VRMMOで【食屍姫】になった無職だけど、現代ダンジョンでも化け物扱いされ始めて嬉しいです! 作:ちんこ良い肉
家へ帰る道中、私はずっと、自分でも気持ち悪いくらい浮かれていた。
黒いパーカーのポケットには、政府から渡された仮の身分証が入っている。正式なものは後日発行らしいけれど、それでもカードの端を指でなぞるたびに、胸の奥がむずむずした。
働く。
記録に残る。
報酬が出る。
ご飯が出る。
必要なら布団も出る。
会議は短くしてもらえるし、分からない時は分からないと言っていい。
すごい。
これはもう、ほとんど勝利ではないかしら。
私の人生、だいたい「面接で壊れる」「空腹で壊れる」「社会性で壊れる」「朔に物理的に壊される」の四択だったのに、ここへ来て急に、国が「食べることを仕事にしていい」と言い出したのだ。そんな都合のいい話があっていいのかしら、と疑う気持ちはもちろんある。でも、あったのだから仕方ない。現実が珍しく私に優しかったのよ。まあ、その現実も渋谷を壊して迷宮を生やした挙げ句、私に怪異を食わせる方向で帳尻を合わせてきているので、優しさの形がだいぶ歪ではあるのだけれど。
それでも、私は嬉しかった。
だって、職歴よ。
履歴書の空白欄を見るたびに胃が重くなったことも、製氷工場で二年間何とかしがみついて、最後には自主退職したことも、公務員試験の面接へ黒パーカーとスニーカーで行ってしまい、途中で気づいて自虐と謝罪を連打したことも、集団面接でなぜか気絶したことも、全部、胸の奥の嫌な棚に突っ込んで見ないふりをしてきたのだ。
その棚へ、ようやく一枚だけ、別の紙が差し込まれた。
玉織紬。
特別協力探索者。
国の委託業務。
その響きが、どれだけ私に効くか、たぶん普通の人には分からないでしょうね。けれど私には効いた。効きすぎるくらい効いた。たった一枚の仮身分証なのに、喉の奥が少し詰まるくらいには、私はそれをありがたいと思ってしまったのだわ。
嬉しい時の私は、かなり分かりやすいらしい。
家の門をくぐる前から、たぶん口元が緩んでいた。黒パーカーのフードを少し直して、なるべく平静を装って玄関を開けたけれど、無理だった。靴を脱ぐ前から、もう声が出ていた。
「聞きなさい。私、ついに社会の歯車になったわ」
居間にいたママと朔が、ほぼ同時にこちらを見た。
ママは湯呑みを持ったまま一瞬だけ固まり、朔はスマホから顔を上げ、心底疑わしそうに目を細めた。反応としてはとても正しい。私が突然「社会の歯車」などと言い出したら、普通は詐欺か幻覚か、あるいはまた冷蔵庫を食い荒らした罪を誤魔化すための新手の話題逸らしだと思うでしょうから。
「……何を壊したの」
「最初の質問がそれなの、母親としてだいぶ信頼が終わってないかしら」
「紬だからね」
ひどい。けれど反論できないのがまたひどい。
私は仮身分証を取り出し、できるだけ堂々と掲げた。正直、ドヤ顔だったと思う。人間、二十六年も生きていると、たまにはドヤ顔くらいしたくなる瞬間があるのだわ。しかも今回の私は、冷蔵庫を食べたとか、朔のSuicaを盗んで餃子を食べたとか、そういうカス寄りの報告ではない。国家公認の労働である。かなり強い。
「特別協力探索者。国の委託業務。高位ダンジョン、怪異災害、魔石回収、迷宮残骸処理、有害物質処理の試験協力。報酬あり。食事あり。休憩あり。職歴にもなるらしいわ」
職歴、という単語を口にした瞬間、居間の空気がほんの少しだけ変わった。
ママの目が、すっと細くなる。朔も、露骨な罵倒を飲み込んだように黙った。私はその沈黙が少し怖くなって、つい余計な説明を足したくなる。足したくなるのだけれど、こういう時に喋りすぎるとだいたい自爆するのよね。だから私は、珍しく口を閉じた。えらい。社会の歯車は、時に沈黙もできるのだわ。
ママは、しばらく仮身分証を見ていた。
それから、ほんとうに小さく、ぼそっと言った。
「……生まれてから一番嬉しいかもしれない」
胸の奥が、変なふうに痛んだ。
嬉しい、のに、痛い。だって重いじゃない。生まれてから一番って何よ。私の人生、他にもっと母親を喜ばせるイベントがあってもよかったでしょう。幼稚園の発表会とか、卒業式とか、就職とか、結婚とか、そういう普通のやつ。なのに、二十六歳になって、渋谷で怪異を食い荒らし、政府から迷宮残骸処理係みたいな仕事をもらって、それが生まれてから一番嬉しいかもしれないだなんて。
私、いったいどれだけ親不孝な生き物だったのかしら。
いや、知っていたけれど。知っていたけれど、正面から出されると胃に来るわね。胃に来ると、腹が減る。だから私は、湿っぽくなりそうな気配を誤魔化すように、少しだけ顎を上げた。
「……まあ、当然よ。私もそろそろ社会の側へ噛み合う予定だったもの」
照れ隠しでそんなことを言ったけれど、声が少し湿っていた気がする。嫌だわ、こういう時に限って喉の調整が利かないのよね。
朔はソファの背にもたれたまま、ふん、と鼻を鳴らした。
「害獣にも処分場が見つかったか」
「言い方」
「でも、まあ」
そこで朔は、一度だけ視線を逸らした。
「……食って金が出て、国が処理してくれるなら、前よりはマシなんじゃねえの。少なくとも、うちの冷蔵庫を襲撃する頻度が減るなら社会貢献だろ」
褒めているのか罵っているのか、かなり判定に困る言葉だった。でも、この女が私に対して「前よりはマシ」と言った時点で、だいぶ褒めている。玉織朔の褒め言葉なんて、だいたい罵倒の隙間から刃物みたいに出てくるものなのだわ。
私はそれが少し嬉しくて、でも素直に嬉しい顔をすると負けた気がしたので、偉そうに頷いた。
「そうでしょう。私、ついに公務員味のある存在……いや、そのものになったのよ」
「公務員に謝れ」
「謝る相手が多すぎるわね、私の人生」
それからママは、私の頭を撫でた。
強くも弱くもない、慣れた手つきだった。子供の頃から、私はこの手に何度も叱られ、引きずられ、殴られ、撫でられてきた。たぶん、どれも必要だったのだろう。少なくとも、撫でられるのは嫌いではない。むしろ好きだ。好きなのだけれど、好きだと認めると負けた気がするので、私は少しだけ肩をすくめて、視線を逸らした。
「……ご飯ある?」
「あるよ。お祝いだからね」
「お祝い」
その言葉で、私はだいぶ駄目になった。
社会の歯車になった祝い。職歴が生えそうになった祝い。迷宮を食う仕事に就いた祝い。人類史としてはかなり終わった祝賀理由だけれど、私の人生としては十分すぎるほど明るい。
その日の夕飯は、いつもの三倍くらい美味しかった。
◇
三日後。
私は、無事に社会の歯車になり始めていた。
もちろん、いきなり完璧に噛み合うわけではない。そんな器用な部品なら、私はそもそも二十六歳まで社会の外側でどろどろしていないのだわ。けれど、少なくとも政府指定の迷宮残骸を食べ、魔石を回収し、報酬明細を受け取り、補給食をもらい、業務報告書に名前が載る、という一連の流れは成立していた。
すごい。
報酬明細というものは、こんなにも心を温める紙だったのね。
何度見ても飽きない。端末に表示される数字を眺めては、私は布団の上でにやにやした。自分でもかなり気持ち悪いと思う。でも仕方ないじゃない。これは盗んだ金ではないのだ。朔の漫画を売って得た金でも、柚姉のカードで豪遊した金でも、赤の他人の結婚式へ紛れ込んで浮かせた食費でもない。私が食べて、処理して、役に立った結果として出たお金である。
なんて清らかな金なのかしら。
清らかな金で買う牛丼は、きっといつもより少しだけ尊い味がするのだわ。
その三日間で、私は魔石を二十個、政府へ納めた。
数字としては、たぶん小さいように聞こえるのでしょうね。二十個。お菓子なら少ない。寿司なら前菜。餃子なら、まあ、ちょっとしたおやつ。けれど魔石となると、話はまるで違った。あれ一つで街の電力だの、医療資源だの、希少金属だの、土壌改良だの、現代社会の硬くて重い問題へ雑に穴を開けるらしいのだもの。
私としては、迷宮の奥で拾った、食べようと思えば食べられそうな綺麗な石を、「これは食べないでください」「国家資源です」「お願いします」と村山君や現場職員に半泣きで止められたから、しぶしぶ差し出しただけなのだけれど。
でも、その二十個は、社会をだいぶ揺らした。
まず、日本国内。
政府は最初の数個を、電力変換、癌治療、土壌改良、希少金属生成、対怪異装備の試作へ振り分けた。たった一個の魔石で、老朽化した地方病院の治療ラインが一つ別物みたいに動き出し、別の一個で荒れた試験農地が冗談みたいに青々と変わり、また別の一個で発電実験施設のメーターが、担当技官を泣かせるほど綺麗に跳ねたらしい。
その一方で、混乱も起きた。
株式市場は荒れた。エネルギー関連、医療、農業、鉱業、防衛、物流、保険、あらゆる業種が一斉に「魔石で何が死ぬか」「何が生きるか」を計算し始めたせいで、経済ニュースの解説者たちが三日で五歳くらい老けた。病院には「魔石治療を受けられるのか」という問い合わせが殺到し、地方自治体は「うちにもダンジョンを攻略して魔石を回せ」と陳情し、探索者志望の特別テスターたちは、一攫千金と社会貢献と承認欲求を全部混ぜた顔で迷宮前へ集まり始めた。
国外はもっと面倒だった。
日本だけダンジョン数が突出して多い。そのうえ、魔石を安定して回収し始めた。しかも、回収に貢献しているのが渋谷事変の食屍姫、つまり私だという噂まで広がっている。各国政府は表では協力を呼びかけ、裏では情報を欲しがり、もっと裏では「日本が魔石を独占するのではないか」と疑い始めた。資源外交、安全保障、探索者の移籍、魔石の国際管理、果ては「玉織紬は国家兵器か民間協力者か」みたいな、本人が聞いたら胃液を吐きそうな議題まで海外フォーラムで燃えていた。
私はそれを、だいたい布団の中で見なかった。
だって怖いじゃない。
私が魔石を二十個渡したせいで世界経済が揺れてます、とか、食屍姫を中心に日本の国力が跳ね始めました、とか、そんな話を真正面から受け止められる社会性が私にあると思うのかしら。ないわよ。あるなら私は面接で気絶していない。
だから、私は報酬明細だけ見た。
あと、支給食の献立表。
社会の変革も、世界の混乱も、私の胃袋へ直接関係するところまで落ちてきて、ようやく輪郭を持つのだわ。魔石二十個によって日本が世界の中心へ一歩踏み出したとしても、私にとっては「次の現場でご飯が増えるか」「報酬が振り込まれるか」「職歴として記録されるか」の方が切実だった。
……まあ、それもどうかと思うけれど。
そんな感じで少しずつ調子に乗り始めていたところへ、龍兄が帰ってきた。
庭に。
正確には、庭の上空から落ちてきた。
政府施設で私が【飢餓咆哮】をぶち当てたあと、公安と村山君がどうにか回収したらしい。さすが公安最高戦力だけあって、普通に生きていた。そこはすごいと思う。ただ、生きて帰ってきたからといって、罪が消えるわけではないのよね。庁舎内トイレに盗撮カメラ疑惑は、さすがに家族会議案件だった。
朔と私は、珍しく意見が一致した。
殺すのは駄目。
でも埋めるのは妥当。
龍兄は庭先でスーツの埃を払っていた。顔は穏やか、声も穏やか、姿勢も穏やか。けれど、その穏やかさがまた腹立たしいのよね。普通、トイレ盗撮疑惑で家族に囲まれた男はもう少し狼狽えるべきでしょう。そこで「誤解なんだ」とか言われても、こちらの怒りの置き場が困るのだわ。
「紬、朔。まずは落ち着いて話を――」
「朔」
「ああ」
私と朔は、同時に構えた。
私の喉の奥で飢餓が熱を持つ。胃袋の不満、怒り、疲労、兄への長年の恨み、そしてさっきから微妙に空いてきた腹具合が、口腔の奥へずるずる集まってくる。隣では朔が口元へ黒い光を収束させていた。あの女の【隠呀王砲】は、玉織家の中でもかなり嫌な技だ。殺意の濃度が濃い。性格の悪さが出ている。つまり、今の用途には非常に合っている。
「【隠呀王砲】」
「【飢餓咆哮】」
二つの出力が、空中で噛み合った。
黒い奔流と、白黒どちらともつかない飢餓の光が絡み合い、ねじれ、互いの嫌な部分を高め合いながら、一本の極太い咆哮へ変わる。その名前をつけるなら、まあ、ひどい名前になるでしょうね。実際、私の口から自然に出た。
「合体技――【性病害獣駆除王咆】!」
「ネーミングは最悪だけど、まあいい!」
朔が叫び、次の瞬間、龍兄は光に呑まれた。
普通なら消し飛ぶ。
けれど、龍兄は龍兄なので、当然のように生きている。ただし、衝撃まではどうにもならなかったらしく、彼の身体は庭の地面へ一直線に叩き込まれた。土が爆ぜ、庭石が跳ね、地下へ向けて穴が穿たれていく。五十メートル、百メートル、二百メートル。ああ、これ、だいぶ深いわねと思っている間にも、穴の奥から地鳴りが響いた。
最終的に、龍兄は地下五百メートルあたりまで埋まったらしい。
地上に残ったのは、ぽっかり開いた縦穴と、焦げた芝生と、朔の荒い息と、私のすごく正当な怒りだけだった。
「……やったかしら」
「やってねえだろ、あのゴキブリ兄貴がこの程度で死ぬかよ」
「それもそうね」
私たちは物置からシャベルを持ってきた。
そして、縦穴へ向かって土を落とし始めた。冷静に考えると、地下五百メートルへ落とした兄を、さらにシャベルで生き埋めにする必要があるのかは怪しい。でも、これは物理的効果より気持ちの問題なのだわ。制裁とは、しばしば儀式性が大事なのである。
「この性病歩行災害!」
「公共施設の敵!」
「玉織家の謝罪行脚製造機!」
「村山君に土下座しろ!」
「ママにもパパにも謝れ!」
「ついでに私の政府会議前の情緒を返しなさい!」
姉妹で罵倒しながら土をかける光景は、たぶん家族愛の一種ではない。ないけれど、玉織家ではわりと普通の範囲かもしれない。少なくとも、朔と共同作業しているという意味では珍しい。私たち姉妹が協力すると、だいたい誰かが地下へ行くのよね。今回は龍兄だった。それだけの話だわ。
穴の奥から、かすかに声がした。
『誤解なんだ』
「埋める量、追加ね」
「ああ」
私たちはさらに土を入れた。
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