朝になって、まず最初にしたことは、特別なものでも何でも無く、単に部屋を片付けることだった。
普段の数倍は念入りに。出しっ放しにしていた諸々を片付けて、部屋の隅々に掃除機をかけて、その上からコロコロを転がした。正式名称は未だに分からない。
今までこの部屋にはなかった長い髪の残骸が散らばって、纒められて、捨てられている。
その様を見るたびに、不思議な気持ちになる。
とても馬鹿らしいことに、彼女も髪が抜けるのだなあなんて、そんな風な妙な感慨が湧いて出てくる。
「……朝から勤勉と言うか、ご苦労ね」
「おはよう。シャワー浴びる?」
「ええ……そうするわ……」
腕の無い少女は、ごろりと倒れたまま転がって、ベッドフレームから墜落したみたいに起き上がる。
そのまま誘導されるように浴場へと向かう。
ぷちぷちとボタンを外して上着を剥がし、未熟な自身にはあまりにも大人に見えるナイトブラを剥いて、何の風情もなく下半身に纏った衣類を脱がせる。そうして、鶏肉の下処理をするかの如く、美しい肢体を文字通り丸裸にする工程を終える。今更彼女も恥ずかしがるような様子は無く、何なら最近は見せつけるみたいな視線の動かし方をするので、そのうちの九割五分は無視している。今もそう。
浴槽に繋がる扉を開けて、自身は寝間着を着たまま水場へ。
「冷たいとか熱いとかある?」
「全然」
とっくに体毛の生えない身体に加工されたつるつるの身体に微温湯をかけて、寝汗を流す。
びちゃびちゃと跳ね返った水滴が寝間着を濡らしていた。けれど、その不快感にはとっくに慣れている。寧ろ最近は裸になることに対する抵抗すら生まれてしまったくらいだ。着衣のまま風呂に入る習慣が生まれるかもしれない。
「……視線が熱いわね」
「綺麗な身体してるなあって思って。うなじから背中まで、ボディラインが凄く綺麗。ここに背骨が入ってるんだなあと思うとなんかもう堪らない気持ちになる」
「とても人間の感性とは思えない賛美をありがとう」
悪戯ついでに五指で背中を撫で回してみると、彼女は大きく身体を跳ねさせて、それから恨みがましい視線を向けてくる。
構わず、背骨の凹凸の感触を味わってみる。
腕を使う交流は気の所為だろうがそれまでのものとは受け取れる刺激がまるで違う。肉と皮越しに撫でる骨の感触は、彼女がスレンダーなおかげで神経を大きく揺さぶってくれている。
「……貴方って、やっぱり人間じゃないみたいなことばっかり言うわよね」
「骨に興奮するなんて誰しも経験のあることでしょ。というか、それは褒めてるの?」
「どうかしら。どちらかというと、呆れてるの方が近いのかもしれないわね」
「酷いことを言うねえ。……いいけどね、骨。肉と皮と脂肪よりよっぽど好きだよ」
水の音が止まる。
蒸気に満ちた浴室の中で、全裸の美少女と着衣のだ成人男性が向かい合う。両方等しくびっちゃびちゃ。
「じゃあ聞くけど、貴方って性欲とかあるの?」
「そりゃあるよ。人だもの」
「家帰って私が裸で寝てたらどうする?」
「服着せてそのまま寝かせるよ」
「…………そう?」
「そう」
脱衣所で手早く彼女の体表に付着した水滴を拭う。
その間も彼女は無抵抗のままで脱力していた。ぼうっとしたまま何かを考えているように。
「家に帰って」
「また始まった」
依護メルティが次に口を開いたのは、ドライヤーで髪を乾かしている最中だった。
「私が裸で寝てるの」
大きな鏡越しにその表情が見える。言葉の支離滅裂さに反して、きっとぐるぐると脳味噌を回しているのだろう、彼女の様子はいたく真剣だった。
「そこまではさっきと一緒だよね?」
「ここからよ。よく想像して」
言われるままに瞳を閉じる。夢想するのは一糸纏わぬ姿で瞳を閉じる依護メルティ。
「口に避妊具を咥えているの。よく見たら薄目で貴方のことを見上げてるわ」
「…………はい」
「まだ足りない?」
「………………もう少し求めようかな」
「そしたらそうね。雑にウインクでもするか、投げキスでもするかしら」
深呼吸をして目を開ける。
目の前に座った少女は、鏡越しに、得意気に嘲笑っている。まだ何も言っていないのに。
「それはもう合意だと判断するけど、良いよね。だってほら。流石にさ」
降参というものは、諸手を挙げなくても、白旗を振らなくても、できるのである。
「そうね。ま、所詮はあくまで仮の話よ」
一方の少女は、そう言っている割には、洒落にならないくらい悪辣な笑みを浮かべているように見える。
気の所為とか、目の錯覚とか、そういうもので誤魔化しようが無いくらいには過剰で過激に悦楽している。ように見える。見えるだけであって欲しい。
「……何の話?」
「性欲の話よ」
「それで言うなら、じゃあ俺が裸で」
「しょうがないから私が孕むわ」
とっくに着替えて寒くも無いけれど、取り敢えず上着をもう一枚だけ羽織った。
烏滸がましいとは思うけど。冗談だとは思うけれど。一応。
「ねえ、ちょっと暑くない? 脱いでいいわよ?」
「怖いって。今まで経験したことのない類の恐怖が今俺を襲っているよ」
閑話休題。
「で、さ」
「何?」
広くなった部屋の中で、少女は一瞥を向ける。
意味深な視線が混ざり合って、どちらからともなく笑い合う。
「踊ってみてよ、バレエ。俺は何も分かんないけど、貴方が踊っているところは見てみたいな」
「良いわよ。白鳥の湖でよくって?」
「うん。何でもどうせ分かんないし」
「不格好だったら笑いなさい」
「勿論」
スマートホンから、安っぽい音質の、壮大な音楽が流れ始める。
腕の無い少女は踊り始める。水色の袖を靡かせて、蒼い髪を振り回して。
飛び上がり、回転して、また跳ね上がって。
くるくると回る。優雅に舞い踊る。
良し悪しは分からない。滑稽と言えば滑稽なのかもしれない。腕が無い少女は、確かに足腰や体力は十分に強靭かもしれないけれど、一方で身体のバランスを取ることには向いていない肉体構造になっている。だから何度もふらついて、倒れそうになりながら、数分の踊りがひたすら続く。
返す返すも、その脳はバレエの良し悪しを知らない。
何が良くて何が悪いのか分からないし、話の中身も何となくでしか知らない。
それでも良かった。魅力的だと思った。目を惹くようなものでは無くても、目を逸らすことは絶対にしなかった。したくなかった。
彼女はとても楽しそうに踊っていた。
彼女の顔の造形が良いから惹かれたのではなかった。その生き生きとした表情が、冷淡で端正な顔の中で瞬いていて、その様を見ていると、何故だか救われたような、泣きたくなるような、そんな思いになって、──そう。目を離すなんて有り得ない。一秒だって、見逃していたくない。
最低なことに、どうしたって、楽しそうな人間は好きではないのだけれど。
けれど──今目の前にいる人は、嫌味の無い、誰を意識しているでもない、正当で純真な悦楽に浸っていた。
その有り様はきっと、まるで優しくて安らかなユメみたいなものなのだ。
とても自然に、そんなことを思った。
たとえ目の前で踊っているのが依護メルティでなくても、そう思っただろう。けれどその表情は、依護メルティその人でないととても顕せないものなのだろう。
「どうだった?」
音楽はシームレスに、野暮なコマーシャルへと切り替わった。
それを合図にして、ゼンマイが切れた人形のように少女は踊りをやめた。
そうして、つかつかと気取って、歩み寄ってくる。今にもまた踊り出してしまいそうなほど軽やかに、今にも倒れてしまいそうなほどに地に足つけて。
「やればいいのに、バレエ。俺は今の貴方以上のバレリーナがいるとも思えないよ」
「不敬で不敵ね」
息の上がったその声は、確かに生命を宿していた。
「あんなに楽しそうにできることを二度とやらないなんて勿体ない。今までで一番良い顔をしてたと思うよ。少なくとも、俺と話しているよりもよっぽど」
「だから、よ。他者や記録や記憶や自分と競っているんじゃない。どれほど失敗したって咎められない。そんな時間はこれまでもこの先も二度と有り得ない──」
くるりと回って、その尻が自身の隣に着地する。
きし、と、小さな音を立ててベッドフレームが軋む。
「もう二度とできない演技だし、したいとも思わないわ」
彼女の貌に陰は無い。
「だって、全然駄目だったもの。肌に染みて分かった。打ちのめされた。私の何もかもはもうあの頃からは大きく変わってしまっている。腕が無いことなんてなんて些細なことだと思えるほどに。だから二度とは踊れない」
それはいつも通りの平常心。平坦で冷淡で忌憚の無い澄まし顔。けれど、涙を流していないだけで、苦しんでいないだけで、彼女はだったそれだけで既に尊い存在なのだった。微かに笑ったままそう宣えるのならば、彼女の幻肢は二度と痛まないのだろう。
「⋯⋯そっか。貴方がそう言うなら、きっとそれが正しいんだろうね。……少しだけ、名残惜しいけど」
「どうして貴方が淋しそうな顔をするのよ」
笑って、と、笑いながら彼女は言った。
「──良いのよ、それで。……最後に貴方が看取ってくれたことが、何よりの報酬だから」
離別とは、すべからく涙のなかにあるべきものでも、喜びのなかにあるものべきものでもない。
ただ、安らかに受け容れられるなら、それでいい。
その時に、離れてゆく誰かに対して胸を張れるならば、尚更いい。
▲▼▲
手を握る。
感触は伝わってこないけれど、私の視界の中にある肉の塊は収縮を始めている。歪んでゆく輪郭の内側に、柔らかな砂が巻き込まれてゆく。
肘を曲げる。
持ち上がってゆく右腕。たった数カ月会わなかっただけで、腕とはこんなに奇っ怪な機関だっただろうかと首を傾げたくなる。
掌を広げる。
やはり感触は無いけれど、私の手からは砂が零れ落ちてゆく。
彼が恭しく差し出した、作り物の腕が二本。
私の長方形の身体からぶら下がっている。
私の尻の下にある砂浜。その感触。
私の素足に触れる砂浜。その感触。
私の髪を撫でてゆく風。その感触。
私の肌を擽る、冬の風。その感触──。
そういったものは、私のこの空っぽな腕の中には存在しなかった。
今でも信じられない。実感できない。肩先に少しだけ伝わる微かな重量だけが、唯一私が感じられるものだった。
ただの義手とは思えないくらいに精巧なそれは、カタカタと筋肉が軋むかのように上手に動く。
今でも信じられない。
遊泳禁止よ。と、喉を震わせて言ってみる。
この程度は遊泳の内に入らないでしょ。と、彼は呑気に言う。可愛くない人。
貧相な背中が目の前に聳え立っていた。
足首から先を波打ち際に着けたまま、私のことを一瞥もしないで、十数分もの間水平線の向こうを眺めている。
今日は風が強い。荒れた波が押しては引いて、何度も彼にぶつかっている。
私はそんなのはごめんなのだけれど、対照的に彼はどうも濡れるのが好きらしい。服が濡れてもお構いなしに、時折身体を震わせて、それでもどこか遠くを眺めている。潔いと言えば潔いけれど、馬鹿だと言ったら馬鹿。
ゆっくりと、引き摺るように腕を動かしてみる。
砂に轍が刻まれる。彼の名前の形になってゆく。
それは救いようもない程愚かな人を指し示す文字列だった。
物が持てる。
一人で排泄ができる。着替えができる。化粧ができる。歯磨きができる。ご飯が食べられる。スマートホンを操作することだってできる。⋯⋯浴槽には持ち込めないから、その点では相変わらず彼の世話になっているのだけれど。
彼の迷惑を考えるならば、そのほうが都合が良いのは分かっているけれど──。
私はそうやって今まで生きていた筈なのだけれど──。
自律と自由を手に入れた私は、知ってしまった。
私は、
貴方がくれる甘い甘い不自由に惹かれていたのだ。
波の音が聞こえる。
渡り鳥の声が聞こえる。
曇天の切れ間から光が差している。
腕を伸ばす。
視界の中央を占拠する貴方を、砂に塗れた手で握り締める。
視界は何故だか霞んでいる。それでも、貴方を見つめている。いつまでも、そうしていたい──。
「⋯⋯愛してるわ」
貴方は振り返らなかった。
海風が塩辛かった。
読了ありがとうございます。感想、評価をくださると幸いです。
少し短いですがキリが良いので。ここも好きなパートです。
恐らく次でラストです。もう少しだけお付き合いください。