直葉「お兄ちゃーん、あの人に手を出されたー。」キリト「お前を〇す」 作:狩宮 深紅
埼玉県川越市。閑静な住宅街の一角にある、立派な日本家屋。
瓦葺きの門構えの横にある表札には、威圧感すら覚える達筆で『桐ヶ谷』という文字が刻まれている。
(……ここが、魔王の城。あの黒の剣士の、本拠地)
俺――××は、極度の緊張でカラカラになった喉を鳴らし、インターホンのボタンを押した。
ピンポーン、と間抜けな音が鳴る。
数十秒後、「はーい!」という弾んだ声と共に玄関の扉が開き、私服姿の直葉ちゃんが満面の笑みで飛び出してきた。
「いらっしゃい、××さん! わざわざ『配線の修理』に来てくれてありがとうございます♡」
今日の直葉ちゃんは、少し大きめの、柔らかな素材の白いオーバーサイズニットに、ショートパンツという、いかにも「おうちデート」を意識したような、少し無防備で可愛らしいルームウェア姿だった。
「お、おう。……お邪魔します」
俺は冷や汗を拭いながら、おそるおそる魔王の城へと足を踏み入れた。
どこか凛とした空気の漂う静かな廊下。あのキリトさんが毎日歩いているであろうこの空間にいるだけで、寿命がゴリゴリと削られていく気がする。
しかし、案内された二階の直葉ちゃんの自室に一歩足を踏み入れた瞬間――ふわりと、俺の鼻腔を甘い香りがくすぐった。
「適当に座ってくださいね。すぐにお茶、持ってきますから」
直葉ちゃんが足早に部屋を出ていく。
俺は、女の子らしい清潔感のある部屋の片隅に置かれた、見慣れたアミュスフィアと、その周辺の配線の前に胡座をかいた。そして、彼女の言う『嘘の不具合』を点検するフリをして、ケーブルを抜いたり挿したりしてみる。
(……うん、知ってたけど、やっぱりどこも断線してない。完全に正常だ)
数分後、カチャリとドアが開き、直葉ちゃんが二人分のマグカップを乗せた小さなお盆を持って戻ってきた。彼女はドアを閉めると、カチャ、と小さな音を立てて、内側から鍵をかけた。
「……えっ。す、直葉ちゃん? 今、鍵……。」
「お待たせしました。……どうですか? 配線、直りそうですか?」
俺のツッコミを完全にスルーして、直葉ちゃんは悪戯っぽく微笑みながら近づいてくる。
俺はベッドの縁に腰掛け直し、「あー、うん。ちょっと接触が悪かったみたいだけど、もう完璧に直したよ」と、しどろもどろに答えた。
「ふふっ、さすが××さんです。頼りになりますね。」
直葉ちゃんは、マグカップをサイドテーブルに置くと、俺のすぐ隣――肩と肩が触れ合うほどの至近距離に、コテンと身を寄せて座った。
静まり返った部屋。
微かに聞こえるのは、一階にある柱時計の音と、すぐ隣にいる彼女の、規則正しい小さな寝息のような呼吸音だけ。
俺の心臓が、先ほどまでの「魔王の城に侵入している恐怖」とは全く違う理由で、けたたましく警鐘を鳴らし始めた。
「……ねえ、××さん。」
直葉ちゃんが、顔を少しだけ傾け、上目遣いで俺を見つめてきた。
彼女の白いニットの襟元がわずかにたわみ、華奢な鎖骨と、雪のように白い肌が覗く。そこから漂う、甘い花のシャンプーの香りと、彼女自身の体温が混ざり合った匂い。
それは、あの日――ALOの宿屋で『倫理コード』を解除した夜に、俺の脳髄に麻薬のように焼き付いた、あの蠱惑的な匂いと全く同じだった。
「お母さん、夕方まで帰ってこないですよ(適当)。」
甘く、溶けるような声。
彼女の小さな手が、ベッドの上に置かれていた俺の手に、そっと重なった。
仮想空間(VR)のデータを通して伝わってきた熱じゃない。血の通った、本物の人間の、脈打つ温もり。
「お兄ちゃんも、アスナさんと大事な話があるから、夕方まで絶対に帰ってきません。……今、この家には、私と××さんしかいないんです。」
「す、直葉ちゃん……。あのさ、ここは現実(リアル)だから。これ以上は、さすがにマズいっていうか……。」
俺は必死に乾いた唇を舐め、大人の男としての、最後の理性の防波堤を築こうとした。
いくら仮想空間で一線を越えたとはいえ、ここは現実だ。彼女はまだ未成年で、俺は大学生。しかもここは、あの黒の剣士のテリトリー。
しかし、直葉ちゃんは、俺のそのしがない理性の壁を、いとも容易く乗り越えてきた。
「マズいって……何がですか?」
直葉ちゃんは、俺の手に重ねていた指をゆっくりと滑らせ、俺の指の間に自分の指を絡ませて、ギュッと『恋人繋ぎ』の形に固定した。
そして、俺の肩にふわりと体を預け、耳元で吐息を絡めるように囁いた。
「あの夜……倫理コードを外して、私に触れてくれた時。××さん、私に『好きだ』『愛してる』って、言ってくれましたよね。」
「…………っ。」
「あれは、ゲームの中だけの嘘だったんですか?。」
ずるい。あまりにもずるすぎる。
潤んだエメラルドグリーンの瞳が、俺の逃げ道を完全に塞いでいる。
彼女は、俺が絶対にこの問いに「嘘だ」と答えられないことをわかっていて、そして俺が彼女の魅力に魂のレベルで絡め取られていることを完全に理解した上で、この密室の罠を張ったのだ。
「誰も、見てないですよ。……だから、あの夜の続き、現実(リアル)でも……してくれませんか?」
その決定的な一言で。
俺の頭の中で張り詰めていた理性の糸が、プツリ、と音を立てて切れた。
仮想世界で知ってしまった、彼女の熱。それを、現実の肉体でも味わいたいという男の抗いがたい本能。
(……キリトさん、ごめんなさい。俺、もう無理です)
俺は完全に直葉ちゃんの誘惑に絡め取られ、喉をゴクリと鳴らした。
繋いでいない方の手をゆっくりと持ち上げ、彼女の華奢な肩をそっと抱き寄せる。直葉ちゃんは、待っていたようにゆっくりと瞳を閉じ、わずかに顎を上げた。
交じり合う吐息。彼女の桜色の唇が、すぐ目の前にある。
あと数センチ。あと一ミリで、俺たちは現実世界でも、決して後戻りできない確かな一線を────
ガチャリ。
『ただいまー。直葉、いるの?』
「――――ッ!!」
一階から響いた、玄関のドアが開く音と、落ち着いた女性の声。
俺は、バケツで零下数十度の氷水をぶっかけられたように正気に戻り、バッと顔を離して、弾かれたようにベッドから飛び退いた。
(夕方まで帰ってこないって言ったじゃん!? 完全に事案の現行犯になるところだった!!)
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、パニックで頭が真っ白になり、足がガクガクと震え始める。
しかし、直葉ちゃんは不満そうに「むぅ」と唇を尖らせた後、舌をペロッと出して「あら、お母さん予定より早かったですね」と、全く悪びれることなく立ち上がった。
そして、腰を抜かしている俺の腕を、笑顔で引っ張り上げた。
「行きましょう、××さん。お母さんに紹介しますから。」
「す、直葉ちゃん……っ、心の準備が……っ」
一階のリビングへと続く階段を下りながら、俺は深く、深く深呼吸をした。
さっきまでの甘く濃密な空気は完全に消え去り、あるのは圧倒的な『事案発生』の恐怖。俺は今まで、バイト先のファミレスでも、面倒な人間関係でも、いつも持ち前の『適当な愛想』と『接客スマイル』でやり過ごしてきた。
でも。今回だけは、絶対にそれじゃダメだ。
仮想世界で彼女のすべてに触れ、彼女のトラウマごと全部受け止めると決めたんだ。ここで取り繕った嘘の笑顔を見せるのは、彼女の覚悟に対する最大の裏切りになる。
(……腹を括れ。俺の本心で、ぶつかるんだ)
リビングに入ると、キッチンで買い物袋を片付けていた女性――直葉ちゃんの母親である桐ヶ谷翠(みどり)さんが、振り返って目を丸くした。
「あら。直葉、お友達?」
「ううん、お母さん。紹介するね。私の彼氏の、××さん。」
直葉ちゃんの真っ直ぐな宣言に、翠さんは「えっ」と小さく息を呑み、瞬きを繰り返した。
俺は、背筋をピンと伸ばし、ファミレスの接客スマイルではない、極めて真面目で、少しだけ緊張で強張った顔で、深く頭を下げた。
「初めまして。××と申します。……突然お伺いしてしまい、申し訳ありません。いつも、直葉さんには大切にしていただいています。」
翠さんは、俺の誠実な態度を見て、少しだけ安堵したように「ご丁寧に。直葉の母です」と微笑み返してくれた。
そこから、ダイニングテーブルを挟んでの、針のむしろのようなお茶会が始まった。
翠さんは、出されたお茶を一口飲み、静かに、しかし親としての鋭い視線で俺を見つめた。
「××さんは、大学生なのよね? ……直葉とは少し歳が離れているようだけれど、二人はどうやって知り合ったの?」
「はい。……あの、正直に申し上げます。俺たちは、ALOというVRゲームの中で出会いました。」
オンラインゲームでの出会い。親世代からすれば、不信感を抱かれても仕方がない答えだ。俺は隠さず、真っ直ぐに翠さんの目を見て答えた。
「最初は、ただのゲーム仲間でした。でも、彼女の強さや、時折見せる年相応の弱さを知っていくうちに、現実(リアル)でも彼女を支えたいと思うようになりました。」
「……そう。ゲームの中で。」
翠さんは、手元の湯呑みを見つめ、静かに問いを重ねた。
彼女の目には、和人(キリト)がSAOのデスゲームに囚われ、そして帰還した後の、この家族が抱えてきた複雑な事情への思いが滲んでいるようだった。
「××さんは、直葉の……どんなところを好きになってくれたの?」
直球の質問。
俺は、隣に座って不安そうに俺の横顔を見つめる直葉ちゃんを一瞥し、そして、飾らない自分の本心を口にした。
「直葉ちゃんは、すごく強くて、立派な女の子です。でも……時々、一人で重いものを抱え込みすぎて、無理をして笑っているように見えました。」
俺の脳裏に、あの夜、うなされて涙を流していた彼女の姿がよぎる。
「俺は、直葉ちゃんのお兄さんみたいに強くないし、立派な人間でもありません。ただの大学生です。……でも、だからこそ。彼女が俺の隣にいる時くらいは、強がらずに、ただの『普通の女の子』として、くだらないことで腹を抱えて笑っていてほしいんです。彼女のそういう無邪気な笑顔が……俺は、本当に大好きなんです。」
嘘偽りのない、俺の本心だった。
静まり返ったリビング。
直葉ちゃんは、顔を真っ赤にして俯き、目尻に涙を浮かべながら、テーブルの下で俺の手をギュッと力強く握りしめていた。
翠さんは、そんな娘の様子を、静かに、優しく見つめていた。
SAO事件以降、直葉はどこか気を張って『強い妹』であろうとしていた。しかし今、目の前で不器用に照れ隠しをする娘の姿は、事件が起きる前の、ただの恋する普通の女の子そのものだった。
それが、目の前にいる、少し頼りないけれど、どこまでも真っ直ぐで優しい青年の『平和』がもたらしたものだと、翠さんにはすぐに理解できた。
「……ふふっ。」
翠さんは、憑き物が落ちたように柔らかく微笑み、俺に向かって深く頭を下げた。
「××さん。直葉のこと、よろしくお願いしますね。……この子、あなたと一緒にいると、本当に楽しそうだから。」
「あ、ありがとうございます……っ! 絶対に、大切にします!」
俺が勢いよく立ち上がって頭を下げると、直葉ちゃんも「お母さん、ありがとう!」と嬉しそうに笑った。
母親からの公認。これで、直葉ちゃんの外堀工事は、家族という最も強力な素材で完全に固められたことになる。
「せっかくだし、××さん、夕飯も食べていくでしょう? 和人もそろそろ帰ってくるはずだから。」
翠さんが立ち上がり、冷蔵庫へ向かおうとした。
その、直後だった。
――ブォォォォォン……!
家の外から、地響きのような、重低音のバイクのエンジン音が響き渡った。
間違いない。あの黒の剣士の愛車の音だ。
「あ、お兄ちゃん帰ってきたみたい。アスナさんとのお話、終わったんですね。」
「…………っ。」
俺の心臓が、早鐘を打つ。
玄関の扉が開く音。重い足音が、廊下を伝ってリビングへと近づいてくる。
逃げたい。今すぐ窓から飛び降りて逃亡したい。本能がそう叫んでいた。しかし、俺はテーブルの下で直葉ちゃんの手をしっかりと握り返し、その場に踏みとどまった。
ここで逃げたら、さっき翠さんに語った覚悟がすべて嘘になる。
ガラリ、とリビングの扉が開いた。
そこに立っていたのは、黒いジャケットを着た桐ヶ谷和人(キリト)だった。
ファミレスで俺を狩りに来た時の、あの般若のようなバーサーカーの表情ではない。ひどく疲労したような、しかし、どこか憑き物が落ちたような、静かで落ち着いた佇まいだった。
「ただいま。母さん、今日飯――」
言葉の途中で。
和人は、リビングのダイニングテーブルに座っている俺の姿を認識し、ピタリと動きを止めた。
「…………」
数秒間の、沈黙。
俺は、足の震えを必死に気力でねじ伏せ、立ち上がった。そして、和人に向かって真っ直ぐに向き直り、深く頭を下げた。
「初めまして。桐ヶ谷……お義兄さん。直葉さんとお付き合いさせていただいている、××と申します。ご挨拶が遅れて、申し訳ありません。」
俺は逃げずに、ついに正面から、彼に宣戦布告(あいさつ)をしたのだ。
和人は、俺の怯えながらも絶対に目を逸らさないその態度を見て、漆黒の瞳をスッと細めた。
そこから放たれたのは、以前のような理不尽な殺気ではない。ただ、一人の男として、妹を託すに足る人間かどうかを見極めるための、重く、静かな『圧』だった。
「……アスナと、エギルから話は聞いた。他のメンバーとも話し合った。そのうえで、この間は悪かった。」
和人は、低い声で静かに言った。
「あいつらが、お前を高く評価していることはわかった。直葉が、お前と一緒にいて笑ってるのも事実なんだろう。」
和人の視線が、俺と、俺の腕に寄り添う直葉ちゃんを交互に見据える。
「だが、俺は兄だ。……他人の評価だけで、大事な妹の隣に立つ男を認めるわけにはいかない。」
「……はい」
「今日の夜十二時。ALOの、この前の酒場の前にログインして欲しい。」
和人は、一切の感情を見せない、しかし確かな熱を帯びた声で言い放った。
「男同士で、話がある。……アスナたちが認めたお前の覚悟、俺自身の目で確かめさせてもらう。……絶対に逃げるなよ。」
それだけを言い残し、和人は自室がある二階へと上がっていった。
残されたリビングで、俺は全身から滝のような冷や汗を流しながら、小さく息を吐き出した。
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