ホルアドの町が見えてきた時、南雲ハジメは無意識にアクセルを緩めていた。
町の向こうにそびえる、オルクス大迷宮。
そこは、ハジメがすべてを失い、そして新たな人生を始めることになった場所だった。
奈落へ落ちていく感覚。仲間たちの姿が遠ざかっていく光景。誰にも助けを求められず、ただ生き延びるためだけに戦い続けた日々。
思い出すだけで、今でも胸の奥が冷たくなる。
「……ハジメ?」
隣を走るブラッディー・キッスから、ユエの声が聞こえた。
「昔のことを思い出していたの?」
「ああ。ここに来れば、嫌でも思い出す」
ハジメは左目を覆う眼帯に触れた。
あの日、奈落へ落ちた自分は、もう元の自分ではいられなかった。
生きるために力を求め、傷つき、何度も死線を越えた。その果てに、ユエと出会った。
そして、シアやティオとも出会い、今ではミュウという小さな家族までできた。
「……不思議なもんだな」
「何が?」
「奈落に落ちた時は、もう二度と誰かと一緒に笑うことなんてないと思ってた。それなのに今は、こんなに騒がしい」
「ハジメさん、それって私たちが騒がしいってことですか!?」
後ろを走るバウンサーラビットから、シアが抗議の声を上げた。
「ほかに誰がいるんだよ」
「ひどいです!」
「ふふっ。私は賑やかなのも好きですよ」
ティオが笑いながら言った。
「もちろん、ハジメさんと二人きりで過ごす静かな時間も……」
「その先は言わなくていい」
「まだ何も言っていませんよ?」
「顔が言ってるんだよ」
ティオは頬に手を当て、嬉しそうに微笑んだ。
「まあ。ハジメさんは、私の顔だけで気持ちが分かるのですね。そこまで私のことを見てくださっているなんて……」
「シア、こいつの相手を頼む」
「ええっ、私ですか!?」
いつものやり取りに、ハジメは小さく笑った。
その背中に、ミュウがぎゅっと抱きつく。
「パパ、うれしい?」
「……ああ。そうだな」
ハジメはミュウの頭を撫でた。
「俺は、奈落に落ちる前の自分に戻りたいとは思わない。あの頃の俺は、何も知らなかったし、何もできなかった」
ユエが静かに彼を見つめる。
「でも、あの奈落でユエに出会った。シアにも、ティオにも、ミュウにも会えた」
ハジメは前を向いた。
「だから、もしもう一度あの日に戻ったとしても……俺は何度だって同じ道を歩く。何度奈落に落ちることになっても、お前たちに会うためならな」
「……ハジメ」
ユエが手を伸ばし、ハジメの手を握った。
「私も、何度でもあなたに会いに行く」
「私もです、ハジメさん!」
シアが元気よく叫ぶ。
「私だって、ハジメさんと出会えたことを後悔していません!」
「私も同じです」
ティオはいつになく真剣な表情で頷いた。
「ハジメさんと出会って、自分の弱さを知りました。力を持つことと、その力を正しく使うことは違うのだと……今は、そう思っています」
彼女は一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げた。
「だからこそ、これからは皆さんの力になりたいです」
「……なら、まずは余計なことをして問題を起こすなよ」
「はい。努力します」
「そこは即答で約束しろ」
「……分かりました。ハジメさんにご迷惑をおかけしないよう、気をつけます」
「よし」
「ただし、ハジメさんに褒めていただけるようなことができた時は、ぜひ頭を撫でてくださいね?」
「前言撤回。お前は何もするな」
「そんなぁ……!」
シアが笑い、ユエも小さく口元を緩める。
ハジメは仲間たちを見渡した。
「よし。まずはギルドに行くぞ。ここで確認しておきたいことがある」
四人のDホイールが、ホルアドの町へと走り出した。
冒険者ギルドに入ったハジメたちは、受付で情報を集めようとした。
「オルクス大迷宮について聞きたい。最近、何か変わったことはなかったか?」
「そうですね……現在、王国から派遣された勇者様のパーティーが、迷宮内で訓練を行っていると聞いています」
「天乃河たちか……」
その時、背後から声がした。
「……南雲?」
振り返ると、一人の青年が立っていた。
見覚えのある顔。控えめな雰囲気。クラスの中では目立たず、存在を忘れられがちだった男。
「遠藤か。久しぶりだな」
「やっぱり南雲なのか……!」
遠藤大樹は驚きに目を見開いた。
「お前、生きてたんだな! 本当に……!」
「まあな。色々あったけど、なんとか生きてるよ」
遠藤はハジメの眼帯と義手に視線を向けたが、すぐには質問しなかった。
「……そうか。よかった」
その言葉には、心からの安堵があった。
遠藤はハジメの隣にいるユエたちにも目を向けた。
「そちらの人たちは?」
「俺の仲間だ。ユエ、シア、ティオ。それと、こっちはミュウ」
「ミュウです! パパといっしょ!」
「……パパ?」
遠藤の顔が固まった。
「南雲、お前……」
「違う。そういう話じゃない」
「いや、まだ何も言ってないだろ!」
シアが吹き出し、ティオも口元を押さえて笑った。
「ふふっ。ハジメさん、説明を省きすぎですよ」
「お前が言うな」
ひとしきり騒いだ後、遠藤は表情を引き締めた。
「……南雲。実は、まずいことになってるんだ」
「何があった?」
「天乃河たちが、オルクス大迷宮の中で魔人族側の連中に襲撃された」
ハジメの目つきが変わった。
「魔人族に?」
「ああ。魔人族の女が率いる部隊らしい。勇者パーティーは訓練中だったから、十分な準備もできていなかったみたいだ」
「今、どうなってる?」
「正確な状況は分からない。俺は助けを呼ぶために戻ってきたんだ。……頼む、南雲。みんなを助けてくれ」
ハジメは即座に頷いた。
「分かった。場所は?」
「迷宮の浅い階層から先へ進んだところだ。詳しい位置は、俺が戻ってきた経路を説明する」
「十分だ」
ハジメはユエたちへ視線を向けた。
「ユエ、シア。行くぞ」
「……うん」
「はい!」
だが、ミュウが不安そうにハジメの服を握った。
「パパ……?」
ハジメはしゃがみ込み、ミュウの目線に合わせた。
「ミュウ、少しだけティオお姉ちゃんと待っていてくれるか?」
「パパ、いっちゃうの……?」
「すぐに戻る。約束する」
ミュウはしばらく迷ってから、小さく頷いた。
「……わかった」
ティオがミュウのそばにしゃがみ、優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ミュウちゃん。ハジメさんたちが戻ってくるまで、私が一緒にいますから」
「……ティオおねえちゃん、まもってくれる?」
「もちろんです。ミュウちゃんに怖い思いはさせません」
ティオはミュウの頭をそっと撫でた。
そして、ハジメへ向き直る。
「ハジメさん。皆さんのことはお願いします。こちらは私に任せてください」
「ああ。頼んだぞ」
「はい。無事に戻ってきてくださいね」
「分かってる」
ハジメは立ち上がり、ユエとシアと共にギルドを飛び出した。
向かう先は、かつて自分がすべてを失った場所。
そして今度は、誰かを救うために戻る場所だった。
オルクス大迷宮の内部では、勇者パーティーが追い詰められていた。
通路には戦闘の痕跡が刻まれ、魔物や兵士の死体が転がっている。
天乃河光輝は剣を構え、仲間たちを守ろうとしていた。
「くそっ……! どうして魔人族がここにいるんだ!」
「光輝、今は考えている場合じゃない!」
八重樫雫が叫ぶ。
白崎香織は負傷した仲間たちを治療していたが、魔人族の兵士たちは容赦なく距離を詰めていた。
そして、その集団の奥から一人の女が姿を現す。
魔人族の女リーダー、カトレア。
「これが勇者のパーティー? 思っていたよりも大したことがないのね」
「お前が指揮官か!」
光輝が剣を向ける。
カトレアは薄く笑った。
「そうよ。あなたたちには、ここで消えてもらうわ」
彼女の視線が香織へ向く。
「特に、そこの治療師。あなたは邪魔ね」
「……っ!」
香織が身構えた瞬間、魔人族の兵士が動いた。
「香織!」
雫が叫ぶ。
光輝も助けに向かおうとするが、敵に阻まれて間に合わない。
刃が香織へ振り下ろされた。
――その刹那。
金属音が迷宮に響いた。
香織の目の前で、刃が止まっている。
受け止めたのは、機械仕掛けの左腕だった。
「……そこまでだ」
聞き覚えのある声。
黒い眼帯をつけた少年が、香織の前に立っていた。
「……え……?」
香織は、信じられないものを見るように彼の背中を見つめた。
「……ハジメ、くん……?」
ハジメは敵の武器を弾き飛ばし、香織を背後へ庇う。
「よお、白崎。久しぶりだな」
「……ハジメくん……!」
香織の瞳に、涙が浮かんだ。
雫もまた、目を見開いていた。
「南雲……! 本当に、生きて……!」
「ああ。詳しい話は後だ」
ハジメはカトレアへ視線を向けた。
「今は、こいつらを片づける」
ユエとシアが、彼の左右に並び立つ。
「……ハジメに手を出すなら、許さない」
「香織さんたちには、もう手出しさせません!」
カトレアは、興味深そうにハジメを見つめた。
「あなたが南雲ハジメ……奈落に落ちて死んだはずの人間?」
「そうだが」
「噂は聞いているわ。生きて戻ってきた上に、ずいぶんと腕も立つそうね」
「噂話が好きなら、酒場でやってくれ」
ハジメは義手に組み込まれたデュエルディスクを展開した。
「俺は忙しいんだ。さっさと決着をつけようぜ」
カトレアもまた、闇を帯びたデュエルディスクを構えた。
「いいわ。あなたの魂がどれほどのものか、確かめてあげる」
「デュエルで決着をつける、ということね?」
カトレアが笑った。
「俺が勝ったら、部下を退かせろ。勇者パーティーへの攻撃も中止だ」
「構わないわ。では、私が勝ったら?」
「俺の命でも欲しいのか?」
「ええ。それだけではないわ」
カトレアが手を掲げると、床に黒い紋様が広がった。
闇の線が壁を伝い、天井を覆い、二人を中心に巨大な魔法陣を形成していく。
ユエが眉をひそめた。
「……普通の決闘じゃない」
「ああ。分かってる」
ハジメの千年眼が、闇の流れを捉えていた。
カトレアは楽しげに両腕を広げた。
「これは闇のゲームよ。敗者は魂を奪われる。肉体が残ったとしても、魂は永遠に闇の中をさまようことになるわ」
香織が息を呑む。
「魂を……奪う……?」
「怖いでしょう? 今なら逃げてもいいのよ、南雲ハジメ」
「冗談を言うな」
ハジメはデッキをセットした。
「奈落で、これ以上ないくらいの地獄を見たんだ。今さら闇が怖くて逃げると思うか?」
カトレアの笑みが深くなる。
「素晴らしいわ。では、その自信がいつまで続くか見せてもらいましょう」
「「デュエル!」」
カトレアのフィールドに、黒い霧が立ち上った。
「私のターン! 《ヴァンパイアの使い魔》を召喚!」
青白い肌をした吸血鬼が姿を現す。
「さらに、《ヴァンパイアの眷属》を特殊召喚!」
二体の吸血鬼が並び、赤黒い光が広がった。
「カードを二枚セット。ターンエンドよ」
ハジメは相手の場を見つめた。
モンスター二体、伏せカード二枚。
盤面だけなら、まだ大きな脅威ではない。
だが、カードに宿る闇の気配は異常だった。
「俺のターン!」
ハジメはカードを引いた。
「《E・HERO エアーマン》を召喚! 効果発動、デッキからHEROを手札に加える!」
風をまとった英雄が現れ、ハジメはデッキからカードを手札に加える。
「魔法カード《融合》を発動! 手札の《E・HERO バーストレディ》と《E・HERO フェザーマン》を融合!」
炎と風が交わり、英雄の姿が一つになる。
「融合召喚! 《E・HERO フレイム・ウィングマン》!」
炎をまとった翼の英雄が、迷宮を照らした。
「《フレイム・ウィングマン》で、《ヴァンパイアの使い魔》を攻撃!」
炎の翼が吸血鬼へ突撃する。
しかし、カトレアは笑みを崩さなかった。
「罠カード発動! 闇の力よ、我が眷属を守りなさい!」
黒い霧が吸血鬼を包み、攻撃を阻む。
さらに、カトレアの伏せカードが開いた。
闇の鎖がフレイム・ウィングマンへ絡みつき、動きを封じる。
「私のカードは、ただモンスターを破壊するだけではないわ。闇の力で、あなたの魂を直接傷つけることもできるのよ」
「……なるほどな」
ハジメの腕に鋭い痛みが走った。
決闘の衝撃が、現実の肉体にも及んでいる。
カトレアは新たなカードを引いた。
「私のターン! 墓地の吸血鬼を利用して、再び眷属を呼び戻す!」
黒い霧の中から吸血鬼が蘇る。
「そして、私の力を受けなさい! 《ヴァンパイア・グリムゾン》!」
巨大な吸血鬼が、大剣を手に姿を現した。
「《ヴァンパイア・グリムゾン》で、《E・HERO フレイム・ウィングマン》を攻撃!」
大剣が振り下ろされ、フレイム・ウィングマンは炎と共に砕け散った。
「ぐっ……!」
ハジメの身体が揺れる。
魂を削られるような痛み。
視界の端が暗くなる。
「ハジメ!」
ユエが叫ぶ。
「……大丈夫だ」
ハジメは息を整えた。
「この程度で倒れるかよ」
カトレアは冷たく笑う。
「強がりはいつまで続くかしら? あなたの魂は、もう傷つき始めているはずよ」
「そうかもな」
ハジメは眼帯に触れた。
千年眼が闇の流れを映し出す。
黒い糸はモンスターだけでなく、決闘場全体へと伸びていた。
その中心にあるのは、カトレア自身の魂。
「……お前、闇の力を使っているつもりなんだろうが」
ハジメは静かに言った。
「逆に、その力に自分の魂まで食わせてるんじゃないのか?」
カトレアの表情がわずかに変わる。
「……それがどうしたの?」
「別に。大した覚悟だと思っただけだ」
「黙りなさい!」
カトレアの声が響いた。
「力を持たない者が、どれだけ踏みにじられるか! あなたに何が分かるというの!?」
ハジメは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……昔の俺も、何もできなかった」
奈落の底で、何度も自分の無力さを呪った。
だが、そこで他人を踏みにじっていい理由にはならない。
「力がないことが、他人の魂を奪っていい理由になるわけじゃない」
ハジメはカードを引いた。
「俺のターン!」
カードを掲げる。
「《E・HERO シャドー・ミスト》を召喚! 効果発動!」
黒いマントを翻す英雄が姿を現し、ハジメはデッキからHEROを手札に加えた。
「さらに、《マスク・チェンジ》を発動!」
シャドー・ミストが黒い光に包まれる。
「変身召喚! 《M・HERO ダーク・ロウ》!」
黒い装甲をまとった英雄が現れ、カトレアの闇を切り裂いた。
「闇を操る英雄……?」
「闇を使うこと自体が悪いわけじゃない」
ハジメはダーク・ロウを見つめた。
「大切なのは、その力を何のために使うかだ」
ダーク・ロウが一歩踏み出す。
黒い霧が揺らぎ、カトレアのフィールドに亀裂が走った。
「そんなもの……私の闇の前では無意味よ!」
カトレアは残された力を注ぎ込んだ。
《ヴァンパイア・グリムゾン》の身体が巨大化し、黒い翼が天井を覆う。
闇が渦巻き、ハジメの身体を飲み込んでいった。
「ハジメさん!」
シアが叫ぶ。
「……ハジメ」
ユエも、祈るように彼の名を呼んだ。
ハジメは歯を食いしばった。
奈落の底で、何度も死にかけた。
あの時は、ただ生き延びることしか考えられなかった。
だが、今は違う。
帰る場所がある。
守りたい人がいる。
そして、自分を信じてくれる仲間がいる。
「……こんなところで、終われるかよ!」
ハジメはカードを掲げた。
「魔法カード《融合》を発動!」
光がフィールドを包み込む。
「手札の《E・HERO ネオス》と《E・HERO シャドー・ミスト》を融合!」
光と闇が交わり、白銀の輝きが立ち上る。
「融合召喚! 《E・HERO アブソルートZero》!」
氷のような光をまとった英雄が姿を現した。
その冷気が、カトレアの闇を凍りつかせていく。
「何ですって……!?」
「終わりだ、カトレア」
ハジメはまっすぐ彼女を見据えた。
「俺の仲間に手を出したこと、後悔させてやる」
アブソルートZeroが両腕を広げる。
白銀の光が、吸血鬼の軍勢を包み込んだ。
「攻撃!」
氷の光が炸裂し、《ヴァンパイア・グリムゾン》が砕け散る。
カトレアのライフポイントがゼロになった。
黒い魔法陣が崩壊し、闇の鎖が次々と砕けていく。
迷宮を覆っていた黒い霧が、嘘のように消え去った。
決闘の勝者は、南雲ハジメ。
魂を奪う闇のゲームは、その力を失った。
「……私が、負けた……?」
カトレアは膝をついた。
ハジメはデュエルディスクを解除する。
「約束通り、部下を退かせろ」
カトレアは悔しげに唇を噛み締めた。
やがて、彼女は兵士たちへ命じる。
「……撤退よ。これ以上の戦闘は無意味だわ」
魔人族の兵士たちは、武器を下ろして後退を始めた。
ようやく、戦闘が終わったのだった。
「……ハジメくん」
背後から、震える声がした。
ハジメが振り返る。
香織は涙を浮かべたまま、彼を見つめていた。
「……本当に、ハジメくんなの?」
「ああ。俺だよ、白崎」
その瞬間、香織は駆け寄り、ハジメに抱きついた。
「ハジメくん……!」
押し殺していた涙が、一気に溢れ出す。
「よかった……! 本当に生きてて……!」
「……悪かったな。心配かけて」
「ずっと、ずっと心配してたんだよ……! もう会えないんじゃないかって……!」
ハジメは少し困ったように笑い、香織の背中に手を置いた。
「でも、こうして生きてる。だから、もう泣くな」
「……うん……!」
香織は何度も頷いた。
やがて、雫もゆっくりと歩み寄ってきた。
「……本当に、南雲なんだね」
「八重樫。久しぶり」
「……生きててくれて、よかった」
雫はハジメの眼帯と義手を見つめた。
聞きたいことは山ほどあった。
けれど、今はそれ以上に、目の前の事実が嬉しかった。
「……おかえり、南雲」
ハジメは、ほんの少しだけ笑った。
「……ただいま、八重樫」
香織は、まだハジメの服を離そうとしなかった。
ユエはその様子を静かに見つめていた。
やがて、香織がユエへ向き直る。
「……あなたがユエさん?」
「……そう」
「ハジメくんを助けてくれたんだよね。本当にありがとう」
香織は深く頭を下げた。
「あなたがいなかったら、ハジメくんは……」
「……私も、ハジメに助けられた。だから、お互いさま」
ユエはそう答え、ハジメの腕に寄り添った。
「……ハジメは、私の大切な人」
「……うん」
香織は一瞬だけ目を伏せた。
それでも、笑顔で頷いた。
「ハジメくんが無事なら、それが一番だから」
シアも香織へ歩み寄った。
「初めまして、白崎さん! 私はシア・ハウリアです!」
「シアさん、だね。ハジメくんを支えてくれてありがとう」
「いえいえ! 私もハジメさんに助けてもらいましたから!」
シアは元気よく答えた。
少し離れたところで、ティオから通信魔道具を通じて連絡が入る。
『ハジメさん、そちらは無事ですか?』
「ああ。こっちは片づいた。ミュウは?」
『大丈夫です。少し寂しそうにはしていますが、ちゃんと待っていてくれていますよ』
通信の向こうから、ミュウの声が聞こえた。
『パパー! おかえりー!』
「……まだ帰ってねえよ。もう少し待ってろ」
『うん!』
ハジメは小さく笑った。
『ふふっ。ミュウちゃんは、ハジメさんのことが本当に大好きですね』
「お前が面倒を見てくれて助かった。ありがとな、ティオ」
『……え?』
通信の向こうが、一瞬静かになった。
『ハジメさん……今、私にお礼を……?』
「……ああ。聞こえなかったのか?」
『い、いえ! 聞こえました! まさかハジメさんから、そんな優しい言葉をいただけるなんて……!』
「おい、泣くなよ」
『泣いていません! 少し感激しているだけです!』
「……そうかよ」
『帰ったら、ぜひ直接もう一度言ってくださいね!』
「調子に乗るな」
通信を切る直前、ティオの嬉しそうな声が聞こえた。
「……相変わらずね」
雫が呆れたように言う。
「まあな」
ハジメは肩をすくめた。
その表情には、以前にはなかった余裕があった。
戦闘後の処理が進み、負傷者の手当てが始まった頃。
天乃河光輝がハジメの前へ歩み寄った。
「……南雲」
「何だ、天乃河」
「助けてくれたことには感謝する。お前が来てくれなかったら、俺たちは全滅していたかもしれない」
「そうならなくてよかったな」
ハジメの返事は淡々としていた。
光輝は周囲を見渡す。
倒れた兵士たち。負傷者。命を落とした者たち。
「……人死にを出してしまった。俺たちがもっと強ければ、もっと上手く戦えていれば、こんなことにはならなかったはずだ」
光輝は拳を握り締めた。
「俺は勇者なのに……仲間を守ることすらできなかった」
「……だから何だ?」
ハジメの言葉に、光輝は顔を上げた。
「何だ、とは……」
「自分が勇者だから、誰も死なせずに済むと思ってたのか?」
「……っ!」
「戦場で誰かが死ぬことはある。どれだけ強くなっても、どれだけ準備しても、全員を救えるとは限らない」
ハジメは光輝をまっすぐ見つめた。
「自分を責めるだけで終わらせるな。死んだ奴らは、お前が一生後悔し続けることを望んで死んだわけじゃないだろ」
「……俺は、ただ……」
「悔しいなら、次は守れるように強くなれ。判断を間違えないように考えろ。仲間と連携しろ。自分の理想だけを押しつけず、現実を見ろ」
ハジメの声は冷たかった。
だが、そこには戦場を生き延びてきた者の実感があった。
「勇者だろうが何だろうが、できることには限界がある。自分の限界を認めずに突っ走れば、今度こそ本当に全員を死なせるぞ」
光輝は唇を噛み締めた。
反論できなかった。
香織がそっと口を開く。
「……光輝くん。ハジメくんの言う通りだと思う」
「香織……」
「今回のことを忘れちゃいけない。でも、後悔するだけじゃ何も変わらないよ。私たちは、次に同じことが起きた時に、もっと多くの人を守れるようにならなきゃ」
雫も頷いた。
「私もそう思う。今回のことは、私たちが弱かったから起きた。なら、強くなるしかないわ」
光輝はしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……分かった。もっと強くなる。今度こそ、仲間を守れるように」
「……そうしろ」
ハジメは、それ以上何も言わなかった。
彼にとって、光輝を慰めることは目的ではない。
ただ、香織と雫が無事でよかった。
今は、それだけで十分だった。
出発の準備が進む中、香織がハジメの前へ歩み寄った。
「……ハジメくん。私、決めたことがあるの」
「何だ?」
香織は深呼吸をした。
「私、ハジメくんについていく」
「……は?」
ハジメは目を瞬かせた。
雫も驚いたように香織を見つめる。
「香織、本気なの?」
「うん」
香織は迷いなく頷いた。
「私、ハジメくんが好きだから」
「……ええっ!?」
シアが素っ頓狂な声を上げた。
ユエは香織をじっと見つめている。
香織は顔を赤くしながらも、視線を逸らさなかった。
「ハジメくんが奈落に落ちたって聞いた時、私は何もできなかった。生きているかもしれないって信じたかったけど、探しに行くこともできなかった」
彼女は拳を握り締める。
「でも、今日ハジメくんが目の前に現れて、私を助けてくれた。その時に思ったの。私は、もう何もできずに見ているだけなんて嫌だって」
香織は、ハジメをまっすぐ見つめた。
「ハジメくんのそばにいたい。あなたがどこへ行くとしても、一緒に行きたい」
「白崎……俺の旅は楽じゃないぞ」
「分かってる」
「危険な場所にも行く。普通なら近づかないような連中とも戦う。お前が想像している以上に、ひどいものを見るかもしれない」
「それでも行くよ」
香織は即答した。
「私は、自分の気持ちに嘘をつきたくないから」
ハジメは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくり息を吐く。
「……分かった。一緒に来ることを認める」
「……本当?」
「ああ。ただし、条件がある」
香織の表情が明るくなる。
「条件?」
「自分の身を守る力を身につけること。仲間の指示を聞くこと。無茶をする前に相談すること。そして、自分が選んだ道の責任を自分で背負うこと」
ハジメは真剣な目で香織を見た。
「それでも来るか?」
「……うん!」
香織は力強く頷いた。
「絶対についていく!」
「……なら、歓迎する。これからよろしくな、白崎」
「うん! よろしくね、ハジメくん!」
香織は嬉しそうに笑った。
雫は複雑そうに眉を下げた。
「……香織、本当に決めたのね」
「うん」
「なら、止めないわ。でも、南雲」
雫はハジメを睨んだ。
「香織を危険な目に遭わせたら、許さないから」
「……分かってるよ」
「本当に?」
「本当だ」
「……ならいいわ」
ユエが香織の前へ歩み寄った。
「……白崎香織」
「……はい」
「ハジメと一緒に行くなら、覚悟して」
ユエの瞳は真剣だった。
「ハジメは誰かを守るためなら、自分のことを後回しにする。だから、あなたもハジメを守るつもりでいて」
香織は驚いたようにユエを見つめ、やがて頷いた。
「……うん。分かった」
「……それなら、いい」
ユエは小さく頷いた。
シアも香織の手を取った。
「白崎さん、一緒に頑張りましょうね! ハジメさんは大変な人ですけど、とっても頼りになる人ですから!」
「ふふっ。うん、知ってる」
香織は笑った。
こうして、白崎香織はハジメたちの仲間に加わることになった。
出発の時が来た。
勇者パーティーの面々が、ハジメたちを見送りに集まっていた。
光輝はハジメの前へ歩み寄る。
「……南雲。今回は本当に助かった。ありがとう」
「……ああ」
それ以上、多くを語ることはなかった。
今はまだ、互いに理解できない部分がある。
それでも、かつて同じ教室にいた仲間として、最低限の言葉を交わすことはできた。
雫はハジメへ向き直った。
「南雲。いつか、私もあんたに追いつく。だから、その時は覚悟しておきなさい」
「そりゃ楽しみだ」
「……ふん」
雫は照れ隠しのように顔を背けた。
香織はクラスメイトたちへ向き直った。
「みんな、今までありがとう。私はハジメくんと一緒に行くね」
仲間たちは心配そうな顔をしたが、香織の決意が固いことは分かっていた。
「無理はするなよ」
「何かあったら、必ず連絡してくれ」
「……うん。ありがとう」
香織は笑顔で頷いた。
その時、ハジメの通信魔道具が鳴った。
『ハジメさん、そろそろ出発ですか?』
「ティオか。ああ、今から出るところだ。ミュウは?」
『大丈夫ですよ。ミュウちゃんも元気にしています』
『パパー! はやくかえってきてねー!』
ミュウの声が響いた。
「分かってる。いい子で待ってろよ」
『うん!』
『ふふっ。ミュウちゃん、ハジメさんのことが大好きなんですね』
「お前にも懐いてるだろ」
『ええ。とても可愛いですよ。……ハジメさんも、ミュウちゃんが帰りを待っているのですから、寄り道しすぎないでくださいね』
「分かってるよ。そっちは頼んだ」
『はい。皆さんも気をつけてくださいね』
通信が切れた。
ハジメは遊星号にまたがり、隣のユエを見た。
「……行くぞ」
「……うん」
シアがバウンサーラビットのアクセルを吹かす。
「よーし! 出発です!」
香織も新たな決意を胸に、ハジメたちの旅路へ踏み出した。
四人のDホイールが、ホルアドの町を走り出す。
その姿を、勇者パーティーは見えなくなるまで見送っていた。
ハジメは前を見据える。
あの日、奈落に落ちた自分には、想像もできなかった未来。
失ったものもある。
取り戻せないものもある。
それでも、今のハジメには大切な仲間たちがいる。
何度奈落に落ちることになっても。
何度地獄を見ることになっても。
彼は、何度でも前へ進む。
ユエに会うために。
シアと出会うために。
香織と再会するために。
そして、大切な仲間たちを守るために。
何度でも、同じ道を歩く。
星屑の竜の光を胸に、南雲ハジメたち――赤き竜の使徒《5D's》は、新たな目的地へと走り出した。