じゃないわね」

 

「まあ、軌道を読めるのと避けられるのは別問題ですけど。今のは半分運です」

 

「半分は実力ってことでしょう」

 

 それ以上は何も言わず、凛は歩き出した。遼太は彼女の背中を追いながら、内心で驚いていた。凛が冗談めいた返しをするのは珍しい。壁が、少しずつ薄くなっている。

 

 地下三階を抜けるとき、遼太は壁に触れたまま足を止めた。

 

「……凛さん」

 

「どうしたの」

 

「この壁の向こう。今まで感じなかった振動がある」

 

 遼太は壁に額を近づけ、意識を集中した。通常の岩盤を伝わる振動とは異なる、もっと深い場所から響いてくる微かな波動。品川中層洞の既知のフロア構造にはない、大きな空間の気配。

 

「どのくらいの距離?」

 

「探知の限界を超えてる。ただ──かなり深い。品川の下層に、俺たちが今いる階層とは別の空間がある」

 

 凛が壁に手を当てた。自分でも魔素の流れを読もうとしている。

 

「……確かに、魔素の流れが通常と違う。下層から湧き上がってきている。品川の下層はCランク相当よ。入れなくはないけど、準備なしでは危険」

 

「だよな。──でも、いつか確かめたいな。あの先」

 遼太の声には、純粋な好奇心があった。まだ見ぬ場所への渇望。それが遼太を探索者にした原動力であり、今もなお遼太を突き動かしている力だ。

 ──ふと、五年前の記憶が掠めた。震起の瞬間に見たあのビジョン。暗闇の奥底から響いてきた振動。今、壁の向こうから感じる波動と、あのときの振動が似ている──気のせいだろうか。すぐに思考を振り払った。品川と新宿では場所が違う。関係があるはずがない。

「いつか、ね」

 

 凛の声は静かだった。否定でも肯定でもなく、ただ「いつか」という言葉を噛みしめるように。だがそこには──三週間前にはなかったはずの響きがあった。「いつか」の先に、自分もいるかもしれない、という響きが。

 

 鉱石フロアの攻略は、もはや手順が確立されていた。遼太が陽動でクリスタルゴーレムを誘導し、凛が鉱石を回収し、回収後にモンスターを殲滅する。全工程で二十分を切った。魔素透晶を八個回収。過去最多だ。

 

     

 

 品川のダンジョン庁査定所は、昼過ぎの時間帯で混雑していた。

 

 査定を終え、折半後の遼太の取り分は八万四百円。三度目にして安定した収入源になりつつある。遼太は探索者カードの残高を確認して満足げに頷き、凛と並んで査定所を出た。

 

 自動ドアをくぐった、その瞬間だった。

 

「──あれ? 凛先輩?」

 

 声は正面から来た。

 

 隣で、凛の足が止まった。

 

 査定所の前の歩道に、三人の探索者が立っていた。全員が同じデザインのジャケットを着ている。濃紺の生地に、左胸の青い翼のエンブレム──先日の帰り道に見かけたあのマークだ。

 

 先頭に立つ男は二十代後半、短髪で体格が良い。Cランクの探索者カードを首から提げている。後ろに同年代の男女が一人ずつ。男の方がDランク、女がCランク。三人とも装備の質が高く、量産品ではない特注のアーマーを着けていた。中堅ギルドの所属メンバーにふさわしい出で立ちだ。

 

「やっぱり凛先輩だ。久しぶりじゃないですか」

 

 短髪の男が歩み寄ってきた。笑顔は明るかったが、その目は凛の反応を注意深く観察していた。再会を喜んでいるのか、それとも任務として接触しているのか──おそらくその両方だろうと、遼太は横目で判断した。

 

「……中條」

 

 凛が名前を呼んだ。声は平坦だった。だが隣に立つ遼太には、凛の肩の筋肉が僅かに強張ったのが分かった。

 

「ご無沙汰してます。元気そうで何よりです」

 

「元気よ。心配には及ばない」

 

「いやあ、先輩がギルド辞めてから半年でしょう。みんな気にしてるんですよ、本当に」

 

 中條の声のトーンは柔らかかった。演技ではないように聞こえる。凛の脱退を本当に残念に思っている──その感情は本物だろう。だがそこに、もう一つの層が重なっている。遼太にはそれが見えた。中條の後ろに立つ二人の視線が、凛ではなく中條の背中に向けられていること。彼らは中條が何を言うか、どう切り出すかを見守っている。台本がある。

 

「みんなによろしく伝えて。でも、私はもう蒼穹とは関係ないから」

 

「先輩──」

 

「中條。もう関係ないの」

 

 凛の声が一段冷えた。だがまだ穏やかさの範囲内だった。第一段階。遼太は無言で聞きながら、そう感じた。

 

「分かってます、分かってますけど。──マスターが心配してるんですよ、先輩のこと。連絡も返してくれないって」

 

「朝霧さんに話すことはない」

 

「そう言わないでくださいよ。マスターだって、先輩が抜けたことはかなり堪えてて──」

 

「堪えてる?」

 

 凛の声のトーンが、もう一段下がった。第二段階。温度が明確に低くなっている。

 

「Bランクの戦力が抜けて数字に響いた、という意味なら、そうでしょうね」

 

「そんな言い方──先輩、マスターは先輩のことを戦力としてだけ見てたわけじゃ」

 

「中條」

 

 凛が中條の言葉を遮った。その声に感情はなかった。むしろ感情がないことが、凛の怒りの深さを物語っていた。第三段階。遼太は凛の横顔を見た。表情は動いていない。だが唇が僅かに引き結ばれている。

 

「あなたが言いたいことは分かった。マスターにはこう伝えて。『話すことはない』と」

 

 中條の表情が曇った。困惑と、それから──後悔に近い何か。この男は凛のことを本当に慕っていたのだろう、と遼太は思った。先輩として、仲間として。蒼穹の方針に疑問を持っているかどうかは分からないが、少なくとも凛がいなくなったことを惜しんでいる。

 

「……分かりました。すみません、先輩」

 

 中條が一歩引いた。そこで、後ろに立っていた男の方が口を挟んだ。

 

「あの、凛先輩。マスターが直接話したいって言ってたんですけど。一回くらい連絡返してもいいんじゃないですか。先輩から辞めたのに、それはちょっと──」

 

「高木」

 

 中條が制するように名前を呼んだ。だが遅かった。

 

 凛の視線が高木に向けられた。温度が、さらに一段下がった。品川のダンジョン内で氷結を放つ直前の、あの空気だ。スキルを使っているわけではない。だが凛の周囲の気温が物理的に下がったかのように、空気が張り詰めた。

 

「私がいつ辞めたか、なぜ辞めたか。それを知った上で、そう言ってるの」

 

 高木が口をつぐんだ。後ろの女性も目を伏せた。

 

 その沈黙の中で、中條の視線がふと遼太に移った。

 

「……あの。そちらの方は?」

 

 中條の声は、話題を変えようとする意図が透けていた。凛との会話がこれ以上険悪になるのを避けたいのだろう。

 

「凛先輩の、新しいパーティの方ですか」

 

「ああ──榊遼太です。一緒に品川を回ってます」

 

 遼太は軽く会釈した。場の空気を読んで控えめにしていたが、名前を聞かれたら答える。それが礼儀だ。

 

 中條の視線が、遼太の腰に提げた探索者カードに向けられた。カードホルダーに収まったカードの表面に、ランクとスキル名が浮かんでいる。

 

 中條の表情が変わった。驚き。それから、困惑。そして──隠しきれない侮蔑が、一瞬だけ目の奥に光った。

 

「Eランク……? スキルが、振動操作。Fランク」

 

 後ろの高木が小さく声を漏らした。「Fランク?」。女の方は何も言わなかったが、口元が引きつっていた。笑いを堪えているのか、信じられない顔をしているのか。

 

「凛先輩がFランクの人と品川を? Dランクダンジョンを?」

 

 中條の声には純粋な困惑があった。悪意よりも「理解できない」という戸惑い。Bランクの凛が、なぜFランクの探索者とパーティを組んでいるのか。中條の常識では──おそらくほとんどの探索者の常識では──ありえない組み合わせだ。遼太自身、最初に凛にパーティを持ちかけたとき「虫のいい話」だと自覚していた。

 

 遼太は口を開きかけた。自虐的な冗談の一つでも言って場を流すつもりだった。ランクの話は慣れている。藤川の「バイブレートくん」から数えれば何十回目だ。

 

 だが凛の方が速かった。

 

「彼は私のパートナーよ」

 

 静かな声だった。感情を押し殺しているのではなく、事実を述べているだけの温度。凛のいつもの口調。だがその一言が落ちた瞬間、場の空気が変わった。

 

「ランクやスキルの評価が全てじゃないことくらい、蒼穹にいたなら分かるでしょう」

 

 凛の視線が、三人を等しく貫いた。

 

「──それとも、蒼穹では今もランクの数字だけで人を測っているの」

 

 沈黙が落ちた。

 

 中條が息を呑んだ。高木が目を逸らした。女性メンバーが一歩後ろに下がった。凛の言葉の刃は、蒼穹のメンバーに対してだけでなく、蒼穹という組織そのものに向けられていた。

 

 遼太は黙っていた。口を挟む隙がなかったのではない。挟むべきではないと判断したのだ。これは凛の戦いだ。凛と蒼穹の間にある何か──遼太にはまだ全容が見えない何か──に関わる会話だ。

 

「……すみません、先輩」

 

 中條が頭を下げた。今度の謝罪には、先ほどより深い真剣さがあった。

 

「失礼なことを言いました。榊さんにも──申し訳ありません」

 

 中條が遼太にも頭を下げた。遼太は「いえ、気にしてないんで」と軽く返した。

 

「マスターには、先輩がお元気だったとだけ伝えます。……先輩のこと、よろしくお願いします」

 

 最後の一言は遼太に向けられていた。中條の目に浮かんでいたのは、侮蔑ではなかった。どこか切実な──託すような色だった。

 

 三人が歩き去っていく。濃紺のジャケットの背中で、青い翼のエンブレムが午後の日差しを受けている。

 

 遼太はその背中を見送ってから、隣の凛に目をやった。

 

 凛は微動だにせず前方を見つめていた。いつもの冷静な横顔。だが──唇が僅かに引き結ばれていて、その強張りが解けないまま数秒が経過した。

 

 凛は自分の口から出た言葉に驚いていた。

 

 パートナー。

 

 なぜその言葉を選んだのか。「臨時パーティのメンバー」でも「一緒に攻略している人」でも、もっと事務的な言い方はいくらでもあった。

 

 パートナー。蒼穹にいた四年間、凛は誰のことも──ユカリのことさえ──そう呼んだことはなかった。仲間とは言った。後輩とも、チームメイトとも。だが「パートナー」は違う。対等であること。互いに不可欠であること。

 

 三回一緒にダンジョンに潜っただけの相手に。Eランクの、Fランクスキルの、探索者を始めて一年の男に。

 

 なぜ。

 

 分からない。ただ、中條が遼太のランクを見て顔色を変えたとき、胸の奥で何かが軋んだ。あの感覚は──怒りだ。蒼穹が人を数字で測る、あのやり方への怒り。朝霧が結果だけを見て、過程を切り捨てる、あのやり方への。

 

 遼太は数字の上では取るに足らない探索者だ。だがこの男は、Fランクのスキルで岩盤の構造を読み、共振で壁を割り、モンスターの習性を分析して戦術を改良し続けている。数字には表れない価値を、遼太は自分の力で作り出している。

 

 それを笑う権利は、誰にもない。

 

 ──パートナー。

 

 言ってしまった以上、撤回する気はなかった。

 

     

 

 品川駅に向かう歩道を、二人は並んで歩いていた。

 

 凛は黙っていた。遼太も黙っていた。平日の午後、スーツ姿のサラリーマンが忙しなく行き交う中で、探索者装備の二人は少しだけ浮いていた。

 

 遼太は凛の沈黙を急かさなかった。凛が何か言いたいなら、凛のタイミングで言えばいい。言いたくないなら、それでもいい。

 

 信号が赤に変わり、交差点で足が止まった。

 

「……さっきは、ごめんなさい」

 

 凛が言った。正面を向いたまま。

 

「何が?」

 

「嫌な場面を見せた。それと──あの人たちが、あなたのことを」

 

「ああ、ランクのこと? 気にしてないよ。慣れてる」

 

「慣れていていい話ではないと思うけど」

 

「まあ、そうかもしれないけどな。でも、他人がどう思おうと俺のスキルの価値は変わらないし」

 

 信号が青に変わった。二人が歩き出す。

 

「蒼穹って──凛さんが前にいたギルド?」

 

 遼太は穏やかに聞いた。問い詰めるのではなく、ただ確認するように。

 

 凛は五歩ほど黙って歩いてから、答えた。

 

「……ええ」

 

「辞めたんだな」

 

「半年前に」

 

 また数歩の沈黙。遼太は待った。

 

「ギルドマスターの方針と、合わなくなった」

 

 凛の声は淡々としていた。だがその淡々さは、感情がないのではなく、感情を一定の水位以下に抑え込んでいるように聞こえた。

 

「朝霧総一郎。蒼穹を立ち上げた人で、私の元上司。……恩のある人よ。覚醒したばかりの頃、まだ何も分からなかった私を受け入れてくれたのは蒼穹だった。探索者としての基礎は、全部あの場所で学んだ」

 

 遼太は黙って聞いていた。凛が過去を語るのは初めてだった。定食屋で「初期覚醒者だった」と語った時より、ずっと深い場所から言葉を掘り出しているのが分かった。

 

「でも、あの人は──変わっていった。いつからかは分からない。少しずつ、結果を出すことだけが正義になっていって。メンバーの実力に見合わない攻略を指示するようになった」

 

 凛が一度言葉を切った。呼吸を整えるような間だった。

 

「それで、仲間が一人──」

 

 声が、僅かに揺れた。

 

「──怪我をした。大きな怪我で、探索者を続けられなくなった」

 

 遼太の胸に、静かな重みが落ちた。

 

 凛が語ったのはそこまでだった。怪我をした仲間の名前は出さなかった。どんな攻略作戦だったのか、どんな怪我だったのか、その仲間と凛がどれだけ親しかったのか──全て、語られなかった。

 

 だが語られなかった部分の大きさが、語られた言葉の何倍もの重さで遼太に伝わってきた。

 

「抗議した。でも朝霧さんは取り合わなかった。『リスクは承知の上だ。結果が全てだ』って」

 

 凛の声に、怒りはなかった。もうとっくに怒りの段階は通り過ぎて、その先にある──諦めとも、決意ともつかない、静かな場所に凛はいた。

 

「だから辞めた。あのまま残っていたら、次は誰かが──」

 

 凛は言葉を飲み込んだ。「死ぬ」とは言わなかった。だが、飲み込まれた言葉の形が、空気の中に残った。

 

 遼太はしばらく黙って歩いた。

 

「……それで今、一人でやってたのか」

 

「ええ」

 

 凛の声は落ち着いていた。自分に言い聞かせるような調子で。

 

「一人なら、自分だけが危険を負えばいい。誰かを巻き込んで、また同じことが起きるのは──耐えられない」

 

 遼太は答えなかった。すぐには。

 

 品川駅のロータリーが見えてきた。タクシーの列と、駅に吸い込まれていくサラリーマンの流れ。日常の風景。ダンジョンの地下三階とも、蒼穹のエンブレムとも無関係な、ただの東京の午後。

 

「凛さんの考え方を否定するつもりはない」

 

 遼太はまっすぐ前を見たまま言った。

 

「一人でやるって決めたのは、凛さんの責任感から来てる判断だし、それは尊重する。でも──」

 

 言葉を選んだ。慎重に、だが正直に。

 

「俺は別に、凛さんに守ってもらいたくて一緒にいるわけじゃない」

 

 凛が横目で遼太を見た。

 

「俺が凛さんと一緒にいたいのは、一人じゃ行けない場所に行けるからだ。品川の鉱石フロアも、さっき探知で見つけた下層の空間も、一人じゃ絶対にたどり着けない。凛さんだって、俺の探知がなかったら西側ルートは使えないし、鉱石回収の効率も落ちる」

 

 遼太は少しだけ間を置いた。

 

「それはお互い様だと思ってる」

 

 凛は答えなかった。

 

 五歩。十歩。駅のロータリーに差し掛かる。人の流れが増えて、二人の間に他の歩行者が割り込んでくる。

 

 凛は答えなかった。だがその沈黙は、カフェで「パーティを組むつもりはない」と言い切ったときの沈黙とは質が違っていた。あのときは壁だった。今のこれは──壁ではない。壁が取り払われた後に残る、むき出しの空間。何をそこに置くかまだ決まっていない、静かな余白。

 

 遼太はその余白を、無理に埋めようとはしなかった。

 

 代わりに、意図的に声のトーンを上げた。

 

「まあ、Cランクのモンスターから全力で走って逃げてる俺を見て『パートナー』って言ってくれるの、凛さんくらいだと思うけど」

 

 凛の足が、一瞬だけ止まった。

 

「……調子に乗らないで」

 

 小さく、息を吐くように。

 

 笑ってはいなかった。だが──声から硬さが抜けていた。張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ。それだけで遼太には十分だった。

 

 品川駅の改札前で、いつものように別れた。

 

「お疲れさま。凛さんも気をつけて」

 

「ええ。──次の水曜も」

 

「了解」

 

 凛が改札を通っていく。その背中を見送りながら、遼太はポケットの中で軽く拳を握った。

 

     

 

 帰宅したのは午後四時だった。

 

 装備を片付け、シャワーを浴び、ジャージに着替える。冷蔵庫を開けて夕食の材料を確認しながら、遼太は今日のことを振り返った。

 

 蒼穹のメンバーに馬鹿にされたこと。Eランク、Fランクスキル。あれは気にしていない。本当に気にしていない。藤川の「バイブレートくん」と同じだ。他人の評価で自分のスキルの価値が変わるわけではない。共振で岩盤に亀裂を入れ、振動の反響で壁の向こうを読み取り、モンスターの習性を利用した陽動を組み立てる──それができる事実は、誰に笑われても消えない。

 

 だが、別のことが引っかかっていた。

 

 凛の言葉だ。

 

 ──一人なら、自分だけが危険を負えばいい。

 

 もやしを袋から出しながら、遼太はその言葉を反芻した。

 

 凛は強い。それは揺るがない事実だ。Bランクの氷結生成。五年のキャリア。Dランクのモンスターを一瞬で凍結させる火力。品川中層洞を余裕を持って攻略できるだけの実力と判断力。遼太とは次元が違う。

 

 だが「一人で背負う」のは、強さとは違う何かだと遼太は思った。

 

 フライパンに油を引き、豚こまを炒め始める。にんにくの匂いが狭いキッチンに広がった。

 

 凛の選択は、論理的には正しい。一人で行動すれば、自分以外の誰も危険にさらさない。仲間が怪我をするリスクはゼロになる。だがそれは──最適解なのか?

 

 蒼穹で何があったのか、遼太にはまだ全貌が見えない。凛が語ったのは断片だ。仲間が怪我で引退した。ギルドマスターに抗議しても聞き入れられなかった。だから辞めた。──それだけ。だが「それだけ」の裏に、凛が言葉にしなかった膨大な感情が沈んでいることは分かった。あの声の揺れ方を見て、分からない人間はいない。

 

 凛は怪我をした仲間のことを、今も背負っている。その重さが、凛を「一人」に縛り付けている。

 

 強さの形をした、痛み。

 

 もやしをフライパンに投入する。油がはねて指先に当たったが、気にならなかった。

 

 自分は凛にとって何だろう。

 

 合理的な探知役。西側ルートのトラップを回避し、鉱石フロアまでの時間を短縮する機能。凛がそう考えているなら、それはそれで構わない。実際、自分が提供できる価値の大部分はそこにある。つい最近までは、それで十分だと思っていた。

 

 だが凛は「パートナー」と言った。

 

 あの言葉を過大に解釈するつもりはない。蒼穹のメンバーの前で遼太を庇うために、咄嗟に出た表現だったのかもしれない。だが凛は、思ってもいないことを口にする人ではない。少なくとも遼太が知る限り、凛は嘘をつかない。

 

 パートナー。

 

 その言葉に値する自分でありたい、と遼太は思った。

 

 今の自分はEランクのLv.6だ。Dランクのモンスターには一人で太刀打ちできない。凛がいなければ品川中層洞の入口で引き返すしかない。それが現実で、それを誤魔化す気はない。

 

 ──もっと強くなりたい。

 

 その想いが、自然に胸の中に浮かんだ。

 

 東京大深洞の最深部を目指す好奇心とは、違う。あれは遠い夢だ。いつかたどり着きたい場所。だが今、遼太の中に生まれた動機はもっと近い。もっと具体的だ。

 

 凛の隣で、「足手まとい」ではなく「対等な存在」でありたい。凛が「パートナー」と呼んでくれたことを、名前だけでなく中身で証明したい。

 

 遼太はフライパンの中身を皿に盛りつけ、テーブルに置いた。にんにく醤油炒め。もやしと豚こまの定番メニュー。

 

「よし。明日から渋谷で地下五階に挑戦してみるか」

 

 地下五階。今まで足を踏み入れたことのない階層だ。Lv.6で通用するか分からない。新しいモンスターがいるかもしれない。だが試さないことには、分からないままだ。

 

 探索者カードを取り出して、ちらりと見た。

 

 ──榊遼太。Eランク探索者。Lv.6。

 

 この数字を、一つでも上に動かす。そのために明日からできることをやる。

 

 箸を手に取り、「いただきます」と小さく言った。にんにくの効いた炒め物を口に運びながら、ふと思った。

 

 凛さんにも食わせてやりたいな、これ。コンビニ飯よりはましだろ。

 

 ──何を考えてるんだ、俺は。

 

 遼太は軽く首を振って、夕食を続けた。

 

     

 

 凛はマンションに帰り着き、靴を脱いで部屋に入った。

 

 リビングの電気をつけた。

 

 ソファに座り、窓の外を見る。東京の夜景が、ガラスの向こうに広がっていた。無数のビルの灯りが、星のない空の代わりに光を散りばめている。

 

 蒼穹を辞めてから半年。この夜景を何度も見た。いつも一人で。いつも暗い部屋で。

 

 だが今夜は、電気をつけた。

 

 遼太の言葉が、頭の中で繰り返されていた。

 

 ──俺が凛さんと一緒にいたいのは、一人じゃ行けない場所に行けるからだ。それはお互い様だと思ってる。

 

 お互い様。

 

 Eランクの、Fランクスキルの探索者が、Bランクの自分に向かって「お互い様」と言った。数字だけを見れば、対等ではない。圧倒的に。

 

 でも数字だけが全てではないことを、凛は三回の品川攻略で知っている。遼太の探知がなければ、西側ルートは通れない。鉱石の回収効率は半分以下に落ちる。リザードの誘導陽動は、遼太の振動操作でしかできない。

 

 蒼穹を辞めてから、誰かの言葉がこんなふうに残ったのは初めてだった。

 

 テーブルの上で、スマートフォンが光った。

 

 画面に表示された通知。送信者は「朝霧」。今度は着信ではなく、テキストメッセージだった。

 

 凛はスマートフォンを手に取った。読むつもりはなかった。だが通知バーに表示された冒頭の一文が、否応なく目に入った。

 

『凛。そろそろ話をしよう。蒼穹にはお前が──』

 

 それ以上は読まなかった。

 

 スマートフォンを裏返してテーブルに置く。

 

 しばらくそのまま座っていた。

 

 それから──立ち上がった。

 

 キッチンに向かう。棚を開けて、奥からインスタント味噌汁の袋を一つ取り出した。いつ買ったか覚えていない。棚の奥で忘れられていたもの。

 

 電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。

 

 お湯が沸くのを待つ間、凛はキッチンの小窓から外を見た。遠くにビルの灯りが見える。あの灯りの一つの下で、遼太がもやし炒めを食べているのだろうか。あの男はたぶん今頃、明日のダンジョン攻略のことを考えながら、安いフライパンで何かを炒めているに違いない。

 

 ケトルが沸いた。

 

 マグカップに味噌汁の素を入れ、お湯を注ぐ。湯気が立ち上り、味噌の匂いが広がった。

 

 凛はマグカップを両手で包み、一口飲んだ。

 

 インスタントの、安い味噌汁。遼太の「もやし炒め三十種」にすら遠く及ばない、取るに足らない一杯。

 

 でも──温かかった。

 

 ──お互い様、か。

 

 凛はもう一口飲んで、マグカップをテーブルに置く。

 

 裏返したスマートフォンは、そのままにした。

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