その時の私は、誘蛾灯に引き寄せられた虫みたいだったと思う。
父が死んでから、母と話すのが嫌になった。
ううん、たぶん母は変わってなくて、私が弱くなったんだ。
ふさぎこんで、何をしていいかもわからなくっていた。
そんなときにふと見つけたのが『月見ヤチヨ』だった。
8000歳のAIで、歌って踊れて分身できるVtuber。
そんな謳い文句で仮想空間『ツクヨミ』のきらびやかな景色を背に、まばゆい笑顔で踊っている様子がネットで流れてきたのである。
デビューライブがあるというので、サービスを開始したばかりのツクヨミにふらふらとログインを決めた。
初めての場所なので余裕をもって2時間前に。
今日は母も家にいないので邪魔が入ることもないだろう。
深呼吸を一つ、スマコンを目に装着した。
美しい場所だった。
巨大な鳥居がぽつんとあった。周囲には終わりの見えない浅瀬。足を一歩踏み出すと水面が波打つ。遠くには雲が見えるが、頭上には夕方の淡い空が広がっている。
だがそれ以上に、目の前の少女が美しかった。
広告通りの白髪ツインテールに、特殊にアレンジされた今風の着物。吸い込まれそうな神秘的な瞳に、アバター特有の整った容姿。
彼女に目が釘付けになっていると、彼女が私に向かって駆け寄ってきた。満面の笑みだ。いや、ちょっと泣きそうにも見える。
ダメダメダメ、そんな顔で近づかれたら男の子じゃなくても緊張するでしょ!
内心慌てていたら、急に体の前方に軽い圧迫感。月見ヤチヨの全身が見えなくなる。
「仮想空間ツクヨミへようこそ~~、やっと……会えたね♡」
すぐ耳元で明るい声が、そしてそれは後半で蠱惑的な響きに変わった。
抱きしめられているのだということを、頭では理解したが全く心が追い付いていなかった。
落ち込んで、家族ともまともに会話していなかった私にとってそれは劇薬だった。
そのままの格好ではもったいないかつまらないかわからないが、ヤチヨが何かを言うと私の目の前に画面が広がった。そこにはアクセサリーや服装、アバターの髪形など見た目を変更するための各種選択肢が提示されている。
私も普段であればそれなりにまじめに選ぶところだが、今はそれどころではない。どうせ後で変えられるだろうと適当に選ぼうとすると、横からヤチヨがあれも似合う、これもよさそうなどと一緒に選び始めた。
「特別にプレビュー機能かいほー」
試しに選んだものが全部リアルタイムで反映され、私はしばらく言われるがままに着せ替え人形になった。かわいいよ、とヤチヨに褒められるたびに顔が赤くなるのがわかる。ふわふわした心地で何を選んだのか曖昧なまま一通り選んでしまった。鏡が欲しい。
「じゃあこれで準備完了だね。ライブきてくれるの、楽しみにしてるよ」
――ようやく終わる。
離れていくそ様子に寂しさと安堵を覚えた瞬間、ヤチヨの顔が再び近づき頬に柔らかいものが触れた。
両肩を支えられながら、そっと鳥居をくぐらされる。
そこにはすでにヤチヨはいなかった。
私は膝をついて、しばらくその場から動けなかった。
この後、初ライブの曲で今度は失神し、ヤチヨに介抱されてさらに気絶することになるのだが。
次回:いろは、掲示板で嘘つき扱いされる