【完結】VRMMOで【食屍姫】になった無職だけど、現代ダンジョンでも化け物扱いされ始めて嬉しいです! 作:ちんこ良い肉
スキナー箱と、娯楽の溢れる現代で、ここまで読んでいただいた事には感謝しかありません。
黒幕は、遺書を開いていた。
白い封筒だった。
差出人の名前は、玉織紬。字はあまり綺麗ではない。丁寧に書こうと努力した痕跡はあるのに、途中で面倒になったのか、後半の線が少し跳ねている。封筒の端には、油染みのようなものが一つだけ残っていた。たぶん、書きながら何か食べたのだろう。あの人らしい、と河村澪は思った。
葬列は、もう終わっていた。
世界が泣いていた。
総理大臣が、国家の代表として弔辞を読んだ。補給班が泣いていた。公安が泣いていた。配信を見ていた世界中の人々が、画面の向こうで泣いていた。近所の子供たちも、泥団子を握りしめながら泣いていた。玉織家の人々は、それぞれの形で壊れていた。龍は泣き、結は歯を食いしばり、父は何度も眼鏡を外して目元を拭い、朔は泣かずに遺品整理の箱を蹴り飛ばした。柚は何も言わず、ただ祈るふりをしていた。俊は、紬姉、と何度も呼んでいた。
回収できたものは少なかった。
黒パーカー。
身分証。
潰れたプリンの箱。
それだけだった。
肉体はない。魂もない。子紬たちを経由して蘇生を試みた者もいた。けれど、駄目だった。最後の吐息に、玉織紬は自分の肉体も、スキルも、魂も、存在も、偽装経典さえも燃やし尽くした。あれは死ではなく、使用だった。玉織紬という個体を、最後の最後まで、世界を救うための燃料にした結果だった。
満足して死んだ。
きっと、そうなのだろう。
河村澪は、それを理解していた。
理解していたからこそ、遺書を開く手が少し震えた。
封筒の中には、何枚もの紙が入っていた。ところどころに、食べ物の話が混ざっている。真面目なことを書こうとして、すぐに照れ隠しで逃げる。感謝を書くと胃が痛くなるから、途中でラーメンやプリンや白米の話を挟む。玉織紬という女の、どうしようもなく不格好な誠意が、そこには詰まっていた。
澪は、一枚目を開いた。
◇
――これを読んでいるということは、私はたぶん死んだか、死んだ扱いにされたか、あるいは胃袋だけ別の場所で元気に活動しているかのどれかでしょうね。
最後の可能性については、かなり嫌だけれど、否定しきれないのが私の人生の嫌なところだわ。
まず最初に言っておくけれど、葬式で出るご飯はケチらないでちょうだい。
私が食べられないぶん、せめて来た人間には美味しいものを食べてほしい。寿司。肉。揚げ物。甘いもの。汁物。白米。できればラーメンも。葬式でラーメン? とか言うな。私の葬式でしょう。私の葬式で私の好きなものを出さなくてどうするのよ。
それと、棺に食べ物を入れるなら、量はちゃんと考えなさい。普通の弁当一個とか、ああいう形式的なやつはやめて。死んでまで侘しい気持ちになりたくないの。
まあ、死んでいるなら味は分からないかもしれないけれど。
それでも、気持ちの問題よ。
◇
総理へ。
まず、すみません。
私はたぶん、国家の書類上、最後まで扱いに困る女だったと思います。
民間協力者。特別協力探索者。食屍姫系特別テスター。対怪異高適性個体。終末級災害対応特別協力者。公共珍獣。
どの名前も、たぶん半分くらいは正しくて、半分くらいは間違っているのでしょうね。でも、私としては、少しだけ嬉しかったです。
ご飯を出してくれたこと。
役割をくれたこと。
報酬をくれたこと。
怪物とか兵器とか、そういう名前だけで切り分けずに、一応、私を社会の中へ置こうとしてくれたこと。
私は立派な人間ではありませんでした。善人でもないし、社会性もないし、政府の偉い人たちの前では五分で胃液を吐くし、戦車も食べようとしたし、たぶん国家予算にもかなりのダメージを与えました。
でも。
それでも、少しくらいは役に立ったでしょうか。
私が食った魔物のぶんだけ、誰かが助かったなら。私が持って帰った魔石のぶんだけ、どこかの電気が灯ったり、誰かの病気が治ったり、畑に野菜が育ったりしたなら。それは、かなり良いことだったと思います。
私みたいな泥の歯車でも、少しくらい回れたということだから。
最後にお願いです。
私の死を、あまり綺麗な話にしすぎないでください。
英雄とか、救世主とか、そういうのは似合いません。
私はたぶん、腹が減って、怖くて、痛くて、嫌だ嫌だと思いながら、それでも食えるものを食って、なんとか前へ進んだだけです。ただ、そういうものでも、必要なら社会の役に立つことがある。その程度の扱いで十分です。
あと、私の遺族へ変な勲章を渡すなら、できれば食べられる形にしてください。
勲章型クッキーとか。
いや、これは冗談です。
半分くらい。
◇
澪は、そこで一度目を閉じた。
総理は、葬儀で泣いていた。国家の代表としての涙ではなく、一人の人間として泣いていた。あの男は、紬を兵器としてではなく、国民として扱おうとした。だからこそ、紬は最後まで仕事という言葉に縋れた。
澪は次の紙へ進む。
◇
ガキ共へ。
まず、私のベイとカードとゲームソフトは、勝手に分けなさい。ただし、禁止ベイは私の墓前へ供えること。あれは大人の知性の結晶だから。ズルじゃないわ。盤外戦術よ。
あと、ケーキを買ってくれたガキ。
あんたは将来有望よ。
たぶん立派な社会の歯車になるわ。私が保証する。保証されても困るでしょうけど。
公園で私と遊んでいたことは、あまり大人に自慢しすぎないようにしなさい。普通に心配されるから。でも、私としては楽しかった。かなり楽しかったわ。
ベイブレードで大人気なく勝つのも、カードでボコられて半泣きになるのも、ポケモンで受け回しを崩されて寝込むのも、水鉄砲でお山の大将をやろうとして澪に王位を奪われるのも、泥団子を作るのも、全部それなりに楽しかった。
私はまともな大人ではなかったけれど、あんたたちの前では、たまに「公園の変なお姉さん」くらいにはなれた気がします。
それがありがたかった。
あんまり悪い大人になるんじゃないわよ。
あと、知らない大人の車には乗るな。
変な誘拐犯が来たら、すぐ逃げなさい。私がいないなら、車を食って解決できないのだから。
◇
レイへ。
村山君。
あなたは本当に、かなり珍しい人でした。
善良で、常識があって、社会性があって、なのに私を見ても逃げなかった。まあ、何度か引いてはいたけれど。あれは仕方ないわね。私だって、巨大ゴキブリを食べながら真面目に戦術解説してくる女がいたら、普通に嫌だもの。
あなたは、私の食事風景にドン引きしながらも、ちゃんと話を聞いてくれました。私の言葉を、珍獣の鳴き声としてではなく、一応、人間の発言として処理しようとしてくれた。
あれ、けっこう嬉しかったのよ。
たぶん言ってなかったけど。
私は、あなたみたいな人が苦手です。善良で、常識があって、ちゃんとしていて、私のコンプレックスを静かに刺激してくるから。でも、嫌いではありませんでした。むしろ、かなり頼りにしていました。
もし私がいなくなった後も、政府が変なことをしそうになったら、ちゃんと止めてください。
玉織紬は怪物でした、兵器でした、便利でした、だから次も似たような誰かを同じように使いましょう――みたいな流れになったら、ちゃんと眉をひそめてください。
あなたのその善良さと常識は、たぶん、私みたいなものよりずっと社会に必要です。
あと、侍としてはもう少し陰湿な戦い方を極めなさい。
食毒空刃、かなり良かったわよ。
◇
澪は、少しだけ笑った。
村山レイは、葬儀の最中も姿勢を崩さなかった。けれど、弔辞の後に誰にも見られない場所で、しばらく動けなくなっていた。常識ある人間ほど、玉織紬の死をどう処理すればいいのか分からなくなる。英雄と呼ぶには汚く、怪物と呼ぶには人間臭く、国民と呼ぶにはあまりにも遠く、けれど兵器と呼ぶには、その食欲も、嫉妬も、プリンの箱も、あまりに生々しすぎた。
澪は次へ進んだ。
◇
パパへ。
今まで食費、本当にすみませんでした。
たぶん、この一文だけで原稿用紙百枚ぶんくらいの謝罪に相当すると思います。
冷蔵庫の中身を勝手に食べたこと。家計に大穴を開けたこと。財布からお金を抜いたこと。食費のレシートを見て頭を抱えさせたこと。公務員試験の筆記まではそこそこ行けたのに、面接で全部ぶち壊したこと。
いろいろ、ごめんなさい。
私はパパの期待するような娘にはなれませんでした。
ちゃんと働いて、ちゃんと自立して、ちゃんと社会の中で普通に暮らす。そういう当たり前が、最後まで本当に難しかった。でも、パパが官僚で、ちゃんと社会の歯車をやっている人だったから、私はずっとそれに憧れていました。
言ったことはなかったけれど。
社会の歯車になりたい、と思った時、私の中にある一番分かりやすい見本は、たぶんパパでした。だから、なれなかったのが悔しかった。でも少しだけ、最後の方は、それっぽいことができた気がします。
魔物を食べて、魔石を持って帰って、政府に必要だと言われた。
かなり歪だけれど。
それでも、少しはパパのいる社会の側へ近づけたでしょうか。
そうだったら、少し嬉しいです。
◇
ママへ。
まず、冷蔵庫を食べてごめんなさい。
あと、何回も食費で家計を圧迫してごめんなさい。あと、怒られると分かっていても盗み食いしてごめんなさい。あと、島流しされた時、三日で寂しくなって帰ってきてごめんなさい。
鮑はちゃんとお土産のつもりだったのよ。
信じて。
ママに撫でられるの、けっこう好きでした。
渋谷の後、頭を撫でてもらった時、本当に嬉しかった。あの時、私は表面上は「まあ当然でしょう」みたいな顔をしていたけれど、内心ではかなり調子に乗っていました。ママが褒めてくれるなら、もう一回くらい世界を救ってもいいかしら、くらいには思っていました。
我ながら安い女だわ。
でも、しょうがないじゃない。
褒められるの、嬉しかったのよ。
私は、ママにとって扱いづらい娘だったと思います。可愛げがない。食費がかかる。生活がだらしない。社会性がない。なのに、たまに変なところで傷つく。面倒くさかったでしょう。
それでも捨てないでくれて、ありがとうございました。
でも、ママの子供でよかったです。
これは死んだあとだから書けることで、生きていたら絶対に言わなかったでしょうね。言ったら泣くし、恥ずかしいし、たぶんそのあとお腹が空くから。
私が最後まで「帰る家」というものを持っていたのは、ママのおかげです。
お腹が空いた時に、帰る場所がある。
それは、かなり大きな救いでした。
◇
澪の指が、そこで止まった。
頭を撫でる。
ただそれだけのこと。
けれど、それは玉織紬にとって、たぶん世界を救うよりも重かった。命を捨てることより、誰かのためにプリンを食べずに持ち帰ることの方が難しい女だった。そういう女が、母に撫でられた記憶を、死の直前まで大事に持っていた。
澪は、自分の両親の最期を思い出す。
炎の中で笑っていた顔。
自分を庇って焼け死んだ両親。
幸福を願われることの苦痛。
愛されることの罪悪感。
死んでいい命なんて一つもなかったのに、自分なんかを庇って、善人が死んだ。それが河村澪という怪物の始まりだった。
彼女はまた、紙をめくった。
◇
龍兄へ。
大嫌い。
本当に大嫌い。
下半身が終わっているし、気持ち悪いし、面倒くさいし、善性の向き方だけが妙に本物で、そのくせ自分も泥の側にいるみたいな顔をしているのに、社会にはちゃんと噛み合っているし、公安最高戦力だし、声も顔も良いし、何もかも腹立たしい。
私はたぶん、家族の中で龍兄が一番嫌いです。
でも。
一番、恩があります。
中学の時、助けてくれたこと。
あれは、たぶん一生返せなかった。
弱肉強食だと言って私を殴った連中に、本物の強者の理屈を振り下ろした龍兄が、怖かった。でも、救われた。あの時、私が人間側に踏みとどまれた理由の一つは、たぶん龍兄です。
あと、龍兄が壊れていた時。
私は何もしていないと思っています。
部屋に行って、スマホをいじって、プリンを食べて、寝ただけ。それを救いだったとか言うの、本当にずるい。気持ち悪い。でも、少しだけ嬉しかった。
龍兄は、私を人間側へ引っ張るのが上手すぎる。
私は怪物かどうかなんて、正直どうでもよかったのに。でも、龍兄が怒るから。龍兄が「民間人だ」「妹だ」と言うから。私はそのたびに、自分を少しだけ雑に扱いづらくなりました。
それも、たぶん恩です。
だから最後に言っておくわ。
盗撮はやめなさい。
女癖も直しなさい。
サキュバスアバターも封印しなさい。
できないなら、朔に臓器から順番に売られなさい。
でも、まあ。
ありがとう、龍兄。
大嫌いよ。
◇
柚姉へ。
あなたは本当に気持ち悪い女です。
嘘が好きで、ペテンが好きで、信仰を道具にして、それでいて本気で弱者を救おうとしている。矛盾しているのに、あなたの中ではたぶん綺麗に繋がっているのでしょうね。
そこが嫌いで、少し羨ましい。
私は嘘が下手でした。社会性のあるふり。感じのいい女のふり。ちゃんとした人間のふり。どれも短時間ならできても、すぐ崩れる。でも柚姉は、嘘を嘘として愛して、嘘のまま人を救う。
意味が分からないわ。
でも、すごいことだとは思います。
私が死んだら、葬式で変な宗教儀式をやるのはやめてください。
いや、少しならいいわ。
少しなら。
ただし、私を聖女とか救世主とかに仕立てるのは禁止。私はそんな綺麗なものではありません。どうしても教義にするなら、
「腹が減っていたので世界を少し救いました」
くらいにしておきなさい。
あと、私の死後に「食屍姫教団」みたいなものができたら、ちゃんと潰すか、せめてまともに管理してください。あなたならやりかねないから怖いのよ。
◇
俊君へ。
俊君は、玉織家の良心です。
本当にそう思う。
あの家で、まともに爬虫類を愛でて、まともに優しくて、まともに「すごいね」と言ってくれる存在がいるのは、かなり奇跡だと思います。
私のことを「紬姉」と呼んでくれてありがとう。
私はあまり良い姉ではありませんでした。むしろ、姉としての点数はかなり低いでしょうね。食べ物は奪うし、生活はだらしないし、何かと迷惑をかけるし、たぶん教育上あまり見せてはいけない存在だったと思います。
でも、俊君に褒められるの、かなり好きでした。
「すごい、さすが紬姉」って言われると、普通に嬉しかった。私でも、誰かにとって少しくらい「すごい姉」になれる瞬間があるのだと思えたから。
それは大事なことでした。
ありがとう。
あと、私の部屋に残っている食べ物は、たぶん賞味期限が怪しいので気をつけなさい。でも、非常食としては使えるかもしれないわ。
無理に使うな。
◇
朔へ。
正直、何を書けばいいのか分からないわね。
あなたは怖い。
本当に怖い。
私を何度も病院送りにしたし、東京湾へ沈めたし、火炙りにしたし、イナズマ椅子だのファラリスの牡牛だの、普通の妹が姉へ向けるべきではない語彙を日常的に使ってきた。
でも、私も悪かった。
かなり悪かった。
あなたの漫画を売った。Suicaを盗った。食べ物も盗った。お金も盗った。冷蔵庫も襲った。たぶん、普通の姉ならしないことを山ほどした。だから、あなたの怒りのかなりの部分は正当だったと思います。
正当すぎて痛かったけど。
私はあなたが苦手でした。
怖いから。強いから。私の駄目なところを容赦なく殴ってくるから。
でも、あなたが本当に私を見捨てたことは、たぶん無かった。
怒って、殴って、罵って、それでも家族の中へ私を置いていた。
あなたなりに。
それは分かっています。
認めたくないけれど。
もし私が死んだら、たぶんあなたは泣かないでしょうね。泣かないで、舌打ちして、遺品整理をして、私の残した迷惑を処理して、ついでに「最後まで面倒かけやがって」と言うのでしょう。
それでいいわ。
でも、もし本当に少しだけ悲しいと思ったなら。それは、誰にも見せなくていいから、ちゃんと自分の中で認めてください。
私は、あなたに嫌われる理由が山ほどある姉でした。
でも、あなたが私を完全にどうでもいいものとして処理できないことくらいは、たぶん知っています。
嫌いだし怖いけれど。
ありがとう、朔。
あと、私の残した食費の借金があったら、できれば龍兄へ回しなさい。
◇
おばあちゃんへ。
おばあちゃん。
私は、おばあちゃん家の布団が好きでした。
台所の匂いも、お茶の匂いも、おせんべいの匂いも、柱時計の音も、畳も、全部好きでした。私はいつも腹を空かせていて、だらしなくて、迷惑ばかりかけていたけれど、おばあちゃんは「たくさん食べなさい」と言ってくれました。
それが、どれだけ嬉しかったか。
たぶん、ちゃんと言えていません。
私は食べることが好きです。
好きというより、生きることそのものに近いです。
だから「食べていい」と言われると、それだけで少し許された気分になりました。おばあちゃんの前では、私は少しだけ安心して腹を鳴らせました。
それはかなり、救いでした。
もし私が死んだら、あまり泣きすぎないでください。
いや、少しは泣いてほしいわ。
でも、泣きすぎると私が困ります。私はおばあちゃんに、悲しませるために懐いていたわけではないから。
おばあちゃんのご飯、美味しかったです。
何を食べても美味しかった。
たとえそれが、普通の味噌汁とご飯と漬物でも。
たぶん、あれは私にとって、かなり人間らしいご飯でした。
ありがとうございました。
◇
澪は、次の紙をしばらく見られなかった。
自分宛だと分かったからだ。
けれど、読まないという選択肢はない。これは、玉織紬が最後に残した手間だった。命を捨てることより、プリンを食べずに持ち帰ることの方が難しかった女が、照れ隠しを挟みながら、それでも誰かへ言葉を渡そうとした証だった。
澪は、紙を開いた。
◇
澪へ。
大嫌い。
本当に、大嫌い。
お前がいなければ、私はこんなふうに善性へ憧れて苦しまなかった。社会性へ憧れなかった。コミュニケーション能力へ憧れなかった。誰かの葬列で泣かれるような人間になりたいなんて、しみったれた夢を持たずに済んだ。
お前がいたから、私は自分がどれだけ醜いか、どれだけ届かないか、どれだけ欲しいものへ手が届かないか、毎回毎回思い知らされた。
だから大嫌い。
でも。
お前がいなければ、私はもっと終わっていた。
善性を羨むことすら知らず、社会性を欲しがることすらなく、自分が誰かに悲しまれたいと思うことすらなく、ただ食べて、寝て、奪って、腐っていく何かになっていたと思う。
だから本当に最悪なのよ。
お前は私の傷で、呪いで、憧れで、嫉妬で、たぶん救いでした。
幼稚園で、私が芋虫を食べた時。
お前は芋虫にも、私にも泣いた。
あの時から、意味が分からなかった。
でも、綺麗だった。
私はたぶん、あの瞬間から、お前みたいな心が欲しかった。
何を犠牲にしても欲しかった。
でも、手に入らなかった。
お前は、私の葬列で泣くと言った。私の死を、半身を砕かれたような痛みとして墓場まで持っていくと言った。
気持ち悪い。
本当に気持ち悪い。
でも、あれ以上に救われた言葉を、私は知りません。
だから。
もし本当に私が死んだなら。
泣きなさい。
ちゃんと泣きなさい。
私のために。
私なんかのために。
お前が言った通り、私の死を引きずって、痛がって、悔しがって、それでも生きていきなさい。
それが、私の夢だったから。
お腹いっぱい食べることと、お布団で眠ることの次くらいに、大事な夢だったから。
でも、いつまでも死ぬほど泣き続けるのはやめなさい。お前が本当に潰れたら、私がなんだか負けたみたいで腹立つもの。
私はたぶん、最後までお前が大嫌いです。
大嫌いで、妬ましくて、気持ち悪くて、怖くて、眩しくて、救われたくなくても救われてしまう、最悪の女でした。
だから最後に、一回だけ言っておくわ。
ありがとう。
大嫌いよ、私の救世主。
◇
紙の上に、雫が落ちた。
河村澪は泣いていた。
声は出なかった。叫ぶことも、嗚咽することもできなかった。ただ、涙だけが落ちていた。半身を砕かれたような痛みとして墓場まで持っていく、と彼女は昔、紬へ言った。その言葉は本心だった。一言一句、嘘ではなかった。
けれど、本当は。
本当は、澪の葬列にも紬に来てほしかった。
泣いてほしかった。
無理だと分かっていた。自分の方が先に死ぬ可能性は低い。そもそも、自分は罪悪感で不死に近い怪物になっていた。玉織紬よりも、人間でいられない側へずっと遠くまで行ってしまっていた。
それでも、願っていた。
自分と同じ場所に立つ唯一の歯車に、看取ってほしかった。
澪は紙を胸へ押し当てた。
「……嘘つき」
小さく、声が漏れた。
大嫌いだと書いている。
ありがとうと書いている。
救世主と書いている。
全部、紬らしい逃げ方だった。逃げて、照れて、罵って、最後に少しだけ本音を置く。あの女は最後まで、善性の渡し方が下手だった。けれど、下手なまま、確かに渡してきた。
澪は最後の紙を読んだ。
◇
最後に。
私、玉織紬は、立派な人間ではありませんでした。
善人ではありませんでした。
社会性もありませんでした。
家族へ迷惑をかけ、他人へ迷惑をかけ、食費を食い荒らし、冷蔵庫を襲い、時に車も戦車も魔物も食べ、だいたい人生のあちこちで失敗しました。
でも。
それでも私は、歯車になりたかった。
まともな形でなくても。
泥でできていても。
噛み合うたびに周囲を少し削ってしまうような、ろくでもない部品でも。
それでも、どこかで回りたかった。
誰かに、少しでも必要だと言われたかった。
その願いが、最後に少しでも叶っていたなら。
私は、まあ。
それなりに、悪くない人生だったのかもしれません。
お腹は、たぶん最後まで空いていました。
でも、それも私らしいでしょう。
では、さようなら。
ご飯はちゃんと食べなさい。
お布団ではちゃんと寝なさい。
あと、私の葬式の料理だけは、本当にケチらないで。
――玉織紬。
◇
澪は、遺書を閉じた。
世界は、玉織紬の死をハッピーエンドとして処理しようとしている。
それは間違いではない。
玉織紬は、最後の最後で自分を少し好きになった。自分と友達になれるかと問われれば、ずっと「無理」と答えていた女が、あの一瞬の自分にだけはイエスと言えた。世界に惜しまれ、家族に惜しまれ、澪に惜しまれ、自分自身に惜しまれながら死んだ。
贅沢すぎる結末。
もったいないほどのハッピーエンド。
たぶん、玉織紬本人はそう思っている。
でも。
河村澪にとっては、足りなかった。
「……満足して死んだから、何だって言うんですか」
澪は、遺書を机へ置いた。
部屋の奥に、巨大な装置があった。
迷宮AI、エリュシオン・オンライン運営権限、接続現象の根源コード、創造主から奪い取った世界改変権限。すべてを接続した、現実と物語と魂の境界を操作するための祭壇。誰にも見せていない。柚だけが、これの存在を知っている。
そう。
柚だけが、協力者だった。
◇
河村澪は、生まれついての高い共感性を持った一般人として作られた。
皆の幸せを喜び、皆の不幸を悲しむように。
ただ、そういう機能を持つ血肉の歯車として。
人間は、それを優しい子と呼んだ。
澪自身は、ずっと怪物だと思っていた。
人間が大好きだった。あらゆる生物が大好きだった。蝶も、犬も、猫も、虫も、魚も、人間も、魔物も、殺人鬼も、独裁者も、戦争屋も、泣いている子供も、笑っている老人も、全部愛しかった。
けれど、その愛は人間のものではなかった。
価値を選べなかった。
命を等価値に置いた。
一つの命を奪えば百の命が助かるなら、即座にその一つを奪う。百の命を奪えば一億の命が助かるなら、血を吐きながら百を奪う。奪っていい命など一つもないと分かっていながら、それでもより多くの幸福を選んでしまう。
最大多数の最大幸福。
最初は言葉ですらなかった。
それは呪いだった。
子供の頃、玉織紬は澪の後ろをついてきた。友達がいなかったからだ。消去法だったのだろう、と澪は思っている。玉織紬は人間と呼ぶには生態があまりにもアレで、怪物と呼ぶには自分に致命的に向いていないものへ憧れすぎていた。
クズで、哀れで、まるで苦しむために生まれたかのような生態で、必死に藻掻く愛しい命。
人にも怪物にもなれない泥の歯車。
澪は、それを同族だと思った。
自分は善性を持つように作られた歯車だった。そういう機能を発揮しているだけのものに、自分自身は価値を感じられなかった。けれど、玉織紬は違った。悪性も、食欲も、怠惰も、嫉妬も、どうしようもない自己中心性も抱えながら、それでも善性へ手を伸ばしていた。
泥の機構が、自分の仕様に逆らっている。
その姿が、澪には尊く、美しく、綺麗に見えた。
子供時代は、幸せだった。
少なくとも、自分が根本的に一人ぼっちではないと錯覚できた。
玉織紬も、自分の親友だと思っていた。泥まみれで、間違っていて、食い意地が張っていて、こちらの善性を妬んでくる、けれど妙に馬が合う親友。
幸せだった。
家族が、澪を庇って死ぬその時までは。
善良な両親だった。
自分なんかを庇って、焼け死んだ。
最後まで、澪の幸福を願って笑っていた。
澪はその時、自分が生物ですらない機構なのだと思い知った。人間を愛するように作られた歯車。皆の幸せを願うように作られた怪物。その怪物を庇って、善人が死んだ。
叔父に引き取られた。
必死で医者になろうとした。馬鹿なはずだった脳みそは、狂気の精神に引っ張られるように突然変異を遂げ、爆発的な知能を得た。寝ずに学び、読んだものを片っ端から記憶し、人体を学び、命を救う方法を学んだ。
けれど、叔父も強盗に殺された。
その強盗は逃げた。子供を人質に取り、警官隊にも被害を出した。死者が増えた。
何故?
あの日、叔父と揉み合っていた強盗をその場で刺していれば、こうはならなかった。
そこで、澪は気づいてしまった。
他者を生かすのは難しい。
殺すのは簡単だ。
大量に殺す存在を殺すのが、一番多くの他者を幸せにできる。
最大多数の最大幸福の亡霊が生まれた。
肉体も、そうあるべきだという狂気に引っ張られた。ただの少女の肉体は、歴戦の戦士のそれへ突然変異を起こした。骨格が変わり、筋肉が変わり、神経伝達が変わり、反射と判断のすべてが殺すために最適化されていった。
独裁者を殺した。
扇動家を殺した。
死の商人を殺した。
皆、愛しい隣人だった。
顔を覚えていた。
名前を覚えていた。
殺した時の呼吸を覚えていた。
墓碑が心を埋めた。
罪悪感で壊れていた。
三大欲求も、嫉妬心も、欲望も、傲慢も、すべて消えた。尊い命を奪って奪って奪った自分が幸福になるなど、考えたくもなかった。食事すら拒絶した。他者の命を糧に自分の命を繋ぐことが、耐えがたかった。
死にたかった。
でも、罪悪感と責任感が死なせてくれなかった。
死ねると思っても、殺してきた命たちが、楽になるなと叫んだ。狂気による変異の果てに、澪は罪悪感で不死の怪物となった。責任感で、どんどん殺しに向いた形へ変異していった。
戦う相手は、より強大になった。
元の世界が腐り落ち、民のために地球への侵攻を決めていた異界の魔王を殺した。地球の人数の方が多かったからだ。
惑星を容易く破壊する艦隊文明を壊した。彼らの得る幸福より、彼らによってばらまかれる不幸が多かったからだ。
世界を夢として見る白痴の王を、殺されたことにも気づかせず殺した。目覚めれば世界が消えるからだ。
何度殺しても生き返り、殺されるたびに強化される純人間。
最大多数の最大幸福の敵は、皆殺された。
誰も悪くなかった。
皆、幸福になりたかっただけだった。
なのに澪は殺した。
殺して、殺して、殺して、殺し続けた。
最初の願いは、他者に幸せになってほしい、だった。それはいつしか、他者に不幸になってほしくない、へ変わり、苦痛と罪悪感によって他者への愛すら薄れ、最後には、死にたいと、ごめんなさいの濁流だけが残った。
完全に壊れていた。
人類最強になっても、怪物の範疇から逸脱しても、そこにいたのは悲鳴と苦痛と罪悪感と死への渇望を濃縮した地獄だった。
その時、澪は接続真書を読んだ。
そこに書かれていたのは、玉織紬の未来だった。
喰界屍姫へ至り、社会性とコミュニケーション能力と魅力を得て、救世主として崇められながら世界を食い荒らす泥の歯車。善性へ憧れた怪物が、善性の擬態を得て、人類の九割を腹へ収める未来。
澪は、殺しに行った。
居酒屋で。
最大多数の最大幸福のために、親友を殺すために。
けれど、最後の人間性が、最後に話をしたいと思ってしまった。私情を挟むのは奪ってきた命への侮辱だと分かっていた。それでも、行った。玉織紬がそこにいた。
相も変わらずカスだと思った。
相も変わらず藻掻いていると思った。
相も変わらず、世界で一番向いていないものへ憧れていると思った。
善であれと作られた自身の愛は失われ、悪であれと作られた紬は、歪でも愛情を得ていた。
澪は嫉妬し、苦しみ、死にたいと願い、祝福した。
奢りと言った瞬間に遠慮しながら注文を連打し始めるのも、それで悪かったかと顔色を窺うのも、届いた瞬間に食欲へ負けるのも、僅かな善性でギリギリ化け物側へ行けない哀れな歯車。
何も食べられなくなった自分と違って、美味しそうに食べてもらえるのは喜びだった。
だから、殺そうと思った。
最高の気分のまま死んでもらおうと思った。
愛しい、もう一つの歯車を。
澪は言った。
『ええ、紬さんの死を私は死ぬまで引きずりますとも』
『半身を砕かれたような痛みとして、墓場まで持っていきますとも』
『紬さんが死んだのを見て、いつまでも泣き続けますとも』
それは本心だった。
だからこそ、殺そうとした。
自分の欲望など弾け。
紬さんに生きて幸せになってほしいなどという私情は、奪ってきた命への侮辱だ。
そう思って、手刀を構えた。
その時だった。
酔っ払った玉織紬が、焼き鳥のタレを口につけ、鼻提灯を膨らませながら、寝言のように言った。
「ベーシックインカム五百億円よこせ」
「ふかふかのお布団と山盛りのご飯とソシャゲの課金石をよこせ」
「こんなに可愛くて可哀想な私を無条件で甘やかさない世界が悪い」
「ご飯を食べたらお腹の中からなくなってしまう物理法則が悪い」
「みんな幸福で満たされてもいいはずなのに、不幸とか悪意とか、絶望的な空腹が存在している世界が根本的に間違っているわ」
澪は、そこで止まった。
世界のシステムが間違っているのではないかと思った。
何故、こんな簡単なことに気づかなかったのか。
ずっとトロッコ問題を出題されていた。価値のあるかけがえのない命と、より多くの価値のあるかけがえのない命。その選択を強いられ、多い方を救った。そういうルールだったから。そういうルール下だったから。
でも、何故そんなルールに従う必要がある?
そんなルールを守って、誰が喜ぶ?
なぜ生きるために、他者の命を奪わなければならないのか。
なぜ食べるために、金を払わなければならないのか。
なぜ寿命があるのか。
なぜ病気があるのか。
なぜ孤独があるのか。
なぜ社会に噛み合えないだけで、誰かが畳の染みへ近づいていくのか。
そんなクソみたいなルールは、誰が決めた?
全員が最大の幸せを得られないシステムなんて、誰が作った?
澪は、その時、初めて息ができた。
自分だけが悪いのではない。
この世界の仕様そのものが、腐りきっていたのだ。
それは、地獄からの解放だった。
玉織紬は、バカで、カスで、大食いで、どうしようもない泥の歯車だった。
けれど同時に、本当に救世主だった。
澪は笑った。
心の底から笑った。
殺すのをやめた。
料金を五百万円ほど払い、酔っぱらった玉織紬を担いで家まで送った。玉織結と玉織朔に、また馬鹿の尻拭いをして、と呆れられた。澪は笑っていた。
玉織家を出た時、澪は気づいた。
世界の外側から、嘲笑う何かがいることに。
この世界が、二周目であることに。
怒った。
人生で、初めて。
◇
「テメェか」
それは、河村澪の声だった。
静かな声ではなかった。
優しい声でもなかった。
いつもの、気味が悪いほど真っ直ぐな善意の声ではなかった。
怒りだった。
人間一人の喉から出ているとは思えないほど濃い、圧縮された怒り。
「死んで良い命なんて無かった」
声が震えた。
「死んで良い命なんて、無かった!」
空間が軋む。
世界の枠が歪む。
「パパも、ママも、叔父さんも、テメェが作った欠陥品の箱庭で死んだ。魔王さんも、白痴の王も、二十万を超える尊い命が、私とテメェのせいで死んだ。それだけじゃない。食べ物として消費されたみんな、経営に失敗して首をくくったみんな、生きづらく作られたまま社会で苦しむみんな、クソシステムのせいで苦しむみんな。クソルールに取りつかれたキチガイに殺されてしまったみんな」
物語の外側で、創造主の視線が揺れた。
「みんな、みんな、みんな、テメェがクソシステムを作るから苦しんだ。紬さんまで悲劇として消費しようとしやがって」
澪の拳が、物語の壁を殴った。
「テメェが!」
ひびが入る。
創造主の童話に。
バッドエンドの額縁に。
「バッドエンドごと」
ひびが広がる。
「テメェの作ったクソみたいな欠陥システムごと」
物語が悲鳴を上げる。
「クソみてえな出来損ないの世界ごと」
彼女は笑っていなかった。
ただ、怒っていた。
「ぶっ殺してやるよ!」
河村澪が、そこにいた。
◇
化け物と創造主の決戦が始まった。
全能とは、矛盾すら都合よく書き換える権能である。
誰にも持ち上げられない石を作れるか、という古典的な問いがある。全能であれば、作れる。全能であれば、持ち上げられる。全能とは、そうなるようにルールを都合よく変えられる力だからだ。論理も、法則も、因果も、物語も、全能の前では素材にすぎない。
その全能をもってしても。
河村澪は殺せなかった。
創造主は、自分以外の全能を殺してきたように、出力を限界まで上げた。
死ね。
その一言で宇宙が死に、物語が死に、神が死ぬはずだった。
けれど、澪は死ななかった。
「まだだ!」
全能は、彼女を単なる少女だった過去へ戻して殺そうとした。
両親が死ぬ前の、ただの子供。肉体も力もなく、世界を変える術もない少女。そこへ死を差し込めば終わるはずだった。
けれど、澪は滅びなかった。
苦痛は消えなかった。
「まだだ!」
世界のルールを書き換え、あらゆる無力化手段を試みた。狂気を切り離し、責任感を溶かし、罪悪感を無意味化し、彼女の怒りをなかったことにしようとした。
けれど、止まらなかった。
憤怒は、世界の外側まで伸びていた。
「まだだ!」
スキルも、システムも、ルールも、道理もなかった。
それでも、河村澪は狂気と怒りだけで、無敵の全能を殴りつけた。
利他性で苦しむのを見たい、という理由で作られた血肉の歯車。その狂気は、生物のものではなかった。もう、他者のために被っていた擬態用の美女の皮すら捨てていた。
赤黒い人体器官の醜悪なカリカチュア。
異形そのもの。
憤怒の権化。
生き物であれば、いかなる悪でも憎めなかった。皆、悪であるように作られていただけだからだ。哀れな泥の歯車も、自分の親友も、もう一つの歯車も、そうあれと作られていただけだった。
だから、憎むべきは一つだけ。
クソみたいなシステムを作り、苦しみを眺め、悲劇を消費し、バッドエンドを美しいと呼んだ創造主。
「お前はみんなが泣いてる間、苦しんでる間、バッドエンドを迎える間、何をしてた!」
澪の拳が、全能を砕く。
「見てただけだ!」
創造主の権能が剥がれる。
「嘲笑ってただけだ!」
世界の外側が割れる。
「殺しという形でしか解決できなかった私の、次の元凶はテメェだよ!」
澪は殴った。
殴って、殴って、殴り続けた。
「今までテメェの弄んできた全ての命に謝れ! 生き返らせろ! 魂の連続性? 知ったことか! 全能なんだろ! 何とかしろ! 私の家族を、私が奪った命を、幸せに死ねなかった命を、苦しんだ命を、親友を、全部返せ!」
返せ。
返せ。
返せ。
あらゆる時間軸、あらゆる世界線、あらゆる多元世界で、あらゆる生命の受けた苦痛を、創造主へ叩きつけた。
タルタロス・オンライン運営は、滅びた。
◇
ならば、澪がやるしかない。
世界を書き換える。
システムを改竄する。
皆が幸せになれるように。
資源を無限に。寿命などというクソシステムは廃止する。病も、飢えも、孤独も、生まれついた悪性も、どうしようもない社会不適合も、全部に受け皿を作る。悪としてしか生きられない生き物には、個人用の世界を作ればいい。登場人物を全員、精巧なAIに割り当てればいい。他者を傷つけずに、自分の欲求を満たせる場所を与えればいい。
最大多数の最大幸福など、クソ喰らえ。
全員の最大幸福。
それが、澪の答えだった。
だから今度は、世界を救う前に、自分のエゴで優先して助けたい命があった。
両親を生き返らせた。
叔父を生き返らせた。
自分が奪った命も、できる限り返した。魂の連続性がどうだ、複製がどうだ、同一性がどうだ、そんなものは全能でどうにかした。どうにかしなければならなかった。全能を奪ったのだから。できないなどと、言わせない。
そして、玉織紬を特別テスターとして、エリュシオン・オンラインへ呼んだ。
化け物になってもらうために。
自分を好きになってもらうために。
自分が大嫌いなまま生きることが、どれほどの生き地獄かを、澪は知っていた。だから、玉織紬だけは、どうしても救いたかった。
大好きな、私の救世主を。
今度は私が救う。
玉織紬は、割合よく手のひらで踊ってくれた。
計画のための観察とはいえ、一緒にエリュシオン・オンラインをやるのは楽しかった。紬は相変わらず食欲で動き、文句を言い、変なところで怖がり、褒められると気持ち悪い笑みを浮かべた。澪はそれを見て、何度も笑った。
システムで有益なアイテムを作り、ダンジョンにばら撒いた。
世界楽園化のために。
ダンジョンの魔物は生命ではなく、精巧なAIにした。罪悪感で自分の味覚が壊れているなりに、必死で調整した。玉織紬が喜ぶ、美味しい魔物になるように。正直、創造主をぶちのめすよりも大変だった。めちゃくちゃ時間がかかった。何度も試作し、何度も調整し、何度も「これは紬さんならうまっって言うでしょうか」と悩んだ。
玉織家にも協力してもらった。
ダンジョンからさまざまなものを持ち帰る歯車を玉織紬にするため、他の面々にはダンジョンへ潜らないよう、土下座して頼んだ。それ以外は教えていない。龍にも、朔にも、結にも、父にも、俊にも、真相は伏せた。
柚だけが協力者だった。
澪が言った。
「計画通りにいけば、紬さんは最後に死にます」
柚は笑った。
「それで紬が救われるなら、私は嘘をつくよ」
無神論者のペテン師は、澪の目を見て言った。
「神が救わないなら私が救う。君が世界を書き換えるなら、私はそのためのペテンを引き受ける」
柚は嘘をついた。
世界に。
家族に。
玉織紬に。
龍帝対策を煽り、救世主化キャンペーンを作り、世界中から飯と魔石と怪物を集める流れを作った。悲壮な決意の偽インタビューを流し、各国語版のシミュレーション映像をばら撒き、サクラコメントを作り、民意を誘導した。世界を救うためのペテンだった。
そして澪は、龍帝を用意した。
あれは本物の金剛龍帝ではない。
少なくとも、澪や玉織龍や玉織朔や玉織結、あるいは柚やおばあちゃんから見れば、本物とは程遠い。彼らなら殺せた。方法はいくらでもあった。世界の最上位にいる怪物たちからすれば、あれは終末などではなかった。
けれど。
玉織紬にとっては、本物の終末だった。
あの時点の玉織紬が、命も、肉体も、魂も、偽装経典も、全部燃やさなければ勝てないように、澪が調整した。
澪は、玉織紬をあの瞬間へ追い込んだ。
世界も、敵も、補給も、職歴も、葬列も、全部用意した。
でも。
あの人が最後に何を善と呼ぶかまでは、澪にも分からなかった。
プリンを渡せなかったことを、命より重く悔やむなんて、知らなかった。
命を捧げて世界を救うより、プリンを食べずに持ち帰る方が自分には難しかったのだと、あの人が思うなんて、澪の台本にはなかった。
ドラマチックな自己犠牲ではない。
皆が毎日やっている、誰かのために手間をかけるという日常こそが善だという結論。
あれだけは、河村澪の脚本ではない。
あれだけは、玉織紬が自分で出した答えだった。
「……だから」
葬儀後の部屋で、河村澪は呟いた。
「あなたは本当に、私よりずっと尊い」
世界を幸福にしようと殺し続けた自分より。
命を奪ってでも数を救った自分より。
最後に、プリンを渡せなかったことを悔やんだ泥の歯車の方が、遥かに善へ近かった。
澪は、それを理解している。
だからこそ、玉織紬の死はハッピーエンドだった。
紬本人にとっても、物語としても、美しく、贅沢で、もったいないくらいの結末だった。
けれど。
「私は、そんな結末では満足できません」
澪は、遺書を抱きしめた。
「あなたが満足して死んだことは知っています。あなたが自分を少し好きになって死ねたことも、知っています。あなたがハッピーエンドだと思っていることも、分かっています」
声が震えた。
「でも、私はあなたと生きたい」
それは善行ではない。
世界のためでもない。
最大幸福のためでもない。
紬の意思の尊重ですらない。
ただのエゴだった。
河村澪という怪物が、唯一の同族と一緒に生きたいという、あまりにも個人的で、あまりにも身勝手な願いだった。
「ハッピーエンドでも、まだ足りないんです」
彼女は笑わなかった。
泣きながら、言った。
「ベストエンドが欲しいんです」
◇
世界は、玉織紬の死を悼んでいた。
葬儀場の外には、人が溢れていた。日本だけではない。異世界の民もいた。エルフ、ドワーフ、獣人、角持ち、羽持ち。魔王支配から解放された者たちが、花や食べ物を手に並んでいた。彼らは黒衣の女を怖がっていた。けれど、助けられたことも忘れていなかった。
補給班は、最後まで補給計画を組んでいた。もう食べる本人はいない。それでも、葬儀の料理だけはケチれない。白米。肉。魚。揚げ物。汁物。甘いもの。ラーメン。玉織紬の遺書通りに、ありとあらゆる料理が用意された。
近所の子供たちは、禁止ベイを墓前に置いた。
金持ちの子は、ピカピカの泥団子を両手で持っていた。あれを作った黒パーカーの変なお姉さんは、もういない。けれど、泥団子はそこにあった。泥の歯車が、最後の平日に、確かに公園で遊んだ証だった。
総理は、公式声明で言った。
玉織紬は英雄ではなく、一人の国民だった。
怪物でも、兵器でもなく、役割を持ち、報酬を受け、休憩を必要とし、食事を必要とし、職歴を喜んだ一人の協力者だった。
その言葉に、世界中が泣いた。
玉織朔は、棺の前で舌打ちした。
「最後まで面倒かけやがって」
泣かなかった。
けれど、誰もいない場所で、潰れたプリンの箱を見つめていた。
玉織龍は、ずっと泣いていた。
玉織柚は、祈っていた。
祈る相手などいないと知っていながら。
玉織結は、静かに料理を見ていた。娘が食べられなかった料理。娘のために用意された料理。娘がいれば、うまっ、と言いながら全部食べたであろう料理。
そして、河村澪は、そのすべてを見ていた。
泣いていた。
半身を砕かれたような痛みとして、墓場まで持っていくはずだった。
でも、墓場まで持っていかない。
墓場から引きずり出す。
「紬さん」
澪は、装置の前に立った。
黒パーカー。
身分証。
潰れたプリンの箱。
遺書。
子紬たちの存在情報。
配信アーカイブ。
世界中の記憶。
玉織紬が食べて、働いて、嫉妬して、妬んで、褒められて、気持ち悪く笑って、足掻いて、プリンを食べずに持って帰ろうとした痕跡。
すべてを、祭壇へ置く。
「あなたのハッピーエンドを、踏みにじります」
澪は、そう言った。
「怒ってください。罵ってください。気持ち悪いって言ってください。大嫌いって言ってください。あなたが満足して死んだことを、私は知っています。それでも、私はあなたと生きたい」
装置が起動する。
世界が震える。
エリュシオン・オンラインの最奥で、システムが目覚める。
これは、エリュシオン・オンラインができた後、クリア後のエンドロール。
タルタロスの悲劇を破壊し、エリュシオンの楽園を作り、そしてなお足りない怪物が、親友のハッピーエンドを奪いに行く話。
澪は、初めて自分のために世界を捻じ曲げる。
最大多数のためではない。
全員のためですらない。
ただ一人。
玉織紬のため。
そして、河村澪自身のため。
「起きてください、紬さん」
世界の底で、何かが動く。
「まだ、お布団もあります」
魂の残滓が、かすかに震える。
「ご飯もあります」
黒パーカーが、風もないのに揺れる。
「職歴も、ちゃんと残っています」
潰れたプリンの箱が、淡く光る。
「それに」
澪は、泣きながら笑った。
「あなたはまだ、自分の葬式の料理を食べていません」
その瞬間。
世界が、目を覚ました。
――WAKE UP WORLD!
システムが叫ぶ。
エリュシオン・オンラインが、再起動する。
死んだはずの泥の歯車へ、もう一度だけ、世界が噛み合う場所を差し出す。燃費?全能で何とかしますよ♡
別世界に食べ物いっぱいの楽園作って燃費問題解決。善性が社会性がコミュ力が欲しいのなら無限の時間で私と学ぼう
ハッピーエンドは終わった。
ここから先は、ベストエンドを奪いに行く時間だ。
そして玉織紬は蘇った。魂ごと消えただろって?全能で何とかしました!
ここから先の物語はあえて語られない物語。ただ一つ言えるのは玉織紬の蘇生後の物語はめでたしめでたしで終わったということのみ
エピローグは要望が多くなければあえて作りませんが二次創作の主人公や別作品には出演すると思います。
そこで次の存在進化とかこの後どうなったのかも言うと思います
何はともあれ、ここまで読んでいただけた事へ紬を愛していただけた事に感謝!
ありがとうございました!
PS、最後まで風呂キャンしてたなこいつ…