結局、来た道を戻って、一緒に帰路に着いた。
濡れて冷たい身体を引き摺って、空いたバスの座席にも座らないで、ただ立ち竦んでいた。
凍えた身体を溶かすように、二人で浴槽に浸かった。
最早互いの裸は見慣れていた。──あくまで精神的な部分でそうだというだけで、肉体のことは知らない。そういうことにしておきたい。
「……お姫様。その、何処見てる? 顔が見られてるのは分かるんだけど、視線が合わないというか、」
「え? 貴方の唇」
「…………なんで?」
「良いでしょう、別に。手が繋げない、頭を撫でられない、抱き締められない。親愛を明かすための方法が取れない。蹴るかキスするか以外に貴方のことを感じる方法がないのよ、私。可哀想でしょう?」
「そう。……じゃあ、おいで」
「……女慣れしたみたいな感じが嫌ね、貴方」
「理不尽な事しか言えな、」
彼女の肌に化粧液を塗り込み、髪を乾かしてやって、それから彼女の為の食事を作る。
依護メルティはお嬢様の癖に、文句を言いながら、何でも普通の顔をして食べる女である。と分かっていながら適当なものを口にさせる気は無い辺り、自身は真面目だと何となく思う。
「男の大学生が煮物なんて作るのね」
「作るよ。美味しいし野菜も摂れる」
「その発想はやっぱりどっちかと言うと女の子みたいじゃない?」
「貴方がそう思うのならそうなんじゃない?」
「適当ね」
「何故なら今は包丁を使っているから。離れてくださいね」
「私面積少ないから比較的危なくないわよ。……貴方は腕を邪魔だと思ったことないの? 重いし、危ないでしょう」
「流石にそこまでミニマリスト拗らせてないよ俺」
親鳥が雛鳥にそうするように、食事を口に運んでやる。
大人しくもむもむと咀嚼を繰り返して、んあ、と口を開けて、その繰り返し。
黙っていなくても美人だが、黙っていると毒気が見えないので、本性を知っている以上そっちの方が怖い。
同じように、歯を磨かせる。
綺麗な歯列と、熾烈に真っ赤な口腔内が見える。
少しだけ、ペンギンを想起させられる。ような気がする。これは飼育員の気分なのかもしれない。
「一つ良いことを教えてあげるわ」
「何?」
「私の家にいた使用人は数人で私の一日の生活を成立させていたわ」
「はあ」
「独りでここまで私を不自由させないでいる点は、素直に認めてあげても良いわ」
「……感謝の極み」
「何それ?」
「俺も使う日が来るとは思わなんだ」
乾いた笑いに対して、横目にこちらを眺めた彼女は不思議そうに首を傾げるだけだった。
部屋の明かりは消えて、換気扇とエアーコンディショナーの駆動音だけが意識をくすぐっている。
日付が新しくなる前に、眠りに就こうと努力し始めるようになった。それは間違いなく彼女の影響だった。
「ねえ」
自身は床に、彼女は安物のベッドフレームの上に横たわる。
普段であればそれ以上会話なんてしないで、黙って意識を閉じて眠ってしまうのだが、今日はそうでは無かった。枕代わりのクッションを喪った平行の頭を傾けて声の発信源へと視線を向けると、青い瞳が輝いている。
「どうしたの」
「貴方、いつまでそうして寝るつもり?」
四角いフレームの外にだらりと抜け殻のようにパジャマの左腕を垂らした彼女は、そんな質問を投げ掛けた。
それが質問の体を成した提案であることくらいは、すぐに分かった。
「正直、もうこのポーズ取るのも飽きたし、寒いし」
「そうね」
「……一緒に寝ても良い?」
彼女はゆっくりと瞼を三日月の形にへにゃりと曲げた。
「仕方ないわね。抱いてあげるわ」
少女は、ふい、と、首を自身側に向けて振った。
得意満面に、可愛らしく、笑っている。心底から安堵したような表情だった。
「…………」
「抱く腕無いじゃんって言っても良いのよ」
「そしたら貴方蹴るでしょう」
するりと立ち上がって、静かな足取りで歩く。
数歩の距離が酷く遠い。今日散々歩いた道程の数億倍は時間がかかったような気がする。
「……貴方はいつも無防備よね」
「貴方にだけだよ、ほんとに」
傍に誰かがいるという状況は珍しい。だが彼女が傍にいるのはあんまり珍しいことではない。
慣れたものだ。
「愛してるよ」
慣れたものなのだけれど、彼女の顔を見ているとよく分からない気分になって、浮ついた譫言を漏らしてみる。
「……何よ」
「……愛が口から漏れた」
ぱちぱちと、彼女の長い睫毛から音がする。
「そう。愛してるわよ」
「……何?」
「愛が伝染したわ」
「嬉しいよ」
息を止めながら、在り来りな本音で濁す。
少女はやはり興味深そうにこちらを見上げている。
「今、私が何を考えているか分かる?」
「うん。何となく分かる気がする」
「じゃあ、態度で表しなさい。答え合わせしてあげる」
「……もしもここで俺が徐に立ち上がってご飯作り始めたら面白いんだろうなあってちょっと思った」
「私もう食べられないわよ。貴方たちとは違って消費カロリーが少ないんだから」
そっと、甘えるみたいなキスをする。
飽き足りず、性懲りもなく、けれど遠慮がちで控えめな口づけを。浅ましくなく、高尚な愛の営みを。
品があるキスをする。はしたなくないキスをする。キスと言う行為そのものが品の無い行為であるという事実から目を逸らし、今こうして愛に飢えて泣き叫んでいる身体を制御しながら、愛しながら、愛しながら、愛しながら。
なんどもちゅちゅと水音を立てて、唾液を楽器に弦奏を奏でる。ピアノくらいは弾けるけれど、愛を奏でることはできないから、一生懸命愛を奏でてくれる貴方が好きでいる。
貴方が好きだと、貴方には言えないものだから──言ってしまったような気がするけれど、まだ言ってないと思っているから、貴方を愛していると、声には出さず、唇が唇で告げている。
『愛してるよ』
『18にも至らない女の子に何を口説いているのかしら成人男性』
『馬鹿だね、成人にも聖人にも星人にもなってない女の子を
ゆっくりと唇が離れる。唾液の橋が千切れて、その上を渡っていた観光客はみんな、とうに溺死した。
「さいっっていね、貴方」
「そうでないと女の子には手も出せない奥手なんだ。なにせ綺麗で潔癖な存在にこんな汚物が触れられる理由も無いんだから。許してよね、その程度は」
「純情なんだかそうでないんだか」
「純情でもあるしそうでもないよ」
「じゃあ私の言ってること合ってるじゃない」
見上げている。
相変わらず、彼の瞳は腐っている。黴が生えて、視神経を遡り、脳髄にまで到達するような根深い汚染。
目を開いたまま魘され、大気中の随分で酩酊し、はっきりした意識の元に卒倒している。
「愛ってのはさ」
「凄い出だしね」
「貴方のことを言う」
「凄い結論ね」
「大好きだよ」
「…………今なら愛してるよりも有効な言葉かもしれないのよね、それ。業腹なことだわ」
こんな風に。
……はぁ、と、溜息を吐いた。
「あんまりこういうことを言うものじゃないわね。疲れるわ」
「普段使わない筋肉を使ったら疲れるみたいなもんだよね。普段言わない事言うと少し疲れるし、魂の中で使わない機関を使うのは猶更疲労感が増すものだよ。……だからこそ、普段からもっと人を愛していれば、もっと上手に貴方を愛せたんだろうけど」
「十分よ。これ以上は要らないわ」
貴方の所為で、私は陳腐な女になってしまった。
のみならず。それでも良いと思えてしまった。それを受け容れて、貴方に愛されている事実にのほほんと善がっている愚か者。芯の出ないシャープペンシル。掠れたハート型の窪みを作って、貴方にラブレターとして差し出すのだ。よく見ないと分からない愛の形にきっと貴方は気付いてくれる。
「……?」
「どうかした?」
「いや。……ああもう、本当に厭。馬鹿みたい、いっそ本当に舌噛み切って死んでしまおうかしら」
顔を隠す掌なんてものは、やはり無いものだから。
代わりに、貴方の胸元に顔を埋める。
貴方の香りがする。感触がする。
私は、安心する。初めて、安心して眠ることができる。
甘く爛れるようにじゃれて傷付ける。
なんて気持ちが良いのだろう。気楽で安らかで快い。
──嫌なことだ。
嫌だった。兎にも角にも不愉快だ。
幸せだ、なんて。
「……ねえ。起きてる?」
返事はない。
それを確認して、その首筋を嬲った。
愛してる、と、思いながら。
貴方には伝わって欲しくないこと。貴方がどうせ分かっていること。
▲▼▲
呻き声が聞こえて目が覚めた。
目覚めるのは好きではなかった。夢の中にいる方が、まだ幾分か魂に安寧がある。先のことを考えなくて済むから。嫌なことを持ち込まなくても良いから。
メランコリーと共に取り戻した意識は当初、自分がただ唸っているだけなのだと思っていた。歯軋りが酷いだけだと思っていた。自分がそういう類いの人間だとは知らなかったけれど、そうであったところで特段の違和感は覚えないだろう。
それは心臓の辺りから聞こえていた。
小刻みな振動になって聞こえていた。伝わっていた。
「……お姫様?」
違った。──それは、将来の二文字がノイローゼになっている喧しい鼓動の音ではなかった。
自身の肉体が鳴らす蠕動ではなく、自身の胸元から生えた腫瘍のような、深海生物が交尾を終えて一体化したあとの浮腫のような、そんな輪郭の延長線上の場所から鳴り響く呻き声。
「お姫、」
「……うるさいわよ。聞こえてるわ、そのくらい。……っ、う……」
涙に包まれた視界の中央。背中を丸めて蠢く、不完全なヒトの形。
「……大丈夫?」
「何があったのって聞きなさいよ……」
依護メルティが泣いていた。
知らない表情を浮かべて泣いていた。
「……やめて」
咄嗟に、何も考えずに動こうとした服の裾を必死に噛んで、彼女は自身を引き留めていた。
「電気、付けないで。見たくないの。私の体。……嫌。貴方も、動かないで」
「分かった。俺は何をすればいい?」
「……分からない。何もしないで。好きでいて」
「それはずっとしてる」
腹部が冷たかった。彼女が必死に布地を噛んで耐えていたのだろう。唾液に塗れたその口元を指先で拭うと、むずがるような抵抗が返ってくる。
「……痛いの」
「痛い?」
「……腕が、痛いのよ。押し潰されそうに痛いの。千切れそうな気がするの」
「……右、左、どっち?」
「どっちも。特に、肘と手首が……づうっ、うう……」
冷や汗を流しながら、必死に表情を歪めながら、そこに演技らしさはなく、疑いようもなく、彼女は苦しんでいる。
「……馬鹿なことを、言っていると思うでしょう? でも、……本当なの。信じて──」
──幻肢痛。
その三文字が頭に浮かぶ。
けれど、すぐに飲み込んだ。痛みの種類を安易に彼女に教えるという行為は、彼女には致命的な何かを齎す可能性を内包している。言葉と感覚は地続きの場所にあるのだから。
「大丈夫。信じるよ」
「……私には、腕があるのよ」
「分かってる」
「踊ることもできるわ。自分で何でもできるのよ」
それに、と、
涙の混じった声は、細く遠く震えながら、続ける。
「貴方と手を繋ぐこともできるし、貴方を抱き締めることもできる。貴方を慰めることも、貴方を撫でてあげることもできる」
依護メルティは、身を捩らせていた。
きっと、彼女の脳は、自身の腕を誤認して、その言葉通りに惨めな男を愛撫しているのだろう。
「……いつもしてくれてるでしょ」
「でも、できないわ。腕が、……無い、から」
ぎり、と、歯軋りの音が聞こえた。
続けざまに、苦しそうな吐息が漏れる。痛みを堪えている。誰よりも弱い少女は、その気高さと強かさをそれでも損なわない。
「貴方は、いつも、腕を使って私を愛さないでくれるわ。抱き締めてくれないし、頭を撫でてもくれないもの。……貴方のそういうところ、好きだけど嫌いなのよ。すぐに人を甘やかして、それを偉ぶりもしないで。……屈辱よ」
「別に気を遣った訳じゃない、よ。多分」
「もっと残酷に愛してくれたら良かったのに。そうしたら、貴方をもっと嫌いになれたのにね」
ずる、ずる、と、身体を引き摺って、少女は這い上がる。
首元に顔を埋めて泣いている。嗚咽を漏らして、吐息を垂れ流して、苦痛に喘いでいる。汗と唾液と涙でその相貌はぐちゃぐちゃになっている。
「……愛して」
「愛してるよ」
「抱き締めて。頭を撫でて。手は、……繋げないけれど。お願い……」
「良いの」
「良いわ。……そうやって、丁寧に私に教えて。私には腕が無いって。貴方みたいにはなれないんだって。貴方みたいには愛せないって。そうしたら、きっと、この痛みからも解放されるでしょ。きっと」
「……」
幻肢痛。
事故によって肉体の一部を切除された患者が、既に存在しないその部位を差して痛みを訴える現象。
彼女を誘拐して以降、欠損患者についてある程度調べてゆく過程で、その単語には行き着いていた。
けれど、幻肢痛というものは事故──或いは手術直後をピークとして、時間経過に伴って徐々に発症の頻度・程度が低減するという。二年も経てば殆ど起こらないものであり、今の彼女に限って起こるだなんて、そんなこと想像もしていなかった。
「いつから痛いの。今までは我慢してたってことなの?」
「……事故にあった直後に少しあったっきり、殆ど再発しなかったのよ。なのに、最近になって、急に。ここ一週間は、毎晩、痛くて……」
幻肢痛の原因は、未だ明確に特定されていない。
脳内で想定されている肉体の形質と実際の肉体の間にある差異によって感覚が歪んでしまうことが原因だというのが主流とされている説ではあるのだが、それだって明瞭に検証されているという訳でもない。脊髄や脳、断面近傍の神経の要因が複合的に絡まっているという説もある。
「……気付けなかった。ごめん。俺が寝てる間、ずっと──?」
「どうしてでしょうね。いつもいつも、貴方が眠ってから、痛くなるの。……だから、起こすにも起こせなくて」
その症状に対して現在よく取られている治療法は、ミラーセラピーと呼ばれるものである。鏡を見せながら、健康な方の腕や脚が動いている姿を見せることで、自分にまだ腕があるものと誤認させ、精神の安寧を図るというもの。これが有効とされている理由は──幻肢痛とは一般的に、幻の四肢が操作できないと感じれば感じるほどにその痛みが増すものであるとされているから。
「……抱き締めて。貴方の両腕で慰めて。私には腕が無いんだって、教えて」
……依護メルティが提示した解決法は、それとは真逆の方向性のものだ。
腕が無いことを自覚すればするほど、その痛みは増すのではないだろうか。そう思えてならない。
彼女は本当にそれで安らぐのだろうか。もしも、腕の中で、耐え難い程の苦痛で泣き叫ぶようなことがあるなら──、
「……嫌、だった?」
絞り出したような声がした。
数秒、考える。必死に。
「本当に、それでいいの。腕が無いって自覚すればするほど、貴方は痛みを覚えるかもしれない。彼我の差で尚更苦痛を感じるかもしれない。俺は貴方のためなら何でもするけれど、貴方のためにならないことはしたくない」
彼女の目を見つめ返して言う。
相変わらず彼女は美しい。……それこそ、今まで曖昧にしていたからこそ彼女の瞳を直視できていただけで、こうして■■の二文字でその感情を策定している今となっては、やはりその蒼と向き合うことは難しかった。ぐるぐると心の中で巡る蒼の奔流は、自身の内臓を巻き込んでぐちゃぐちゃに搔き回す。
そうでなくても別に真正面から見つめ合えたことはなかったような気もするけれど──。
「……良いわ」
対する依護メルティの返事は、縋るような吐息と共に紡がれる。
「だって、私がそうして欲しいから」
必死に、身体の上で、身を捩っている。きっと、必死に縋り付こうとしている。それができないで、またずるずると体勢を崩して、萎れて、倒れそう。
「……一人でこの痛みを抱えきれる自信が無いから。貴方に慰められたいから──だから、今すぐに、抱き締めて。私を──」
それ以上を待たずに、彼女の痩身を抱き締めた。
薄い膜を破ったような、不可侵領域を侵してしまったような、そんな背徳感と共にその重量を抱き寄せる。
「……ごめん。俺は専門家でも何でもないんだから、適当なことを考えてる場合じゃなかったよね」
「私の為に考えてくれたんでしょう? なら、良いのよ。……本当に」
抱き締めた少女の肉体というものは、滑らかな肌の下がごつごつとしていて、重たくて、歪で、生暖かい。
けれど甘ったるい香りがしていて、可愛らしくて。
どくどくと生きていて、真っ白なその肌に透けた血管の色と脈動が美しい。……生きている。彼女は生きていて、その在り方は本当に綺麗で──。
「……私、ね。エトワールだったのよ。……本当よ」
「エトワール? 星って意味なら、そりゃ貴方は私の星だけど」
「そうじゃなくて。そうだけど」
ふう、と、抱き締められた少女は無抵抗のままに溜息を吐いて、耳元で続けた。
「……バレエの話よ。貴方はあまり興味が無いから知らないでしょうけど、私は──それなりに有名なバレリーナだったのよ」
痛みに喘ぎながら、か細い声で、小鳥のように鳴いている。囀っている。
「……初耳だよ」
「そうよ。言ってないもの。……ふふ」
側頭部を擦り付けて、そちらに意識を逸らそうと努力するみたいに、やはり囀っている。
「……私ね。……凄かったのよ。才能はあったし、……家に帰れば沢山のトロフィーがあるわ。頑張ってたわ。皆私に憧れてた。綺麗だって言ってくれてた。これだけで生きていけるんだって思ってたわ」
「あの日までは」
遠い目をしている。
彼女にとってその瞬間は、どのような感情に、どのような感覚に、分類されているのだろう。痛みなのか、欠落なのか、屈辱なのか、或いは悲しみか、怒りか。平和に一般的に普遍的な人生の上に立つ身では、想像しようとすることすらままならない。
「──腕が無くても、バレエはできるよ。他でもない貴方なんだから。……その意志があるなら、きっと」
「ええ、できるわ。私ならできるでしょう」
「……じゃあ、そういう問題じゃない?」
「そうよ。……私は、できてしまうから、嫌なの。だって、腕が無い今の私ができる最高のバレエを演じたとして、それはそれまでの私の演技の足元にも及ばないものになってしまうでしょう?」
「それまでの私の演技を知っている人間が、今の私の演技を、『腕が無い割には上手だね』──なんて評したとしたら」
「もしそうでないとしても、受け止められる賛美がそれでしかないのなら」
「──ええ。私は恥辱に塗れて死んでしまうでしょうね」
強かった。
それは、何よりも強い少女の言葉だった。
彼女は常に正しく、常に冷静に、論理的に、前を向いて、上を向いて、
そうして、星を見上げたまま、飛べなくなってしまった。
「私は、もう価値の無い塵芥。堕ちた一番星の残骸。踵の折れたハイヒール。……オデットはおろか、オディールにすら、もうなれない。私にとって、それは大きな欠落だったのよ。腕が無くなったことよりも、腕を無くした所為で踊れなくなったことの方が、よっぽど痛かったの」
「花はいつか散るわ。グラスだって、いつか割れるわ。花弁が落ちるのと同じ。硝子の破片が飛び散るのと同じ。私の身に起きたことは、誰もが当然のように経験する出来事の前借りよ。……まあ、少しだけ早かったのかもしれないけど」
「でもね。遅かれ早かれ、私は踊れなくなっていたのよ。足を故障することだってあるでしょう。私よりも上手な子ばかりが周りにいるのかもしれないわ。そうでなくても、老衰にはどう足掻いても勝てないんだもの。そんなこと、早く気付けばよかったのに」
ばかみたいね。
と、痛みに悶えた表情で、彼女は呟いた。
「……貴方は、そうじゃないでしょう?」
自身が何らかの言葉を返すよりも先に、彼女はそう言った。
「貴方は、何処も腐っちゃいないわ。寧ろ、そこらの誰よりも綺麗よ。……何より、私の価値はすぐに損なわれるようなものだったけれど、それと違って、貴方の本領はその言葉と思想でしょう? 肉体に比べれば幾分か壊れにくいものなんだから、もっと貴方はそれを使って幸せになりなさいな」
それは、予想していない言葉だった。
名前の付けられない感情と、いつも脳の片隅にある益体の無い毒が混ざり合って、そのまま大気を汚染した。
「逆だよ。思想こそ腐りやすい。肉体の不調に引っ張られて何も考えられなくなる。そうじゃなくても、今できていることができなくなったらすぐに駄目になる。逆もまた然りだよ。少しでも現実が上向きに傾けば、その余裕が考えることを妨げる。今の俺だって、正しいものじゃない。可変性の泥みたいなものだよ」
──不意を突かれたせいか、嫌に饒舌になってしまった。
後悔も間に合わないまま、否定の言葉をごろごろと並べてしまう。
「……そう」
「…………うん」
けれどやはり、思考というものはその程度のものなのだ。平穏な環境でどれほど高尚であろうと思っていても、何かのきっかけですぐにふいになってしまうくらいには弱い。必死になって練り上げた言葉よりも、より本音に近い咄嗟の文字列は──無害であろうと呑気に牧歌的に謳う九割の理性に逆らって、一瞬で相手を傷付ける。
だから、自身は死ねばいいと言っているのだ。
思っているのだ。
「……悪かったわ」
「……素直だね」
「そうね。そうだって思ってしまったもの。私も、そう思うわ」
素直ではない己はその反対に、謝る代わりに、彼女を抱き寄せる力を少しだけ強くした。できる限り優しく背中を撫でた。
少女は、驚いたように身体を跳ねさせて、もぞもぞと居心地が悪そうに身を捩って、けれどやはり拒絶だけはしなかった。
「……だから、駄目なのよね。私は」
「何が?」
「私ね。貴方が幸せになれなさそうなところが好きなのよ、きっと。だから、私は貴方を幸せにはできないわ」
ちゅ、と、頬に優しくキスをして、静かに吐息を漏らして、少女はそんなことを言う。
「好きよ。貴方もそうでしょう?」
「うん」
「嬉しいと思うわ。愛しくて堪らないわ。だから、願っておくことにするわ。貴方は、貴方と手が繋げて、貴方と対等に過ごせる誰かと一緒になりなさい」
もう、涙声では無かった。
落ち着いた様子で、普段通りに淡々と。
柔らかく。優しく。それは酷く、彼女らしくない。
「……もう少し私が強かったら、話し合うつもりも触れ合うつもりも愛し合うつもりも無く、ただ私の愛情だけを押し付けていれば良いって言ったのでしょう。今もそう思っているくらいだもの」
そうあれない依護メルティは、
何にもなれない男に、必死に言葉を紡ぎ、縋って、
「…………でも、……そうだったら、貴方を愛してはいないわね。きっと」
それですら足りない愛を、囁いている。
「……腕、もう痛くない?」
「気が紛れたわ」
「なら、良かった」
「今までは一人で耐えていたわ。この十年、ずっとよ」
「だから、その。……ありがとう、ね」
ただ、隣にいただけだった。
ただ求められるがままに抱き締めただけだった。
それだけで、彼女は酷く安らかに眠っている。ゆっくりと、のびのびと、呼吸をしている。
もっと、何か、良い言葉をかけられたなら。
もっと強く抱き締められていたら。
もっと頭が良かったら。
そもそも彼女は痛みを覚えずに居られただろうか。
彼女ばかりに語らせてしまわないで済んだだろうか。
馬鹿を晒さずに居られたのではないだろうか。
依護メルティの青い前髪を漉いて、そんなことを思った。
『私は貴方を幸せにはできないわね』、と、彼女は言った。
貴方は知っているだろうか。
貴方を抱き締めている惨めな肉塊は、それと同じ類引け目を、貴方に抱えて生きているのだということを。
「…………願っておくよ、依護メルティ」
「貴方は、俺よりももっと上手に貴方を愛せる人の隣を──貴方が泣かなくていいような場所に、いた方が良いよ」
こんな小さな島国の、小さな貧しい部屋なんかでは、きっとそれは叶わないだろうから。
彼女にはもっと相応しい場所がある。それは例えば、もっと綺麗に星が見える湖の畔だとか、将来の不安なんてものとは無縁の柔らかいベッドの上だとか。
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あともう少しで終わります。お付き合いください。