直葉「お兄ちゃーん、あの人に手を出されたー。」キリト「お前を〇す」 作:狩宮 深紅
あのアスナさんによる、『監視デート(※俺は監視されていたことなど露知らず、大成功したと思い込んでいる)』から、数日が経過した。
俺と直葉ちゃんは、あの夜の約束通り、毎日のようにALOで待ち合わせをしては、二人きりの甘く平和な時間を過ごしていた。
今日はシルフ領の少し離れた街まで足を延ばし、二人で軽いクエストをこなした後、プレイヤー用の宿屋(イン)の一室を借りてログアウトまでの時間をのんびり過ごすことにした。
「いやー、今日のボスのドロップアイテム、全然渋かったなー。」
「ふふっ。××さん、攻撃よけるの必死すぎて、最後の方は完全にただのデコイになってましたもんね。私が回復魔法をかける暇もないくらい逃げ回ってて、面白かったです。」
石造りの暖炉で火がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜる、木組みの温かみのある部屋。
俺が皮張りの大きなソファに深く腰掛けて笑うと、隣に座っていた直葉ちゃんが、ふわりと俺の肩にコテンと頭を乗せてきた。
現実世界での彼女の強引な策士っぷりや、底知れぬしたたかさとは違う、年相応の甘えるようなしぐさ。俺も自然と、彼女の華奢な肩をそっと抱き寄せようとした。
……しかし。
俺の手が彼女のポリゴンの肩に触れた瞬間、指先と彼女の肌の間に、微かな『反発力』のような違和感が生じた。
それは、まるで目に見えない極薄のゴムの層が挟まっているような、あるいは磁石の同極同士を近づけた時のような、奇妙な感覚。
VRMMO特有のシステム保護――プレイヤー同士の過度な接触や、生々しい感覚を遮断するための『見えないクッション』だった。
戦闘や通常のコミュニケーションには支障はない。以前なら、ゲームの仕様だと割り切って全く気にならなかったはずのその薄い壁が、今夜はどうしようもなく分厚く、冷たいものに感じられた。
「……。」
「直葉ちゃん? どうした?」
直葉ちゃんが、ふと顔を上げ、少しだけ寂しそうな、ひどく切なげな瞳で俺の手を見つめた。
暖炉の炎に照らされたエメラルドグリーンの瞳が、揺れている。
「……××さんは、私のこと、現実(リアル)の子供だって思ってますか?」
「えっ。」
唐突な問いに、俺は言葉を詰まらせた。
「わかってます。現実の私はまだ高校生で、大人の××さんから見たら、手を出せない『守るべき対象』だってことくらい。……それに、手を出したら、お兄ちゃんが何するか私にはもう分からないですし……。」
「そ、それは……まあ、否定できないけど」
「でも……私、それがすごくもどかしいんです」
直葉ちゃんは、俺の手を両手でギュッと握りしめた。
システムに阻まれ、本物の体温までは伝わってこないその手を、彼女は愛おしそうに、そして祈るように自分の胸に抱き寄せた。
「この前のデートで、飛んできていた花火から私を庇ってくれた時。××さんは、ゲームのステータスなんか関係なく、私を一番に守ろうとしてくれました。……私、あの時、本当に嬉しかったんです。あぁ、この人の隣なら、私はただの『普通の女の子』でいられるんだって、心から思えたんです。」
彼女の声が、微かに震えていた。
「××さんが作ってくれる『普通』の時間と空間が、私には必要なんです。……だから、私、心だけじゃなくて、もっと、××さんの本当の温もりに触れたい。でも、
彼女の言葉に、俺は息を呑んだ。
俺は、自分が彼女を守っているつもりになっていた。でも、現実は違う。俺みたいな適当な男の『普通さ』を、彼女は本気で、縋るように愛してくれている。だからこそ、現実の年齢や兄という壁に阻まれて触れ合えないことに、誰よりも深い孤独を感じていたのだ。
直葉ちゃんは、空いた片手で空中にスッと指を走らせた。
ピロンッ、という小気味良いシステム音と共に、彼女の目の前に半透明の紫色のメニューウィンドウが展開される。
直葉ちゃんは、迷いのない指先で『セッティング(設定)』のタブを開き、さらに深い階層にある『詳細オプション』、そして『感覚システム設定』の項目へとアクセスしていく。
そして、その最深部に隠された、一つのチェックボックスを指差した。
「……『倫理コード』の設定です。」
俺も、その機能の存在は知識として知っていた。
プレイヤー同士の過度な接触や、性的な行為をシステム的に制限するための安全装置。これがオンになっている限り、アバター同士の接触には先ほどの反発力がかかり、キス以上の深い行為に及ぶことはシステムが強制的にブロックする仕組みになっている。
「このコードを……お互いに解除すれば。システムは、私たちの接触を一切制限しなくなります。」
直葉ちゃんは、頬を真っ赤に染めながら、しかし絶対に引かないという強い意志を込めて、俺を真っ直ぐに見つめた。
「リアルでは、まだダメかもしれないです。でも……この世界(ALO)なら、関係ないですよね? どうか……私を、あなただけのものにしてくださいっ。」
彼女の細い指先が、チェックボックスの『OFF』ボタンをタップする。
『警告(Warning):倫理コードを解除します。これより先のアバター間の接触において、システムによる保護・制限は一切行われません。本当によろしいですか?』
空中に浮かび上がった、警告を促す真っ赤なダイアログ。
直葉ちゃんは、躊躇うことなく『YES』を押した。
シャンッ、という微かなガラスの割れるような音が鳴り、彼女のアバターを覆っていた目に見えないシステムの壁が消え去ったのが、視覚ではなく直感で理解できた。
「……××さん。」
俺は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
彼女がどれほどの覚悟で、そしてどれほどの深い愛情で、この『一線』を越えようと提案してくれたのか。
現実世界の問題を回避しつつ、俺との絆を絶対に千切れないものにするための彼女からの、究極の愛の証明。
(……ここで逃げたら、一生後悔する。いや、俺が男じゃない)
俺は深く息を吸い込み、自分のシステムウィンドウを叩き出した。
設定から、詳細オプション、そして感覚システムへ。深い階層に眠る『倫理コード』の項目。
俺は、直葉ちゃんの震える手をそっと握りしめ、もう片方の手で、赤い警告のダイアログの『YES』ボタンを力強くタップした。
――その瞬間。
世界が、劇的に変容した。
「あ……っ。」
握りしめた直葉ちゃんの手の感触が、今までとは全く違うものになっていた。
あの微かなクッションのような違和感が完全に消滅し、生々しいほどの人肌の温もり、脈打つ鼓動、そして少しだけ汗ばんだ肌の様な質感が、俺の手のひらに直接、ダイレクトに伝わってきたのだ。
五感が、異常なほどに研ぎ澄まされる。
俺は、ウィンドウをすべて閉じ、直葉ちゃんの肩を強く引き寄せた。
彼女の体温が、熱い。
「……倫理コード、外したよ。」
「はい……っ」
俺に寄りかかっていた直葉ちゃんが、目を閉じて、わずかに顎を上げた。
俺は、彼女の桜色の唇に、自分の唇を重ねた。
1回、2回、お互いの気持ちを確かめ合うように軽くキスをしあう。
俺と直葉ちゃんの目線が合い、3回目。触れるだけの軽いキスとは違う。唇の柔らかさ、吐息の熱、そして互いの粘膜が触れ合う生々しい感触が、脳のニューロンを直接焼き焦がすような強烈な快楽となって全身を駆け巡った。
「んっ……ぁ、××、さん……っ」
直葉ちゃんの甘い吐息が、俺の口内に流れ込む。
俺の手が彼女のアバターの背中に回ると、システムによるブロックは一切なく、本物の素肌の滑らかさが指先に伝わってきた。
現実世界の高校生の彼女に触れることはできない。でも、この仮想の肉体を通して伝わってくる感情の熱量は、間違いなく『本物』だった。
「リーファ、ちゃん……。」
「直葉って呼んでいいですよ。全部、××さんの好きに……して……っ」
暖炉の火だけが照らす薄暗い部屋の中で。
二つのアバターは、システムという名の理性を脱ぎ捨て、互いの存在を完全に確かめ合うように深く、熱く、溶け合っていった。
言葉の遊びで始まった『手を出された』という嘘は、この夜、仮想の光の中で、誰にも知られることのない『真実』へと変わったのだった。
――そして、翌日の夕方。現実世界。
俺は、自室の安アパートのベッドの上で、昨夜のALOでの凄まじい生々しさと甘い記憶を思い出しながら、一人で顔を真っ赤にして頭を抱えていた。
(……やばい。あんなの、もう完全に後戻りできないじゃん……!)
それは単に「一線を越えた」という言葉で片付けられるような、生易しいものではなかった。
あのVR空間での濃密な夜を経て、俺は彼女に、魂のレベルで完全に『絡め取られて』しまっていたのだ。
現実では手を出していない。しかし、彼女の肌の熱も、甘い吐息も、俺のすべてを許容して受け入れてくれたあの柔らかな感触も、俺の脳髄に麻薬のように焼き付いて離れない。
彼女がいないと、呼吸すら浅くなってしまうような錯覚。俺の心は、彼女の計算し尽くされた深い愛情の沼に、自ら喜んで沈み込んでいた。
──ピンポーン
アパートのインターホンが鳴り、合鍵の開く音がして、私服姿の直葉ちゃんが入ってきた。
「こんにちは、××さん♡」
「お、おう! いらっしゃい……!」
顔を合わせるなり、昨夜の生々しい記憶がフラッシュバックして、お互いに少しだけ視線を逸らして頬を赤らめる。
しかし、直葉ちゃんはすぐに「ふふっ」と小悪魔のように笑い、ベッドに腰掛けていた俺の隣にちょこんと座った。
昨夜を経て、二人の間の空気は劇的に変わっていた。彼女の肩が触れるだけの何気ない距離感が、もはや「友達の延長」ではなく、「完全に主導権を握った女」のそれに変化している。彼女の太ももが、俺の足にわざとらしく、けれど自然に擦り寄せられた。
「あの、××さん。今週末って、空いてますか?」
「ん? おう、元々週末辺りは休み貰ってるから特に予定はないけど……。」
すると直葉ちゃんは、俺の腕にギュッと自分の腕を絡ませ、甘えるように上目遣いで覗き込んできた。
「実は、私の部屋のVRマシンの配線が、ちょっと調子悪くて。……お兄ちゃんに直してもらおうと思ったんですけど、今週末、お兄ちゃん絶対に家にいないんです」
「……え? キリトさんが、家にいない?」
俺が聞き返すと、直葉ちゃんは「はいっ」と嬉しそうに頷いた。
「お兄ちゃん、アスナさん達と大事な話があるから出かけるって言ってて。だから、夕方まで絶対に帰ってきませんし、お母さんもお出かけしてるから、家には私しかいないんです♡」
「――――えっ」
俺の背筋に、冷たい汗がツーッと流れ落ちた。
キリトさんが、アスナさんと大事な話があるから出かける。
それは、間違いなく『俺(××)の処遇についての話し合い』だ。俺の生殺与奪の権を握るトッププレイヤー二人が、俺の見えないところで会談を開くという恐ろしい事実。(杞憂)
だが、俺はそれ以上に、直葉ちゃんの『前半の言葉』に、脳内で激しいツッコミを入れていた。
(いや、ちょっと待て。配線の調子が悪い? 昨日の夜、俺たち数時間もぶっ通しでフルダイブして、しかも倫理コードまで解除してあんなことやこんなことまでしてただろ! もしアミュスフィアの配線が少しでもイカれてたら、とっくに安全装置が働いてエラー吐いて強制ログアウトされてるはずだ!)
つまり。
これは『俺を自分の部屋(実家)に呼び込むための、完全に分かりやすい方便(嘘)』だ。
しかも、キリトさんがアスナさんに足止めされているという、絶対の安全保障付き。
俺の家の合鍵を手に入れ、VR空間でも俺の魂を完全に絡め取った最強のヒロインの、次なる外堀工事の標的。それは間違いなく、『家族(親)への彼氏のお披露目』に他ならない。
「だから……週末、私の家に、配線を直しに来てくれませんか?」
直葉ちゃんは、それが嘘だとバレていることすら計算込みで、俺の逃げ道を完全に塞ぐ悪魔のように完璧な笑顔を向けてきた。
「え、いや……あのさ、直葉ちゃん。昨日のダイブ環境、めちゃくちゃ快適だったじゃん。配線、絶対なんともないよね……?」
「うーん。素人が見たら正常でも、××さんみたいな『大人の男の人』にしか直せない細かい不具合があるかもしれないじゃないですか?」
直葉ちゃんは、俺の手にそっと自分の手を重ね、昨夜の甘い記憶を蘇らせるように、指をゆっくりと絡ませてきた。
そして、俺の耳元で、吐息が当たるほどの距離で囁いた。
「昨日の夜、私のこと『全部受け止める』って、約束してくれましたよね……?」
「…………いや、まあ。あれは勢いというか、男としての見栄というか……。」
「でも、言ってくれましたもんね?」
ずるい。あまりにもずるすぎる。
昨夜、あの仮想空間で彼女のすべてに触れ、俺自身が彼女なしではいられないほどに魂を絡め取られてしまった今、今さら「嘘だろ」と突っぱねて逃げる選択肢など、残されているはずがなかった。
(……わかってる。これは確実に、親への顔合わせを狙った罠だ。でも、あそこまでされておいて逃げるのは、男として一番ダサい。それに……俺だって、もう彼女を手放したくない)
「……わかった。週末、直しに行くよ。俺にしか直せない不具合なんだろ?」
「やったぁ! 楽しみにしてますね!」
俺が自らの意志で『方便』に乗っかると、直葉ちゃんは花が咲いたように笑い、俺の胸に抱きついてきた。
こうして俺は、自らの『甲斐性』と『欲』の代償として。
そして、彼女の計算し尽くされた深い愛情に完全に絡め取られた結果として――ついにあの最強のシスコン兄貴が棲む魔王の城、桐ヶ谷家への潜入ミッションに、自ら足を踏み入れることになったのだった。
いかがでしょうか?
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