後方へと、ガラス越しの景色が飛んでゆく。
全てを振り切るように。過去を忘れるように。忘れ物を見捨てて歩くように。
私は──倦んだ瞳で外を眺めていた。逃げるみたいに視線を逸らしていた。
隣の方は見たくなかったから。
まあ、数秒が経過する毎に、耐え切れなくなって、視線を向けてしまうのだけれど。
私の隣の席で眠る彼のことを。
すうすうと静かな寝息を立てて意識を閉じている可愛い貴方。
向かう先は東京駅。
自由になった私を、飛行機が待っている。
「お母様、成田空港に来るんだって」
少しばかりスマートホンが使えるようになってしまった弊害として、彼の誘拐は終わりを迎えた。
彼の勧めもあって、私は押し切られるまま、実家に連絡することになった。
三日の家出程度なら散々に怒られるだろうが、数カ月単位の失踪となれば、寧ろ泣かれるくらいで済むだろう──と、そう目論んでいたのだが。しかし私の母親は流石私の母親なだけあって、非常に面倒な拗ね方をしており、何とも閉口させられた。まあ正直な話、それは本当にどうでもよかったのだが。
しかし、面倒な妹たちの中でもまだ多少可愛げがある妹が非常に心配しているとのことだったので。
そもそも、彼が義手を工面してくれた以上、もうこの場所に執着する理由は無いので。
「正直、これ以上貴方を養うだけの余裕はあんまり無いのよね」、とのことなので。
「そう。いつ?」
「明後日に着くらしいわ」
「………そう」
「……私としては、」
「じゃあ、準備しないとね」
放っておいても、と、言おうとした。
それを、彼もきっと分かっていて、遮った。
「帰った方が良いでしょ。流石にさ」
「……」
知っていた。
彼はきっとそう言うんだって。
分かっていた。
彼は、理性の側にある人間なんだって。
「そうね」
だから私は、言いかけた言葉を呑み込んで、そんな返事をしたのだった。
がらがらがらがらがらがらがら、と、スーツケースが大きな音を掻き鳴らす。
足跡が四方八方から行き交う東京駅の構内を、誰も彼もが颯爽と闊歩している。胸を張って、自らが多忙であることを誇っている。喧伝している。その在り方に、当然のように眉を顰めている自分にぼんやりと思い至る。
この場所に最初に降り立った日──私は、そちら側の人間として、苛立っていた。誰も彼も死ねばいいと思っていた。私だけが美しくてそれ以外は醜く、私だけに意味があってそれ以外に意味は無く、私だけが正しくてそれ以外は間違っていると、そんな風に考えていた。そんな顔で歩くことに何も恥を抱かなかった。
今の私がそうでないとは言わない。私のその側面は揺るがない。
けれど。少しだけ、一つだけ、増えたのだ。私の中に受容できるもう一つ。
相変わらずそれ以外に認める気はないしそうする必要もないと思うけれど、笑ってしまいくらいそんな私は不寛容なのだけれど、それでもその選ばれた一つは私とは真逆の存在なのだから、ある意味では丁度良い。
そんなことをぼんやりと考えながら、いつも通りの高いヒールをこつこつ鳴らして、ゆっくりと歩く。
歩く。
歩く。
なるべく、ゆっくり。
噛み締めるように、抱き締めるように、踏み締めるように。
「あれ、妹が好きそうだわ。買いましょ」
「だいぶ並んでるけど大丈夫?」
「良いのよ。時間なんて幾らでもあるんだから」
目上の看板は全て無視する。なるべく平行に視線を保つ。その代わりとばかりに目に付く全ての店に彼を連れ込んで、ひたすら買い物に付き合わせる。
思えば、こんなに解り易いセレブ仕草みたいなものをするのはとても久し振りだ。案外、楽しかった。特に、その相手がこうして好きな男であるならば、猶更。
「ねえ」
「なあに、お姫様」
「何でもないわ」
貴方がそう呼んでくれるだけで気分が良い。胸が漉く。
「後ろの邪魔よ。こっちに寄りなさい」
「……あ、ありがと。……ん? いや、誰もいないんだけど?」
「あら、そう? 私にしか見えない人だったかもしれないわ」
「じゃあ多分俺がどかなくても通り抜けてくれたよね」
「そうかしら」
生温い会話ですら心地良い。
私達はいつも、刺激とは正反対な温度に首まで浸かって愛し合っていたのだ。箪笥の奥で埃を被ってしまった私の苛烈さは、取り出そうと思えば幾らでも手が届く範囲内にはあるのだけれど、かと言って貴方の傍にいる間はわざわざ取り出すのも億劫だ。
今の私は、誰かを傷つけ得るようなものをあまり持ち合わせていなかった。
焦燥だとか、絶望だとか、痛みだとか、無力感だとか、そういった毒素はまるっきり排除してしまった。だから、私の内臓に残ったものは単に私が生まれつき備えている毒性くらいだ。生物濃縮の最下層まで逆戻り。貴方の舌を多少ぴりぴりさせる程度の可愛らしいアルカロイドでは、貴方以外に殺せない。
びかびかとやかましいスクリーンの目の前を歩く。
相変わらず人が多くて嫌になる。有象無象の虫──或いは残酷な妖精の群れ。その片隅で唯一輝く聖遺物──或いは精霊の貴方と私は、先行するその服の裾を摘まむことで一体化してその中をすり抜けて歩く。時折彼の両手からぶら下がる大量の紙袋に足が当たって掠れた音が鳴ることで、少しだけ私の身体に実感が宿る。
唐突に、音が止んだ。
一瞬の静寂に少し驚く。ふと瞳孔だけを傾けて位相を変化させる。──コマーシャルとコマーシャルの切れ目を迎えて真っ黒に暗転した画面が、視界の端まで広がっている。
私を見ている、私を見ている。
機能美とは真逆に増えた贅肉。私の持っていた実弾は砂糖菓子のロリポップに変わってしまった。義勇兵だった私は、いつの間にか戦うことを回避するようになった老兵にまでその身を窶してしまった。
その哀れな様子を見て、私は漠然と、もう二度と戦えないのだろうと考える。
酷く分かり易い論の帰結だった。他者の弱さに敏感だった私は、それと同じ評価を私自身に下すことになった。一足す一の数式の等号の右に、計算するまでも無く二を書き込むような反射性で。
それをただの変化だと思うか、柔軟性だと考えるか、多様性だと考えるか、成長だと思うか、退化だと考えるか──それは誰がどのような立場に立つかによって変わるだろう。
私?
そんなものは簡単。私は単に恋をしただけのことよ。
温くなったものね、私。
穢れの無い少女のユメを抱えて、嫌いな全てに牙を剥くことを忘れ、仮初の安寧に身を委ねて、
王子様でもない嫌いな筈の人間の言葉や仕草に顔を赤らめて、
「あ、俺は手が塞がってるので。……お姫様、食べる?」
些細な意識の矢印が私に向いたという事実一つがどうにも愛おしい。
「何?」
「バウムクーヘンの試食だってさ」
「そう。二つ頂くわ」
一個は貴方の。と言いながら、貴方の口元に糖質の欠片を押し込んで、私も一つを口に放り込む。
同じ瞬間に同じ場所で同じものを食べる。ただそれだけの経験に、それ以上の感覚があるとするならば、その余剰分は過不足なく分かり易く単なる錯覚に過ぎないのだ。分かっている。分かっているのに、私は貴方が愛おしい。
歩く。
歩く。
避けられない改札に向けて歩く。
来日した日は最短で関西に向けて歩いていて、その時にはこの無駄に広大な建物のその幅に苛立ちすら覚えたものだけれど。
今の私は、この場所が東京駅と名が付いているだけあって、本当は東京全土にこの施設が広がっていて、本当はどれほど歩いても目的地なんかには辿り着けなくて、装備が足りなかったねなんて言いながらまたあの家に帰れたらいいな、なんてことを漠然と妄想している。
「はい、これ券ね。落としたら倍値段掛かるから気を付けて」
「…………そうね」
「日本にまた来ることがあるなら交通系のカード作っても良いと思うけどね。便利だよ」
「……そうね」
至れり尽くせりとはまさにこのことで、私が土産と称して彼を買い物に連れて回ることも全て予期されていて、彼が用意したあまりに大きすぎるスーツケースは丁度それらを押し込むのに適切なサイズを誇っていた。
彼は手早くその中に大量の菓子を放り込んで、ゆっくりとファスナーを動かしてゆく。
「……ねえ」
「なあに、お姫様。……また用もないのに呼んだ?」
「そんなに幼稚だと思っているの?」
「多少は。俺は幼稚だし、貴方はあどけないところがあるし。知り合った時から、少し増えたんじゃないかな。お互いに」
「逆じゃなくて? 私は──貴方も私も、少しだけ老けたと思うのだけれど」
「年齢が違うからなのかな。俺は年上だから貴方の幼いところが目に映り易くて、貴方は年下だから俺の老いてる部分に視線が行きやすいのかもしれない」
「そんなものかしら。だとすると、私が私を、貴方が貴方を、同じように見ているのはどうしてかしら」
「だって、それは──貴方は私で、私は貴方だからじゃないの」
──優しい声で、変に生真面目な顔で、彼はそう言った。
安らかに微笑んでいた。私はだから貴方が好きだった。ずっと好きだった。
「……俺と貴方は多分、同じなんだと思う。宇宙が同じと言うか、水域が同じと言うか。上手く言えてる気はしないんだけど」
ファスナーが音を立てて、終着点に辿り着く。
その天蓋を封じる。
私もそれと同じように、少しだけ瞳を閉じる。
「最後まで詩的なのね、貴方」
「じゃあ何も成長してないな俺」
「それで良いんじゃなくて? 成長なんてあまり面白いものでも無いでしょう」
肩口から重力が垂れ下がっている。それは手渡されたスーツケースの野暮な手触り。
視線の先の彼は、小さく、安堵したみたいな、震えた息を吐いた。
安らかな笑みを浮かべて、まるで解き放たれたかのように、所在無げに立ち竦んでいる。その手にはもう何も握られていない。その瞳は漫然と私だけを見つめている。ただ、それだけ。
「ああ、……そう言えば、貴方に呼ばれたんだった。ごめんね。用事はなんだったの?」
「大したことじゃないのよ。貴方の顔が見たかっただけ」
ゆっくりと瞬きをして、意を決して、私は──貴方を見つめ返す。
「ごきげんよう、私の両腕」
「ごきげんよう?」
不思議そうに首を傾げながら、彼は答えた。
その瞳が瞬いている。
黒曜石のような渦を成す黒い光。灰色の煙が僅かに燻っているかのように揺らめいている。
貴方の瞳孔の黒は、喩えるのならば宇宙に似ている。産業革命期以降、人工の交流電灯の輝きに晦まされ、人間の目には霞んで、上書きされるようになってしまった根源の黒。その奥行きは常に加速度的に広がってゆく。瞬くアンドロメダ銀河を内包している。あらゆる光源を吸収して、その影だけを宿している。距離感を喪った世界。明かりも音もない世界。影と陰が交差して、その陰影の濃淡でのみ輪郭が描かれている世界。その歪で醜い構造物が幾重に幾重に積み重なって、自己相似性のフラクタル構造を作り出している。延々と折り重なり合う三角形の内側で、外側へと滲み出してゆく墨汁を想起させる昏い昏い無秩序の輝き。貴方の空域にはハビタブルゾーンが存在しない。その内では生きている者は皆死に絶え、死んでいる者はもう一度死に絶え、魂の奥の奥までもが絞り粕になるまで捩じられ、残骸だけが浮いて、彗星になり、周回軌道上を巡り続けている。大粒の黒水晶が、人間性と言う名前を付けられて鎮座している筈なのだけれど、その存在は理論上にのみ存在していて、その実質を想像することまではできていて、けれど物理的に観測する方法だけを欠いている──即ち、オールトの雲。
貴方の顔を見る勇気がなかった。
貴方の目を見るのが怖かった。
逸らしていた。逃げていた。私の感情の話でしかないのに、何故かは分からないけれど。
貴方に対する私は、いつも朧の中に消えてしまう。触れることはできない。それに触れてしまうのが、どうしても怖かった。その影を頭から被ることで、私がどのように変化するのかが分からなくて、怖くて──。
「私は」
いや。
本当は分かっていた。
言葉にできないだけで。
こうなるんだって。
こうなんだって。
──本当に。
「好きよ。貴方のこと」
周りには誰もいなかった。
ここはどこでも無かった。
貴方がいて、
私がいる。それだけ。
それだけ。
「それだけ──」
「俺さ」
声が聞こえた。
その主が誰かなんて、考える意味も無く分かる。だって──この世界には私と貴方しかいないのだから。
「知ってると思うんだけどさ。人間が怖いんだよ」
「言ってたわね」
「俺は俺がどうしても人間だとは思えなくてさ。色んな人間のことを凄いと思うんだよ。社会生物として、文化的生物として、道徳的生物として、歴史的生物として、現生の動物として──過去と現在の人間の体系の上に立って、その体系を将来に結び付ける、そういった連携ができるための生物としての人間としての生き方が、俺には絶対にできないと思うから」
僅かに睫毛に押し上げられている長い前髪の隙間から、睨むように、泣いているかのように、彼は吐露する。
その内側に広がっている宇宙を曝露する。
「俺は人間よりも下位の存在なんだよ」
「そうね。拒絶される側の貴方は、だから怖いという形容を使うんだって言ってたわ」
「今は多分、胸を張って言えるよ。俺は人間が嫌いだ」
全身が穢れているかのように漆黒に染まっている。
ロングコートに、スカートのような幅のある洋袴に、血の色をした薔薇の意匠があしらわれた黒いブラウス──その襞の多い全身は刺々しく、禍々しく、常人を寄せ付けない。
「見下している訳じゃない。でも好きじゃないんだ。誰も彼も嫌いだ。誰の言葉だって俺の本質を知らないし──理解してもらえないって不貞腐れてるだけのガキだとしても──それと同じで、俺は誰の言葉も理解していないんだろうなって──宇宙人かなんかなんじゃないのかな。もうほんとに嫌になるよ。前例が無くて先行研究の無い単一のケダモノでしかない俺は、俺にも俺が分からなくて、そうじゃない人間が本当に羨ましい。自分で自分を策定するための判別要素がある人間の言葉なんて俺には実感ができない。理解はできるつもりなんだけどね。俺は、俺は──」
「だから、人間が嫌いなんだよ。ちゃんと言葉を使わなきゃいけない。何も怖くは無いんだ。俺は何にも竦まないし何にも掬われないし、だから何も好かない。死ぬのだって殺すのだって、人間だって大人だって未来だって将来だって社会だって、嫌いなんだよ。俺が個人的に嫌悪しているだけで、俺が宙に浮いたまま三角座りをして動けないでいるのは、ただ俺が潔癖なだけなんだよ。俺は誰の所為でもなく俺の所為で俺の可能性を殺しているだけの快楽殺人症──」
ああ、なるほど。と、合点が行く。今更になって理解する。貴方には新しいものばかりが多すぎる。
貴方にとって今までの世界は、いや今のこの瞬間ですら、今私が見ているのと同じように──誰もいない。
私と貴方以外には。
「じゃあ。貴方は、私のことも嫌い?」
「嫌いになりたかったよ」
彼は、だから、他でもない私にしか見せない笑顔で、そう言ったのだった。
引き攣ったような、
誰にも好かれないような、
自虐的で自罰的で、
つまりは人間ではない、
単一的なただの生命としての、
貴方の象形。
「好きだよ。愛してるよ、俺のお姫様。⋯⋯この宇宙で俺が愛せるただ一つ」
──震えた声で、彼は愛を紡いだ。
蜘蛛が糸を吐くように。その巣はあまりに不格好で小さくて、グロテスクに私を待っている。
「⋯⋯それだけ」
「そう」
互いに、踵を揃えたまま、動かなかった。
死後硬直を待っているみたいだった。
言いたいことがある筈だった。
言うべきことがある筈だった。
貴方が好きだったって、もっと。
「また会える?」
「駄目だと思うよ」
「そうよね」
「うん。幸せになってね」
示し合わせたみたいに、私たちは互いの日常に介入しなかった。
私は貴方の連絡先を知らない。私は貴方の家族構成を知らない。貴方の出身地も、誕生日も知らない。私が知っているものはただ一つ、貴方の脳漿の味だけだった。
なぜなら、人間のように関われなかったから、私たちは愛し合っていられただけで──最初からそんな風に出会っていたら、私たちは擦れ違ったままでいただろうって、分かっていたから。
だから、そう。
私が腕を取り戻して人間になってしまった今はもう、今までのようには愛し合えないのだ。
私たちは、そういう欠陥の上でキスをした。
その瞬間から運命は定まっていて、
だって私は、赤い糸を結ぶ小指を持っていないから。
「好きよ」
「ありがとう。⋯⋯生まれて初めて、好意を伝えられて嬉しいと思ったよ」
嘘を吐かない彼は、きっとやはり本音であろうそんな言葉でを送ったまま、やはり立ち竦んで、漫然と私の方を見ている。
彼は臆病だから、きっと動けないままでいる。自分から背を向ける勇気を持たないでいる。
「じゃあ、⋯⋯さよなら。愛しい私の星」
「さようなら。俺の──」
「俺の、愛しい貴方」
少しだけ泣きそうになって、後ろを向いた。
そのまま、真っ直ぐ、歩いて帰る。人混みに紛れて消えてゆく。
それだけ。
本当に、私はそれだけだった。
読了ありがとうございます。感想、評価などくださると幸いです。
あと一話です。どうかお付き合いください。