VRMMOで【食屍姫】になった無職だけど、現代ダンジョンでも化け物扱いされ始めて嬉しいです! 作:ちんこ良い肉
限界、というものは、案外はっきり分かるものだった。
それまでの私は、進化の反動でちょっとお腹が空いている、くらいの認識でいたのよね。もちろん、普通の人間が聞いたら十分に終わっているのでしょうけれど、食屍姫になってからの私にとって、空腹なんてもう天気みたいなものだったのだわ。晴れたり曇ったり、ひどい時は胃が焼けたり、自分の体を少し食べ始めたり、その程度の差でしかないと思っていた。
でも、今回は違った。
胃袋だけじゃなくて、胃袋以外の臓器が、順番に薄くなっていく感覚があったのよ。肝臓が、ああ今ちょっと削られているわね、と分かる。腸が、まだ働けるくせに非常食扱いされ始めている。心臓は偉そうに鳴っているけれど、その周りの肉が少しずつ痩せていく。脳みそだけが、食え、と、駄目、と、食え、と、交互に喚いていて、もう何一つうるさくない場所がなかった。
空腹というより、自分の存在を内側から切り売りされている感じだったわ。
ああ、これは本当にまずいのだわ、と、そこでようやく認めたのよね。今の私は、街路樹でも電柱でも車でも、噛めるものは片っ端から噛みにいけるし、その延長線上に人間だって見えてしまう。そのくらいには危うかった。社会の歯車だとか、職歴だとか、そういう人間らしい単語が全部ふわっと飛んで、目の前の世界が「食べられるかどうか」だけで塗り分けられていくのだもの。気持ち悪いし、怖いし、でも空腹がそれを上回ってくるのだから、だいぶ最低だわ。
だから、澪から場所が送られてきた時には、ほとんど縋るような気持ちで向かったのよね。
向かった、というか。
扉は、たぶん普通に開けてもよかったのだと思うわ。でも、その頃の私は、もうドアノブを回して「お邪魔します」なんて社会性を経由する余裕がなかったのよ。目の前の一枚板が、自分と食べ物の間に挟まっている障害物にしか見えていなかった。結果、私は澪ハウスの玄関を正面から突き破っていた。
ばきん、と、景気のいい音がした。
「……あ」
やってから、ほんの一瞬だけ理性が戻った。でも、その一瞬は、目の前にいた澪と、その後ろへ広がる光景を見た瞬間に死んだ。
飯だ。
大量の飯だった。
嬉しいとか、ありがたいとか、そういう感情より先に、ああ助かった、という本能が来たのよ。そこには、私を飢餓から引き戻すためだけに用意されたとしか思えない量の食料が、部屋のあちこちに当然の顔で並んでいた。重箱。寸胴。保温箱。焼き台。鍋。肉。魚。米。高カロリー栄養食。個人宅へ置いていい量ではない。けれど今の私にとっては、ようやく辿り着いた岸だったわ。
澪が、いつものようににこにこしていた。
「いらっしゃいませ、紬さん。ちょうどよかったです」
「ちょうどよかった、じゃないのよ……!」
声は出たけれど、内容はもう半分どうでもよかった。私はとりあえず目についたものへ飛びついた。パンでも芋でも肉でも、見分ける余裕なんてない。ただ、まず胃に入るものを入れるしかなかったのよ。噛んで、呑んで、次を掴む。咀嚼の途中で次の塊へ手を伸ばす。飢えた獣という表現すら生ぬるい有様だったと思うわ。たぶん、目もあまり人間のものではなかったでしょうね。自分でもそう思うもの。
そうやって手当たり次第に貪っていたところへ、澪がロボットを使って運んできたのが、わんこそばだった。
わんこそば。
ただし寸胴で。
意味が分からないでしょう。私も少し分からなかったわ。でも、その時の私は「意味が分からない」より先に「ありがたい」が来たのよ。人間、極限の飢餓へ追い込まれると、理解より感謝が先に立つこともあるのだわ。
寸胴から立ち上る湯気の向こうで、蕎麦がつやつや光っていた。つゆの匂いが立って、鰹と醤油と油の気配が鼻へ刺さる。優しい味なのに、量だけが狂っている。最高でしょう。
私は両手で寸胴を抱え、そのまま啜った。
ずるるるるるるるるるるるるるるるっ。
喉を通る。落ちる。消える。熱になる。足りない。
「おかわり!」
「はい、どんどん」
「おかわり!」
「はい、じゃんじゃん」
「おかわりおかわりおかわりおかわりおかわり!」
途中から会話ですらなかったわね。ただ、私が請求し、澪が供給するという、ひどく歪だけれど完璧に噛み合った関係性だった。寸胴は次々空になった。三百杯分くらいは空にしたはずだわ。数字にすると自分でも引くけれど、その時の私はまだ足りなかった。
「……足りない」
自分で言って、少しだけぞっとした。三百杯分は空にしたのよ。それなのに、私の内側の空洞はまだ埋まらない。腹は少し膨れているのに、その下で別の胃袋たちが口を開けている感じだった。
そこで出てきたのが、芋煮会用の、重機で混ぜるタイプの特大鍋だった。
私はそれを見て、しばらく固まったのよね。あまりにもでかいから。祭り会場か、災害炊き出しか、そのどちらかでしか見ないサイズでしょう、あれは。なのに澪は何の疑問もない顔で置いた。
「芋煮です♡」
「芋煮会を一人でやらせる量じゃないのよ……!」
文句は言ったけれど、手はもう伸びていた。鍋を抱え、そのまま縁へ口をつけて啜る。芋も肉も汁も葱もこんにゃくも、何もかも一緒に流れ込んでくる。熱い。うまい。優しい。甘い。しょっぱい。牛の脂が喉の奥でほどけて、芋のとろみが胃の壁を撫でる感じがする。偉いわ。これはかなり偉い鍋だった。
「うまっ、うまっ……!」
私は鍋ごと抱えて食べ続け、流れるように空になった鍋の縁まで齧った。それでも、まだ足りなかったのよね。食べているのに、身体の内側の何かが「もっと寄越せ」と喚いている。進化後の燃費って、本当にろくでもないわ。
そこで出てきたのが、鯨の丸焼きだった。
いや、マジで? と思ったわ。思ったけれど、目の前にある以上マジなのでしょうね。どういうルートと財力と善意の気持ち悪さを通せば、こんなものが個人宅へ出てくるのか分からない。でも、今の私にそれを問い詰めるだけの理性は残っていなかったのよ。
「いただきまああああああす!」
私は鯨へ飛びついた。
最初に噛んだのは、たぶん腹のあたりだったと思う。皮を裂いた瞬間、熱と脂が一気にあふれてきて、口の中が海と肉の匂いでいっぱいになった。大きい。重い。濃い。命の説得力がありすぎる。昔の人類がこれを見て「食うか」と思ったの、だいぶ正直で好きだわ。
私は両手を使って肉を引き裂き、裂いた端から口へ押し込んだ。脂が指を伝い、肘まで流れる。頬張るたびに、熱い肉汁が喉の奥へ落ちていく。外側の焼けたところは香ばしくて、内側はしっとりしていて、部位によっては歯を押し返すような弾力もある。その差がいいのよね。でかい食材は、食感の地層があって偉いわ。
「うっ、うま……っ、ちょっと待って、これ、すっご……!」
私はもう、語彙が死んでいたと思うわ。でも仕方ないでしょう。鯨の丸焼きを前にして綺麗な形容詞を並べられるほど、私は育ちが良くないのだもの。
途中から、私は噛みちぎるだけでは足りなくなって、胸元まで口を裂いて食べ始めていた。龍化した今の私の顎と喉は、以前よりずっと広く開く。そこへ大きめの塊をそのまま押し込むと、喉を通る時の圧迫感すら快楽に近いのよね。ああ、今、ちゃんと入ってる。私の欠けた分が埋まっていく。そういう実感があるから。
それでも、鯨はなかなか減らなかった。
ありがたいわね。
食べても食べても、まだ次がある。目の前の塊が消えない。その事実だけで、少しずつ私の中の切迫感がほどけていったのよ。最初はほとんど獣みたいに飛びついていたのに、途中からはようやく「味わう」余裕が戻ってきた。部位ごとの違いが分かるようになって、脂の多いところは舌で転がし、赤身はしっかり噛み、焼けた皮の香ばしさをちゃんと感じられるようになった。
そこで、ようやく理性の残骸が顔を出したのよね。
ああ、私、かなり危なかったのだわ、と。
さっきまでの私は、この鯨が用意されていなければ、たぶん別の何かへ飛びついていた。街だったかもしれないし、人だったかもしれないし、最低でも建材の何かだったでしょう。そう考えると、鯨の丸焼き一匹で文明が守られている構図って、だいぶひどいわね。でも、事実だから仕方ないのだわ。
私は骨の近くの肉を削ぎ取りながら、ほとんど感謝に近い気持ちで食べ続けた。
ようやく食べ終わった頃には、骨格だけが大きく残っていた。普通ならここで終わりなのでしょうけれど、終わる理由がなかったので、その骨も齧った。硬い。でも嫌いじゃない。骨髄の濃さがいいのよね。骨を噛み砕く音って、ちゃんと栄養を取っている感じがして安心するのだわ。
「鯨一匹完食ですねえ」
澪が感心したように言った。
「鯨おかわり!」
自分でも言っていてどうかと思った。でも口が勝手にそう動いたのだから仕方ないでしょう。
で、本当に出てきたのよね。二匹目が。
私はその二匹目へも遠慮なく飛びついた。最初の一匹目ほど獣じみてはいなかったけれど、その分、今度はじっくり味わえたわ。脂の層、焼きの香り、海の気配、肉そのものの強さ。鯨って、食べ物としてやたら話しかけてくるのよね。お前を生かすぞ、って、かなり強く言ってくる。ああいう大きい命を丸ごと食べる時って、説得力があるのだわ。私の空腹を埋めるだけじゃなくて、私の細胞へ「まだ生きろ」って押し込んでくる感じがするのよ。
そうして二匹目の半ばへ差しかかったあたりで、やっと、本当にやっと、私の内臓たちが静かになった。
肺も、肝臓も、心臓の周りの肉も、「これならしばらく保つ」と言ってくれた気がしたのよね。たぶん幻聴だけれど、今はそれでいいのだわ。
私は椅子へもたれ込み、ようやく深く息を吐いた。
「……生き返った」
ほんとうに、そういう感じだった。
そこで、お約束みたいにクソ思考が発動したのよね。
渋谷事変で助けてあげたんだから、これくらいは当然。いや、助けてあげたんだから、これくらいどころかデザートくらい追加で寄越すのが当然では? そもそも私が助けて繋いだ命によって、こいつがこれから医者として稼ぐ額に比べれば、誤差みたいなものでしょう。
……と、そこまで考えてから、自分で自分へ少し引いた。
いやいやいや。私の都合のいいことしか思い浮かばない頭でも、さすがにこの量食って「はいさよなら」は災害では? 少しずつ返していくので……借金返済はお待ち下さい……。そういう殊勝な気持ちも、一応は出てきたのよね。遅いけれど。遅いし薄いけれど、出ないよりはマシでしょう。
私がじろじろ見ていたからか、澪はくすっと笑った。
「何か、いつの間にかドラゴン化してるし、イビルジョーか何かみたいですねえ」
「ひどい言い方ね」
「まあ、紬さんの肉体は、朔さんにケツへ爆竹を詰め込まれても一時間後には完治してたり、元から人間かどうか怪しかったので誤差ですけど」
「誤差にしていい範囲をとっくに超えてる気がするわ」
でも、そういう軽さで言われると少しだけ助かるのよね。深刻な顔で「大丈夫ですか」と言われるより、よほどマシだわ。今の私は自分でもだいぶ引いているのだから、そこへ他人の真面目な心配まで乗ると、余計に胃が重くなるもの。
「全然いいですよ! 紬さんの就職祝いです!」
澪は満面の笑みだった。
「うちの病院でも、ロボットとAIで百年くらい時代を先取りしてますし、紬さんの運んできた迷宮産アーティファクトのおかげですし、それに比べれば誤差ですね!」
「クソが。また医者かよ」
つい、そう漏れた。
中退VS医者。
字面がもう勝負になっていないでしょう。
小学生の頃は、澪は私より頭も悪くて、身体能力も低くて、顔だってそこまででもなくて、だからこそ私は、ああこの子には勝っている部分があるのね、って、ずいぶん気持ちよく優越感を感じていたのだわ。最低でしょう? 知ってる。でも小学生なんて、だいたいそのくらい雑なものよ。
それが今では、善性に加えて、社会的地位も、学歴も、知能も、稼ぎも、だいたい向こうが上じゃない。
嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬、と、私の奥で何かが四連打した。
やめなさい。落ち着きなさい、定職付きの社会の歯車。そう自分へ言い聞かせる。食べ物を用意してもらった直後に、嫉妬で相手を噛みたくなるのは、だいぶ社会性がないでしょう。私の社会性は最初からだいぶないけれど、それでもゼロではないのよ。たぶん。
ご飯ありがとう、と声に出すつもりだった。
でも口から出たのは、
「貴様が妬ましいクソが」
だった。
最悪ね。
しかも、かなり本音だった。私は他人を妬むのに、妬まれない。これが結構しんどいのよ。妬まれるというのは、それだけ相手から見て価値があるということだもの。私はずっと、憧れて、羨んで、下から見上げてばかりで、こちらへ向けられる羨望みたいなものとは縁が薄かった。
「……紬さんに嫉妬してる奴もいますよ」
澪は、さらっとそう言った。
「とある化け物の話ですけど」
何かいきなり語り始めたわね。
でも、澪の奇行はいつものことだった。小学校の修学旅行では、何の前触れもなくカブトムシの交尾の美しさについて、お布団にくるまっている私へ夜通し一方的に語って、一睡もさせなかった女である。あの頃から、だいぶおかしかったのよね。だから今さら、いきなり怪物寓話を始めても、私の中では「また始まった」くらいの扱いにしかならない。
私は話半分で聞きつつ、次の食べ物を探した。
「その化け物は、あらゆる生き物が大好きでした」
澪の声は穏やかだった。
「ただ、その化け物は、あらゆる命の価値を最上位、つまり等価値に置いていたので、命を一つ奪えば百の命が助かる場合、即座にその命を奪いました。最大多数の最大幸福という呪いに取りつかれて、大切な隣人たちを殺し続けました。奪われていい命なんて何一つ無いのに、命と幸福を数字と係数でしか見れない、生きていてはいけない化け物……いえ、化け物というのもおぞましい何かです」
私は牛を両手に持ったまま、もぐもぐしていた。正直、話の半分も入っていなかったと思うわ。だって牛がうまいのだもの。
「はえー」
私は適当めに相槌を打った。
「澪の知り合いにそんなのいるのね。やっぱキチガイは――」
類は友を、まで言いかけてやめた。この理屈だと、澪とつるんでいる私もおかしいことになるもの。いや、おかしいのだけれど、わざわざ自分で認めなくてもいいでしょう。
澪は怒りもしなかった。ただ、少しだけ笑って続けた。
「紬さんの、その……醜悪極まりない自己中ゴミカス無芸大食クソカスクソクソクソクソクソクズドブカス人格、禪院直哉未満クソ女の心であっても」
「後半の罵倒、熱が入りすぎてないかしら」
「でも、一握りの良心と愛が確かにある。命を数字として見ない、人間の心がある。怪物もその心が欲しかった。何を犠牲にしても欲しかった」
私は、ちょっとだけ手を止めた。
言っていることの八割は悪口なのに、残り二割が妙に重たいのよね、この女。どうしてそんな罵倒と告白を同時に成立させられるのか、本当に意味が分からないわ。意味が分からないし、気持ち悪いし、でも、その気持ち悪さの奥にある本気だけは嫌でも分かってしまうのだから、余計にたちが悪い。
私はシイラへ噛みつき、飲み込んで、ようやく言った。
「……んっぐ。ごちそうさま」
腹は、かなり落ち着いていた。
進化後の異常な空腹も、今はひとまずおとなしい。気を抜けばまだ鳴りそうではあるけれど、自分の臓器を非常食扱いするほどではない。牧場と漁港の一部が更地になったことを考えれば、十分な成果でしょう。成果と言っていいのかは知らないけれど。
「まあ、ともかく」
私は椅子へ深くもたれた。
「これからも何かヤバいことがあったら、いつでも駆けつけて守ってあげるわよ。一宿一飯というには、あれすぎるけど」
澪は、そこで妙にうれしそうに笑った。
「実は私、龍さんより強かったりして、紬さんより性格悪かったりして。朔さんより憤怒が似合ってたりして」
「何言ってんのかしら、こいつ」
今の私でも、喧嘩を売ろうものなら二秒で解体できそうな朔。朔に宇宙までぶん投げられて、核ミサイルの追撃を食らっても無傷で帰還した龍兄。あれより強い生き物なんていないでしょうに。私より性格悪いのなんて反社が最低ラインだし。そもそも、澪が怒ったところなんて、私は見たことがないのよ。だから、その台詞は冗談にしか聞こえなかった。
……聞こえなかったのだけれど、妙に引っかかった。
でも、そこで考えるのはやめた。食後に深刻なことを考えるのは、だいたい消化に悪いでしょう。
その後は、なぜかモンハンとスマブラとポケモンをやった。普通に遊んだ。こういうの、だいぶ久しぶりだったのよね。飯のためでも、稼ぎのためでも、仕事のためでもなく、ただ遊ぶだけの時間。私はそういうものを人生の途中でかなり落としてきた女なので、少し戸惑ったけれど、思ったより普通に楽しかったのだわ。
そうして、ひとしきり遊んでから、私は帰ろうと扉を開けた。
その時だった。
背中へ向けて、澪がふいに言った。
「ああそうだ、紬さん」
「何よ」
「この物語は、紬さんの物語は、ハッピーエンドです」
私は振り返った。
澪は笑っていた。いつもの、柔らかくて、気味が悪いくらいまっすぐな笑顔だった。でも、その奥にあるものだけは、いつもと少し違って見えたのよね。優しいだけじゃない。ずっと深くて、硬くて、引き返さない種類の何かが、笑顔の下に沈んでいる。
「私がバッドエンドなんて許しません」
ぞくり、とした。
寒気というより、もっと嫌な予感に近い、本能的な何かだった。
「そんなの設定しやがる馬鹿がいたら」
澪は、相変わらず笑顔のままだった。
「朔さんがドン引きするくらいの超暴力をぶち込んでやります」
私は、しばらく何も言えなかった。
冗談みたいな言い回しだったのに、冗談に聞こえなかったのよ。むしろ、冗談めかしているぶんだけ本気が透けて見えるというか。ああ、この女、本当にそうするつもりなのだわ、と、妙にすんなり腑に落ちた。
怖い。 気味が悪い。 でも、少しだけ、安心もした。
ほんとうに最悪ね。
「……ドン引きだわ」
やっとそれだけ言うと、澪は嬉しそうに笑った。
「でしょう?」
私は扉の向こうへ出ながら、もう一度だけ振り返った。
あの女が何をしているのか、まだ私は知らない。知らないけれど、きっとろくでもない。
それでも、今夜の私は救われたのよね。
胃袋も、少しだけ心も。
だから、まあ、今だけは見逃してあげましょうか。そう思いながら、私は帰り道でまだ残っていたシイラの切れ端へかぶりついた。
食べて、働いて、妬んで、助けられて、また食べる。
私の人生って、本当に品がないわね。
でも、こういう泥まみれの延命の仕方も、案外悪くないのかもしれない。
怪物はあの居酒屋で救われたんですよとボソっと声が聞こえた様な気がしたけれどきのせいね。
■■■■
夜道は、妙に静かだった。
街灯の白い光が、濡れたアスファルトの上へ薄く伸びている。人の気配は遠く、車の音もない。ただ、どぶ川めいた側溝の奥で、水が粘つくように流れる気配だけが、かすかに続いていた。
その時だった。
――テケリ・リ。
耳の奥を、爪でなぞるみたいな声がした。
彼女はは足を止めた。食欲とも、殺意とも違う。もっと原始的で、もっと底の浅い、なのに底知れなく不快な「何か」が、暗がりの中でこちらを見ている気配だった。
側溝の中で、ザリガニが何匹も暴れていた。
赤黒い殻が、ぶるぶると震えている。逃げようとしているのに、逃げられない。細い脚も、鋏も、眼球も、全部まとめて、タールのような黒い粘体へゆっくり呑まれていく。ぬめりの表面には、溶け切らなかったみたいに、目が浮いていた。口もあった。いくつも。大小無数の口が、側溝の中で開いては閉じ、開いては閉じ、そのたびにザリガニの殻が、ばき、ばき、と嫌な音を立てて沈んでいく。
――テケリ・リ。テケリ・リ。
粘体が、鳴いた。
それは声というより、飢餓そのものが音を真似たような響きだった。知性はない。ただ食欲だけがある。空腹だけがある。世界の形をろくに理解しないまま、ただ「口に入るもの」を増やし続ける、底の抜けた悪意だけがそこにあった。
ぬたり、と。
粘体の表面が持ち上がる。目が一斉に、玉織紬を向いた。
その瞬間、夜の道が、急にひどく狭く見えた。
街灯も、道路も、家並みも、全部が薄い書き割りみたいに遠のいて、ただあの黒い粘り気だけが、現実の中心みたいに膨らんでいく。側溝へ収まっていたはずの質量が、ありえない速度で増えていく。溢れる。這い出す。縁石を越える。アスファルトの上へ、ぬめる黒が広がる。その表面に浮かぶ無数の口が、笑うみたいに裂けた。
玉織紬は、その場でほんの一瞬だけ立ち尽くした。
哀れなほど無防備に、黒いパーカーの裾を夜気へ揺らしながら。
暴食粘体は、彼女を見ていた。
食える、と認識したのだ。
人の形をした、少し大きな餌。温かく、よく動き、きっと美味いもの。そんな程度の浅ましい確信だけで、あれは世界の側から這い寄ってきていた。
――テケリ・リ。
次の瞬間、粘体は跳んだ。
夜そのものが、口を開けて襲いかかってきた
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お察しの結果の次回の次の次次回内容は
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ホラーVS暴食
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海外ダンジョンWITH柚姉