渋谷浅層洞、地下四階。
遼太はストーンビートルの最後の一体にソードを突き刺し、崩壊を確認してから刃を引き抜いた。今日七体目。地下四階の定番モンスターは、もう脅威ではなくなりつつある。新しいソードの振動伝導率のおかげで、共振にかかる時間が二秒まで短縮されている。一体あたりの魔素消費も、感覚的には以前の七割程度だ。
素材を回収し、ポーチに詰める。魔素残量は六割。まだ余裕がある。
通路の奥に、下り階段が見えた。
地下五階への入口。
渋谷浅層洞を拠点にしてから一年、遼太はこの階段の前に立ったことがなかった。地下四階が安全圏の限界で、これ以上は自分のレベルでは危険だと判断していたからだ。
だが今日は、降りる。
先日の品川帰り、もやし炒めを食いながら自分に誓ったことだ。もっと強くなる。凛の隣に対等に立てる自分になる。そのための第一歩が、ここにある。
遼太は階段の前で一度立ち止まり、深呼吸した。ポーチの中身を確認する。ボルトナット七セット残存、救急キット、水筒。ソードの刃に異常なし。
階段を降り始めた。十段、二十段。魔素灯の光が薄くなる。空気の質が、明確に変わった。
地下四階までの湿った岩盤の匂いに、金属的な冷たさが混じっている。魔素の濃度が肌で分かるほど高い。初めて品川中層洞に降りたときの感覚に似ていた。Eランクダンジョンの中にも、こういう境界線があるのだ。
地下五階の通路は上層より幅が狭く天井が低い。壁面の岩盤の色が濃くなり、黒い鉱脈が毛細血管のように走っている。魔素灯の間隔も広く、通路の半分が暗がりに沈んでいる。
右手を壁につけ、振動探知を起動した。
岩盤を伝わる反響から、周囲の構造を読み取る。通路の先は二十メートルほどで広間に開けている。広間の中に──反応が一つ。モンスターだ。大きさは、ストーンビートルよりやや大きい。壁面や天井ではなく、地面にいる。
遼太は壁沿いに慎重に前進し、広間の入口から中を覗き込んだ。
いた。
体長一・五メートルほどの節足動物型モンスター。六本の脚と二本の鋏、そして尾の先端にある太い毒針。体表が鋼のような灰黒色の外殻で覆われている。地下四階にいたスモールスコーピオンとは明らかに別格の、重厚な体躯だ。
アイアンスコーピオン。ダンジョン庁のモンスター図鑑によれば、Eランク上位からDランク下位に相当する。渋谷浅層洞の地下五階を代表するモンスターだ。
遼太はしばらく観察した。動きは鈍くない。スモールスコーピオンよりも一回り大きいぶん加速は遅いが、鋏のリーチが長い。毒針は尾を振りかぶって上方から叩きつけてくるタイプだろう。そして何より──外殻が硬い。遠目にも分かる。あの灰黒色の光沢は、鉄を含んだ高密度の甲殻だ。
共振で割れるか。
やってみるしかない。
遼太はポーチからボルトナットを二つ取り出し、それぞれに異なるパターンの振動を仕込んだ。一つ目を広間の左奥に投げ、二つ目を右壁に向けて転がす。二つの金属音が時間差で広間に響いた。
アイアンスコーピオンが反応した。六本の脚が床を叩き、音源の方向に鋏を向ける。振動感知は蠍型にも有効だ。陽動パターンは通用する。
遼太は広間に踏み込み、左側面からスコーピオンに接近した。ソードの刃を外殻に当て、振動操作を起動する。
──硬い。
外殻を伝わる振動のフィードバックが、ストーンビートルとは根本的に違った。密度が高く、振動の減衰が速い。振動を送り込んでも、外殻の内部で急速にエネルギーが拡散してしまう。共振を起こすための固有振動数を探ろうにも、返ってくる反響が薄すぎて特性が掴めない。
周波数を少しずつ変えていく。いつもの手順だ。だが一つ試すごとに、魔素が消えていく。ストーンビートルなら二秒で見つかる固有振動数が、五秒経っても十秒経っても噛み合わない。
──まずい。
スコーピオンが陽動から復帰し、遼太の存在に気づいた。六本の脚が方向転換し、鋏が振り上げられる。
遼太は咄嗟にソードを引き、後方に跳んだ。鋏が空を切る。風圧が頬を撫でた。
距離を取り直す。魔素残量を意識の端で確認した。地下四階までの戦闘と、今の失敗した共振で、残りは四割を切っている。
だが、撤退はまだだ。外殻に十秒以上触れていた間に、得られた情報がある。
外殻は層構造になっている。表面は硬いが、内側に向かって密度が変わる。均質ではない。そして──関節部付近は密度が低い。腹部の外殻も背部より薄い。
狙うなら、関節だ。
スコーピオンが追ってきた。床を叩く六本の脚が重い振動を刻む。遼太は広間の柱を盾にしながら、もう一度ボルトナットを投げて陽動した。金属音でスコーピオンの注意を逸らし、その隙に再び側面に回り込む。
二度目の接触。今度は関節部に狙いを定め、振動を集中させた。探索範囲を絞った状態で周波数を変えていく。
十五秒。魔素がみるみる減っていく。頭の奥がずきりと痛んだ。
──来た。
微かに、関節部が震えた。固有振動数を掠めた感触。もう少し低い──いや、もう少しだけ高い──。
外殻にヒビが走った。
遼太は渾身の力でソードを関節部に突き刺した。亀裂から刃が食い込み、柔らかい内部組織に到達する。スコーピオンが暴れた。毒針を持つ尾が振り回される。遼太は刃を引き抜きながら横に転がり、尾の一撃を辛うじて避けた。地面に毒液が飛び散り、岩盤を焦がすように泡立った。
スコーピオンが痙攣し、動きを止めた。崩壊。魔石と外殻の破片が残る。
遼太は柱に背をもたれ、肩で息をした。全身が汗でびっしょりだ。
勝った。だが──辛勝だ。一体に共振を起こすだけで、魔素残量が二割まで落ちた。ストーンビートルなら八体は倒せる魔素を、スコーピオン一体に全て注ぎ込んだ格好だ。効率が悪すぎる。
通路の奥から、別の足音が聞こえた。六本脚の重い振動。二体目だ。
遼太は迷わなかった。
撤退。
地下五階の階段を駆け上がり、地下四階の安全圏に戻る。背後でスコーピオンが追ってくる気配があったが、階層の境界を超えてこなかった。モンスターが自分の階層から出てこない習性には助けられる。
地下四階の通路で壁にもたれ、呼吸を整えた。膝に手をつき、軽い目眩をやり過ごす。魔素の消耗が身体の芯にまで響いている。品川のクリスタルゴーレムから逃げ回ったときとは違う種類の疲労だ。あのときは凛がいた。今日は一人だ。一人で戦い、一人で判断し、一人で撤退した。
だが──一体は仕留めた。渋谷浅層洞の地下五階で、Lv.6の身体でアイアンスコーピオンを一体。三週間前の自分には不可能だったことだ。
「……課題が山積みだな」
独り言が、静かな通路に響いた。
帰り道、遼太の頭の中ではすでに分析が始まっていた。外殻の硬さ、共振の難しさ、魔素消費の問題。課題は多い。だが課題が具体的に見えているということは、解決への道筋もまた具体的に見えるということだ。
帰宅したのは午後二時過ぎだった。
シャワーを浴び、着替えてから、遼太はテーブルの上にノートを広げた。大学時代から使っている方眼ノート。覚醒してからは、振動操作の実験記録と物理学的な考察を書き留めるのに使っている。
今日の戦闘データを整理する。
アイアンスコーピオンの外殻。ストーンビートルとの違いは三つ。第一に、密度が高い──振動の減衰が速い。第二に、層構造になっている──表層と内層で特性が異なり、均質ではない。第三に、関節部と腹部が相対的に弱い──ただし「弱い」のはあくまでスコーピオン基準で、ストーンビートルの外殻よりは硬い。
問題の核心は、共振を起こすまでの時間だった。
ストーンビートルの外殻は比較的均質なので、振動の周波数を少しずつ変えていけば二秒で固有振動数に当たる。だがスコーピオンの層構造は複雑で、固有振動数の「探索範囲」が広い。一つずつ試していく手探りのやり方では、十五秒以上かかる。その間ずっと外殻に触れていなければならないし、魔素も消費し続ける。実戦では致命的だ。
遼太はペンを持ち、ノートに式を書き始めた。
固有振動数は物体の質量、弾性率、形状によって決まる。この三つが分かれば、理論上は振動数を計算で求められる。だが実際の外殻は均質な物体ではなく、質量も弾性率も場所によって異なる。計算で正確に求めるのは現実的ではない。
では、もっと効率的な方法はないか。
遼太はペンの先でノートを叩きながら考えた。
壁の構造を読む振動探知では、短い振動パルスを壁に送り込み、その反響パターンから壁の向こう側の構造を「読んでいる」。パルスの反響は、対象の物理的特性によって変わる。これは工業で使われる非破壊検査の原理と同じだ。超音波を当てて、反射波から内部構造を調べる。
待てよ、と遼太は思った。
非破壊検査では、反射波のパターンから対象の弾性率や密度分布を推定できる。ということは──短い振動パルスを外殻に送り込み、反響パターンを読み取れば、外殻の物理特性を「診断」できるのではないか。そして物理特性が分かれば、固有振動数をある程度の精度で絞り込める。
一つずつ試す手探りではなく、まず「診断」してから狙い撃つ。
遼太はノートに図を描いた。
手順は三段階。第一段階──短い診断パルスを対象に送り込む。魔素消費は最小限。第二段階──反響パターンから固有振動数の「大まかな範囲」を推定する。第三段階──その範囲内で微調整し、共振を起こす。
探索範囲が狭まれば、第三段階にかかる時間と魔素が大幅に減る。十五秒かかっていた手探りが、理論上は五秒以下に短縮できるかもしれない。
ただし問題もある。
診断パルスの精度だ。外殻に送り込むパルスが荒ければ、反響パターンの解像度が低くなり、固有振動数の絞り込みも荒くなる。精密なパルスを送るには、精密な魔素制御が必要になる。壁の探知に使っているパルスは、壁全体を大雑把に「見る」ためのものだ。外殻の固有振動数を特定するには、もっとピンポイントの──狙撃のような精度が要る。
Lv.6の自分にそこまでの制御ができるか。正直、分からない。
だが方向性は見えた。
遼太はノートを閉じ、天井を見上げた。
「やってみなきゃ分かんないか」
答えは、いつだってダンジョンの中にある。
二日後。
遼太は再び渋谷浅層洞の地下五階にいた。
前回の反省を踏まえ、上層での魔素消費を徹底的に節約した。地下一階から四階まで、振動探知でモンスターを事前に察知し、戦闘を避けられるルートを選んで通過する。探知能力を「戦闘回避」に使うのは、品川で凛と一緒に身につけた発想だ。結果、地下五階に降りた時点で魔素残量は七割を保てていた。
地下五階の広間に、アイアンスコーピオンが一体。
遼太は壁越しに確認してから、前回のデータを頭の中で呼び起こした。外殻の層構造、関節部の弱点、毒針の軌道。情報があるだけで心理的な余裕が全く違う。
陽動のボルトナットを投げ、スコーピオンの注意を逸らす。側面に回り込み、ソードの刃を関節部付近の外殻に当てた。
今日はまず、「診断パルス」を試す。
共振を狙うのではなく、短い振動パルスを外殻に送り込んだ。ごく短い、鋭い一打。探るための振動だ。
反響が返ってきた。
外殻の内部で振動が散乱し、複雑なパターンとなって指先に伝わってくる。情報量は多い。だが──ノイズも多い。意味のある信号と無意味な散乱を区別できない。壁の向こうの空間を読む振動探知では、「空洞があるかないか」という大雑把な判定で十分だった。だが外殻の固有振動数を特定するには、もっと繊細な読み取りが要る。
パルスの精度が足りない。
スコーピオンが陽動から復帰しかけている。時間がない。遼太は診断パルスを一旦諦め、前回と同じ手探り方式に切り替えた。ただし、前回の経験からスコーピオンの固有振動数の「だいたいの領域」は身体が覚えている。探索範囲を絞った状態で手探りを始め──八秒で共振に到達した。前回の十五秒から大幅な短縮だ。
外殻の関節部に亀裂が走り、ソードで仕留める。一体目。魔素消費は──前回よりましだが、まだ重い。残量は五割弱。
素材を回収しながら、遼太は考えた。
診断パルスは「そのまま」では使えない。だがなぜ失敗したかは分かった。パルスの波形が荒すぎるのだ。もっと短く、もっと鋭いパルスを打てれば、反響のノイズが減って解像度が上がる。
それともう一つ。全方位に探索をかけるのではなく、ある程度絞った範囲に集中してパルスを打てば、処理すべき情報量が減る。手探りと診断の「二段構え」だ。
通路の奥から二体目の足音が近づいてきた。
遼太は今度は順序を変えた。
まず手探りで三秒。前回のデータがあるから、固有振動数の大まかな帯域は分かっている。その帯域を意識しながら、外殻の関節部に診断パルスを送り込んだ。全方位ではなく、絞った範囲への集中探査。
反響が返ってきた。──さっきよりノイズが少ない。探索範囲を絞ったことで、不要な情報がフィルタリングされている。反響パターンの中に、固有振動数に近い帯域での「共鳴の予兆」──振動が増幅される兆し──が感じ取れた。
完全な特定ではない。だが──絞り込めた。
残りは微調整だけだ。
二秒で共振に到達した。
合計──手探り三秒、診断パルス、微調整二秒。七秒弱。前回の十五秒の半分以下。完璧からは程遠い。理想の「一発共振」には届かない。だが確かに速くなっている。
二体目のスコーピオンが崩壊した。
遼太は額の汗を拭い、魔素残量を確認した。四割弱。二体倒してまだ四割残っている。前回は一体で二割まで落ちたことを思えば、格段の改善だ。
一体あたりの魔素消費が約三割減。
まだ余力がある。地下五階の奥をもう少し探索できるかもしれない。──だが今日はここまでにしよう。欲を出して無理をしないのが遼太の流儀だ。収穫は十分にあった。
地上に戻り、査定所で素材を換金した。アイアンスコーピオンの外殻片と魔石は、ストーンビートルの倍近い値がつく。二体ぶんで一万二千円。渋谷浅層洞の一日の稼ぎとしては過去最高だった。
帰り道、遼太はポケットの中で指先を微かに動かしていた。診断パルスの感覚を反芻しながら。
方向性は間違ってない。あとは精度を上げるだけだ。パルスの波形をもっと鋭くする。反響の読み取りをもっと速くする。最終的に、手探りなしで──診断パルス一発から共振に持ち込める段階まで。
その日がいつ来るかは分からない。だが、道は見えている。
水曜日。品川中層洞のゲート前。
「おはよう」
「おはよう、凛さん」
いつもの挨拶。いつもの凛の横顔。黒いジャケットにまとめた黒髪、探索者用の軽装アーマー。五回目の品川。もう見慣れた光景のはずだった。
だが──何かが違う、と遼太は思った。
何が違うのか、すぐには特定できなかった。表情は変わらない。声のトーンも同じ。受付での手続きも淀みない。ゲートをくぐり、階段を降りていく動作にも、目に見える異常はなかった。
それでも、何かが引っかかった。
西側ルートに入り、遼太は壁に右手を触れて振動探知を起動した。いつもの手順。トラップを感知し、安全なルートを凛に示す。凛が遼太の手の動きを読んで正しい方向に足を向ける。──ここまではいつも通り。
だが、と遼太は気づいた。凛の反応が一拍遅い。
普段なら、遼太の手が壁から離れた瞬間に凛は動き出す。今日は、コンマ数秒の遅れがある。一般的には気づかない程度の差だ。だが五回目ともなれば、相手のリズムは身体に刻まれている。
さらに──品川の岩盤は振動の伝導率が高い。壁に手を触れていると、通路を歩く二人の足音が振動として伝わってくる。遼太の足音と、凛の足音。二人ぶんのリズムを、遼太は無意識に聞き分けていた。
凛の足音が、普段と違う。
いつもの凛は正確に等間隔で足を運ぶ。軍人のような精密さではないが、五年の探索者キャリアが身体に刻んだ歩行リズムがある。今日はそのリズムが、ところどころ乱れていた。歩幅が一定でない。呼吸も、僅かに浅い。
体調不良か。あるいは──精神的な何かか。
遼太は口に出さなかった。攻略に支障が出るレベルではない。凛が自分から言わないなら、今は見守る。
地下二階でロックリザードが三体現れたとき、凛の氷結は問題なく決まった。三体を数秒で仕留める手際はいつも通りだ。遼太も凛の氷の軌道を読んで退避位置を確保し、戦闘後に次のルートの探知をすぐに開始した。連携そのものは崩れていない。
だが凛の判断に、いつもの切れがなかった。戦闘前にリザードの配置を観察する時間が普段より長い。氷結を放つタイミングの選択が、コンマ数秒だが遅い。凛ほどの実力者にとって、その程度の遅れは戦闘結果に影響しない。だが遼太には、その微細な変化が振動のように伝わってきた。
鉱石フロアの攻略は滞りなく終わった。陽動、回収、殲滅。手順通り。魔素透晶六個。所要時間は二十四分──前回より少し遅いが、誤差の範囲ではある。
査定所を出て、品川駅に向かう午後の道。
いつもならここで「飯でも行くか」と遼太が声をかけるところだが、今日は別のことを先に言った。
「凛さん。今日、ちょっと調子悪くなかった?」
凛の足が止まった。
遼太を見る目に、一瞬の驚きが走った。
「……分かるの」
「足音のリズムが普段と違った」
「足音?」
「品川の岩盤は振動がよく通るから、壁に触れてると凛さんの足音も拾えるんだ。普段は綺麗に等間隔なんだけど、今日はところどころ乱れてた。あと、分岐点での判断がいつもより一拍遅かった」
凛は数秒の間、遼太を見つめていた。呆れと、それとは別の──安堵に近い何かが、切れ長の瞳の奥に混じっていた。
「……足音で体調を読む探索者、初めて見たわ」
「まあ、職業病みたいなもんで。振動を通じて情報が入ってくると、意識してなくても気づいちゃうんだ。凛さんの普段のリズム、五回も一緒に潜ればさすがに覚える」
凛が小さく息を吐いた。
「……変な能力ね、本当に」
「よく言われる。でも、凛さんが無理してたら気づきたいだろ。パートナーなんだし」
さらりと言った。先日、凛自身が蒼穹のメンバーの前で使った言葉を、遼太が自然に拾っている。凛の足が一瞬止まったのを、遼太は視界の端で捉えた。
凛は歩き出した。遼太がその横に並ぶ。しばらく二人とも黙っていた。
品川駅のロータリーが見えてきた頃、凛が口を開いた。
「体調が悪いわけじゃない。ただ──少し、考え事をしていた」
「蒼穹のこと?」
直接的に聞いた。先日の品川帰りに凛が蒼穹の話をしてくれた。あのとき凛が見せた表情を、遼太は覚えている。今は遠回しにする段階ではないと感じた。
凛は足を緩めずに答えた。
「朝霧さんから、メッセージが来ている。テキストで。着信だけじゃなくて、ちゃんと文面で」
「内容は」
「蒼穹に戻ってほしいという正式な要請。それと──直接会って話がしたい、と」
遼太は黙って聞いた。
「正直、無視し続けるつもりだった。でも──」
凛の声が、僅かに揺れた。先日、蒼穹の脱退理由を語ったときとは違う種類の揺れだ。あのときは過去の痛みだった。今は──未来への迷い。
「メッセージの内容が、前とは違う。朝霧さんは品川中層洞の下層を、蒼穹の管轄ダンジョンにするつもりらしい。品川の下層はCランク相当だから、蒼穹の実力ならできる。大手ギルドが特定のダンジョンを管轄下に置くのは珍しいことじゃない」
遼太の頭が高速で回転した。品川中層洞が蒼穹の管轄になる。それが意味するのは──
「俺たちが品川で自由に動けなくなる、ってことか」
「管轄ギルドが攻略スケジュールや入場枠を管理することになる。フリーの探索者は事前申請が必要になるし、鉱石の優先採掘権も管轄ギルドが持つ。今と同じ自由度は保てなくなる可能性が高い」
凛の説明は冷静だったが、その冷静さ自体が凛の緊張を物語っていた。感情を排して論理に徹する──それが凛なりの、不安への対処法だ。
遼太は唇を引き結んだ。品川中層洞は今の自分たちの生命線だ。あの鉱石フロアの収入がなければ、遼太の生活は渋谷浅層洞の数千円に逆戻りする。そして何より──品川は凛と一緒に築き上げてきた場所だ。五回の攻略で磨き上げたルート、タイミング、連携。あの全てが失われるかもしれない。
「それで──朝霧に会うことを考えてるのか」
「分からない。会ったところで何が変わるかも分からない。でも──」
凛が足を止めた。品川駅の手前、歩道橋の下。通行人の流れから少し外れた場所だった。
「無視し続けるだけでは、何も解決しない。それは分かってる」
遼太は凛の横顔を見た。冷静な表情。だがその奥に、先日の蒼穹遭遇のときとは異なる色がある。あのときは怒りと拒絶だった。中條たちの前で壁を固くしていく凛がいた。今は──迷い。朝霧と向き合うことへの迷い。そしておそらく、自分の選択をもう一度問い直さなければならないことへの怖れ。
「凛さん」
「何」
「凛さんが会いたくないなら、会わなくていい。それは凛さんの判断だ。でも──もし会うなら、一人で行くな」
凛が遼太を見た。
「俺も一緒に行く」
「……あなたが来ても、何もできないわよ。朝霧さんはAランクに近いCランクの探索者で、蒼穹のギルドマスター。戦闘になったら──」
「戦闘にはならないだろ。話し合いだろう? なら、俺がいても問題ないはずだ」
遼太は一拍置いてから、付け加えた。
「一人で抱えるなって──この前も言ったろ」
凛は答えなかった。
だが──その沈黙は、拒絶ではなかった。先日、「お互い様だと思ってる」と遼太が言ったときの沈黙と同じ質のものだった。受け取ろうとしている。受け取り方を、まだ決められずにいるだけで。
「……考えておく」
凛の常套句。だが今回は──その声に、いつもとは違う響きが混じっていた。考えておく、ではなく、もう答えは出かかっている──そんな気配が。
品川駅の改札前で、二人は別れた。
その夜。
凛はマンションのリビングで、テーブルの上のスマートフォンを見つめていた。
画面には朝霧からのメッセージが表示されている。今日、初めて最後まで読んだ。
文面は丁寧だった。朝霧総一郎という人間は、文章では感情を抑えることができる。対面では威圧的な空気を纏う男が、テキストでは驚くほど理路整然としている。それが朝霧の強さであり──凛が四年間蒼穹に留まった理由の一端でもあった。覚醒したばかりの凛に、探索者としての理論と効率を叩き込んでくれたのは、この文章を書く朝霧だった。
メッセージの要旨は三つ。
一つ。蒼穹が品川中層洞の下層──Cランク相当エリアの攻略に着手する計画があること。背後の企業グループからの出資を受け、大規模な攻略チームを編成する予定だということ。
二つ。その攻略にあたり、凛の復帰を正式に要請すること。Bランクの氷結生成は下層攻略に不可欠な戦力だということ。
三つ。
凛はその部分を、もう一度読んだ。
『お前が品川で組んでいるEランクの探索者のことも聞いている。あのダンジョンはうちの管轄になる。話し合う余地があるうちに、会おう』
──話し合う余地があるうちに。
穏やかな文面の中に、明確な圧が一本通っていた。朝霧はこういう言い方をする。直接的な脅迫はしない。だが選択肢を狭めていく。凛が蒼穹にいた四年間で、何度も見てきたやり方だ。
品川中層洞が蒼穹の管轄になれば、凛と遼太は鉱石フロアへの自由なアクセスを失う。遼太にとっては収入源の喪失。凛にとっては──遼太と組む場所の消失。
これは個人的な問題ではない。遼太に直接影響する。
凛はスマートフォンを握ったまま、窓の外を見た。東京の夜景。無数のビルの灯り。あの灯りのどこかで、遼太が次のダンジョン攻略のことを考えている。地下五階のモンスターの倒し方を、物理学のノートに書き込んでいる。Fランクのスキルで、Eランクの身体で、一歩ずつ前に進もうとしている。
あの男を──巻き込みたくない。
凛はそう思った。同時に、別の声が頭の中で響いた。
──一人で抱えるな。
今日の遼太の声。そしてその前に、品川駅への帰り道で聞いた遼太の声。
──一人じゃ行けない場所に行ける。それはお互い様だと思ってる。
一人で朝霧に会えば、何が起きるか。凛には予想がついていた。朝霧は説得の天才だ。四年間凛を蒼穹に留めた男だ。一対一で向き合えば、凛の意志がどこまで保てるか──正直、自信がなかった。ユカリのことを持ち出されたら。あの日の攻略作戦を「必要なリスクだった」と理路整然と説明されたら。凛の怒りは、朝霧の論理に対してどこまで有効だろうか。
だが──もし隣に、あの男がいたら。
遼太は朝霧に勝てない。戦闘でも、交渉でも、キャリアでも。遼太が朝霧の前に立ったところで、できることは何もない。
でも遼太は、いつも正直だ。嘘をつかない。虚勢を張らない。弱さを隠さない。そして──自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の言葉で話す。
朝霧の論理に流されそうになったとき、隣にあの正直さがあれば──。
凛はスマートフォンの画面を開き、朝霧のメッセージに返信を打った。
短い一文。
『会いましょう。日時を指定してください』
送信した。
スマートフォンをテーブルに置き、立ち上がる。窓際に歩いていき、東京の夜景を見下ろした。
ガラスに自分の姿が映っている。暗い部屋の中に立つ自分の輪郭。半年前なら、その輪郭の横には誰もいなかった。今もまだ、いない。
でも。
「──一人では、行かない」
声に出して、言った。
遼太への返事ではない。自分自身への誓いだった。
凛はキッチンに向かい、電気ケトルのスイッチを押した。棚からインスタント味噌汁の袋を取り出す。先日に続いて二回目だ。お湯が沸くのを待ちながら、ふと思った。
──今度、遼太のもやし炒めとやらを食べてみてもいいかもしれない。
マグカップに味噌汁の素を入れ、お湯を注ぐ。湯気が立ち上り、味噌の匂いがキッチンに広がった。
凛はマグカップを両手で包んだ。温かかった。
テーブルの上でスマートフォンが一つ光った。朝霧からの返信だろう。凛はまだ読まなかった。
まず、味噌汁を飲む。それから考える。