彼の家の中にはあまり娯楽が無い。
別にわざわざ貶している訳では無い。単に私がそもそも娯楽を享受しにくいというだけの話。なにせ自発的にゲームもできなければ間食を摘むこともできない。そんな所為で悪趣味以外の趣味がそもそもあまり無かったりする。
そんな訳なので、二人とも手持ち無沙汰になったような場合には、することが極端に限られる。単に話しているだけでも苦痛では無いし、何なら適当に足蹴にしていさえすれば多少は胸がすくのだが、それにしたって限度はあるものだ。彼だって私の目の前で私を放って無邪気に腕を使って遊べるほど無遠慮ではないのだし。道理を考えればそれに対して私が文句を言える立場ではないのだけれど。
「とは言いながら、わが妻の謎めいた態度が私を呪縛する時がやってきた。彼女の蒼白い指や、その音楽的な言葉の低い響き、その憂鬱な目の輝きに、これ以上耐えられなくなったのだ。彼女はそれを知りながら咎めることはせずに、私の弱さや愚かさもわかっているらしく、微笑みながら、それも『運命』だと言った──」
そんなときは、大抵、彼の好きな小説を朗読してもらうことで無聊を慰めている。
彼の家には墓標のような書籍群が溢れているから。あくまで短編集に限られるが、久し振りに読む──聴く? 活字は単純に興味深かった。
「貴方、私に読ませたい小説って聞いて真っ先に浮かぶのがそれ?」
「悪趣味でしょ」
「本当にね」
綺麗で、頭が良くて、魅力的で、少しスピリチュアルな思想を持っている妻。
愛しているけれど、彼女の魅力や神秘主義やオカルティズムに疲れて、徐々に心が離れてしまう。
やがて妻が死に、娘が生まれた。
名前の無い娘が成人して着いた洗礼名は妻の名前と一緒だった。
やがて死んだ娘を埋葬する段になって──墓穴を掘り返すとそこに妻の遺体は無かった。と、大体はこんなストーリー。
「貴方は……どう解釈するの。輪廻転生?」
「うーん。でも、愛されなかったら生まれ直せば良いっていう思想そのものがやっぱり耽美的で魅力的だなって思うよ。最後の顛末はあくまで結果でしか無くて、それに至るまでの感情の機微が頽廃的に描かれてるのが好きかな。あんまり有名じゃないから、単なる個人の感想でしかないけど」
手にした外国文学の翻訳本をクローゼットに収めながら、彼はそんなことを言った。
「こういうのってオチが大事なんじゃなくって?」
「どうだろう。でも、割と途中で分かってたでしょ。同一人物だったんだって。本題はそこだけどそこじゃないっていうか」
素直に、納得させられた。
何が起きたか、どんな顛末を辿ったか、よりも──その中にある美意識を探す。表面の有り様よりも過程を重視する。
なるほど、貴方の悪徳を鑑みればその傾向があるのはよく分かる。貴方はいつもそうだ。現実よりも虚構を、視覚的なものより目に見えないものばかりを好んでいる。
そんなことで良いのか、なんて詰るのは簡単だろうけれど、それにどんな意味があるのだろうか。
というか、私もそんなことを言える立場ではない。
「逆に、お姫様はどう思った? 女性目線だと、また違う意見があるんじゃない?」
「……私は、そうね」
どちらかというと、話の中身よりも彼がそれを薦めたという事実の方が大事だと思うのだが、
それでも、思わないことが無いという事も無く。
「縛るために死んだのか、死んで尚縛ろうとしたのか。その点には議論の余地があるとは思うけど。どっちにしても、くだらない女だと思うわ」
率直に、何も考えず、そんなことを言った。
「いえ、その女本人は良いのよ。そうとしか生きられない怪物みたいなものでしょう。人では無いものに何も言う事は無いわ。それよりも──彼女を愛しても恋してもいない癖に、魂を砕いたその男が愚かだわ」
彼が自身の瞳から視線を逸らしていることに気付きながら、私は彼の瞳を見続けていた。
「ただ一言、失せろと言えばよかったのよ。愛していないことも恋していないことも互いに理解した上で、尚突き放さなかった。美しくて理知的な女が自分に意識を割いていることに悦楽していたから。……そんなもの、自ら食われに行っているようなものよ。どうしてそれで被害者のような顔ができるのかしら」
「だから、最後に主人公は笑ったんじゃないのかな」
「いえ。とっくに、彼は食われていたのよ。廃人になったのと同じでしょう。それが哀れだと思うかは人に依るでしょうけれど、少なくとも私は一切同情できる点は無いわ。美しい魔物に魅入られて、拒絶するだけの覚悟も無い愚物は食われて死ねばいい。そんな魔物に常識が通じると思わない事ね」
「それでも、好きだったんだと思うよ」
一方の彼は、そっぽを向いたまま、
遠い目をしたまま、
何処を見ているのか、
宙に浮かぶ銀色のエトワールでも見ているかのような穏やかな表情で。
「相手が人間に思えなかったから、エロスという意味での愛欲を抱くことは無かったけれど。確かに彼は相手を慈しんで、憐れんで、愛せず恋せず、それでも好きだったんじゃないかな」
「飼い犬に懐く様な感情ね」
「どうかな。案外、月に抱くような感慨だったりしたんじゃない?」
「月に愛されるのも大変ね」
「あ」
僅かな沈黙を縫うように、彼の携帯電話の液晶に着信が入った。
「……良いわよ。出なさい?」
「ごめんね。……もしもし?」
少しだけ高くなった声で、彼は応答を開始した。
耳を塞ぐこともできない私は、相変わらず彼の布団の上で不完全に体育座り。体育なんて殆どしたことはないんだけど。サッカーだって、真剣にしようとすれば満足にはできない。
「……あー、うんうん、そうね、えっと……」
聞いている限り、何らかの会合に誘われているようだった。
ちらちらとこっちの方を伺っている。
「……ちょっと待ってね」
「お姫様」
「今から?」
「そう」
「日が回る前に帰ってくるなら良いわ。貸し一つ。言うこと一つくらい聞きなさい」
「……ごめんね」
「で、誰から?」
「大学のゼミの人。すぐ帰って来るから」
「気にしなくても良いのよ。精々楽しんできなさい?」
▲▼▲
一人でバスに乗った。
一人で繁華街を歩いた。
観光客と明るいネオンサインでごった返した一区画。騒々しくて、熱気に満ちていて、息苦しい。
熱が好きじゃない。欲が好きじゃない。
文明と文化は好きだから、例えば建築物だとか、例えば文化遺産だとか、そういったものは好意的に感じられる。けれど、それを利用している、──客と運営とその両方──の人間が好きではない。言ってしまえば嫌いだ。酷く醜い。綺麗な花の茎に油虫が集っているのを見ているような気分になる。
理性的な生物が好きだ。だが生憎、そんな生物はあんまりいない。誰も彼も欲望に満ちていて、誰も彼もが地に這いつくばって砂金探しを繰り返している。その茹だるような嫌な熱が嫌だった。炙られる、焦がされる、そんな熱量とはまた違う。身体の奥底まで伝わるような予熱。内臓を丸々灰色に変えてしまうような低温火傷。
誰も彼もがケダモノじみた欲望を法律の許す範囲内でちみちみと発露させて楽しげに生きている。それがあまりにもくだらなくて嫌になる。
せめて恥じて欲しい。胸を張らないで欲しい。
潔く、理性的に、
文明的に、文化的に、
そんな風にありたいものだ。
きっと誰もがそうだと思う。ちゃんと聞いたことが無いから知らないけれど、そうであって欲しいと思う。
──俺は。世界を救ったことがあるような、そんな気がしている。
自分がそうできると信じている──とか、自分は将来大物になるんだ──とか。そんな幼稚で可愛らしいようなものではない。ただ、いつからか、夢の中よりもはっきりとした、そんな確信がある。何故だか不意に、自分は世界を救ったことがあって、凄いことを成し遂げたことがあって、色んな人に感謝されるのが当たり前なんだって、そんな訳の分からない虚妄に取り憑かれることがあるのだ。何度も、何度も、何度も。
当たり前なことだが、そんな過去は記憶の上でも記録の上でも、まず間違いなく事実として存在しない。
そもそも、実感も全く無い。もしも仮に隠された過去があって、本当に世界を救っていたとして、やっぱりどうでもいい。自身が確信できていない事態に嬉々とするほど恥知らずではない。夢遊病者とか、多重人格者とか、そういった人間は同じような感慨を抱くこともあるのかもしれない。
そんな訳無いのに。
「これ、可愛いですよね。……俺より少し年下の女の子なんですけど、似合うと思います?」
そんなに素晴らしい人間ではない。普遍的で在り来りな人間でしかない。世界を救うだけの力があるどころか、迷子になっている海外の人すら満足に助けられない。
なのに身に余るだけの確信だけがこの身を焼いている。酷い不相応な欲が脳にこびりついている。
その所為で普通の人間ですら無くなった。
誰に感謝されても、あまり何とも思わないようになった。何を成し遂げても味気無かった。友人はそれなりにいるけれど、彼らの言葉や成果や悩みに、本当の本当に心底共感できたかというと、あまり確信はできない。いや、殆ど間違いなくできていなかっただろう。そんな具合なので、自身が何かを失敗した時なんてそれはもう。……もう、常人とは比べ物にならないほどに暗澹とした気分になってしまうのだった。
努力するのは好きだ。──この程度で?
周りの人は皆凄い人だ。──この程度で?
自分は世界を救ったことがある。───では実際に何ができる?
凡そ思い付く限りの肯定の言葉は、虚妄と現実に塗り潰された。
こんなのが人間なのだろうか。誰も彼もこの虚妄に取り憑かれているのだろうか。そうであってもそうでなくても、どちらにしろ人間には共感できなかった。どう足掻いても、この身体と意識の延長線上にある筈の誰も彼もが自身とは違う異形の存在に見えた。怖い。嫌いではなく怖い。理解できない。自分よりどう考えても優れている。同時に、それにすら成り得ない劣等種である自身ははただのヘドロでしかないように思えて仕方なかった。
だから一人で歩くのは怖い。今も震えて死にそうだ。いっそ死んでしまえ。
「あ、すみません。これ一つください」
痛い。痛い痛い。痛い。
こんなモノは、人間の社会で生きるのに相応しくない。
人間の欲望が汚く思えて、身体が熱くて嫌になるのだって、歪なものが無理を通そうとして摩擦熱が生まれているようなものだろう。人の形を取り繕っただけのエゴの塊。汚泥の積み重なり。間違っているのは明らかにこちら側。
このまま現実で生き続けても、末路は酷いものになる。
存在しない傲慢で誰かを傷つけるか、
存在しない卑下で誰かに拒絶されるか。
どちらにしたって惨めに一人で朽ち果てるだけになるだろう。
そんなのは耐えられない。
だって、
だって、
俺は世界を救ったことがあるのだから。
「……うーん。こっちにします。……ええ、ありがとうございます」
こんな虚妄が現実に溢れ出してしまわないように、理性で蓋をし続ける。いつもいつでも、人の目があるうちは、理性的な生物として振る舞う。
きっと、この欲望が特別強すぎる、とか。そんなことはないのだ。誰にだってあるような、きっと普遍的なものなのだ。
ただ、こちら側が弱いだけだった。上手く付き合えないだけだった。下手くそなだけだった。要するにずっと、生きるのが下手なのだ。誰にでもできることが、自分だけどうしてもできない。
「久し振り。少し遅くなったね、ごめん」
「いやいや、こっちも急に呼び出してごめんな」
「大荷物だ。何か買ったの?」
「好きな娘に、ちょっとね」
初めて抱いた。それはねめつけるような熱とは真っ向から異なる、強い強い衝撃。即ち電撃。
あんなに苛烈に激しく、凍り付いたように冷たく。それらが両立するほどの強さで生きられたら、どれほど素敵だろう。
きっと、彼女なら世界を救える。なんだってできる。比類なく、その強さに胸を張れるだろう。
焦がれた。彼女の欲は高潔な欲だった。融け堕ちそうな程に熱く、凍て付く程に冷却。
たまらなく敬愛していた。なんだってしてあげたかった。
なのに、こうして家から離れて、酒を飲んでいる。ああ、なんて馬鹿で醜い。馬鹿だ。馬鹿だ。
「俺はあの娘に何もしてやれないから」
「そうでもないでしょ」
一人では何もできないあの娘を一人にした。
ずっと自身が世話を焼き続けていて、きっと彼女は息苦しいだろうから。その罪悪感から逃れたかった。そんなことをする暇があるのなら、もっと根本的な解決をするべきなのに、やっぱりそれほどの能力は備わっていなかった。
「俺のいないところで幸せになって欲しいのに」
「うわ、女々し」
断るのが気まずいから。外食がしたいから。後々の人間関係を構築しておきたいから。あの家が狭くて息苦しいから。依護メルティの視線の中で暮らすことが怖かったから。
即物的で凡俗的でつまらない欲を優先させた。彼女よりも。
死ねばいい。身勝手にそんなことを思う。
「うう……」
「あれ、そんなタイプだっけ? 水飲む?」
「酒持ってきて……」
「最悪過ぎるなこれ」
お姫様は糾弾することなく見送った。それがたまらなく冷たかった。怖かった。素直に詰られたかった。蹴られたかったし踏まれたかった。そっちの方がよっぽど安心できた。
人生ずっと、批判されたかった。馬鹿にされたかった。冷酷に蔑まれたかった。
価値の無いこんな醜いガラクタを、きちんと人間として扱われることが耐えられなかった。
無価値で不愉快な上に、そんな害を与えるものにまでなってしまっただから、やはり彼女はこんなクズを見捨てるだろうか。もう既に、帰ったらそこには誰もいないのかもしれない。嫌だ。いつか別れるとして、それは今ではないでいて欲しい。
「会いたい……」
会いたい。恋しい。
話がしたい。
愛してないし恋でもないけれど。焦がれてはいる。
「もっと酒持ってきて……やってらんねえよ俺……」
「うーわ。帰れるのこれ?」
「帰らないといけないけど……帰りたくない……」
「喧嘩したんか?」
「してないと思う……」
寂しい。
いつでも寂しい。
依護メルティのいない世界に独りでいるのは耐えられない。
「でも……それがお似合いなんだろうね……」
だってこの凡俗な低能な俺には、世界は救えない。
自分より年下の女の子すら、真っ当に救えないのだから。
▲▼▲
薄橙色の電灯が規則的に壁と床を照らしている。暗いアパートの廊下は、向こう側までの距離がその実よりもよっぽど遠くであるように感じられて、夜は好きではなかった。それこそ、信じているかどうかは一旦置いておいて、幽霊でも出るんじゃないかと思えて不気味だ。
いつも、寂しい。
家族がいない。友人がいない。この下宿先は、今の自身にとって一番身近で、最も露骨にその意識を閉鎖している。
その入り口に入ることは食われることと同義であり、いつも帰るべき内臓を探して彷徨っている。その内側で、ただ無為に液状化させられて、そんなイメージが頭を占めている。
何にせよ、この場所に居続けてもいいことはない。さっさと鍵を回す。夜中に無遠慮ながちゃんという大きな音が響いて、金属製の取っ手に手を触れさせた。
──そこで、動きが止まった。嫌な予感がした。扉を開いて、その先に彼女がいなかったら。今までの全てが夢だったら、或いは本当に自身が見放されていたのなら。
耐えられない。どころではない。それがいつであろうと構わないとは言ったが、心底そう思っているが、それが今でこんな風に泡沫が弾けるような唐突さで成されるものであってはならない、──そうであって欲しくないというだけのことに、随分と他人行儀な否定を使うものだな。と、嫌な気分になって、溜息を
「なんで入ってこないの」
がたん、と音がした。
器用に足を上げてドアを開けた少女が、呆れた顔をして目の前に現れた。
「気付いてたの」
「当たり前でしょう、鍵開いたんだもの。不審者だったらどうしようかと思ったらなんかドアの前で俯いている貴方がいるものだから驚いたわ。……不審者には変わらないけど」
早く入りなさい、と少女は言った。それがあまりにも嬉しいものだから、いっそ涙が出そうになって、なんとか踏み留まる。彼女の前に限って、理性を手放す訳には行かなかった。
「ごめんね、遅くなって」
「良いわよ、別に。ちゃんと12時前には帰ってきたでしょう」
「大丈夫だった? 変なこと起きなかった?」
「何も。……貴方ねえ。ひょっとして私のこと、赤子か何かだと思ってる訳?」
「でも…………」
抱き締めたかった。頭を撫でたかった。
「何よ」
不機嫌そうに笑うその表情が愛おしかった。
二重にも三重にも見えるブレた瞳を、今は真っ直ぐ直視しているような気がする。透き通った硝子玉のようなその色の明るさが冷たくて心地よかった。
「…………お姫様は綺麗だよ」
「何を今更。……って。貴方、随分酔ったわね?」
「酒臭い?」
「というよりも。だってなんだか目がぐるぐるしてるもの、貴方。……大丈夫? 水とか飲む?」
「いや、大丈夫……」
などと言いながら、玄関と床の間にある段差に思い切り蹴躓いてしまう。その鈍い感触で初めて、自身が靴を脱いでいないことに気が付く。
「……貴方」
「いや、全然大丈夫だから……全然……」
などと言いながら屈んで頑張ってみるものの、思うようにブーツの紐が解けない。
「まだ脱げてないわよ」
「分かってるけど……上手くいかない……なんで……」
「馬鹿ね、貴方……ほら、足上げなさい」
「……はい…………何……?」
依護メルティは、静かにそう呟いて、
ゆっくりと、その足元に跪いた。
「しょうがないわね……」
軽い舌打ちと、唇の開く小さな粘液の音。
「お、姫さま、ぁ………………?」
呆けて息を漏らす彼の靴紐の先を咥えて、首をゆっくりと傾けて、引っ張る。
圧迫から解き放たれた血流が、足首からたちまち全身に巡り出すような高揚が迸った。血管の中を駆け巡る紅蓮の感覚が強くなる。身が焦げるくらいに、感じている。
「ん。反対」
ぺ、と、黒い靴紐を吐き捨てて、事もなげに彼女は言う。その様子を見下ろして、心臓が炸裂しそうに叫んだ。
一体いつから、自身の血液の総量はこんなに増えた?
今まで、何処にこんな量の血漿が隠れていた?
それまで外気で身体が凍えていたことなんてとっくに忘れた。ただ何かが痛くて熱くて燃えている。脳漿が沸騰している。アルコールなんかよりもよっぽど強い刺激。
「んん……」
従順に差し出した足首に、やはり彼女は唇を添わせて、同じように靴紐を解いた。あっけなく、簡単に、その結び目は緊張から解き放たれ、直線を取り戻して、だらしなく垂れさがる。
魂が泣き叫んでいる。あまりの事態に思考が停止して、それでも尚何かを言わないといけないような気がして。
「なん、……あ、……なんで、え……?」
「大袈裟ね。単に、見て居られなかっただけよ」
「そんな、……そんな……、」
手を引くように優しく、少女は呆然とする背中に肩を押し付けた。
二重の脳震盪で平衡感覚を喪った身体は大きく傾いて、押されたまま、彼女とは反対側の肩を思い切り壁にぶつける羽目になる。大きな音がして、世界が大きく揺れる。驚いた依護メルティが想像できないような高い声を出していたような気がするが、真偽は定かではない。
「……大丈夫?」
「お姫様の考えてること、全然分かんない……」
「貴方が分かろうとしていないだけでしょう?」
身体の痛みは感じなかった。ただ、臓腑が滾って、そればかりに感覚が支配されてしまっていた。痛かった。
「お帰りなさい。言うのは初めてね」
「そうだね。……本当に、何もなかった?」
「……貴方に知らせないといけないようなことは、何も無いわ」
よたよたと歩く彼をちゃちなベッドフレームに座らせて、彼女は彼が普段使うデスクの椅子に腰掛けた。普段とは真逆の構図が生まれている。
……普段彼女が足先で弄っているクッションが何処かに行ったことが、妙に気に掛かる。
「それよりも、貴方の方よ。どうだったの」
「ああ……えっと、ね……」
脳がぐるぐるする。目も回る。それでも、何となくでしか焦点を定められなくても、今は少女の方を向いていたい。昼の向日葵のような愚かさで、夜の向日葵のような不気味さで。
少女はなにがしかをがさがさと漁っている。
「お酒……飲んで……」
「知ってる。どんだけ飲んだの、貴方」
「焼酎と……梅酒……いっぱい…………」
「数えて」
「いち……に…………はち……」
「は、八って、貴方。はしゃぎ過ぎでしょう」
「だって…………」
「まあ、良い奴らなんだよ……みんな……」
「色々……話聞いてくれたりとか……自分の研究の話とか……してて……」
「俺……だから……飲むしか……無いから……」
随分。
随分と楽しんだようで、良かった。
ちゃちなアクセサリーが、彼の手荷物から出てきたのが妙に嫌だった。包装に皺が多いのは、きっと誰でもない彼が大事に大事に抱き締めていたからだろう。誰の為のものであるかは分からないし、それはもしかすると自分の為のものなのかも知れないけれど、そんなことよりも──彼が誰かに唆されて買わされたりしたのだろう、なんて。くだらない背景が想像できてしまうのが嫌だった。
そんな主体性は、彼には無いものなのだから──どうせ、外付けの勇気なのだろう。
分かっているのだ。
彼は私とは違って、別に悪い人間では無い。人に迫害を受けるような理由は無いし、そんなことがあるならば私は誰も許せないだろう。
何故だか、何かを間違って一人になってしまっただけの彼は、寧ろ今までが不自然だったくらいで──幾らでも友人を作る余地はあった。寧ろ、慕われて然るべしだった。
彼はドードーではないのだ。言うなればアヒルのようなもので、
何故だかそうしていないだけで、
いつだって彼は何処へでも行ける。行ってしまえる。
色んなことを喋ったらしい。
きっと、彼を見直す人間も多かっただろう。彼の言葉は魅力的だから。私が好きだと少なからず思っている彼の魅力には、きっと他の人間も簡単に気が付くだろう。私は特段狂った性癖を持っているから彼のもとにいるわけでは無い。ただ当たり前に人間が人間らしく普遍的に好意的だと感じるものに、在り来りに少しだけ好意を抱いただけのこと。
分かっている。
分かっていた。
私は特別ではないし、
私は彼にとって特別ではない。
ああ。認めたくはない。
本当に嫌だ。けれどそれ以外に説明が付かない。
────私の中で、とっくに貴方は。──貴方は、……。
あの場に転がっていたのが私でなくたって助けてしまっていたであろう、貴方が。
腕が無い人間ですら愛して、
どれほど性格が悪くても愛して。
そんな貴方が、私以外を、私にそうするよりもよっぽど簡単に愛してしまえることなんて、当たり前なことだった。
当たり前なことだったのに。
酔った勢いで、でろでろと今すぐに溶けだしそうに姿勢を崩している彼が目の前にいる。
不明瞭な言葉を散々に吐こうとして、それは言葉に成り切らないまま零れ落ちて行く。
それが聞こえないのは唯一僥倖だった。私はそっと逡巡した後、ベッドで横向きに倒れ伏す彼の口元へ徐に指を突っ込もうとしたのだが、残念ながら私には指がない。私が彼の口を塞ぐための道具は、私の唇以外に持ち合わせがなかった。
「ん?」
ゆっくりと、彼の目の前にしゃがみこんで視線を合わせる。
いつも視線を逸らしてばかりの男は、微睡に耽ったように目を細めて私を見ている。
「お姫様。どうかした?」
普段の明瞭さを繕ったような声よりも数段気が抜けて、その声は緩んだ弦のよう。
こんな顔を他の人間に見せたのか。……いや、誰にだって見せるだろう。貴方は無害だ。本質としては、誰にも分け隔てない人だ。
「貴方は、そうよね」
「……どうしたの?」
「……良いのよ。そのままで」
私は、されど弱かった。貴方にキスができるほど強くなかったし、今の貴方を否定できるほども強く無かった。強くなれなかったし、在れなかった。
「貸しを一つ付けたわよね」
「そうだね」
彼はにっこりと笑った。蚕を思わせるような笑顔だった。
「何でもするよ。貴方の為なら」
誰にでも言うであろう台詞と、誰にでも実際にそうするであろう意思表示を見せて、彼はんふー、と、満足そうにまた笑う。
笑ってばっかりだ。思えば、私は彼が泣くところや哀しむところを見たことが無いのだった。怒るところは、初めて会った時、私が殴られたことに対して、そんな表情を浮かべていたような気がする。けれどそれは人間の愚かさに対しての怒りであって、その個人に対する感情では無かったように今は思う。
それはあまりに人間らしい情動から離れている。自分の中で完結する感情ばかりを愛している。
ああ、つまり。……やはり貴方は幻想上の生き物なのだ。月のような貴方は、決して私自身を愛さない。貴方はこういった精神世界の、幻想上の、錯覚の上での、そんな場所でだけは何よりも強い。今の私じゃ、とても敵わない。
「じゃあ──その通りに」
うんうん、と、蕩けた顔で彼は頷いた。
やはり、初めて気が付いた。彼は可愛らしい顔をしている。理性的な面がそれを覆い隠してしまっているだけで、まだまだ存分に幼い。
私は、だから疼く。
嗜虐心で頭がどうにかなって、
どうにかして、貴方を泣かせたいと思ってしまうのだ。
「……私のこと、殴りなさい?」
読了ありがとうございます。感想、評価してくださると幸いです。
一応折り返しの位置に来たくらいでしょうか。まだまだ続きます。お付き合いください。