俺は、醜いものが嫌いだと思う。
例えば車の車輪に轢かれた桜の花弁の残骸なんて見て居られなくて哀しくなる。
割れてしまったコップや茶碗が可哀想で嫌になる。
人並みには、本当に人並みには、綺麗なものには価値を見出してしまう性質だった。手元にあるような物は俺の為に生まれたものだと思ってしまうし、そうでないものは俺に囚われないくらいには幸せで素晴らしいものなのだと分かっている。
壊れてしまったものは醜い。壊れたことで綺麗になるものも幾つかはあるにはあるが、大体はそうではない。
できるならば、ありとあらゆるものに、綺麗で居続けて欲しいものだ。本当に。心の底から。
身勝手なことに、そんなことばかり考えて生きている。
「じゃあ、貴方自身は?」
蒸気の向こう側にある真っ白なうなじと、浴槽から溢れ出した長くて綺麗な青い髪だけが、見えている全て。足の裏に触覚で伝わる四角で区切られたタイルの溝に比べると、悍ましくなるほどに遠い。
「……どういう意味で聞いてる?」
「そのままの意味よ。そんなことを口走るような人間は大体二種類でしょう」
一つ。指折り数えようとする仕草だけ見せながら、億劫そうに語る。
「私みたいに、自分が美しいと信じて疑わないようなナルシスト。だから私も醜いものが嫌いよ。というか、そんなものに価値なんて無いもの」
一つ。澄んでいながら棘のある声が、平坦に羅列する。
彼女が言葉を吐くとき、それはいつも胸の奥で絡まったものを吐き出すみたいな表情とトーンで行われる。
「その醜さへの嫌悪が、自己嫌悪を発端として世界に拡張されているマゾヒスト。世界に溢れる醜さの全てに共感して、共感した端から自分を嫌うのと同じように嫌ってゆく。……結果だけ見ると、前者のナルシストと変わらないわね」
どっち?
一瞥の視線もくれはしないまま、彼女はやはり吐き捨てるみたいに問う。
「いやいや、そんな解り切ったことを聞かれても困りますよお姫様」
温いばかりの湯を、その長い髪にばしゃばしゃとふりかける。弾けた水の粒がその藍色と混ざって、紺色の墨汁が飛び散っているみたいだった。艶やかな色をしている。平安時代に美しいとされた緑の黒髪の色だろう。宝石に喩えるならばラピスラズリ──彼女はそんな賛辞なんて要らないと言うだろうが。
「こんな顔の人間がナルシストだったら、その時点で何かの犯罪に問われる」
「猥褻物陳列罪?」
「さあ。性犯罪の何かだとは思うけど」
「そう。くだらないわね。おまけに不愉快。醜いものが嫌いと言う割には、平然と醜い語彙を選ぶのね、貴方」
飛び散った水分を吸収して、着ている服が不愉快な重さを呈していた。
肌に張り付いた布というものは、その部分に通っている触覚器官越しにシールの粘着面を想像させる。生憎、俺はその両方が嫌いだった。
「貴方の陰気さも、それだけで害を生み出すようなものだと思うのだけど。貴方が作る庇の影は環境権侵害かしら」
「だからなるべく日の当たらないところにいるようにしてる」
「私の傍にいる癖に」
「貴方は例外だよ。嫌だったらいつでも出て行ってくれていい」
「そうね。近いうちにそうするわ」
つい数十分前にも言った返答を彼女は繰り返して、それで会話にピリオドが打たれた。
最初に彼女がこの家に来た日から、既に一月余りが経っている。そこから毎日彼女は近いうちに出ていくと言っているけれど、その日はまだ来ないようだった。
「……じゃあ、シャンプーするよ」
「御勝手に」
浴槽の淵に後頭部を預けた彼女は、傲慢に、これ以上なく高慢に、そんなことを言った。
自身にこの任を与えたのは彼女側であるのに、そんな風に言うのは少し理不尽だった。
一方で、どうせ彼女は抵抗することもできない訳で、その点を鑑みればこれ以上なく適切な物言いだった。
かたん、と、気持ちの良い音が鳴って、鏡の隣に並べてあるシャンプーを手に取った。
とろりとした白濁液がなみなみ注がれた、ガラスボトル。通販でわざわざ取り寄せたそれは、自身が使っている安物とは値段の桁が二つも違う。
けれど、洒落た名前のアルコールでも詰まっていそうな青いガラスの見た目は綺麗で、財布の痛みよりもその満足感の方が少しだけ上回っていた。何より、彼女には似合う。海より深い蒼の髪を着飾るにおいて、これ以上に似合うものは他に無いと思えるくらいには。
綺麗に切り揃えた爪。
殺人の痕跡や指紋が消えるくらいに消毒した指先。
醜いものばかり触れている掌。
全て使って、上品な女性の香りを纏った虹色の泡を作り上げる。陶芸をしているような気分になる。
「他に、何か面白い話は無いのかしら」
「さっきの話じゃ不満だった?」
「不満ではないけれど、短いわ。まだまだ私は暇なのよ」
浴槽に身を沈めた少女は、やはりその傍の洗い場でしゃがみこんでいるこちらを見ることはなくて、ただ白い壁面を眺めていた。
「…………そうね。罪の話をしましょう」
そのままの姿勢で、物騒な話を切り出した。何が見えているのだろう。数年前に退去した前の住人が殺人を犯していて、浴室には死体を解体した際に飛び散った血痕が残っていて、彼女にだけそれが見えていたりするのだろうか。
彼女には何が見えているのだろう。
生憎、俺には解らない。受験生が使う英単語帳の日本語訳のように醜いものばかりが視界に映る赤茶色のこの瞳は、未だに一度も貴方の網膜を見たことが無い。あまりにも綺麗すぎて、こちらの視界が潰れてしまいそうな気がするから。
彼女には何が見えているのだろう。やはり、その特異な身体や思想に見合ったような、歪んだ価値のあるものしか見えなかったりするのだろうか。
「貴方は他に、何か罪を犯したことはある?」
「色々。まず、現在進行形で少女誘拐罪だし、」
「合意の上なんだから問題無いでしょうに。世間がどう思うかはさておき」
「人を不快にさせる罪とか、汚いことばかり言うとか、」
「ああ。それは明確に、私が被害者ね」
「──人を殺したこともあるね。間接的に」
耳元で、囁いてみる。
彼女は、蠅を嫌がるみたいに身を捩らせる。それに連動した波紋が水面に広がって、複雑に反響する。
「そう」
淡白な返しだった。
「禁止はされていないけれど、処罰の対象ではあるわね。貴方、裁かれるのは怖くないのかしら」
「母親の子宮の中でね。俺はもっと素晴らしい可能性を秘めた兄弟たちを殺し尽くして、こんな凡夫として生まれてきた。可能性に対する殺人罪は、今の法律では裁けないから怖くないさ」
わしゃわしゃと、その頭皮を揉むように洗い始める。
傷を付けないように、丁寧に。その脳味噌を愛撫するように、淫靡に。
「然るべき罰が、貴方に振りかかるでしょうね」
「そうだね。それに恥じないように、それを償うように、その犠牲に報いるために、俺は多くのことを成し遂げて生きる必要がある筈なんだろうけど──もう疲れたから、最近はそんな刑務作業もできてない。天から見れば、死んだ方が良いだろうね」
「そう。自分で死なないの?」
「死ぬのは怖いからね」
お痒いところは無いですか? と問うと、無いわ、と、端的な返事が返ってきた。
彼女のすぱっとした物言いは好きだった。潔い。虚飾が無い。
「俺は、本当は嫌いなものなんて殆ど無いんだ。ただ、色んなものが怖い」
ふと見ると、逆様になったおでこの向こう側から、蒼い瞳がこちらを覗き込んでいた。
ふさふさと生い茂った艶のある長い睫毛の隙間を縫うような、鋭い視線。
この角度だとより鮮明に、彼女の顔が見える。形の良い細い眉。くっきりとした二重の瞼と、上と同じく長い下睫毛。その物言いくらいにすぱっとした綺麗な鼻筋。
「大人が怖い。社会が怖い。世界が怖い。未来が怖い。死ぬのが怖い」
「子供は怖くないのね」
「アレは自律意志の無いただの肉の塊だからね」
「変な人」
視線を合わせないように、それ以外のパーツを見ていた。舐めるように。
胸骨。肋骨。薄い胸板、さほどの起伏も無いその先にある二つの乳頭。今見えるのはそのくらい。恥じらうことも無く、ティーンエイジャーを名乗る資格を失ったばかりのオスの目の前へ、雑に投げ出された裸体は、酷く脆くて清潔だった。
「昔は、それが嫌いなんだと思ってた。大人が嫌い、死ぬのが嫌い、って思って生きてた。でも、そうやって拒絶したつもりでいただけで、本当のところでは俺が拒絶されていたんだ。それに気付いて以来、ちゃんと言葉を使うようにしてる。俺は怖いんだ。嫌いなんて言葉を使えるほどの資格も無いくらいに」
「そう。私は、れっきと嫌いよ。貴方が怖がるものが」
「貴方は強いからね。貴方は拒絶する側だよ」
彼女の両方の肩の先からは、虚無だけが広がっていた。
要するに、彼女には両腕が無かった。
「ああ、だけど。私、死ぬのだけは好きよ。そんなに、悪い気はしないものよ。案外ね」
それは、彼女の腕が彼女から切り離された時のことだろう。そのくらいは分かるようになっていた。あまり嬉しい変化ではない。
「人は、堕ちる生き物だから。白鳥の様には飛べないのだから。……私は死んだ時、起き上がれないと分かって、動けないと分かって、何故だか悦楽していたわ」
会話の体を繕っただけの、一方的な思想の押し合い。
彼は、それ以外のコミュニケーションの形を知らなかった。
少女は、──
「穢れの無い少女のユメなんてものは、児戯に似てつまらないの。振り返れば、そんなものに価値は無いの。私は失墜して、ようやくそれに気付くことができたわ。それまで、そんなことを欠片も思いもしなかった私を殺せたから」
私は、泥中で咲くのよ。綺麗でしょう?
そんなことを言った。やはり澄んでいながら棘のある、オシロスコープが眠ってしまうほどに平坦なトーンの声だった。
そうだね。貴方は、綺麗だよ。
そんな言葉を返した。欲情して、白濁した震え声。オシロスコープが泣き叫ぶほどに乱高下したトーンの声だった。
それきり、会話は終わった。あとに聞こえるのは、小さな頭の泡を洗い流すシャワーの水音だけだった。
▲▼▲
自転車で、アルバイトの出張先から帰っている道中のことだった。
その日は酷く暗い曇天で、何の面白味の無い空が無限に広がっていた。月も雲の切れ端も見えない、無彩色の夜だった。
辺りの店も殆ど閉まっていた。街灯も無いような狭い道ばかりの帰路は、濃い暗闇に包まれていた。灯りらしい灯りといえば、ペダルを数分漕いだ報酬のようにぽつぽつと配置されている24時間営業のコンビニエンスストアの鮮やかな電燈くらいか。
それだって、背後に行ってしまえば何も見えなくなるわけで。つまりは平凡で暗澹とした夜だったと分かってくれれば宜しい。
彼女がいたのは、そんな暗闇のミシン目の間。
何も照らし出すものの無い、現代では珍しい本物の漆黒の中。そこに少女は倒れ伏していた。
運良く自転車のヘッドライトがその髪の先端の破片を僅かに照らしたことで、彼女を見つけられた──見つけてしまったが──見つめられてしまったのだが──、そうでなければ彼女はただの藻屑になって海に還っていた筈だ。
「……見下さないで」
「悪かった」
がたん、と、金属音が宵闇に響く。
自転車を道の端に留める。
からからと空回りする車輪の音が無機質に聞こえる。
「大丈夫か、と聞くと、大丈夫、そう返される。順調かという質問も、同じ理由で適さない。だから、こうやって聞こう。君の身の上には何があったのかな」
御所望通り、膝を折って視線を合わせて、そう問うてみる。──どうしても仰向けに転がっている以上は見下したアングルになってしまうのだが、少しは近い方が彼女も嬉しいだろう。
「何も無いわ」
仰向けに転がったまま、吐き捨てるみたいに彼女は言った。
今でこそ慣れたものだが、そのあからさまに拒絶を示した喋り方にはぎょっとさせられて、困ってしまう。
「……それは流石に無理がすぎると思うけど」
「どうだっていいでしょう。好奇で私に関わってもろくなことにはならないわ」
そう言って、彼女は身を捩った。薄気味の悪いシルエットが動いて、そこで初めて彼女の肉体の異常性に気が付いた。
忌憚なく言えば、両腕の無い彼女は芋虫に似ていた。
「あら。腕が、とか、口走らないのね。賢明な人は好きよ、私」
「俺はそんな分かり易い創作上のヘイトキャラにはならないよ。……まあ、それに限らず人に好かれる性格じゃないのが問題なんだけど」
「私を殴った馬鹿はそんな三下らしい台詞を吐いて行ったわ」
目が慣れてきた。
その向こう側の輪郭が鮮明に映った。
アイロニックな表情だった。上に吊り上がった唇と、剥き出しになった尖った歯。
「声を掛けられて、無視したの。そいつが引き留めようと私の腕を掴んで引っ張った拍子に、肩から先の義手が引っこ抜けた」
その唇が蠢いて、言葉を紡いで、読み上げる。
彼女は、最初の己の問いに答えてくれているのだ。情報を処理するのが追い付いて尚、その脈絡を掴むには少しの時間差が必要だった。彼女は常に出し抜けで、突拍子が無く、けれど筋が通っている。独自の美学と速度感を持って生きている。
「で、怖がらせてやろうと思って、反対側も同じように外してやったの。そうしたら随分と狼狽して。……それだけならよかったのだけど、両方の義手を散々にぶち壊されてしまったわ」
淡々と。怒る様子もなく。
「あまりに腹が立ったから、蹴り飛ばしてやったの。そしたらあっさり殴られて、こうなったの。次は負けないけど」
微動だにせず。死体のような姿勢で。
「貴方も蹴られたくなかったら離れなさい」
酷く平坦に。無感情に。そんな調子なので、かえってこっちが怒りを示したくなる。
「それは……本当に酷い。人間の両腕を切り取ってしまうのと何が違うんだ」
「そうね。私を轢いた馬鹿にも言ってあげて欲しいわ」
「いつから?」
「どうだったか。自分が事故に遭った日付なんて、あんまりきちんと覚えていないものよ。貴方は高校の卒業式が何月何日だったか、正式に言えるかしら」
──十年前よ。
目が慣れている。
詳細な凹凸に至るまで、少女の姿が克明に視界に映し出されている。
「……そっか。……起き上がれないの? 手、貸そうか?」
「しようと思えばできるけど、面倒だったのよ。貴方が起こしたいと言うのなら従ってあげるけど」
「じゃあ、起きてて欲しいかな。手伝ってあげるから」
腕を差し伸べる。それ以上汚れないように、その背中に腕を回して抱き上げる。
軽い。人間は両腕が無いとこんなに重量を喪うのか。
「……貴方、馬鹿なのね」
「どうして?」
「何故って。当たり前でしょう? 貴方、自分を傷付けるものに対する免疫が無いって、今自分で証明したようなものよ」
目が、ようやく、彼女の全てを捉えた。
その瞳があまりに透き通っているものだから、そっと目を逸らした。初めて気が付いた。直視してはならないと思った。あんまり長く見ていると死にそうになってしまう。
「こんな毒物に無防備に触れて、貴方を傷付けようとする言葉にも素直に従って。貴方、さては馬鹿でしょう」
「そんなことは無いと思うけど……」
「それはどれに対しての否定? 貴方が馬鹿だっていう話?」
「貴方がどれほど俺を傷付けようとしたって、傷付けることはできないって話。俺は馬鹿だけど、そのくらいの判別くらいはできる」
む、と、少女はその形の良い眉を中央に寄せた。
ようやく解り易い表情を見せたな、と、そんな感想を抱く。そうしてやっと気付いたのは、彼女の顔立ちの幼さだった。間違いなく年下だ。態度と口調で分かり辛いだけで。
「貴方のこと、嫌いよ」
「そう。気が合うね、俺も俺は嫌い」
「……そんなことで、自分が傷付かないって言ってるのかしら」
「ただのポーズとかじゃないんだよ。俺は本当に俺が無価値で困る」
はあ、と、溜息を吐きながら、抱き上げた少女の見上げる視線を掻い潜り、空を見上げた。
代り映えも色彩も月も無い。自身が唯一視線を合わせることのできるオリオンすらも無い。
「貴方はそうじゃないのか。自分のことを毒物と評する女の子なんて見たこと無い。蝶や花のように愛でられてただろうに」
「ええ。私は花として育てられたわ。だけど──知っていて? 花には毒があるものよ」
そんな空に見飽きて、刺激の強すぎる彼女の相貌に視線を戻した。
人間は刺激を求める生き物だ。特に、産業革命以降、己を逸脱した万象を制圧できるという確信を手に入れてからは、その傾向はより顕著になった。電撃のような刺激を。稲妻のような過激さを。
では、
彼女のその、毒のような刺激は?
人の悦楽に、本当に適しているのだろうか?
求めても良いものなのだろうか?
「私の名前は依護メルティ。良い名前でしょう? 私のエゴはいつか、身も心も、生きていた痕跡すら──溶かし尽くすわ」
「ハーフ?」
「そうよ。何処なのかはあまり分からないわ。そもそも父親には会ったことが無いもの」
そんなことが脳裏に過るほどの美人は、両腕があったのなら、きっと自身の目の前に伸ばした人差し指を突き付けているのであろう挑発的な表情を浮かべて、そんなことを宣った。
腫れた頬の痛々しさが、見ていて酷く不愉快だった。
「……それで、帰る宛はどっち? 送るよ」
「何を言っているのかしら。そんなものは無いわ。義手が壊れたんだもの」
風が吹いていた。
「どういうこと?」
「新しい義肢が欲しかったのよ。それで、日本の製品が良いだろうってことで旅行してきたの、本人がいなければどうにもならないから。けれど、もっと良いものが作れるっていう女に会ってしまって、予定を変えて彼女に作ってもらったのよ。そのまま、無事に帰れると思っていたのだけどね」
「……ああ、なるほど」
そうして、駅に向かおうとした道中で、こうなったと。
確かに、一本道を外れれば大きな駅があった、そんな気がする。家からの距離がそこそこある所為で、あまり土地勘は無いが。
「折角出来上がったものをこうして叩き壊された上に、帰りの便はもう行ってしまったわ。不義理を働いた以上は元々予定してた会社には頼めないでしょうね。……私が両腕を喪ったまま帰ったのなら、お母様はなんて言うかしら。そもそも、帰るまでの手段も殆ど無いわけだけど」
「なんか……節々からいいところのお嬢様な雰囲気を感じるのは、気のせい?」
「さあ。私、普段はドバイ在住の五人姉妹なのだけれど、貴方の基準ではお嬢様?」
「お姫様ですわね」
「あら、悪くないわね。貴方、暫く私のことをお姫様扱いしても良いわよ。光栄に思いなさい」
ふふ、と、彼女は笑った。
言い訳もできないくらいにはっきりと、その顔に見惚れてしまった。
よいしょ、と、その間に彼女は上手にバランスを取って、アスファルトの地面に降り立った。
ことん、ことん、と、高らかな音が響く。よく見れば、彼女はとんでもなく踵の高いハイヒールを履いていた。何も知らない庶民の身では、これがセレブの嗜みかと圧倒されてしまうほどに豪奢で瀟洒な立ち姿。
「それで。ある程度の情報は吐いてあげたのだから、貴方も少しは自分のことを話したらどう?」
「言われても。俺はただの大学生だよ。もうとっくにティーンエイジャーの資格すら失って、後は衰退するだけの醜い化け物」
「そう? 貴方には五体が満足にあるじゃない。私よりもよっぽど未来は明るいのではなくって?」
風が強くなってゆく中で、意地悪く、見下し果てながら、彼女は言った。
それで人が困ると確信したような、性格の悪い笑みだった。
「いいや」
綺麗だった。本当に綺麗だった。
胸に稲妻が走るとはこのことだと実感した。痺れるとはこのことだと肌で理解した。発明家ニコラ・テスラが掌握したような電気信号よりもよっぽど過激でよっぽど凄まじい稲光。人の手には余りすぎる膨大なエネルギー。刺激的だ。快楽的で享楽的で激痛だ。身が引き裂けたことにも、泡に還っていることにすらも気付けない。
「俺にはもう、貴方みたいな毒が無い。だから、薬にもならない。ただの汚水だ。世界を変える程の刺激は無いし、世界に抗うための抵抗力も無い」
荷電性の毒の蜜を湛えた雌蕊が揺れている。
風に青い長髪をばたばたとなびかせながら、嗤っている。
「でも、貴方には毒があるだろう。世界を振り回し、世界を汚染し、何もかも殺し尽くせる電撃みたいな刺激が。貴方を傷付ける世界に抗うための攻撃力が。両腕が無くなった? だから俺よりも劣位だ? そんな訳ないだろう。貴方は綺麗だ。つまらないことを言うな」
笑い返してやった。
醜いだろう。醜悪だろう。貴方がそうするまでもなく、硫酸を頭から被ったみたいにどろどろの腐った顔。人の形を損なっていないだけの木乃伊。
「次は負けない? 貴方は誰よりも何よりも勝利しているだろうに。思っても無いことを言うのは得意なのに、それを繕うのは下手なんだね」
「……あら、怖い怖い。怒っているの? それとも、そうやって人を口説くのが得意なの?」
「こんなもので口説かれたと思ってくれたのは貴方だけだよ。変な人だね」
──言葉は帰ってこなかった。返ってきたのは舌打ちだけだった。
同時、凄まじい風圧が自身の顔を掠めた。
美しく長い脚を伸ばした彼女の回し蹴りは、自身の頬の産毛を蹴り飛ばして、止まった。
「あの三下にも、当てる気は無かったのよ。下手に動揺して動くから。だから私、賢明な人は好きよ」
少女はそう言って、足をゆっくりと降ろす。地面に降り立ったそれは、わざとらしく、踵で彼のスニーカーを踏み躙ってゆくのを忘れない。
無言のまま痛みに顔をしかめた男を、甘い飴を舐めているかのような満足気な顔で数秒見つめた後、少女は歩き出した。
「次は当てるわ」
鼻歌交じりの声が、自身の生き先に先行していた。
溜息を吐いて、自転車のスタンドを蹴って、それに追随した。
「お姫様。ここからはかなり距離があるから、荷台に乗ってくれると楽だよ」
「早く言いなさい」
押して歩く自転車の重量に、腕が二つ欠損した痩身の重量が増える。あまり大差はない。
からからと車輪の音がしていた。
「……ねえ。結局、怒っていたの?」
「いいや。貴方には怒っていないよ。俺は女の子には優しいんだ」
「そう。似合わない台詞ね」
「似合わなくても言いたいだけ。本当は俺、誰にも優しくは無いんだ」
それは、本心からの答えだったし、
同じように、本心から肯定したいと思った返しだった。
▲▼▲
「一応、お母様に電話するわ。これ。操作して」
「虹彩認証だって。はい、ここ見て」
「ん」
「ここ押して」
「分かった。俺は黙っておけばいい?」
「ええ。下手に口を出すと面倒なことになるわよ」
「……怒ってない?」
「切って。早く」
「これでいい?」
「いいわ。あと右下……そう、そこ。押して」
「なんて言ったの?」
「よく分からない男の家に引き取ってもらった。暫く帰れない。って、言ったわ」
「言い草が最悪過ぎる」
「そうしたら、凄まじい勢いで怒られそうになったから、電話切って、着信拒否したわ」
「俺がやったよね?」
「ええ」
「じゃあ多分終わったよね俺。なんでドバイの富豪の娘誘拐した奴になってしまったんだ俺」
「良かったでしょう? 貴方の退屈な人生が刺激で満ちるようになって」
「……多少は、まあ」
「素直な人は好きよ」
「お姫様、貴方嫌いな人いないんじゃないの。誰でも好きみたいな気がする」
「貴方は嫌い」
「気が合うね」
「笑わないで聞きなさい」
「ほぼ初対面の人間に言うことじゃないとは思うけど、なるべく努めるよ」
「私は一から百まで私の好みに合う人間を求めているの。それが私の王子様になるの。少しでもそうではない人は嫌いなの」
「…………そう」
「貴方は嫌いよ」
「……気が合うね」
読了ありがとうございます。感想や評価をくださると幸いです。
こんな話が続きますので、読み続けてくれると嬉しいです。