さよならエトワール   作:人格分裂

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雪・河川敷・道

 雪がざんざかざんざかと降り頻る昼下がりだった。

 生憎寒いのはあまり好きでは無いのだが、それでも、明るいのや暑いのに比べれば幾分かマシだった。誰だってそうなんじゃないだろうか。空にある太陽を見上げて顔をしかめるより、路上に落ちている雪を眺めて、その淡い光に目を焼かれていたい。

 無彩色には、少なくとも、害意だけは無いのだ。

 その一点だけで、少しだけ他の色彩よりもマシだと思える。

「……貴方の傘、随分と綺麗ね」

「殆ど使ってないからね。傘、形は好きだけど使うのは好きじゃないんだ」

 不謹慎なことを言うと、面積が少ない彼女と同じ傘に入るのは容易だった。左肩を濡らすまでも無い。

 一方の彼女は、ある程度の余裕がある上で尚濡れるのは御免なようで、より近くより近くと身を寄せている。良い香りがする。

「手が寒くないのは、利点と言えば利点よね。肌を晒す箇所が少ないんだもの」

「手袋っていう文明の利器があるんだよね。ほら、可愛いでしょ」

「どうせすぐ無くすわ」

 指示を与えられて施した化粧の跡。

 彼女は水溜りに映った自分をまじまじと見つめている。

「……その時に泣いても、知らないんだから」

 耳から提げているのは青い蛇のイヤリング。その重みを感じるように無為に首を振りながら、彼女は視線をこちらへと戻す。

「涙すら凍りそうな寒さね」

「凍るような涙なんて残ってないよ。もう数年は泣いてない」

 平然と、嘘を吐いた。

 彼女は気付かなかったのか、或いは、その嘘があまりにも、それこそ議題に上げることすらくだらなく思えるほどに見え透けていたからか、流し目にこちらを見下げながら戯言を黙殺して、真っ白な呼気を吐いた。

「私は貴方を想って散々に泣いたことがあるのに。薄情な人なのね、貴方」

「はっ」

 思わず、嗤ってしまった。

 彼女の嘘があまりにも堂々としているものだから、一周しておかしくなってしまったのだ。⋯⋯酷い意趣返しもあったものだ。

「貴方は嘘が下手だね。貴方が泣いている様なんて、全然。想像もできないのに」

「嘘なんかじゃなくてよ。なんで傍にいてくれないの、なんで私を放っておくの、なんて具合で、それはそれは惨めなものだったんだから。なんて可哀想な私」

「可哀想ってよりもかわいいと思うけどね。……というか。貴方にもそんな一面があるというなら、少しくらい俺に見せてくれても良いんじゃないの?」

「嫌よ、馬鹿にされるもの」

「抱き締めて慰めてあげるのに?」

「それを馬鹿にしてるって言っているのだけど?」

 歩みを止める。

「あんまり誂うようなら覚悟なさい。調子に乗りすぎると後が怖いわよ」

 腕時計を見遣る。目の前のバス停の時刻表と照らし合わせる。目的のバスの到着にはもう少し時間を要するらしい。

 ぽつねんとした看板には雪が積もっていた。少し、寂しそうだった。対岸にいる片割れとは、仲が良いのだろうか、悪いのだろうか。話したいから向こうを見ているのか、話したくないからここにいるのか。

「ねえ」

 身を寄せた少女は、やはりこちらを見下げていた。

 申し訳ないけれど、視線は合わせられない。妙な形で綺麗に夜を超えたとは言え、やはり怖いものは怖い。苦手なものは苦手。己の精神の中にある劇的な変化なんて、無機質で平坦なこの日常の中ではそうそう起こり得ない。

 何より、今は。……彼女の顔のパーツには、その頬に、白いガーゼが追加されている。

 桃饅頭のような生気の籠った肌に添付された無菌の証明は、不釣り合いで、引き攣っていた。それが、昨晩の自身が与えた傷というテクスチャであるという事実から、逃げることはしないけれど、直視はできないでいる。

「貴方、どうやって慰めてくれるつもりだったの」

 マフラーの隙間から、喉元が僅かに上下するのが見えた。自身とは違って、そこに起伏は無い。まっすぐに降りて行く首筋。

 ……触れてみたい。

「貴方が泣いている間?」

「そう。抱き締めて、どうやって慰めてくれるのかしら。歯の浮いたような美辞麗句を並べる? それとも、怯えたように沈黙を貫く?」

 いつも通りの諧謔。

 けれど、そこには張りや艶が無いように思えた。きっと彼女の表情が、いつものような、嗜虐心と野性に満ちたものではなくて。

 それはまるで雪の中で融けて行く氷像のように、穏やかな仏頂面。

「……私のことを抱き締めても良いのよ。今は」

「傘が邪魔だから、それは良いや。勿体ないな」

「本当にね」

 雪がざんざかざんざかと降り注ぐ昼下がり。

 目的のバスは予定の時刻を超えて尚辿り着かない。

 脇道に白が積み上がり、それを掻き分けるように二人で立っている。

「……ただいま。今日は雷が酷かったね。何でも駅に落雷があったらしくて、電車止まっちゃって。ごめんね」

「何よそのディティールの細かさ。……おかえり、なさい。……何よ。どうせ好きな女のとこに行ってたんでしょう。そうじゃないなら連絡くらい寄越せたはずでしょうに……」

「流石、演技に入るまでが早い。貴方連絡見れないでしょ。だから、……お姫様?」

「私のこと、放ったまま……何してたの……?」

「…………殺してください」

「何よ。あんなに大口叩いておいて、結局それ?」

 あまりに悲痛な顔をしていた。

 不意打ちにも程があった。けろりとした表情を瞬時に取り戻した今でさえ、彼の言語野は焼け野原一色に染まっている。

「馬鹿なやり取りね」

「本当に。非生産的だし俺が辱められただけだし」

「嫌いじゃないわ」

「俺もその筈なんだけど。演じきれなかったのは一生分の恥だよ」

 ヘッドライトの光が、雪雲で薄暗い視界の端を照らした。

 音がする。何度も何度も踏み潰されて、元の形を取り戻した液体で満ちた路面を、大きなタイヤが押し退けてやってくる。

 遅ればせながら到達した目的のバスの扉が、目の前で開いた。少しだけ潰れたタイヤが車体を傾けた。

何の変哲もないその様ですら、依護メルティにその巨体が傅いているように錯覚する。

「これよね。行きましょ」

 先行する少女は大きく余った袖を揺らして、傘の軒から出でて、歩いてゆく。

 傘を閉じ、雪を払い、後に続く。車内には人影が殆どいない。

「こっちよ」

 僅かな囁き声が、奥の方から届いて、鼓膜を僅かに揺らす。最後列の右奥、窓側を少女は陣取っている。

 憂い気な瞳で、落ちて行く氷の塊を眺めている。

「ただいま」

 走り出したバスの進行方向に逆らうように歩いて行って、彼女の隣に腰かける。

「会いたかったよ」

 その耳元に、囁いてみる。

彼女が怪訝そうに首を傾げても、構わず続ける。

「俺が寂しいと思ってるときに、同じように寂しさを抱いてくれてたというのなら。……俺はそれよりも嬉しいことは無いよ。ありがとう」

「そう」

 対して、少女はほんの僅かな逡巡の後、そんな相槌を打って、

「不慣れなのが明らかに見える点を加点して二点。あとは全部落第。精進しなさい」

「十点満点で?」

「千点」

「百点ですらない」

 

「で? 何処に行くの?」

「さあ。何処だろうね」

「……鬱陶しいわね」

 

 ▲▼▲

 

 とはいえ。

 別に何処に行きたかったという訳では無いのだ。本当に。

 普段なら自転車を使う所だが、それでは彼女を置いていくことになってしまうから、敢えてバスを使っただけのことで。

「……ここ、何かしらの観光名所だったりするの?」

「いや、全然」

「そうよね」

 橋の上をだらだらと歩く。

 目下の川の流れを見下ろしながら、雪の隙間に隠れるように。

「どっち行きたい? 上流? 下流?」

「……そうね。でも、この都市じゃあ、下流に向かうほどと都会に近くなるわよね、確か」

「駅とか繁華街は全部あっち側にあるね。ここからじゃ絶対海までは行けないけど、遊べる場所は下流を目指した方が多いよ」

「そう。じゃあ、上流側に向かいましょう」

 緩いカーブを描いた橋の中腹──最も標高の高い場所に到達して、彼女は道の反対側へと視線を向けた。

 車が通る様子もない程に閑散として、寂寥に満ちている白の景色。

 手前には車道と歩道を隔てる石の縁がある。

 簡素で無機質な橋の手摺がある。

 向こう側には絶えることなく断続的に押し寄せる水流の渦。降水の影響か極端に増水している。

 更にそれを超えて、真っ白な山々が群生している。雪、雪、雪に包まれた視界ではその影が薄く引き伸ばされたように見える程度であり、向こう側が見えることは無い。ただあまりに大きすぎるというその一点だけで、この視界を占拠している。

 

「……貴方には、今、何が見えているの?」

「強いて言うなら世界かな」

 

 この世界は、当然のことだけれど、あまりに広大だ。人間がその目に収めるために可能な限り縮小した上で尚手は届かず、それですら全貌を理解することもできず、それに比べて自身はどれほど蒙昧で無価値な存在であるだろうか。

 こうした光景を目にするたびに、陰鬱な気分になる。気が滅入る。

 世界と言う名前を与えられた膨大な質量に押し潰されそうな気がする。或いは、誰にも気付かれないまま圧搾されて、その存在ごと塵に還ってしまうのではないかと思えてしまう。欠片も残さず、何物でもない分子に還って、それはこの世界に何の影響も及ばさない。無意味無価値の屍蝋であるような気がして困る。

「……こんなに意味の無い人間が、なんで必死こいて生きてなくちゃいけないんだろうね。何の意味も無いなら死ねばいいのに」

「自殺するだけの勇気が無い癖によくもまあそんな言葉が吐けるわね」

「……いつも通りではあるけど、内心を読むのやめてもらえないかな」

「今のはちゃんと口に出てたわよ」

 一つ、同じ傘の中で、依護メルティは同じ方向を眺めながら静かに笑う。

「貴方にとって、この世界は敵なの?」

「そうだね。でも、それと同時に、世界は俺を害そうとして存在している訳じゃないことも分かってる。だから、俺が世界の敵なのかもしれない」

「あんなに無害なのに」

「無害なのは、有害な自分を何とか抑えようとしているからだよ」

 傘の上に雪が積もってゆく。

 わさわさと前後に揺らして、雪の塊を落とす。それだけで、呆気なく視界は遮られて何も見えない。音もなく、視界もなく、ただ隣にいる体温がある。人よりも血の量を必要としないくせに妙に血の気の多い女の子は、発火しているみたいな生き様を象徴するかのように温かい。

「努力だ。努力して、俺は世界と戦う武器を捨てた。じゃないと生きられないと思った。じゃなきゃ押し潰されると思った。それが理想だった」

 ゆっくりと、歩みを再開する。

 左に曲がる。寒々しい街路樹が立ち並ぶ河川敷の上を散歩する。

「本当の俺は、誰も彼もが一方的に理不尽に大嫌いなんだよ。人間っていうシステムが、それを上手く生きられる訳の分からない肉塊共が、心底憎いんだ。そんな俺に生きる資格は無いと思ってた。思ってる」

 雪が降っている。

 踏み固められた氷でできた道を一歩ずつ進んでゆく。無為に、脇に押し退けられた雪を爪先で蹴り飛ばす。数秒後にはまた振り重なった雪の山で補完されるだろう。

「……努力しないと、生きる資格すら喪ってしまう。誰の害にもならない存在であらねばならない。人間らしくしないと。真っ当に生きないと。……一体何を、どのように努力すればいいのかは……分からないけど」

 無心で歩いている。

 座標はどれほど変わっただろう。見慣れない土地に、雪景色。何も変わり映えはしない川沿いの風景。真っすぐ歩いているのか蛇行しているのかも分からない。分かっていることは精々隣に依護メルティがいるということだけであって、それすら希薄な実感でしか無かった。

 

 凍った息を吐く。

 体表の冷気を以て、この身体の中にある熱を識る。

 生きていることは熱い。血が流れて心臓が叫ぶ為には熱が必要不可欠だ。簡単には絶えないが、外付けの薪を焚べない限り自身の内部を食って燃える。

 そうして痩せ細って痛くて燃えて、それでも死ぬこともできない凍った屍がこの愚かな生命体なのだと思う。

 

 

 

「今のままの貴方であればいいじゃない」

 

 どれほど歩いただろう。

 彼女は出し抜けにそんな文字列を吐いた。

 

「貴方が貴方であることに価値があるわ」

 

 事もなげに、相変わらずの淡白さで。

 あまりに彼女らしくない台詞。

 

「……何処で聞いた歌の歌詞?」

「良いでしょ。たまにはこんな感傷も抱くわ」

「可愛い」

「死にたいの?」

 

 薄暗い。

 彼女の蒼い髪は、僅かな光を拾い上げて反射している。

 彼女が一歩を踏む度に僅かにその角度が変動して、様相を変える。

 ──反対に。

 光を塗り潰すことばかりに能のある自身の顔は、彼女から見れば見難いものであろう。醜いものであろう。

 

 

「貴方、どうして向こう側に行く選択肢を提案したの」

 

 足が痛い。歩くことは得意ではないし好きでもない。

 だからこそ、立ち止まったらそのまま二度と歩き出すことを放棄してしまいそうだから、歩き続ける。依護メルティの歩幅に合わせて。

 

「どういう意味?」

「人のいない場所にいたかったんでしょう。貴方は。貴方が連れ出したのに、どうして私の顔色を伺うような真似をしたのかしら、って」

 

 健康的に、健脚で、変わらない歩幅を保ったまま歩く彼女は、やはり淡泊に問うた。

 

 薄い霧を纏っているようだ。誰も侵すことのできない領界に身を包んでいる。どれほど寒くても、どれほど暑くても、少女は常に澄ました顔をしている。

 彼女の表情を変えることができるのは、彼女の内側から生まれる諧謔だけ。 

 何度目になるかは分からないけれど、その有り様はやはり美しい。いつもそう。少しだけ大仰な出来事が挟まったとしても、その点は大きく変わらない。

 ……だからこそ、昨夜、何がどうなって彼女があんなふうになったのかだけが分からない。

 単なる情緒不安定ではないだろう。相変わらず何が何だか、彼女を読み解くのは難しい。人間の中では人間らしく無いからその点では共感しやすいけれど、同時に人間らしく無いから測りにくい。好感度だけが上がってゆくけれど、彼女の中ではどうなのだろうか。

「…………そうだね。俺は、何処でもない場所に行きたかったんだと思う。人が居ない場所に。でも、……何より、貴方が選んでくれた道を行ってみたかった。……とか。どうかな」

「私も、人は嫌い」

 絞り出した答えに、答えているのかそうでないのか、彼女は世界を見渡してそう言った。

「人間は嫌いだし、人間の作ったものは大概嫌い。だって私向きじゃないもの。私を顧みないもの。私に合わせてくれるものを探して、それを好きになる努力ばかりしているのは、それだけで疲れるもの。大体私を顧みないものに顧みてやる気なんて一ミリ足りとも存在しないわ」

「…………仮に貴方を顧みるような人がいたとしても、別に一瞥をくれてやるみたいなことは無いんでしょ。貴方」

「貴方が言うの、それ」

 ……それは、一体どういう意味なのだろうか。

 どんな意味であっても自身の命や尊厳の大部分に傷が付くことが想定されるので、あまり深掘りしたくないような気がする。

「まあ良いわ」

 そうしてまた何かを間違えたような気がして、けれど取り返しも付かない。あっけなく流されて、おしまい。

「貴方は、どう? 貴方はどんな人間が嫌い?」

「嫌な質問」

「一番盛り上がる質問でしょう?」

 苦々しい笑みを返して、少しだけ考える。

 その問題の答えを、ではない。それは、強いて言うのならば、どうやって答えれば──適切なのか。

 

 それにしても、この場合の適切さとは何なのだろうか。どんな言葉選びをすれば相手に不快感を与えないか、なのか。どんな言葉選びをすれば彼女に解り易いか、なのか。どんな言葉選びをすればより過激な言葉回しになるか、なのか。

 

「……俺のことを、見ないで欲しい。生き様を晒すということは裸身を晒すのと同等の恥だと思ってる。だから見ないで欲しい。いっそのこと放っておいて欲しい。頭が痛くて眠れなくなる」

 

「俺のことを見ればいいと思う。俺の価値を認めて欲しいと思ってる。なんで俺の裸が間違ってるんだ。見て讃えてれば良いだろう。どうしてどいつもこいつも服を着て澄ました顔でいやがって」

 

「って思ってる。負け惜しみだよ」

「何に負けてるのかしら」

「人間のマネーゲームかな。要するに、やっぱり、人間っていうシステムそのものが大嫌いだよ。俺はね」

 吐いた言葉は白い霧になって消えて行った。

 取るに足らない、無為なものであってくれてよかった。

 

「何の価値も無く生きて、何の意味も無く死んで、何も残せない。別に偉業を成したいとかじゃない。もっとそれ以前の問題で、俺には何の価値もない。……別にそれは良いんだ。本当に。仕方ないことだから」

 

 また、口を開いた。それをするのに、また長い時間を要した。

 そっと後ろを振り返る。歩いてきた足跡はとうに消えている。悪いことだとも嫌なことだとも思わない。足跡とは消えて行くものの象徴だ。後ろから進む者に、別の方向から歩いてきた者に、自家用車に、新幹線に、バスに、舗装されてゆくアスファルト、敷かれてゆく線路、降り頻る雨に蚯蚓の轍。あらゆるものに躙られ無下にされるばかりの靴跡、恥の経路。今更雪がそれを実感させるようになったからと言って、思い出したように感慨に浸るようなことはしない。寧ろ数歩分程度でも綺麗に保存してくれるだけありがたいと思えば良い。

「……ただ、単純な話なんだよ。もっと根本的な問題でさ、」

 ゆっくりと言葉を作り出してゆく。冷たくなった脳髄の中を思想が巡る。

 それこそ、雪の結晶に似ている。左右対称に冷たい心の粒子。

「じゃあ俺が今痛いのは何なんだろうって」

 小さい怪我をしたような気がする。

 心臓に幾つも作った擦過傷。

 永遠に消えない。いつもその瘡蓋は湿ったまま。腐ってゆく膿は痛覚にまで到達し、既に馴染んだものになっている。

 常に痛い。痛いことに最早疑問は無いし、不愉快とも思わない。ただ時々、思い出したように苦しくなる。痛いことを不意に思い出してキリキリとじくじくと痛む。それが大人な自分の感覚なのか子供な自分の感覚なのか、外的な自分の感覚なのか内的な自分の感覚なのか、判然としてくれないところが難しいところだ。馬鹿なんだろう。

 人間は弱い。

 だから強くあろうとする──その往生際の悪さが気に喰わない。

 だから団結しようとする──それによって生まれる閉塞が気に喰わない。

 だから弱いままでいようとする──その卑しさが気に喰わない。

 だから、死ね。

 死ねばいい。……頭では分かっているけれど、こんなにつまらない結論に帰着する己はそのつまらなさを体現したかのようにリビドーの生物だった。デストルドーを恐れる普遍的な人間だった。

「俺の存在にどうせ意味も価値もないなら、痛い思いも苦しい思いも、しないでくれたらいいのに。俺はそれが耐えられない」

 雪が降っている。

 風に押し流されて、マフラーの上部、口元に僅かに雪が積み重なってゆく。冷たいを超えて、痛い。痺れるような感覚がする。

 

 痛みとは、肉体と神経が生命の持続に執着して泣き叫んでいる様を言う。

「持論?」

「科学的根拠を変にポエムにしただけの持論」

「そう」

 痛みの上で気高い少女は、案の定、そんな下賤な感慨に興味など無いのであろう。いつも通りの淡白さに、少しだけ不機嫌さを織り交ぜながら、そう言った。

「……今のは口に出してた?」

「それは重要なことなの?」

「え? ……いや、重要じゃない?」

「私はそうは思わないけれど」

「そうかな……」

 何かが引っ掛かるような気持ちがするのは、きっと気の所為だろう。きっと。

「それで?」

「ああ、うん。いや、単純な話で。痛いってことは生きたいってことなんだろうなって。このままだと死ぬ。だから、その元凶を取り除こうと努力しろ。痛みってのは、そういう指令を投げつけてきてるって状態だ」

「そうね。痛みを知らない人間は血が流れても内臓が腐っても構わず放置してそのまま野晒しになるのでしょう」

「死ぬことにも気付かず死にたいな、って。俺は思うよ」

「私は、死ぬことは嫌いじゃないわ。前にも言った通り。私が自由にできることなんて、私の生き死にだけだもの」

「生きることが苦しいことならば、早く死にたい。その過程で何か一つでも成し得るものがあるのなら、苦しくても生きていたいと思えるんだろうな、きっと。羨ましいよ」

「……」

 ざり、と、押し固めた氷を踏みしめて、少女は立ち止まった。

 その頭を白い渉禽が飛んで行く。

「貴方は、私に何ができると思うの?」 

 疎まし気にそれを見上げて。傘の天蓋しか見えないことに舌打ちを打って、彼女は吐き捨てるように、糾弾するように、淡白さを投げ捨てて、言う。

「貴方には私に生きる意味があるように思える? 一人では何もできない芋虫が。翼の無い雛鳥が。誰にも何も与えられない私は、貴方の定義に沿うならば、今すぐに泥になった雪で窒息するべき欠陥じゃなくて?」

「──は」

 雪が降っている。

 立ち止まった二つの影と、それを塗り潰すような不気味な枯れ木の影。白と黒の境目は分かり易い。対して、積もった白い雪と曇天の境目が分からない。それと同じように、黒と黒の──枯れた木の幹と二人の陰の境界線は定かではない。呑み込まれたような光景。

「貴方は、だって。綺麗でしょうに。顔と思想と魂。要するに在り方が。貴方のように綺麗な人にはそれだけで生きていて欲しいよ。それは俺の主観なんかじゃない。人間の在り来たりな思考回路として──」

「もしも貴方が私にとってそうだと言ったらどうするの、貴方」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あまりにも想定外過ぎて、呆気に取られた。

「何か言いなさいな」

 

 ぼか、と、間抜けた音がした。

 脛を蹴り飛ばされた音だった。

 

 咄嗟に与えられたベクトル。何かを言う間もない。足が縺れて、重心が傾ぐ。真後ろに引き摺られるように倒れ込む。

 

 で。倒れた先が平行であれば何とも無かったのだろうが、依護メルティとはそんなに甘い女ではない。

 向かう先には川に向かう長い斜面。なだらかな傾斜は雪で湿り、摩擦係数を極端に減衰させている。要するに真っ逆様。

 

「……痛い?」

「痛いし寒いし冷たいし」

「どんな気分?」

「数回転した所為で酔った。気持ち悪い」

「お生憎様」

 

 元々の色が青であることなんて一切感じさせないような曇天が、視界の全てを覆い尽くしていた。

 その端の方から、依護メルティが満足そうな顔でひょこんと割り込んでくる。空の青よりも冴えた蒼の長髪が、滝から溢れる水のように落ちてくる。雲に小さな穴を穿って、その向こう側に宇宙が見えているかのように、蒼い瞳がこちらを見ている。

 片方の目は隠れていた。一つの目だけに視線を視線を向け続ける。その中にある感情がどんなものなのかは分からない。ただ蒼いことだけが全て。

「……私の目、そんなに好き?」

「少しだけ好きになった、気がする」

 そっと、その視線を逸らした。僅かに首を傾けて、真っ白な地面の方へと視界を向ける。

「そう。……じゃあ、私も。少しだけ、嬉しいわ」

 ゆっくりと、あまりに余った服の袖が降りてくる。薄く伏せた両の瞳に横たわって、その視界を鎖じる。

 

 視界が真っ暗になった。

 今まで白かった視界の色調が反転した。

「メル、」

 ──視覚の次に、唇が塞がった。

 ふふん、と、得意げな吐息が、唇越しに伝わってくる。湿潤な肉と皮と脂の感触は酷く官能的だった。濡れて、震えて、暖かい。それらは人間が繁栄するに至るための過程、その蠕動に近しい。接続された電気回路がびりびりと震えている。

「っ、……、」

 何度も何度も。軽く触れ合うような短い口付けを、咀嚼するように繰り返す。

 繰り返す。

 冷感も痛覚も一時的に忘れた。ただ喰われて、食まれて、それだけ。

 雪の中に埋没してゆく肉体の中で、ただ唇が世界に取り残されている。今、この卑俗な肉体で感じることのできる部位はその一つだけだった。雪に塗れても雪げない塗炭の情愛。

「私ね、貴方の話なんてどうでもよかったの」

「道理で随分そっけなかった訳だ。気付いた上でぐだぐだ続けた俺にも非はあるけど」

「ええ。貴方にキスができればそれでよかったもの。ずっと機を狙っていたわ」

 そう言って、彼女はまた甘えるようにマウストゥマウス。ちゅ、と、小さな水音がする。近くで囂々と地を揺らす川の水流にも負けない強さ。

「言わなくても解っているものだと思っていたわ。私、好きよ。貴方のこと」

「……気が合わないね。俺は嫌いだよ。貴方も、そんなことは言わない方が良い」

「嫌よ。好きなものは好きよ。性愛として好き。情愛として好き。隣人愛として好きだし、嫌いの一環として好きよ。この世界の全てと比べてもノータイムで貴方を選ぶ程度には愛してるわ」

「よくもまあ言えるねそんなこと……」

「対抗心で言ってるもの。二度と言わないから、そのつもりでいなさい」

 閉ざされた視界の向こう側で、彼女が笑ったような気がした。不敵に、苛烈に、美しく。アマリリスに似た赫色で。

「ええ。良いわ。私は、他の誰の為にも私の意志を曲げることはしないし、誰かのために施したり顧みたりはしないわ。絶対に。けれど、他でもない貴方の為ならしてあげる。愛を囁いてあげる。蹴り砕いてあげる。貴方を同じ尺度で、同じ質感で、傷付けて愛してあげる。不本意だし嫌だし腹立たしいけど。それでも、愛しているもの」

 ふう、と、少女は溜息を吐いた。額を撫でる細い髪の感触がこそばゆい。長い睫毛が揺れて瞬きをするその音と風圧すら感じられそう。

「英雄になれなくても良いわ。無意味でも無価値でも良いわ。痛いなら痛いだけ苦しみなさい。抗いなさい。そんな貴方を私は愛してあげるから」

 傲慢な言葉だった。傷付けるために愛し、愛すために傷付ける彼女の愛の形に相応しい。

「……それだけで十分だとは思わない?」

「……どうだろうね」

 小さく笑った。

 

 じわじわと背中に到達する寒さを感じながら、瞼を閉じて、暗闇に暗闇を重ねてみる。

 夢を見ているような暗転。浮遊感──。

 

 唇は相変わらず触れ合っている。

 仕方が無いから、融け堕ちそうな性感に身を委ねた。どうせ身動きは取れない。

 

 

 どうせ、生きるしかない。

 

 道連れになってくれる少女は一人。翼の折れた白鳥は、泥の中で咲いている。

 




読了ありがとうございます。感想、評価してくださると幸いです。
早いものであと2、3話で終わります。是非最後までお付き合いください。
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