VRMMOで【食屍姫】になった無職だけど、現代ダンジョンでも化け物扱いされ始めて嬉しいです! 作:ちんこ良い肉
銀座S級ダンジョン。
そう聞いた時、私はまず「銀座って、ご飯高そうよね」と思ったわ。次に「S級ってことは、食べ応えがありそうじゃない」と思った。つまり、私は働きに来ていたのよ。
銀座の一角には、すでに対策車両と簡易封鎖壁と、やたら顔色の悪い政府職員たちが並んでいた。無人偵察機は戻らず、外縁部の怪異に対しても通常火器は効きが鈍く、突入した探索者の先遣班は二百メートル地点で撤退したらしい。現行兵器が通じない、とはこういうことなのだわ。銃も爆薬も戦車も、人間社会が積み上げた暴力の道具なのに、S級ダンジョンの奥では急に機嫌を損ねた家電みたいに働きが悪くなる。
そんな場所へ、私は正式な協力者として呼ばれていた。肩書きだけ見ると、まあ、立派ね。実物は黒いパーカーの袖をいじりながら、支給されたダンジョン用ブーツが少し固いわね、とか考えている二十六歳女なのだけれど。
同行する特別テスターは三人だった。
剣士の赤羽遼。若いけれど、国内攻略組でも前線へ出ているらしい。腰の剣は魔石加工品で、立ち方に妙な隙がない。
魔術師の白瀬真琴。細身で、落ち着いた目をした女。分析と支援術式が専門で、時間系や耐性持ちへの対処経験もあるという。
盾役の御堂兼光。大柄で、装甲みたいな盾を背負っている。本人も盾も分厚い。見た目からして、ちゃんと前に立って人を守るタイプだったわ。
三人とも、明らかに強い。装備も整っているし、姿勢もいいし、目も死んでいない。こういう人たちが、本来の特別テスターなのよね。私のように、働く前からダンジョンの匂いへ涎を出しそうになっている女とは、だいぶ方向性が違うのだわ。
「玉織さん、体調は?」
白瀬さんが、気遣うように聞いてきた。
「ええ。大丈夫よ。お腹は空いてるけど」
「……それは大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃない日はないわ。お腹が空いてるのは通常状態だから」
白瀬さんは一瞬だけ黙った。赤羽君も黙った。御堂さんは、なぜか少しだけ後ろへ下がった。失礼ね。私はまだ何もしていないのに。
銀座の地面に開いたダンジョン入口は、地下へ降りる巨大な裂け目だった。コンクリートもアスファルトも、雑に食い破られたチョコレートみたいに割れて、その奥に青黒い光が揺れている。エリュシオンオンラインで見たダンジョンの質感そのまま。現実に出てきてはいけないものが、あまりにも当然の顔で現実の床を踏み抜いているのだわ。
私はそこからもれる魔物の匂いを嗅いだ。
じゅるり。
自分の口から、だらしない音が漏れた。直後、ぽたり、と落ちた涎が、ダンジョンの床をじゅう、と溶かす。黒い石材が泡を吹いて沈み、薄い煙が立ち上った。同行三人の視線が、ものすごく嫌な角度で私の口元と床を往復していくのが分かる。
「……今の、唾液ですか?」
「ちょっと胃液寄りかもしれないわね」
「胃液が口から?」
「お腹が空いてると、そういうこともあるでしょう」
「ありません」
赤羽君の声は、かなりはっきりしていた。ないのかしら。でも、今さらそんな人体常識を言われても困るのよね。私だって好きで強酸性の涎を垂らしているわけではないし、人前で床を溶かす二十六歳女になりたかったわけでもない。できれば私は、ちゃんとハンカチを持ち歩く清潔感のある社会人女性として生きたかったわ。けれど現実は、銀座のS級ダンジョン入口で床を溶かしている。人生って本当にままならないものね。
「行きましょう」
私は口元を袖で拭って、ダンジョンの中へ足を踏み入れた。
◇
中は、銀座ではなかった。
天井は高く、壁面には黒い大理石のような材質が広がっていて、そこに金色の血管みたいな線が走っている。シャンデリアに似た肉腫が天井から垂れ、明かりの代わりに青白い魔力を零していた。高級感と内臓感を悪魔が雑に混ぜたみたいな空間で、正直、かなり趣味が悪いわ。でも匂いは良かった。困ったことに、すごく良かったのよ。
最初に出たのは、黒いコウモリの群れだった。
【黒響蝙蝠群:ブラックコーラス・バット】
ウィンドウに名前が出る。エリュシオンオンラインで見たことがあるわ。音波攻撃と吸血と集団攪乱が面倒なタイプ。普通なら範囲攻撃か防音結界で対処する敵よ。
普通なら、ね。
「群体系です。白瀬さん、防音を。御堂さん、前へ。玉織さんはいったん――」
赤羽君が指示を出す。ちゃんとしている。とてもちゃんとしているのよね。だから、少し申し訳ないとは思ったのだけれど。思ったけれど、向こうから口に飛び込んできてくれるのだもの。そんなの、食べるでしょう。食べない理由がどこにあるというのよ。食品ロスを減らすのも社会貢献だし、向こうが明確に敵意を持って襲ってきている以上、私には正当防衛と朝食追加の権利があるのだわ。
私は顎を外し、肺と胃袋と喉をまとめて変形させた。
ごおっ、と空気が鳴る。
黒響蝙蝠群が、悲鳴ごと渦になって私の口へ吸い込まれていく。羽。爪。牙。魔力。音波。全部まとめて、喉を通る時には温かいスナックみたいな感触になっていた。ぱりぱりして、少し苦くて、後味に血の鉄分が来る。悪くないわ。ポテチの悪魔版みたいで、ながら食いに向いているじゃない。
「カービィ……」
御堂さんが呟いた。
「誰がピンクの丸い子よ。あんなに社会性ないでしょう、私」
「否定するところ、そこなんですか」
白瀬さんの声が震えていた。赤羽君は剣を抜いた姿勢のまま固まり、しばらくしてから、ものすごく小さな声で言った。
「……作戦、要らなかったな」
要らなくはないわよ。たぶん。たぶんね。
◇
次に出たのは、灰色の巨人だった。
【絶対無効肉塊:ノーエフェクト・オーガ】
物理無効、魔法無効、状態異常耐性。斬撃も打撃も術式も通らない、ギミック解除前提の面倒な敵。ゲームなら周囲の魔法陣を壊すとか、特定属性で結界を剥がすとか、そういう手順がいるタイプだわ。現実でそんなものをやらされるのは、かなり嫌よ。だって、お腹が空いている時に手順を踏ませる料理って、ちょっと性格が悪くないかしら。食べる前に儀式が必要な食材なんて、だいたい高級店の面倒なコース料理なのよ。私はもっとこう、雑に焼いて雑に噛んで雑に胃へ送りたいのに。
「ノーエフェクト系……! 周辺ギミックを探します。玉織さん、正面からは通りません」
白瀬さんが即座に解析を始めた。偉いわ。ちゃんとした攻略者の反応だもの。
でも、絶対無効肉塊が重い腕を振り上げた時、私は避けずに前へ出た。
「玉織さん!」
「知ってるわ」
私の腹が割れる。服の下で肉が蠢き、肋骨の位置がずれ、腹部に巨大な口が開いた。歯列は私の本来の口よりずっと太く、奥には胃袋へ続く赤黒い管が見えている。自分でやっておいてなんだけど、まあ、人様に見せていいものではないわね。銀座に来る格好としては最低点。けれど、効率はいいのよ。
絶対無効肉塊の腕ごと胴体を、腹の口で噛んだ。
無効化の膜みたいなものが、私の歯と胃袋を押し返そうとした。物理ではない。魔法でもない。ルールそのものが「これは効きません」と言っている感じ。なるほど、立派な耐性だわ。ちゃんとしているじゃない。でも、私の胃袋には関係なかったのよね。攻撃判定の外だったのか、単純に消化力が上回ったのか、私にも分からない。ただ、食べ物が口の中に入って、噛めて、溶けて、胃に落ちる。それだけ分かれば、私には十分だったのだわ。
ごくん。
【絶対無効肉塊:ノーエフェクト・オーガ 完食!】
同行三人が、完全に黙った。
「……攻略手順を、無視しましたよね」
白瀬さんが、解析ウィンドウを見つめながら言った。
「ええ。たぶん」
「たぶん?」
「だって、攻撃というより食事だったもの、それで無効化すり抜けたか胃液で無効化ごと消化したのね」
「食事でS級ギミックを破らないでください」
「破ったというより、いただいたのよ」
白瀬さんは両手で顔を覆った。赤羽君は「これ、報告書に何て書けばいいんだ」と呟き、御堂さんは盾を握り直しながら、「俺、何を守ればいいんだ……?」とかなり根本的な問いにぶつかっていた。
ごめんなさいね。でも、私にも分からないのだわ。
◇
三体目は、時計を背負った蜘蛛だった。
【時喰毒蜘蛛:クロノヴェノム・スパイダー】
銀の脚。文字盤みたいな腹。針の形をした牙。白瀬さんの表情が一気に険しくなる。
「時間干渉系です。全員、私の結界内へ――」
クロノヴェノム・スパイダーの腹部で、長針と短針が重なった。
世界が止まる。
音が消えた。同行三人の表情も、落ちていた砂埃も、青白い魔力の揺らめきも、その場に縫い止められる。私の心臓も一瞬だけ重くなり、筋肉の動きが鈍くなった。ああ、これはまずいわね、と私は思ったわ。普通なら、かなりまずい。動けない相手に猛毒の牙を突き刺す。実に堅実で、性格の悪い戦術じゃない。
でも私は、止まりきれなかった。体の内側で、空腹が鳴ったのよ。不都合。拘束。停止。毒。死。食べることを邪魔するもの全部に、私の身体が勝手に噛みつこうとする。
【捕食抵抗】
スキル名が、頭の奥で熱を持つ。
私は止まった時間の中で、ぎぎ、と首を動かした。筋肉ではない。骨でもない。食欲が世界の隙間を噛んで、無理やり私を前へ押し出している感じ。クロノヴェノム・スパイダーの牙が私の首筋に届く寸前、私はそいつの頭を掴んでいた。
「時間停止って、便利よね」
声は、止まった空間の中で妙に濁って響く。
「でも、それ、私のご飯を冷ますのと同じだから。ちょっと許せないわ」
噛んだ。
時計の味がした。金属と毒と古い血の味。噛むたびに舌の上で秒針が砕け、喉の奥へ落ちていく。猛毒は胃に届く前に分解され、時間停止の違和感は、捕食抵抗の中に種のように沈んだ。
【時喰毒蜘蛛:クロノヴェノム・スパイダー 完食!】
世界が動き出した。同行三人は、私が蜘蛛を完食し舌舐めずりしているところだけを見たらしいわ。
「……今、何が起きたんですか」
「時計味の蜘蛛を食べたわ」
「説明として終わってます」
「私もそう思う」
白瀬さんが震える手で解析ログを開いた。
「時間停止のログが……抵抗、捕食、耐性獲得……え、何これ。術式に噛み跡がある……?」
「術式に噛み跡って何よ。怖いわね」
「あなたの話です」
「そうなの?」
赤羽君は、もう私を見ていなかった。いや、視界には入れているのだけれど、何かこう、理解しようとすると心が壊れるものを見る時の距離感になっていた。御堂さんは盾を構えたまま、明らかに私と魔物の両方を警戒している。分かるわ。私でもそうするもの。
その後も、出てくる敵は全部食べた。骨っぽい騎士、肉っぽい獣、影っぽい人型、宝石みたいな虫。エリュシオンオンラインと同じモンスターばかりで、懐かしさと食欲が同時に来るから困ったわ。暗黒騎士系の個体には【過剰代謝】と【身体変性:血肉双剣】と【封式羅刹】を重ねて斬り刻む。私の腕から伸びた血肉の双剣は、刃というより細長い口で、斬った相手の断面から肉と魔力を吸い上げていく。見た目は最悪。性能は最高。つまり私みたいな武器なのだわ。
倒す。食べる。倒す。食べる。働いている。すごく働いている。私は今、政府の依頼で、銀座のS級ダンジョンを攻略し、危険なモンスターを処理し、周囲の安全確保に貢献しているのよ。それはそれとして、いっぱい戦って動いたからお腹も減ったわ。
私は安全圏らしき小広間で立ち止まり、インベントリを開いた。現実でも使えるようになってしまったそれは、正直かなり便利だった。便利すぎて怖いわね。こういうものへ慣れると、人間として大事な何かがまた一つ外れていく気がするもの。
【超特大弁当・政府補給班仕様】
取り出した弁当は、弁当というより小型のコンテナだった。十俵分の米がほかほかで、牛、豚、鶏、羊の丸焼き肉が詰まり、揚げ物、魚、野菜、麺、パン、ケーキまでありったけ入っている。補給班、私のことを少しずつ理解し始めているわね。怖いけれど、ありがたいのだわ。
私は床に腰を下ろし、最初こそ箸を使った。でも、途中から普通に手で食べた。ダンジョン内の補給だし、効率優先でいいでしょう。
「攻略中に……食事……」
「補給よ」
「それ、補給って量じゃないです」
「働いたからお腹が減ってるのよね……あぁ、お腹減ったわ……」
「……化け物ですね」
赤羽君のツッコミは正論だった。正論は痛い。でも、ご飯は美味い。だから私は正論を揚げ物と一緒に飲み込んだのよ。世の中、飲み込めるものは飲み込んだ方がいいわ。飲み込めないものだけが、人生に刺さるのだから。
◇
補給を終えた頃、奥の扉が開いた。
扉というより、肉と金属でできた巨大な門だった。そこから漏れてきた魔力の濃さで、同行三人の顔つきが変わる。私の胃も鳴った。嫌な予感と食欲は、私の中ではかなり似た場所にあるのよね。
ボス部屋。中にいたのは、大悪魔だった。
【銀座大悪魔:グランギニョル・アモン】
黒い燕尾服のような外殻。山羊の角。人間じみた笑み。背中には、蝙蝠とも翼竜ともつかない翼が六枚。胸には銀座の夜景みたいに宝石が埋まり、手には長い処刑剣を持っていた。美食家気取りの悪魔。そういう感じだったわ。
『ようこそ、下等なる挑戦者たちよ』
声が直接、頭に響いた。
『この銀座宮に踏み入った栄誉を――』
私はインベントリを閉じた。
「ねえ」
『……何だ』
「あなた、美味しい?」
グランギニョル・アモンが、初めて黙った。
仕方ないでしょう。だって、気になったのだもの。見た目がもう美味しそうなのよ。高級悪魔。銀座大悪魔。名前からして絶対に味が濃い。魔力も詰まっている。角は煮込めばスープが取れそうだし、翼は焼いたら皮がぱりぱりになりそうだし、宝石っぽい部分は飴みたいに舐められるかもしれない。
ああ、だめ。考えただけで涎が出る。人前で涎を出すな、玉織紬。二十六歳でしょう。政府案件でしょう。社会の歯車でしょう。歯車は涎を垂らさないわ。たぶん。少なくとも、まともな歯車は強酸性の涎で床を溶かさないはずよ。
グランギニョル・アモンが処刑剣を構える。
『貴様、我を食材として見ているのか』
「ええ」
『即答するな、化け物め!』
「怪物かどうかはどうでもいいわ。美味しそうかどうかの方が大事よ」
私は子紬を召喚した。
正直、そこにはまだ引っかかりがあった。現実で子を持ってはいけないのよ。私は、自分の面倒もまともに見られないくせに、子どもの面倒なんて見られるわけがない。食費、倫理、教育、戸籍、社会性、全部が破綻する。母親という役割に私が触れた瞬間、役割の方が胃もたれを起こして死ぬに決まっているもの。
でも、現実化してしまった以上、考えないわけにもいかなかった。これは子ではない。厳密にはクローン。戦闘用の分体。私の肉から出た、私の延長。そういうことに、しておかないといけないのだわ。
足元の影が、七つに膨れた。
小さな私たちが、ずるり、ずるりと床から這い出してくる。黒髪。青みのある目。小さな牙。大きすぎる食欲。見た目だけなら、まあ、ちょっとかわいい。中身は私なので、社会に出してはいけない子供たちよ。
「ごはん!」
「まま」
「おなかへった」
「たべる?」
「いいにおい」
「ねむい」
「まま、あれごはん?」
七体の子紬が喋った。同行三人は、完全に表情を失った。
分かるわ。私だって客観的に見たら嫌だもの。S級ダンジョンのボス部屋で、食屍姫が七体の小さい自分を召喚して「まま」とか言わせている。ホラーなのかギャグなのか、母性なのか繁殖事故なのか、判定が難しいのよ。ブラックモンスターコメディとしてはかなり出来がいいけれど、当事者としては笑えないわね。
「いい、あなたたち」
私は子紬たちに言った。
「あれは、たぶん美味しいわ」
子紬たちの目が輝いた。
グランギニョル・アモンが翼を広げる。魔力が膨れ、ボス部屋の空気が圧縮されていく。普通ならここで大技が来るのよね。詠唱、結界、広域殲滅。大悪魔としての威厳たっぷりの、いかにもな初手。だから、その前に撃った。
「せーの」
私と子紬七体の喉が同時に開く。
【飢餓咆哮】
飢えが音になった。
それは咆哮というより、世界に向かって「食わせろ」と請求書を叩きつけるような暴力だったわ。私の声と七つの小さな声が重なり、黒い波になってグランギニョル・アモンへ突き刺さる。床が割れ、壁がたわみ、悪魔の胸に埋まった宝石がいくつも砕けた。
『ぐ、ああああああっ!?』
不意打ち成功。社会性は低いけれど、戦闘で遠慮するほど私は育ちが良くないのよ。大悪魔のくせに自己紹介を長々やろうとする方が悪いのだわ。こっちはお腹が空いているのだから、前菜の挨拶は短くしてほしいじゃない。
そこからの戦いは、激しかったけれど長くはなかった。
グランギニョル・アモンは強かった。さすがS級のボスだけあって、斬撃は速く、魔力は重く、再生もする。私が腕を喰い千切れば、黒い炎で焼き返してくる。子紬が脚に噛みつけば、翼で叩き潰してくる。同行三人も援護してくれたが、正直かなりギリギリだった。
赤羽君の剣は何度も悪魔の外殻へ斬線を刻み、白瀬さんの支援術式は私と子紬の再生の隙間を埋め、御堂さんの盾は処刑剣の余波から後衛を守っている。三人とも、ちゃんと強いのよね。ちゃんと戦えている。私ひとりだったら、もっと雑に痛い目を見ていたかもしれないわ。
それでも、私は笑っていたと思う。たぶん、かなりだらしなく。だって、美味しそうだったのだもの。
強い敵は、美味しそうなのよ。魔力が濃くて、肉が硬くて、命がしぶとくて、食べた時にちゃんと私の一部になってくれそうな相手を見ると、どうしても口元が緩むのだわ。女として終わっている。人間としてもだいぶ終わっている。でも食屍姫としては、たぶん正しいのでしょうね。
『死ね、飢えた獣!』
処刑剣が、私の首を落とした。
視界が回る。床。悪魔の脚。子紬の潰れた腕。同行三人の叫び。私の身体が、首から上を失って膝をつく。
あら。首、落ちたわね。
妙に冷静だった。痛い。もちろん痛いわ。痛いのは嫌いだし、できれば泣きたいし、謝って済むなら謝りたい。でも、首だけになっても意識が残っている時点で、私の身体は本当に面倒くさいの。死ぬなら死ぬ、死なないなら死なないで、もう少し分かりやすくしてほしいものだわ。
グランギニョル・アモンも、無事ではなかった。親子飢餓咆哮で胸を砕かれ、血肉双剣で腹を裂かれ、子紬たちに何度も肉を齧られ、翼も二枚失っている。それでも立っていた。さすが大悪魔。高級食材は生命力が違うのね。
『終わりだ』
悪魔が笑った。
『首を落とされてなお蠢くとは、悍ましい怪物よ。だが、ここまでだ。貴様の肉も、その醜い仔らも、我が銀座宮の飾りにして――』
子紬の一体が、這ってきた。片腕がない。脚も潰れている。顔の半分が焼けている。でも、目だけは私と同じだった。お腹が空いて、怖くて、痛くて、それでも食べることだけは諦めない目。
その子紬が、私の生首へ近づいた。
同行三人が息を呑む。グランギニョル・アモンも、何をする気か分からなかったらしい。まあ、分からないでしょうね。普通は母親っぽいものが生首になった時、子どもっぽいものがそれを食べるなんて思わないもの。私だって普通なら思わないわよ。普通ならね。でも、私たちは普通ではなかったのだわ。
子紬が、私の生首を丸呑みした。
柔らかい痛み。小さな歯。咀嚼。嚥下。
ああ、やっぱり私の肉って、私に合うのね。
子紬の腹が膨れた。次の瞬間、その腹の内側から、私が這い出した。骨が組まれる。肉が盛り上がる。髪が伸びる。皮膚が張る。心臓が七つ、順番に火を入れるみたいに鳴り始める。
全回復。
私は子紬の腹からずるりと抜け出し、床に足をつけた。服はだいぶひどいことになっていたし、髪も血でべたべただったけれど、身体は軽い。お腹は空いている。つまり、戦えるわ。
でも一瞬だけ、腹の底とは別の場所が痛んだ。片腕を失った子紬が、私を吐き出したあと、ぴゃ、と小さく鳴いたからよ。
私の延長。私の肉。私の食欲。そう割り切っていたはずなのに、「まま」と呼んだものがぼろぼろになっている光景は、思っていたより気持ちが悪いのね。罪悪感というには薄い。母性というにはおこがましい。けれど、気分はよくないのだわ。
だから、私は悪魔を見た。
「第二ラウンドね」
グランギニョル・アモンの笑みが消えた。
『貴様……何だ、それは』
「私にも説明しづらいわ」
私は首を鳴らした。
「でも、便利でしょう」
『悍ましい……!』
「ええ。そうかもしれないわね」
悍ましい。たぶんそうなのでしょうね。子に見えるものに自分の生首を食べさせ、その腹から復活する女なんて、どう見てもまともではないわ。まともな社会の歯車はそんな復活をしない。公務員試験の面接で言ったら即退場よ。
でも、今は面接ではないのだわ。銀座S級ダンジョンのボス戦で、相手は大悪魔。私は政府に雇われた食屍姫。なら、悍ましかろうが何だろうが、勝って、食べて、提出物を持ち帰ればいいの。
私は身体を変性させた。胃袋を炉に。血液を燃料に。骨を圧力容器に。心臓を点火装置に。細胞一つ一つを、小さな口と小さな釜に変えていく。体内核融合、と呼べるのかしら。正確なものではないのかもしれないけれど、ともかく過剰代謝が跳ね上がり、食べた魔力と肉と毒と時間停止の残滓が、一瞬だけ太陽みたいな熱へ変わる。
私はグランギニョル・アモンに抱きついた。
『離れろ、貴様――!』
「嫌よ」
私の腹が開く。腕が裂ける。血肉双剣が内側へ巻き付き、悪魔の身体を逃がさない。子紬たちが残った力で脚に噛みつき、翼にぶら下がり、角を掴む。
「私の」
熱が膨れる。
「玉織紬の」
悪魔の外殻が赤くなる。
「一部にしてやる」
爆ぜた。
轟音と熱と肉の焦げる匂いが、ボス部屋を満たした。同行三人が結界の後ろで吹き飛び、壁の肉腫が焼け落ち、銀座大悪魔の絶叫が途中で丸焼きの音に変わる。
私は爆心地の中心で、焦げた悪魔に噛みついた。
うまい。ものすごく、うまいわ。
焼けた外殻はぱりぱりで、中の肉は濃厚で、魔力は甘くて苦い。高級ステーキと悪魔と災害を一緒に煮詰めたような味だったの。私はもう我慢できなかった。手で裂き、腹で噛み、口で啜り、残った子紬たちと一緒に喰って喰って喰いまくる。
グランギニョル・アモンは、最後まで完全には死にきっていなかった。
『やめ……我を……喰うな……』
「むぐっあむっ……ごくん。嫌よ」
私は微笑んだ。
「あなた、美味しすぎるもの」
【銀座大悪魔:グランギニョル・アモン 完食!】
ボス部屋に静寂が落ちた。
残党もいた。小さな悪魔、半端に召喚されていた眷属、壁の中に隠れていた肉虫、逃げようとしていた宝石目玉。全部食べた。食べられるものを残すのはもったいないし、敵を逃がすのは危険だし、私は働いているのよね。社会性はなくても、食事と仕事が一致した時の私はかなり真面目なのだわ。
◇
そして、中央の祭壇に魔石が残った。
綺麗だった。とても綺麗で、とても美味しそうだったわ。
青と金と赤が混じった、心臓みたいな魔石。持っているだけで、舌の奥がじんわり甘くなる。これを噛んだら、たぶんすごいのよ。割れた瞬間に魔力が舌へ流れ、喉を焼き、胃袋の奥で爆発みたいに栄養になる。想像しただけで、全身の細胞が口を開けるじゃない。
食べちゃだめ。食べちゃだめよ。我慢。我慢我慢我慢我慢我慢我慢。
本当に美味しそう。
だめ。これは提出物。政府案件。社会の歯車。歯車は魔石を食べないわ。たぶん。少なくとも、支給されていない魔石を勝手に食べる歯車は信用されないでしょう。前のダンジョンでは、ちょっとだけちょろまかしたけれど。
いや、だめよ。今その記憶を掘り返すな、玉織紬。反省しなさい。あれはよくなかったわ。美味しかったけれど、よくなかった。美味しいことと正しいことは別なのよ。私はそこを分かっている女なのだから、行動も少しは伴わせなさい。
私は震える手で魔石を拾い、インベントリではなく専用ケースへ入れた。
偉い。私、偉いわ。今のはかなり偉かった。誰も褒めてくれなくても、私だけは私を褒めていいでしょう。魔石を食べなかった二十六歳。履歴書には書けないけれど、心の職務経歴書には載せておきましょうね。
「……玉織さん」
赤羽君が、疲れ切った声で言った。
「何かしら」
「今のは、本当に助かりました」
「……食べなかっただけよ」
「それが一番助かります」
白瀬さんも、少しだけ笑った。顔は青いし、髪も乱れているし、完全に疲弊しているのに、それでもさっきまでの恐怖一色ではない。
「正直、怖いです。理解できないところも多いですし、報告書に書けないことだらけです」
「でしょうね」
「でも、あなたが味方でよかったとも思います」
「……そういうの、食後に言わないで。消化に悪いわ」
私は顔を逸らした。
御堂さんは盾を背負い直し、深々と息を吐いた。
「俺はまだ、だいぶ怖いです」
「正直ね」
「ただ、前に立って守る相手だとは思わなくなりました」
「あら、失礼」
「一緒に災害を止める相手だと思うことにします」
それは褒め言葉なのかしら。たぶん、半分くらいは褒め言葉なのだと思う。残り半分は恐怖と諦めね。まあ、それで十分だわ。私だって、自分が純粋な安心感を与えるタイプの女だとは思っていないもの。
他にも報酬品があった。
【永久水筒】
【鑑定紙片】
永久水筒は、飲んでも飲んでも水が尽きないらしい。素晴らしいわね。食べ歩きにもダンジョンにも引きこもりにも向いている。鑑定紙片は、対象の情報を読み取る高位アイテム。これも政府が絶対に欲しがるやつだわ。私は少しだけ、これを使って自分の社会性を鑑定したら何が出るのかしら、と思ったけれど、怖くなったのでやめた。見なくていい現実というものがあるのよ。
◇
ダンジョンを出た時、銀座の空は夕方になっていた。
外で待機していた政府職員たちが、私たちを見て固まる。同行三人は疲れ切っている。私は血まみれで、服も破けていて、子紬たちは途中で私の中に戻した。正直、見た目は攻略者というより、ダンジョン側から出てきた災害だったと思うわ。
でも、私はちゃんと提出物を渡した。魔石。永久水筒。鑑定紙片。
政府役員の男が、ケースを受け取る手をわずかに震わせていた。
「……確かに確認しました。玉織さん、今回の報酬は一千万円になります」
「一千万」
私はその数字を頭の中で食費に換算した。
安い。
いや、普通には大金なのよ。分かっているわ。私だって一般常識は知識としてはあるもの。千万円は大金。大金なのだけれど、私の胃袋基準だと、ちょっと心許ないのよね。銀座で十件くらい梯子したら、まあ、そこそこ膨れるかしら、くらいの感覚になってしまうのだわ。
本当は、魔石も永久水筒も鑑定紙片も、この程度の価値ではない。でも、ママが管理した方が良いのよね。たぶん、政府も龍兄も公安も同行三人も補給班も、全員がそう思っている。私に大金と高位アイテムをそのまま渡したら、かなりの確率で食費と奇行と胃袋の中に消えるもの。悔しいけれど、反論しきれないわ。自分への信用がない。自分で自分の財布を信用できないのだわ。
「分かったわ」
私は頷いた。
「お腹もまあまあ膨れてるし、十件くらい梯子すれば足りるでしょう」
「十件……?」
政府役員が小さく聞き返したけれど、私は聞こえなかったことにした。社会で生きるには、聞こえないふりも大事なのよ。
その時だった。
目の前に、青白いウィンドウが開いた。
【条件を満たしました】
【個体名:玉織紬は、存在進化が可能です】
次からはこんなに長くならない様気をつけます
次回進化で魔術は
-
習得させるべき
-
習得させないべき