神のカードが放った衝撃波は、ようやく収まろうとしていた。
砕けた床。ひび割れた壁。戦いの激しさを物語る惨状の中で、南雲ハジメは片膝をつき、荒い息を吐いていた。
「……くそっ。最後の最後で、とんでもない置き土産を残しやがって」
右手で顔を覆う。
左目が、見えない。
瞼を閉じても、開いても、そこにあるのは底のない暗闇だけだった。焼けるような痛みは徐々に引いていたが、光を取り戻す気配はない。
神の力を受けた代償。
勝利の余韻に浸る暇もなく、ハジメは自分の身に起きた現実を突きつけられていた。
「ハジメ」
すぐそばで、ユエが彼の顔を覗き込む。
いつもと変わらない無表情。しかし、その瞳の奥には隠しきれない不安があった。
「左目……」
「見りゃ分かるだろ。どうやら神様ってのは、負けた後も性格が悪いらしい」
「……冗談を言っている場合じゃない」
「冗談でも言ってなきゃ、やってられねえよ」
ハジメは肩をすくめた。
左側の視界が欠けたせいで、ユエの姿を捉えるにも、以前とは違う感覚が必要だった。彼女が少し左へ動くと、視界から姿が消えてしまう。
その事実に、胸の奥がわずかに疼いた。
だが、いつまでも嘆いているわけにはいかない。
生きている。
勝利した。
ならば、次にやるべきことを考えるだけだ。
「ハジメ君」
その声に振り向くと、オスカーがこちらへ歩み寄ってきていた。
彼の身体も、先ほどの戦いで相当な負担を受けているようだった。それでも、ハジメに伝えなければならないことがあるのだろう。オスカーは懐から、小さな布包みを取り出した。
「これを、君に託したい」
「……何だ、それ?」
「君が元の世界へ帰るための鍵の一つだ」
オスカーが布を開く。
そこに収められていたのは、金色に輝く奇妙な装飾品だった。
眼球を思わせる意匠。古代の紋様。そして、ただの金属とは思えない、重く不思議な存在感。
それを目にした瞬間、ハジメは直感した。
「千年アイテム……!」
「そう。七つの千年アイテムの一つ――千年眼だ」
千年眼。
古代より伝わる秘宝であり、人の心や精神に関わる力を宿すもの。
ハジメは差し出されたそれを、すぐには受け取らなかった。
「待てよ。そんな大事なもんを、俺が受け取っていいのか?」
「君だからこそ、託すんだ」
オスカーは穏やかに答えた。
「君は、神の力を前にしても屈しなかった。そして、失ったものを嘆くだけではなく、その先へ進もうとしている。千年眼が君に何をもたらすか、私にもすべては分からない。だが、君がこれを必要とする時は、きっと来る」
「……」
「それに、元の世界へ帰るためには千年アイテムが必要なのだろう? ならば、これは君が持つべきものだ」
ハジメは千年眼を見つめた。
黄金の表面に、自分の顔がかすかに映る。
右目だけで世界を見つめる、傷だらけの自分。
ここで受け取ることは、単に貴重な道具を手に入れるという意味ではない。帰還への道を、自分の意志で進むという決意を、改めて形にすることだった。
「……分かった。預からせてもらう」
ハジメは千年眼を受け取った。
「必ず、元の世界に帰る。そのために使わせてもらう」
「ああ。それでいい」
オスカーは満足げに頷いた。
◇
その後、ハジメは千年眼を手に、工房の一角へ移動した。
千年眼を受け取ったからといって、すぐに人前で身につけるわけにはいかない。
何しろ、片目を失ったばかりの男が、突然、奇妙な黄金の眼を装着していたらどうなるか。
仲間たちに余計な心配をかけるのは避けたい。それに、千年アイテムの存在を不用意に知られることも望ましくなかった。
「……まずは、隠すところからだな」
ハジメは鏡代わりの磨かれた金属板を前に、千年眼を手に取った。
失明した左目に、そっと装着する。
冷たい感触が肌に触れた瞬間、身体の奥を何かが走り抜けた。
「っ……!?」
頭の内側に、奇妙な圧迫感が生まれる。
知らないはずの感覚。意識の底に沈んでいた何かが、こちらを覗き返しているような感覚。
だが、それは一瞬のことだった。
千年眼は、まるで最初からそこに収まるべきだったかのように、ハジメの左目に装着されていた。
「……なるほど。こいつは確かに、ただの装飾品じゃねえな」
千年眼の表面を指で確かめる。
その力を理解するには、まだ時間が必要だろう。今は無理に使おうとせず、まずは身体に馴染ませるべきだ。
問題は、これをどう隠すかだった。
ハジメは用意していた黒い眼帯を手に取った。
失明した左目を覆うためのものだ。千年眼を隠すには、これ以上ないほど都合がいい。
眼帯を装着し、鏡代わりの金属板を覗き込む。
そこに映っていたのは、右目だけで鋭く世界を見据える少年だった。
「……悪くねえな」
以前とは違う。
しかし、弱々しくなったわけでもない。
むしろ、これから先の戦いを生き抜くための、新しい姿だと思えばいい。
「左目は失明した。そう説明すりゃ、千年眼のことまで疑われることはねえだろ」
もっとも、ユエにどこまで誤魔化せるかは怪しい。
彼女は妙に勘が鋭い。ハジメの小さな変化にも、すぐに気づくことがある。
「……ま、聞かれたらその時に考えるか」
ハジメは眼帯の位置を整え、工房を後にした。
千年眼は、まだ沈黙を保っている。
だが、その黄金の奥底には、ハジメ自身も知らない力が眠っていた。
◇
工房での作業は、想定していた以上に時間を要した。
左腕の義手にはデュエルディスクを組み込み、カードのセットからホログラムの展開までを一体化させた。さらに、オスカーが残した設備と素材を利用してDホイールを組み上げ、走行と決闘を両立させるための調整も重ねた。
すべてが完璧というわけではない。
義手にはまだ改良の余地がある。Dホイールも、実戦でどこまで通用するかは分からない。
それでも、ハジメは満足していた。
失ったものを嘆き続けるより、残されたものを使って前へ進む。
それが、彼の選んだ生き方だった。
そして、ついに脱出の準備が整った。
「……よし。忘れ物はねえな」
Dホイールの最終点検を終え、ハジメは工房を振り返った。
ここで手に入れたものは多い。
元の世界へ帰るための手掛かり。新たな装備。そして、オスカーから託された千年眼。
何より、ここで得た知識は、これからの戦いに欠かせないものになるだろう。
「ハジメ」
呼ばれて振り返る。
ユエが、すぐそばに立っていた。
「準備、終わった?」
「ああ。いつでも出られる」
「そう」
ユエはハジメの顔を見上げた。
黒い眼帯に視線が止まる。
「……左目、痛い?」
「もう大したことねえよ。見えないってだけだ」
「……本当に?」
「本当だ。心配してくれるのは嬉しいが、俺はそんな簡単にくたばらねえよ」
ユエはしばらく黙っていたが、やがてハジメの右手を取った。
「なら、私がずっと隣にいる」
「……お前な」
「何?」
「そういうことを真顔で言うな。反応に困るだろ」
「困ればいい」
「ひでえな、おい」
ユエの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
ハジメも、つられるように笑う。
神の力によって傷つけられた左目は、もう元には戻らないかもしれない。
それでも、隣にはユエがいる。
そして、自分にはまだ、やるべきことがある。
「行くぞ、ユエ」
「ん」
ハジメはDホイールに跨がり、ユエもその後ろへ乗り込んだ。
彼女の腕が、ハジメの身体に回される。
「……落ちるなよ?」
「落ちない」
「俺が運転をミスったら?」
「ハジメが何とかする」
「お前、俺への信頼が妙な方向に全振りしてねえか?」
「ハジメだから」
「……はいはい」
ハジメは苦笑しながら、エンジンを始動させた。
Dホイールが低い駆動音を響かせる。
その音は、これから始まる旅の前奏曲のようだった。
◇
脱出地点。
転移魔法を発動させるための準備が整い、周囲の空気がわずかに揺らいでいた。
ハジメはDホイールを停止させ、転移のための魔法陣を確認する。
ここを抜ければ、長く閉ざされていた迷宮の外――地上へ戻れる。
そして、そこから先には新たな旅が待っている。
「……ついに、ここまで来たか」
ハジメは呟いた。
召喚されたあの日から、どれほどのことがあっただろう。
何もできなかった自分。生き延びるために必死だった日々。絶望の底で手にした力。そして、今。
片目を失い、左腕を失いながらも、ここまで辿り着いた。
「ハジメ」
「ん?」
「地上に出たら、何をする?」
ユエの問いに、ハジメは少しだけ考えた。
「まずは安全な場所を確保する。食料や素材も必要だし、装備の調整もしたい。千年アイテムと三幻神、それに赤き竜のことも調べなきゃならねえ」
「……忙しい」
「誰のせいだと思ってんだ。元の世界に帰る方法なんて、とんでもない宿題をもらっちまったんだからな」
「ハジメならできる」
「だから、そういう全幅の信頼を向けるのはやめろっての。失敗したらどうするんだ」
「失敗したら、また考えればいい」
ユエは即答した。
「ハジメは、何度でも立ち上がるから」
その言葉に、ハジメは一瞬だけ黙った。
彼女は、いつだってそうだ。
自分がどれだけ傷ついても、どれだけ追い詰められても、彼女は信じてくれる。
その信頼は、時に重い。
だが、同時に、何よりも心強かった。
「……ったく。お前には敵わねえな」
「知ってる」
「そこは否定しろよ」
「嫌」
ユエが小さく笑った。
ハジメも笑う。
迷宮の奥底で、二人の笑い声が響いた。
それは、死線を越えてきた者たちの笑いだった。
傷つき、失い、それでも生きることを選んだ二人の笑いだった。
ハジメは改めて前を向いた。
「……よし。帰るぞ、ユエ」
「ん。帰ろう」
転移魔法が発動する。
足元から光が広がり、二人の身体を包み込んでいく。
ハジメは最後に一度だけ、オルクス大迷宮の奥を振り返った。
ここで得たものを、決して忘れない。
オスカーの遺志も、千年眼も、そして自分が負った傷も。
すべてを背負って、先へ進む。
「――行くぜ!」
光が弾けた。
次の瞬間、二人の姿は迷宮から消えた。
長い試練の果てに、ハジメとユエは地上へと転移していく。
そして、千年眼を宿した決闘者の新たな物語が、ここから始まるのだった。