「あ、そうそう、明日から学校に行くからね」
さざめがそう切り出したのは、ちょうど出涸らしの茶をちびちび啜っていた時だった。
「俺、学校に行けるのか?」
「あったり前田のクラッカーよ。手続きはもう済んでるからねっ」
お茶請けは残念ながらなく、湯飲み茶碗を唇と卓上の間で忙しなく往復させる。
「でも、いきなりやしないか? 俺はまだこの世界のこと全然知らないんだけど……」
底に溜まった、濁った緑茶を一気に仰いでからさざめに訊ねた。初っぱなから弱気で申し訳ないが、ここは慎重にいくべきだろうとは俺の談。
「えー、さざめ名言録にはこうあります。『物事は万事習うよりも慣れるべし。男は度胸、女は愛嬌、無謀な蛮勇が将来的には策謀ある英雄を育てるのだ!』——と」
「いや、意味が分からないんだけど」
「身体で感じるんだ!」
「さざめとの温度差はひしひしと感じるよ」
その場のノリと勢いでごまかされるほど俺は単純じゃない。
「まあ、冗談はさておき。明日はあたしも一緒に途中まで登校してあげるから、ね?」
「う……」
柔らかそうな頬っぺたに人差し指を当てながらさざめがパチリとウインク。そんな仕草に、不覚にも俺はドキドキしてしまった。
なので気づけば首を縦に振っていた。上手く乗せられたと悟ったのは、それから数分後のことだった。
◆
「やっぱりただの物置だったか」
さざめが去った後、気になったので部屋を探索してみた。扉を開け放つと、すぐにカビ臭い香りが鼻を突く。奥には様々な物がしまいこまれていたのだが、どれもこれもなんに使うのか分からないような代物ばかりで、しかも埃を被っていたためにさっさと封をした。
「ここは使えないな、うん」
自室に戻り、ベッドの上にのしかかる。現在の時間が知りたかったが、生憎時計なんて物はない。しかしながら俺の中で睡魔が暴れ始めたので、真夜中ということにしておこう。
結局さざめに流される形で明日から学校に通うことになってしまった。せめて数日間は様子見をしていたかったが、そうもいかないらしい。まあ、仕方ないか。どうせ遅かれ早かれ同じ結果にはなっていただろうし。第一彼女を諭そうにも制服を渡されてしまった。
「にしても学校ねぇ」
そういえばまさか異世界で学校に通うことになるとは思いもしなかったな。というよりも、異世界に転生した後のことまで考えていなかった。
何せ矢継ぎ早に話を進められ、悩む暇すらろくすっぽなかった訳で。
そういった意味ではさざめが来てくれて助かった。俺一人では今頃あたふた慌てていたことだろう。ステュクスといいさざめといい、本当に死神は気が利くなあ。
でも、何かよからぬことを画策していたりして。
「ふあ……」
なんて柄にもなく黙考しているとまぶたが徐々に落ちかけてくる。
意識せずとも口から勝手にもれでる欠伸はつまるところ睡眠欲求の合図だ。
とうとう睡魔に支配され、脳が寝る態勢を整えたらしい、と。
ちょうどいいか。明日は少し早めに起きなければならないだろうし、それになんだか今日はどっと疲れた。
よし眠ろう。
思い立ってから実行するまでは複雑な動作がいらない分早い。やることは簡単だ。
身体から力を抜き、そっと目を閉じて待つこと数分。
それだけで俺の意識は深く途切れた。
◆
「……て」
何か聞こえる。
「……きて」
誰かが俺を呼んでいる。同時に、ゆさゆさと身体を揺らされるような感覚。
「……起きて」
どうやら俺の覚醒を促しているらしい。しかしながら俺はまだ惰眠を貪っていたかったのでその声は無視だ無視。今の心境は正に「後五分……」という感じだ。すると声の主も諦めたのか、ぱったりと静かになる。
しかしそれから数秒後、
「いい加減に起きんかー!」
天を衝かんばかりの怒声とともに、俺の腹部に強烈な一撃が見舞われた。
「ぶふぁっ!」
流石に眠気が消し飛ぶ。それはもう一瞬で。バイバイ○~ンって。いやマジで苦しい。
ぐええと痛みにもがこうとするが、何故か身体が動かない。
くそっ、攻撃が来ると事前に分かっていれば、何かしらの対処が出来たというのに。
だが状況的にそうもいかなかった。
寝首を無防備に晒し、油断していた所にいきなりのヒップドロップ。
もしもこれで目を覚まさないような奴がいたとしたら、そいつは確実に人間じゃない。
ゾンビとかそんな類だろう。
俺はゾンビですか?
——はい、異世界転生です、なんて。
……それはそうとヒップドロップ?
この技って確か相手に馬乗りになる技(最終的に)だった気がするのだが、まさか。
「おはよ、圭」
さざめと視線が合った。俺の腹の上に大股開きで座っていると彼女と。
思春期真っ只中男子の寝姿がそれはもう見ていられない程の有様であるのは全国共通だと思う。
ただでさえそうなのに朝目を覚ましたらそこに美少女の制服姿(ブレザー)があってしかもマウントポジションまで取られていたとしたら、そこは妄想に生きる男子たるもの興奮を禁じ得ないのは自明の理だろう。
あまりの素直さに恨めしくなるが、ここは一旦落ち着こう。
でなければ、あの薄手のスカートからちらりと下着が運命の悪戯かなんかでうっかり見えてしまった時に大変なことになる。
現状、俺の腹を挟んでいるさざめの太股がそれはもう肉感的で、むちむちとしたその感触に身体中から熱いパトスが迸りそうになっていた。別の何かも迸りそうだが。
「とりあえず、俺の上からどいてくれ……」
努めて冷静に(思春期の事情を気づかれないよう)促すが、彼女は尻を上げる様子はない。
「あの、そろそろ苦しいから本当にどいてくれないかな」
「いやだぃ! まったく圭ったら愛想ないねっ。あたしがおはよって言ってんのにさ、挨拶を返してくれないだなんて!」
どうやら彼女は俺が朝の挨拶を返さないことに拗ねているらしい。理由が理由なだけに微笑ましいが、今はそんなことを思っている余裕はない。さっさと彼女の要求通りにして、俺の上から退いてもらおう。
「お、おはようさざめ。フレッシュないい朝だな」
「うむ、それでよし。じゃあどいたげる」
手早く挨拶を返すと、そこでようやくさざめは床に降り立ってくれた。
「どったの圭、やけにそわそわしてるけど? 朝弱い?」
「い、いや何でもないよ」
俺の体以外は。
幸いというべきかさざめには我が身のエマージェンシーに気づいた様子はなく、ならば俺さえしらを切れば何の問題もないというわけだ。
「それよりなんでさざめがここにいるんだ? 一緒に登校するとは聞いてたけども」
「はっはー決まってんでしょ。圭に朝ごはんを作りにきてあげたのさっ!」
ビシィ! と俺に人差し指を突き付けてさざめは宣言する。
一度ならず二度目もあるとは、これはもしかして恒例化するんじゃないか。
毎朝の恒例イベントとして。
「というかもう既に作ってあるんだよね。さっ、顔洗っといでー」
センパイどーぞ、みたいな感じでタオルが渡される。意外と憧れていたシチュエーションがこんな形で実現するとは。
いやはや、人生は何があるか本当に分からない。
ありがたくタオルを受け取ってから昨日確認した洗面所へと向かった。
ここでは顔を洗う以外特筆することはないので省略するが、とにかく俺は顔をばしゃばしゃ洗った。
「お帰りー。もうご飯よそってあるから座った座った」
洗面所から戻りしなに急かされ、慌ただしくも朝の食事を迎える。
今日のメニューは和食だ。ご飯に味噌汁、焼き魚に野菜サラダ(ハム入り)という一見平凡な組み合わせに思えるが、その旨実に栄養バランスの取れた食事といえる。特に主食が米であることが最大の評価ポイントだ。
嘆かわしいことに、昨今の主食事情はだいぶ様変わりを遂げ、やれパンだのやれ麺類だの、ちょっと変化球にスムージーだのと米を軽視する傾向にあるからな。
まるで朝食に米以外を食べることがオシャレであるかのように流布されていて、アンチ米食派が勢力拡大の一途を辿っているのは日本人としてどうかと思う。だから今こそ異を唱えよう。
お前ら米を食え、と。
いいか、米を——、
「はいはい、学校に遅れるからさっさと食べる」
「すみません」
怒られたので食事に集中する。この続きはウェブでと言いたい所だが、恐らく再開の予定はないだろう。
とりあえず手を合わせていただきますから開始。
箸を手に取り、まずは味噌汁から先にいただく。
ずずず……、うん美味いダシがよく効いてるな。
ペロ、この味は青酸カリ、ではなく煮干しだろう。
「そういえばこの世界ってあんまり前の世界と変わらないんだな。食べ物とか生活様式とか」
「まあね。ちょっとしたパラレルワールドみたいなもんだし、魔法とか魔物が存在する以外はあんまり違いはないかも」
ちょっと待て、今聞き捨てならない単語を聞いたぞ。
「魔物がいるのか?」
思わず箸の先でさざめを指してしまい、彼女に「行儀が悪いっ」とたしなめられるのも何のその。箸を下げてから再び同じ質問をする。
「うん。いるよ。この世界では動物の延長線みたいな扱いだけど」
二度目ということもあり、今度はちゃんと質問に答えてくれたのだが、返事はあっさりしたものだった。
魔物だって?
俺がその単語を聞いてまず最初に思い浮かべたのはゲームなどでフィールドを徘徊する敵のことだった。ランダムでもシンボルでも構わないが、それらとエンカウントすることによって戦闘に突入し、勝てば見事アイテムや経験値がもらえる。魔物とは言わばゲームシステムそのもの——だと思う。
けれど、そんなRPGとか漫画の世界じゃあるまいし……と言いかけて思いとどまる。
ここがそんなファンタジー世界だったことを忘れていた。魔法があるというのなら、魔物がいてもどこもおかしくはない。
というよりも、よくよく思い返してみれば転生前に魔物とかが闊歩する世界だろうと算段をつけていたじゃないか。
あれ、じゃあ今までのくだり丸々いらなくない?
「はい、ごちそうさまっ」
先に食事を終えたさざめが食器を片し始めたので俺も急いだ。
「先に圭の部屋に行ってるね。食べ終わったら食器は流しにでも浸けといて」
それだけを伝えると、さっさと二階に消えてしまう。色々と世話を焼いてもらうのはありがたいし、文句を言うつもりもないのだが、ちょっと行動力が有りすぎるなぁ。ただ、男として悪い気はしない。それどころかむしろ美少女に甲斐甲斐しく世話を焼いてもらって嬉しい。
ともあれ俺も完食し、指示された通り食器を片すと、その足でさざめを追った。
「お、来た来た。遅いぞー」
俺の存在に気づいたさざめが振り返り、クローゼットにしまっていた制服を手渡してくる。それを受けとると、「一人で着られるよね?」と子ども扱いしながら尋ねてきたので頷いた。
「んじゃ、あたしは部屋の外にいるから、着替えが終わったら教えてね」
「ああ、分かった」
どうやら異世界でも制服の仕組みは似ているらしい。
パリパリに伸ばされたシワ一つないワイシャツに袖を通すと、袖口がひらひらするのは好きではないのでボタンを留める。次に襟元の下に赤ネクタイをくぐらせると、それをずり下げてきゅっと胸の前で結んだ。格子柄の黒ズボンを穿きベルトで固定。寸法はまるで測ったようにちょうどいい。
そういえば、なぜ今時の学生は腰パンをしたがるのだろう。俺にはその感性が分からない。野郎の丸出しには興味がないし、正直見苦しいと思うのだが。それがカッコいいとでも思っているのだろうか。もしかして分相応な格好にしておけよと忠告してあげるべきかもしれない。
まあそれはいいとして、着替えを再開する。
ワイシャツの上からズボンとお揃いの黒いブレザーを羽織った。ブレザーの造りはさざめを見る限り女子も同じらしい。ブレザーの襟元のすぐ隣に三本の白いラインが縦に走っていて、全体的にシックな雰囲気ではあるものの、その中に混じる明るさも忘れてはいなかった。
「よし、こんなもんかな」
自分の姿を鏡で確認し、どこかおかしな所がないか探す。
……うん、大丈夫。特に問題はなさそうだ。
「さざめ、終わったぞー」
着替えを完了し、部屋の外で待っている彼女を呼ぶ。
すると一拍置かずに扉が開かれる。
「おおー、なかなか似合ってるじゃん圭。うん、カッコいいよっ!」
さざめは俺の制服姿を見るなりすぐさま評価を下す。それなりに悪くはない評価だ。
「よっし、着替えも済ませたことだし、それじゃあさっそく学校へ行こーっ!」
おー、とここは返すべきだったのかな。こんな時にノリが悪くて申し訳ないが、しかし今の心情においてはこれから向かう学校だけが気がかりで、そこらへんにまで意識が回らなかったのだから許してほしい。
【絞殺と考察。刺殺と視察】
――はじまりはじまり。
正.××の手にはナイフを握られている。
誤.ボクの手にはナイフが握らされている。
正.果物ナイフの先端は赤い液体で濡れており、それが滴となって床を打つ。
誤.バタフライナイフの切っ先は鮮血に塗れていて、それが血の涙になって床を打つ。
正.目の前には二つの死体。
誤.目の前には一つの死体。
正.誰かが××に向かって叫ぶ。それを××は鬱陶しいと感じた。
誤.誰かがボクに向かって叫ぶ。だからボクは仕方ないと思った。
正.そして××は。
誤.なのでボクは。
正.■■を絞殺した。
誤.両親を刺殺した。
正.楽しみながら、ぎゅうぎゅうと。
誤.悲しみながら、ざっくざっくと。
正.■■が苦しむ様子を見て興奮し、喘ぐ■■の▲▲に自身の★★★を乱暴に突っ込んだ。
誤.両親の痛がる様子を見て恐怖し、喚く両親の心臓に自分のナイフを乱暴に突き刺した。
正.射精した。
正.目の前に新たな死体が完成。
誤.ボクはその時の記憶がない。
正.こうして猟奇殺人鬼は産声を上げた。
誤.こうして歪んだ人格は産声を上げた。