直葉「お兄ちゃーん、あの人に手を出されたー。」キリト「お前を〇す」   作:狩宮 深紅

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彼女の脆い傷跡

あの日、俺――××の安アパートにお詫びという名目で直葉ちゃんが訪問するようになってから数日が経っていた。

 

 俺の平穏で適当だった一人暮らしのモラトリアム生活は、劇的かつ暴力的なまでの『幸福』によって塗り替えられつつあった。

 

「××さん、おかえりなさい! 今日の夜ごはんは、出汁巻き卵と鮭の塩焼き定食ですよー!」

「お、おう……。ただいま、直葉ちゃん。」

 合鍵を手に入れた直葉ちゃんは、宣言通り、そして俺の予想を遥かに超える頻度で、アパートに出入りするようになった。

大学やバイトから帰ってくると、部屋に明かりが灯っていて、温かい手料理と、エプロン姿の「おかえりなさい」が出迎えてくれる。

 控えめに言って、天国だった。

 最初の数日は「もしキリトさんがこの状況を知ったら、今度こそ俺は東京湾に沈められるんじゃないか」と震えていた俺だったが、人間という生き物は、恐ろしいほどに『快適さ』と『食欲』に弱い。

 

毎日コンビニ弁当やカップ麺で荒みきっていた俺の胃袋は、直葉ちゃんの作る完璧な味付けの肉じゃがや、ふっくらとしたハンバーグ、絶品の生姜焼きによって、もはや彼女なしでは生きていけないレベルにまで完全に掌握されてしまっていた。

 

 そして、胃袋を掴まれるということは、生活の主導権を握られるということと同義だ。

 

 脱ぎ散らかした服はいつの間にか畳まれ、シンクの洗い物は消え、部屋からは男の一人暮らし特有の埃っぽさが消え失せ、代わりに彼女の甘いシャンプーの香りが常駐するようになった。

 

(……やばい。完全に手懐けられてる。でも、最高に快適すぎる)

 

 俺は、彼女の『優しさ』と『女子力』という名の底なし沼に、首のあたりまでどっぷりと浸かっていた。

 だが、最強のヒロインによる外堀工事は、アパートという密室の制圧だけでは終わらなかったのだ。

 

「おっしゃー! 今日の昼飯は学食のカツカレー大盛り食うぜ!」

 

「俺は唐揚げ定食! 午後の講義は一番後ろの席で寝る!」

 

 数日後の、大学の昼休み。

 俺は、同じ学部の悪友であるバカ二人と共に、腹を空かせてキャンパスの中庭を歩いていた。

 平和な大学生の、絵に描いたような日常風景。直葉ちゃんの手料理がない昼間くらいは、こうしてジャンクな学食をかき込むのも悪くない。……そう思っていた、その時だった。

 

「あっ、××さーん!」

 

 大勢の学生が行き交うキャンパスの中庭。色づき始めた銀杏の木の下から、場違いなほど澄んだ、可憐な声が響いた。

 振り返ると、そこには清楚な私服姿で、可愛らしいバスケットを両手で大事そうに抱えた桐ヶ谷直葉が、満面の笑みでこちらに手を振っていた。

 

「なっ……!?」

 

「うおおおっ!? なんだあの超絶美少女!? 今この大学にいるどの女子大生よりもレベル高いぞ!?」

 

「おい××、今お前の名前呼んでなかったか!?」

 

 悪友二人が、目ん玉を飛び出させて直葉ちゃんを凝視する。

 俺は冷や汗をダラダラと流しながら、小走りで駆け寄ってくる彼女に小声で尋ねた。

 

「す、直葉ちゃん!? なんで大学に!?」

 

「今日、高校が創立記念日でお休みだったんです。だから、××さんと一緒にお昼食べようと思って、お弁当作ってきちゃいました!」

 

 直葉ちゃんは、えへへ、とはにかむように笑い、悪友二人に向かってペコリと完璧な角度でお辞儀をした。

 

「初めまして! 私、桐ヶ谷直葉といいます。今はまだ、××さんの彼女に『立候補中』なんですけど……いつも彼がお世話になってます♡」

 

「「かのっ……立候補中ゥゥゥゥ!?」」

 

 悪友二人の絶叫が、キャンパスに響き渡った。

 俺は一瞬、「彼女です」と断言されるかと思って心臓が止まりかけたが、『彼女に立候補中』という絶妙な言い回しに、少しだけ心理的な負担が軽くなるのを感じた。

 

 完全に逃げ道を塞がれるのではなく、「あくまで私がアプローチしているんです」という健気なスタンス。それが余計に、悪友たちの嫉妬心に火をつけたらしい。

 

「おい××……お前、こんな可愛い子に立候補されるようなこと、いつの間にしやがったんだよ! しかも高校生って、お前、完全に事案一歩手前じゃねえか!!」

 

「このロリコン! 許さねえ! 俺たちの青春を裏切った罪で、今すぐ学生課に通報してやる!!」

 

「ちょ、待てお前ら! 誤解だ、俺は手なんか出してない!」

 

「ふふっ。××さんったら、私と仲良くしてること、お友達には内緒にしてたんですね。……もう、いけずなんだから」

 

 直葉ちゃんが、頬を染めて上目遣いで俺の袖をちょこんと引っ張る。

 その破壊力抜群の『小悪魔ムーブ』の前に、悪友二人は「くっそおおお末長く爆発しろおおお!」と血の涙を流しながら、カツカレーを求めて学食へと消えていった。

 

 俺の大学での社会的地位(他の女子からのアプローチの可能性など)は、こうして見事に、そして笑顔のまま完全に断たれたのである。

 

 中庭のベンチで、直葉ちゃんの作ってくれた色とりどりの完璧なお弁当(もちろん悪魔的に美味かった)を二人で食べながら、俺は「この子には一生勝てない」と完全に白旗を揚げていた。

 

 

 

 

 

――そして、その日の夕方。

 

 俺の安アパートで、決定的な出来事は起きた。

 

「××さん、お茶淹れましたよ」

 

「お、サンキュ。ごめんな、明日のゼミのレポート終わらせるまでちょっと待ってて」

 

 俺はローテーブルでノートパソコンを開き、キーボードを叩いていた。

 直葉ちゃんは「気にしないでください」と微笑み、俺のベッドの縁に腰掛けて、持参した文庫本を読み始めた。

 それから一時間ほどが経過した頃。

 レポートの区切りがつき、俺が大きく伸びをして振り返ると、直葉ちゃんは文庫本を胸に抱いたまま、ベッドの上でうたた寝をしてしまっていた。

 

「……寝ちゃったか。そりゃそうだよな、朝早くから弁当作って、わざわざ大学まで来てくれたんだし」

 

 俺は苦笑し、風邪をひかないようにタオルケットをかけてやろうと、彼女の寝顔に近づいた。

 

 あんなに底知れぬ策士っぷりを発揮して俺の日常を制圧したのに、眠っている顔は、年相応のあどけない少女そのものだった。

 少しだけ開いた桜色の唇。長い睫毛。規則正しい寝息。

 

(……可愛いな、やっぱり)

 

 俺が無防備な寝顔に見惚れていると、不意に、直葉ちゃんの表情が苦悶に歪んだ。

 

「……っ……ぁ……」

 

「直葉ちゃん?」

 

 彼女の細い体が、小さく震え始める。

 ギュッとシーツを握りしめるその手は白く結血し、閉じた目尻から、ツゥ……と一筋の涙がこぼれ落ちた。

 

「……いや……痛い、お兄ちゃん……っ……アスナさん……! 嫌だ、目が、焼かれる……体が、裂ける……っ!」

 

 うなされている。

 それは、ただの悪夢を見ているというレベルではなかった。まるで実際に肉体を切り刻まれているかのような、極限の恐怖と絶望が入り混じった、悲痛な寝言だった。

 その言葉の端々に散りばめられた、生々しい痛みの表現。

 

「……っ!」

 

 俺は息を呑んだ。

 思い出した。一番最初、ALOのあの丘で出会った時、彼女が虚空を見つめながら口にしていた言葉。

 

『何度も何度も体が引き裂かれるような、そんな戦いの……』

 

 俺はあの日、それをただの「PK(プレイヤーキル)によるアイテム全ロス」だと勘違いして、アハハと平和に笑い飛ばしてしまったのだ。

 でも、違う。

 この子は、俺なんかには想像もつかないような、本物の『地獄(トラウマ)』をその小さな背中に抱え込んでいる。あんなに可愛くて、強引で、料理上手で、無敵のヒロインに見える彼女の奥底には、こんなにも脆くて、痛々しい傷跡が隠されていたのだ。

 

「……直葉ちゃん。大丈夫だ、俺がいるから」

 

 俺は、無意識のうちに手を伸ばしていた。

 彼女の震える小さな手を、両手でしっかりと包み込み、もう片方の手で、冷や汗をかいた彼女の前髪を優しく撫でる。

 俺は、あのキリトさんみたいに強くないし、彼女を本当の意味で救うことなんてできないかもしれない。

 けれど、俺のこの『くだらなくて平和な日常』の中にいる時だけは、彼女をただの普通の女の子として、安心させてやれるんじゃないか。

 

「もう痛くないよ。大丈夫だから。俺がついてる」

 

 俺が繰り返し優しく囁き、手を握り続けていると、やがて直葉ちゃんの震えはスッと治まり、涙で濡れた睫毛がゆっくりと持ち上がった。

 

「……ぁ……れ……? ××、さん……?」

 

「あ、起きた? ごめん、うなされてたみたいだったから……」

 

 直葉ちゃんは、自分が俺に手を握られ、涙を拭われている状況を理解すると、ハッとして身を起こした。

 

「わ、私……! ごめんなさい、変な寝言、言ってましたよね……っ」

 

「ううん。何も聞いてないよ」

 

俺は、いつものモラトリアムな笑顔を作って、彼女の頭をポンポンと撫でた。

 

「レポート終わったからさ。夕飯、この前みたいに直葉ちゃんの美味いご飯、食いたいな」

 

「…………っ」

 

 その瞬間。

 直葉の胸の奥で、カチリ、と何かが決定的に噛み合う音がした。

 目の前にいるこの塩顔の青年は、私の見苦しいトラウマの片鱗に触れても、深く詮索することなく、ただ温かい手で包み込んで、いつもの『圧倒的な平和』へと引き戻してくれたのだ。

 

(あぁ……やっぱり、この人じゃなきゃダメだ。この人の隣にいる時だけ、私は『戦士』じゃなくて、ただの『女の子』でいられるんだ)

 

 そして直葉は、彼を見つめる中で、ある微かな変化に気がついた。

 彼が自分に向ける瞳から、あの「怯え」や「お兄ちゃんへの恐怖」が薄れている。代わりにそこにあるのは、不器用ながらも自分を守ろうとしてくれるような、温かい『保護欲』の色だった。

 

そんな彼の表情を見て、桐ヶ谷直葉の純粋な恋心によって『策士』の脳細胞が、瞬時に最適解を弾き出す。

これ以上、現実世界(リアル)で強引に押し続ければ、彼のこの温かい感情を窮屈にさせてしまうかもしれない。

 

恋愛の基本は、押してダメなら引いてみろ、だ。彼が歩み寄ってきてくれた今なら、一度『引き』のカードを切ることで、彼の心をさらに深く揺さぶれるはず。

 

「……××さん」

 

 直葉は、ベッドから立ち上がり、少しだけ寂しそうな、けれど真っ直ぐな瞳で彼を見上げた。

 

「私、××さんの現実(リアル)に、少し強引に踏み込みすぎちゃいましたよね。合鍵をもらったり、大学にまで押しかけたりして……困らせちゃって、ごめんなさい。」

 

「え? い、いや、別に困ってるとかは……」

 

「だから、約束します。」

 

直葉は、自分の胸の前で両手をギュッと握りしめた。

 

「しばらく、現実世界で××さんのところに遊びに来るのは、控えますね。……私ばっかり押し付けちゃって、ごめんなさい。」

 

「――――えっ。」

 

その言葉を聞いた瞬間。

俺の心臓が、ヒュッと冷たく縮み上がった。

明日から、朝起きても直葉ちゃんが作り置きしてくれた朝食や。大学から帰ってきても、部屋は真っ暗で、エプロン姿の彼女はいない。また、あの孤独で味気ないコンビニ弁当の生活に戻るのか。

 

いや、それ以上に。あんなに痛々しい涙を流していた彼女を、一人にしてしまうのか?

 

俺は口では「そ、そうか。わかった」と言いながらも。

無意識のうちに、眉尻が下がり、口を少しだけ引き結んでしまっていた。自分ではポーカーフェイスを保っているつもりだったが、俺の顔には『強烈な寂しさ』と『喪失感』が、隠しきれないほどくっきりと浮かび上がっていたらしい。

 

そして。

直葉が、その不器用で、いじらしいほどにわかりやすい俺の表情の変化を

 

――見逃すはずがなかった。

 

(……ふふっ。××さん、すごく寂しそうな顔してくれてる)

直葉は、心の中で小さくガッツポーズをした。

完全に、彼の胃袋も、生活も、そして心も、私の不在に耐えられないほどに掌握できている。その確信を得た直葉は、トドメとばかりに、スッと小指を差し出した。

 

「……その代わり。」

 

「代わり……?」

 

「ALOの中では、今まで通り、私の『彼氏』として一緒に過ごしてください。……現実で会えない分、仮想世界でいっぱい甘やかして、私を笑わせてください。それくらいなら……いいですよね?」

 

それは、直葉なりの最大限の譲歩(に見せかけた、完璧な誘導)だった。

リアルでの接触を減らす代わりに、ALOでの関係を確約させる。

今の、直葉の痛々しい涙を見た直後であり、彼女が来なくなる寂しさに耐えきれなくなっていた俺に、そのささやかな願いを断れるはずがなかった。

 

それに、キリトさんのいない(もし居たとしても一回デスポーンするだけ)ALOの中で一緒に遊ぶくらいなら、現実の俺の生活も守られる。

 

「……わかった。約束するよ。」

 

俺は、ホッとしたように息を吐き出し、彼女の小さな小指に、自分の小指を絡ませた。

 

「ALOの中なら、いくらでも直葉ちゃんのこと甘やかしてやるよ。最強の彼氏としてな。」

 

「……ふふっ。プレイヤースキル、下の中なのに?」

 

「うるせー! 気持ちの問題だよ!」

 

二人の間に、出会ったあの日のような、くだらなくて平和な笑い声が響いた。

俺は「これで少しは事態が好転したかな?現実の距離感も保てるし、彼女の笑顔も守れる」と、甘く考えていた。

 

しかし、俺は知らなかったのだ。

彼女がALOにこだわった本当の理由――それが、最強の兄(キリト)の首輪を引くことができる唯一の存在、アスナさんを『味方』に引き入れるための、恐るべき政治的根回し(監視デート)の布石であったということを。

 

 

 

 




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