命の恩人、そうかもしれない。
二人の命を救ってくれたのだもの。
感謝しても、しきれないくらい。
変人なのは間違いないわ。
でも、不快ではない。
きっと彼は、後ろを見ないのね。
いつも考えてるのは、前に進むことだけ。
本当に……変わってるのよ。
ーー黒部ナノカ
牢屋敷には千空風呂(大)に引き続いて、千空風呂(小)ができた。と言っても後者はタライを一回り大きくしたような代物で、中庭の目立たないところに置かれている。よく言えば露天風呂だ。
お湯は、アリサの機嫌が良ければ沸かしてもらえるらしい。そうでなければ、千空が自前でなんとかするしかなかった。
千空は少女たちに覗くなよと言って、総ツッコミを受けていた。
「結局さ、入れ替わったセンクーには、変なことされなかったん?」
ココは無遠慮にミリアたちを問い質した。
「エマちゃんたちに聞いたんだけど、別れたらすぐに寝てたんだって。おじさんが体を返すまでずっと……それだけだよ」
千空は入れ替わりの魔法について、何が起きたかを口外しなかった。
その体験は少女たちの興味の的になったが、千空は茶化すようなこともせず、けんもほろろに逃げていたので、喋らないと悟った彼女たちも、さすがにそれ以上あれこれと聞くのは憚られた。
あの夜、何があったかを知っているのは、ミリアとナノカだけだった。
食環境と住環境が改善されたことで、少女たちには会話が増えた。生きる余裕が出てきたとも言える。
相変わらず魔法の力がついて回ることは確かだが、この屋敷に攫われたばかりの時よりも、ずっと穏やかな日々が続くようになった。
そんな日々の折、レイアは全員が集まる朝の食堂で、唐突に千空に向かって宣戦布告した。
「千空君! 私と勝負したまえ!」
「あ?」
レイアが冗談でも言っているのかと思えば、彼女の表情は真剣そのものだった。
全員の注目に気付いたレイアは、胸を張って満足そうだ。
「ククッ、百億パーセント意味がわからねーが、聞こうじゃねえか」
千空は不遜な態度を崩さず、彼女に向き直った。うむ、ありがとうとレイアが言う。
「君はこの島で様々なものを作ってきた……なるほど、君の科学とその知識は大したものだ。とても私が太刀打ちできるものではない」
「あー、俺一人じゃねえけどなー。どうせマンパワーがなければ大したことはできねえんだ」
千空は最初からずっと手伝ってきたエマ、ハンナ、シェリー、メルル、アリサの顔を順に見る。風呂作りではナノカ、ノア、アンアンの力も借りた。
千空は、本心からそう考えていた。結局のところ人と魔法の力があって、今この状況があるのだと。
「だが舞台の場ならどうかな!!」
「うん?」
千空も含め、居並ぶ面々の目が点になる。
その中で、ヒロだけは口元を手で押さえている。レイアの企みを知っていたらしい。
「配役は決めている。私が王子となり、囚われの姫君たちを解放するお話だ。君は私を蹴落とさんとする悪のマッドサイエンティスト……! ああ、目に浮かぶよ! この劇はきっと素晴らしいものになるだろう!」
「あー……なんだ、つまり舞台をやるから、手伝えってことか?」
その通りだ! とレイアは言った。
「はっ、勝負も何も、その展開ならソッコー俺が負けるのは確定じゃねえか。涙ちょちょ切れのお約束展開に全米が泣くわ」
「ああ! やっぱり君もそう思うか! 感動的な舞台になることは間違いなしだ!」
ん? と千空は首を傾げた。
レイアに対する皮肉のつもりで言ったはずなのだが……コイツにはもっとわかりやすく言わないとダメか?
「ちょ、ちょっとレイアさん! 何を勝手に決めてやがりますの?!」
「蓮見、テメーが目立ちたいだけだろ!」
ハンナとアリサから、千空への援護射撃が飛んだ。千空は手を挙げて彼女たちを制した。
「劇なんだろ? 殺し殺されするワケじゃねえ。良いぜレイア、協力してやる。科学パワーでサイコーの舞台にしてやろうじゃねえか〜」
レイアは朗らかに笑った。
「ありがとう、千空君! そうと決まれば話は早い! 早速配役とスタッフを決めねば!」
そうしてあれよあれよと言う間に。
十三人の少女と一人の少年が、一つの劇の完成を目指すこととなった。
主演女優、蓮見レイア。助演男優、石神千空。
レイアから劇への参加を打診された少女たちの反応はいくつかに分かれた。
裏方ならやってもいいと答えたのはヒロとマーゴの二人。
参加自体を断ったのはナノカとアリサ。
その他の少女は態度を保留気味にしていたが、レイアの考えに比較的乗り気だった。
劇を演じると言う実感が、実際に演じた経験の豊富なレイアほどに湧いていなかったのもある。
準備に際しては、各々は得意な分野の作業を受け持つこととなった。
「もちろん主演の私が全体のまとめ役だ! 皆もそれで問題はないだろう!?」
言い出しっぺのレイアは誰も止めなかったので総監督。
「やりたい放題やれってことか? どうなっても知らねえぞ」
「のあはお絵描きできるならどこでもいいよー」
千空とノアのノーブレーキデュオは大道具と演出。
「レイアのストッパーだな。まあ、仕方ないだろう」
「私の魔法は声マネだものね。どんな劇を見せてもらえるのか楽しみだわ」
ヒロはレイアを支える助監督で、マーゴは自身の魔法が強みとなる音響。
[わがはいは未来の文豪だからな]
脚本は謎に自信ありげなアンアンが担当する。
経験者なのかとミリアが問いかけると、全然そんなことはないのだとアンアンは言う。
「予想はしていましたけれど……いえ、張り切って皆さんの衣装を作りますわ!」
「はい! 私もハンナさんを手伝います!」
衣装は牢屋敷に来てからずっと器用さを際立たせていたハンナが任され、シェリーは自らその下働きに志願した。
「あてぃしはスマホを使ってカメラ係でもしよっかな。配信してアーカイブに残しておけば、後で見られるもんね」
ココは自らの配信ネタ稼ぎにもなるとして、カメラマン。
「じゃあ、ボクたちは……」
「雑用、かな。そういう役割も大事だよね」
「が、頑張りましょう……」
残されたエマ、ミリア、メルルは手が足らないところの手伝いをするアシスタント。
なお、千空以外の配役についてはレイアがアンアンと脚本の大筋を相談しながら決めていくこととなった。
さすがにレイアは現役の役者だけあって、それらしく進めていくことに手慣れていた。
劇の内容としては、勧善懲悪ものを考えているらしい。千空を倒す役は譲れないようだ。
[敵が科学者と言うなら、モチーフはフランケンシュタインの怪物でどうだ]
「素晴らしいよアンアン君! 演目はそれで決まりだ!」
アンアンの思いつきで、同名の映画をもとに脚本を作っていくこととなった。
科学者本人よりも後年イメージされた怪物のビジュアルの方が有名な作品だが、参加者たちの共通認識を合わせるため、その線で行こうとなった。
それから食堂で、ラウンジで、はたまたシャワールームで。
演者たちの雑多なストーミングが次々と行われていく。
「俺が科学者フランケンシュタイン役だとして……怪物役は、しっくり来るのが一人いるじゃねーか」
「えっ、誰ですか?」
その場の全員がシェリーを見た。
「えっ?」
橘シェリー、配役が一瞬で内定。
[怪物の犠牲者が多すぎる気がする]
「それでも、皆にはせっかくなんだ、出演の機会があって欲しいからね」
レイアとアンアンは初期プロットを立てるのにおおわらわだ。ざっくりでもストーリーの大筋が決まらなければ、全員が作業に入れない。
「そうだ、本来とは離れた設定になってしまうが、何人かが実験材料として、科学者に囚われていることにしよう。そこを、私が助け出すというのはどうかな?」
[なるほど。それなら複数人が同時に舞台に立てるな]
科学者の人質になるのはアンアン、ミリア、メルル……言ってしまえば、もともと引っ込み思案な面々が選ばれた。
[怪物は心優しい設定があったはずだ。助けた女の子に惚れてしまうと言うのはどうだ]
「悪魔的発想だよアンアン君! それは当然ハンナ君が相応しいだろうね!」
と言うことで、怪物が見惚れて助けてしまう少女にはハンナが選ばれる。
[だがハンナの友人であるエマが、目の前で千空の操る怪物に殺されてしまうわけだ]
ふふふ、とアンアンは口角を歪める。
「なんだかその口振りには、アンアン君の個人的な恨みがあるような気がするけれど……まあ、いいんじゃないかな。ストーリーに合わせて配役を決められるのは脚本家の特権だしね」
ここまででレイアと千空を入れて、八人の配役が決まった。劇への参加を表明している残りでは、ノアとココの二人。
アンアンはうーむと唸った。
アトリエから持ってきた鉛筆をふりふり、顎に手を当てて考え込んでいる。レイアはそれを微笑みながら見ていた。
[ココは怪物が出る恐怖スポットを配信しに来た動画配信者にしよう。ならば冒頭で死んでも問題ない]
「退場を早くして、メインのカメラマン役に早めに切り替えてもらうということだね。序盤の見せ場にもなるし、ココ君も納得してくれるだろう」
いいじゃないか、とレイアはアンアンを褒める。アンアンは頬を染めて、照れくさそうにした。
「となると、残るはノア君だが……どうする?」
[ノアを殺すのはちょっと嫌だ]
レイアは、エマとココの両名についてはどうなのだろうと疑念を感じたが、何も口に出さなかった。ずっと打ち解けたとはいえ、アンアンにも苦手なタイプだっているのだろう。
[スパイのような役割にできないだろうか]
「スパイか……人間、あるいは科学者を裏切るような立場……」
レイアは腕を組んで考え込む。
今回のスタッフ配置では、千空とノアが共に行動している。つまり、ノアは千空の助手のようなもの。
レイアは閃いた。
「ノア君は悪の科学者の助手をしている。だが心は人間の味方で、私が人質を救う手助けをしてくれるーーこれでどうだろう!」
[……随分レイアに都合がいいような気がするが]
私は脚本家よりも偉い総監督だからね、とレイアが返すと、まあいいかとアンアンが呟いた。
それにしても、とアンアンが声に出して話し始めた。
「わがはいは、こんなものは初めて書いた。本当に書けるとは思っていなかった。不思議だ。レイアといると、すらすらと物語が出てくる」
アンアンの魔法は発動していない。
レイアは枷をはめられることなく、思うままに喋ることができた。
「アンアン君。それはおそらく、私たちが誰かと一緒に過ごしているからだ。私たちは誰ひとりも失うことなく、劇だけのことを考える自由な時間があるんだ。多分……そのせいさ」
レイアが千空に対抗心を燃やしていることには間違いがない。
しかし彼女は、牢屋敷に残された千空の功績を認めていないわけではなかった。
それに今、彼の協力なくして劇の成功はないのだとも思っていた。
なぜならーー悪役の存在が派手であればあるほど、それを打ち倒す主役の演技が引き立つものだ。
ハンナに衣装の採寸に呼ばれた千空たちは、屋敷二階のアトリエを訪れていた。
今回は入浴順とは逆で、千空が最初だ。
「千空さんは本当にこの配役で良かったんですの? 悪の科学者なんて、随分露骨でございましてよ」
「ククク、いいじゃねえか別に。古今東西、悪者のステレオタイプがあるくらい、科学者ってのは悪いイメージもあんだよ」
まるで我が事のように腹を立てているハンナを千空はニヤリと笑って諭した。
「ガリレオ様が生きる時代を間違えてりゃあ、今でも地球が宇宙の中心だったかもしれねえんだ。善悪なんて社会の気分で決まるもんだからな」
「私から見ても、千空さんは素直じゃないですが、悪い人には見えませんけどねー?」
ハンナの荷物持ちとなったシェリーが、千空のことを褒めてるのか貶してるのかはっきりしない評価をする。
採寸は首回り、胸周りから腕の長さ、胴回りの長さへと移っていた。
繕い物の経験が豊富な、ハンナならではの手捌きだ。
「それにしても、千空さんをどんな衣装にすべきか、考えつきませんのよ。ただの白衣ではありきたりでしょうし……」
「それだといつもの千空さんと変わりませんね!」
千空はハンナとシェリーに向けて鼻で笑った。
「そうだな……ハンナに任せる、と言いたいところだが、一つハッキリ言っておくぜ。服の色は絶対黒にしろ。なんせ悪役なんだからなあ。眼帯とかつけてもいいんじゃねえか?」
「ええ? 千空さんから指定が来るなんて、少し意外でしたわね。シェリーさんに集めてもらった布には黒い布もありますから、できるとは思いますけれど……」
しかし黒では舞台映えしないのではないんですの? とハンナは千空に問い返した。
光源が十分に用意できるステージならまだしも、この屋敷の暗がりの中では沈んでしまうように思える。
「まあ、形になるかは分からねえ。最終的にはハンナ、お前のセンス次第だ。楽しみにしとくからな」
「うう……やっぱりプレッシャーですわ〜!!」
千空の採寸を終えたハンナは悲鳴を上げた。シェリーは、にこにこと笑みを浮かべて楽しそうにそれを見ていた。
アトリエから廊下に出た千空を引き留めたのはマーゴ。彼女は、ここではなんだから図書室で話しましょうと千空を誘った。
図書室に入ると、室内は静謐に包まれ二人以外の気配はない。
マーゴは千空に座るよう勧めてから、自らも対面に座った。
最初から話すことは決まっている、というように唐突に切り出す。
「千空ちゃん。私はあなたに協力するわ♡」
「ああん? どうしたよ急に」
マーゴはどちらかと言えば、千空から距離を置いていた少女の一人だ。そんな彼女がなぜ?
「あなたのことを信じたわけではないわ。あなたの知識を信じることにした……それだけよ」
マーゴは真意の見えない微笑を顔に浮かべている。
「はっ、そりゃまあ、お有り難えこった。俺からすれば百億パーセント十分な動機ってやつだ」
千空は大げさに肩をすくめる。彼からしてみれば、マーゴの真意にさほど意味はなく、敵対関係にならないだけでも満足すぎる収穫と言える。
「それで? それだけのことを話すために、俺をここに呼んだのか?」
「うふふ♡焦ってはダメよ……ねえ、千空ちゃん。あなたはこの屋敷に来てから、こんなに調べがいがありそうな、図書室にはあまり来なかったでしょう? それはどうしてかしら?」
答えを見透かすような瞳だった。マーゴに嘘や偽り、カマかけといった心理戦は通用しないだろう。
「急いでて時間がなかったからだ。メシも、フロも、俺たちの気力を保つために必要だった」
やっぱりそうなのね、とマーゴは呟く。
「千空ちゃん、あなたは薄々私たちの魔法の正体に勘付いているんじゃないかしら? ミリアちゃんと体を入れ替えたのなら、きっとあなたは彼女の過去を知ってしまったのでしょう?」
千空は詰問するようなマーゴの瞳を正面から受け止め、大胆不敵に答える。
「……いや、知らねえな」
くすっ、とマーゴは口元を抑えて微笑んだ。
「優しいのね♡」
「あーやめろやめろ、そういうのはシュミじゃねえ。大事なのはソッコー最短経路で屋敷を出る。それだけなんだからよ」
面倒くさそうに手を振る千空に、そうね、とマーゴは頷く。共犯者の笑みだった。
「待たせてごめんなさい。私の本題を話すわ。この本を見てくれるかしら」
マーゴが示したのは、不可解な言語で記されている一冊の本だった。重厚な表紙の作りと、ところどころの挿絵の意匠から、相当高価で古そうなものに見える。
「千空ちゃんなら読めるかと思ったのだけれど……」
千空は擦り切れ気味のページをパラパラとめくり一読した。
「あーん……? 見たことねえ文字だが、使われてる字体はアルファベットに近い……文法はラテン系だろうな。ああでも、対訳できる辞書もないこんなところじゃ、すぐに解読できるワケもねえ。中世ヨーロッパ系の言語なんていくらでも考えつくからな」
首を振った千空にマーゴは少し落胆した様子を見せたが、その答えは想定内だったらしい。
マーゴは挿絵のページを示す。十三人の少女が描かれている絵だった。
「私はここが気になって……魔女たちが集まっているようにも見えるでしょう?」
「わかんねーモンを先入観で見るのはあんまり好きじゃねえんだ。俺には仲良く椅子取りゲームでもしてるように見える」
千空はあくまで慎重だった。しかし、書かれている内容に興味は示したようだ。
「私は、十三人が描かれているこの挿絵と、私たち少女が同じ人数集められた、この屋敷の類似が偶然とは思えない。だから……あなたに協力するべきだと考えたのよ」
この人数が揃っていなければ、何かパズルを解くためのピースが足りなくなるのではないか。マーゴはそのように語った。
「つまりマーゴ。一人も死んじゃいけねえって、テメーは言いたいんだな?」
「……その通りよ。ゴクチョーが言った殺人衝動に囚われた女の子、私にはまだいないように見える。それはきっとあなたがいるから。多かれ少なかれ、千空ちゃんは女の子たちの注目や恨み、興味や敵愾心を買うことで、結果として少女たちの団結に役立っている。これが、買い被りすぎでないと、いいのだけど……♡」
千空とマーゴは静かに火花を散らした。
「ククッ。それなら俺とテメーの目的は、最後まで同じってワケだ」
千空が先に右手を伸ばして開いた。マーゴもそれに応えて、しなやかな指を絡めて、千空の手を握りしめる。
こうして、千空とマーゴの間には共闘関係と呼ぶには歪な同盟が作られた。
特にお互いのやることは今までと変わらない。
千空が科学に邁進し、マーゴは本の秘密を解き明かす。
それでも、二人が互いに疑心暗鬼となるリソースを割く必要は、もうない。
損得のない不可侵条約は、閉ざされたこの牢屋敷においては、何よりも強固に信頼できる絆の形だった。
「テメーらの魔法には再現性がある。再現性があるなら、それは科学だ。科学なら俺にも太刀打ちできる。だが魔法の専門家が増えるに越したことはねえ。頼んだぜ、マーゴ」
「ええ、よろしくね、千空ちゃん。あなたはあなたの得意な科学で戦い、私は私にできることをするわ。だから……」
ーーあなたも、絶対に死なないで。
マーゴは打って変わって真剣な表情で言った。
「もしあなたが死んでしまったら、そのストレスで何人もの少女の魔女化が一気に進行する……ゴクチョーの話した通り、すぐにお互いで殺し合いになるでしょう」
「……だろうな。結局、誰が死んでも詰みってことだ」
全く、クソみてえなシステムだ。と千空はぼやく。
重い雰囲気になってしまったので、二人はそれを打ち消すかのように、レイアの劇について会話を交わした。
千空は考えがあると言って、ココを呼び出すようにマーゴに頼んだ。
仕込みには人数が必要だからな、と含み笑いを浮かべて。
産みの苦しみを通り過ぎた劇の準備は、まずまず順調に進んでいく。
それに参加していない少女たちも、決して暇を持て余していたわけではない。
劇に参加表明をしなかったナノカとアリサには、彼女たちなりの考えがあったのだった。
「ケッ、ウチらがいねーと誰も石神の後始末ができねーだろうが」
「……まあ、そういうことよ。誰かがやらなければならないことを後回しにはできないもの」
アリサの態度は不思議なことに、千空が頼み事を増やすほど逆に軟化していた。
口では面倒くさがっていても、魔法を使えることが彼女なりのガス抜きになっているのだろう。
それに、アリサ自身が嫌っていた発火の魔法の有用さを、早い段階から千空は認めていた。彼にとっては燃料問題を解決する、文字通りに夢のような魔法だったからだ。
結果としてーーアリサは生まれて初めて救われていた。自分ではない誰かのために魔法を使える実感が、アリサの心のささくれを少しずつ、ゆっくりではあるが癒していった。
心配性なエマやメルルが作業中もアリサの近くにいて、彼女の癇癪にもめげず、カウンセリングのように時間をかけて付き合えたことも大きかった。アリサに必要なのは、ただ自らが甘えられ、穏やかな陽だまりの中でささやかな許しを得られる日常のひとときだった。
そんな事情もあって、アリサの険のある態度は、しばらく少女たちの前では鳴りを潜めていたのである。
「私は、千空にお礼がしたかったから」
一方ナノカも、シャワールームでのミリアとの一件以来、少女たちの前に姿を現し、少しずつではあるが、交流を深めるようになった。
深夜の外出など、幾度かの規則破りを行なっていた事実をゴクチョーに見咎められ、再度の懲罰房送りは免れなかったが、彼女は胸を張ってそれを受け入れた。
世話焼きの少女たち、そしてミリアはナノカの身を案じて、獄中の彼女を見舞っていた。
ナノカはその度に、彼女たちに小さな声でありがとうと感謝を伝えた。
もう、疑い深いままの黒部ナノカは、どこにもいなかった。無愛想ではあるが、笑顔も困り顔も見せる、普通の少女になっていた。
私が隠れ場所にしていたところを案内する、とナノカは千空たちに伝えた。
屋敷の裏手にあり、食材や洗剤などの日用品が大量に保管されているパントリーだった。
屋敷に来た当初は施錠されていたが、偶然か、はたまた何者かによる故意にか、誰もが侵入できるようになっていたのである。
単純に物置でもあったのだろう。廃材なども部屋の隅に雑多に積まれていた。
エマが棚を覗き込んでぴょんぴょん跳ねる。
「小麦粉! 砂糖! 缶詰もあるよ!」
「少なくとも、当分兵糧攻めに会うことは無さそうだ」
珍しくヒロも集団行動に着いてきている。ヒロを好意的に思っている、ナノカが誘ったようだ。
集まった少女たちは調理前の食材を発見し、誰もが大喜びだった。
手つかずの食材が珍味佳肴でなくとも、看守が用意するよりはマシな料理ができるだろう。
「ああそうだな……色々なことを試せそうだ。唆るじゃねえかあ〜!」
一人違うところでテンションが上がっていた千空は、食いもんを無駄にしたらブッ殺すからな、とアリサに釘を刺されていた。
当然、千空が目をつけたものは別にあった。
それにしても、と千空は考える。
十数人前の食事は、少女たちが中心とは言え、一週間分だけでも、かなりの量になるはずだ。
それを痕跡も残さず、万端に用意できる相手となるとーー千空は自分を見ていたマーゴと目が合い、小さく頷いた。
おそらくマーゴも、考えていることは同じだろう。
魔法か、それ以外の方法か、いずれにしても、戦うべき相手の規模が計り知れないことを、今更ながらに千空たちは悟ったのだった。
また別の晴れた日になって、ナノカは千空に連れられ、屋外を歩いていた。千空は大きな袋を抱えており、その中からはガチャガチャとガラスの揺れる音が響いていた。
十分に屋敷から離れ、周囲に人がいないことを確認してから、千空は資材を広げ始める。
地面にはナノカが予想していたよりも、遥かに雑多な器具が並べられていった。
医務室から集めたのであろうビーカーやガラス瓶、試験管はまだしも、手製のコンロや何かが詰められたボトル、ロウソク、木炭に布。果ては金属の板など、まるでこの場所で蚤の市でも開くかのような有様だった。
千空はその中からロープを取り出し、自分の手首に結びつけた。ナノカに結び目がない方を持つように指示する。
風向きと地面の傾斜を確認し、千空が下、ナノカが上に位置するように陣取った。
「……何をするつもりなの?」
「楽しい楽しいビックリ塗料を作る準備だ」
千空はそう言って、金属の板の表面を、風呂作りに使っていたヤスリでガリガリと音を立てて擦り始めた。
金属板に塗装されていた粉末が小さく砕け散り、広げた紙の上にパラパラと落ちていく。
「あの場所にはトタンがあったからな。まずはその塗装をいただく」
「そう……なのね。私は何をすればいいの?」
千空はナノカに向き直って言った。
「ああ、俺がもし作業中にぶっ倒れたら、そのロープを全力で引っ張って上まで引き上げてくれ。メルルを呼べばなんとか治療してくれるはずだ」
もしそうなったら、絶対に姿勢を低くするんじゃねえぞ、と千空は釘を刺した。ナノカの顔には困惑が広がる。
千空が何かを作ろうとしているのは間違いない。今の話を聞けば、彼が危険な実験を為そうとしているようにしか思えないが……
「ああ、危険も危険。超危険だ。だからヒロには知らせられねえ。というかな……百億パーセント安全な科学なんてねえ。クッソアブねーやつが、クッソヤバいことをして発展してきたのが科学なんだからな」
ナノカは絶句した。この男は懲罰房に突っ込まれたことなど、全く懲りていないのだ。
千空はロウソクに地下の焼却室で見つけたマッチで火をつけると、トタン板から削り出した粉末をスプーンに乗せて炙っていった。
「トタンの塗装は亜鉛の酸化被膜だ。完全にはならねえだろうが、熱して酸素と亜鉛を分離させる」
千空の話す内容が、ナノカの理解を超え始めた。彼女は千空が何をしているかもわからず、黙ってその様子を見守るしかない。
粉末が沸々と蠢いて、色合いが変化していく。
「亜鉛様が白くなってきたら今度は【自主規制】に浸す……ま、今回は代用品で、反応が弱いだろうからな。こっちも熱して亜鉛イオンが溶け込んだ水溶液を作る」
亜鉛の粉末が入れられ、何かの液体がグツグツと煮立ったビーカーから、プールのような刺激臭が漂ってくる。
「これは……塩素?」
「大当たりだ。マトモに吸うなよ、気管支とか肺がベロベロにイカれちまうからな〜」
千空は布の間に炭の粉末を挟み込んだ簡易的な防毒マスクを作って、ナノカに渡した。自分も同じようにする。
炭は木材の燻蒸の際に出来た、副生成物だった。
「さ〜て、ここからが楽しい化学のターンだ。この水溶液に【自主規制】を【自主規制】にぶち込んだ【自主規制】をくぐらせる。ナノカ、ちょっと離れてろ」
「せ、千空? あなた本当に何をーー」
千空が袋から取り出したのは【自主規制】。
ナノカはもごもごとマスク越しに問いかけるが、千空は一切それを無視して、慣れた手つきでガラス容器たちを組み上げ固定していく。そこはもはや、ちょっとした実験室のようになってしまっていた。
千空は張り切っているが、目元は笑っていない。いまかれの手元で生じている化学現象は、油断すれば即死もあり得るものだからだ。
【自主規制】された【自主規制】がぽこぽこと泡立ち、気体が先ほどまでの水溶液に誘導されていく。
「クッフフ、ペースは遅えが、ちゃんと白い結晶が沈澱してやがる。あとはこの反応を加速させすぎないようにコントロールしてやりゃあーー」
千空がしばらく作業を続けると、小さじひと掬い分ほどだろうか。水溶液が少なくなったビーカーの中に、白い粉末が残されていた。
「魔法の塗料、硫化亜鉛の完成だ!!」
ちょ、ちょっと待ってと慌て出すのはナノカ。
「私にはあなたが何をしていたのか、全然理解できない。それは元の粉末とは違うものなの?」
ナノカは今もなおマスクをつけているため、奥歯に物が挟まったような話し方になる。
「ああ、別モンだよ。もっと量が必要だし、このままじゃ使えねえがな」
それに不純物の多さで、どこまで使いモンになるかもわかんねえ。しばらく同じやり方で作って、出来具合を調整してみねえとな。
ナノカは千空に対して驚き半分、呆れ半分と言った表情をしていた。
次に何を言うべきか悩んでいた様子だったが、諦めたように呟いた。
「この屋敷に来て、ようやくわかったことがあるのだけど……あなただけは敵に回さず、本当に良かったと思うわ……」
千空はナノカに何も答えず、ヒヒヒと気味の悪い笑い声を立てた。
そうして周囲に刺激臭が立ち込める中、千空とナノカの化学実験は続いていったのである。
大人数で劇を演じるには広いスペースが必要であったが、ラウンジや食堂では調度品や家具が邪魔をするのが明白だった。
この屋敷で少女たちがまだ入ったことがない場所は裁判所だが、そこに至る扉は裁判が開廷される時のみ開くと宣言されていたため、未だに中は明らかになっていないのだった。
必然的に屋外に舞台を求めることとなり、屋敷の中央にある中庭が選ばれることとなった。
レイアと千空、そしてノアの三人はぐるりと中庭を見回った。
「スペースとしては悪くないと思うけれど……袖や照明、音響をどうするかな。千空君、君の考えは何かあるかい?」
「それは監督サマの目標によるだろ。できるできないはレイア、テメーの要望を聞いてから考える」
レイアは自信満々に千空とノアの二人に告げた。不敵な笑みを浮かべながら。
「それはもちろん、全部さ! 屋根も照明も、音響も、最高の劇にするためには全て用意するべきだ!」
「レイアちゃんならそうだよねー。でもどうしよう……?」
ノアは千空の顔を見上げた。千空は腕を組んで思案している。
「まず、屋根はクソでけえ布ーー天幕を張ればなんとかなるだろ。作る手間は必要だけどな。アトリエのテラスの張り出しと、中庭に生えてる樹に括れば、一日くらいならなんとかなんだろ」
ククク、サーカスみてえな見た目になるかもしれねえがな。千空の様子を見るに、レイアの質問は織り込み済みだったのだろう。
レイアは千空の提案に目を輝かせている。もうすでに、屋根付きの舞台で自分が演じる役回りに想いを馳せているらしい。
「ハンナ様様だ。アイツの浮遊の魔法なら、脚立が届かない高所作業も問題ねえ」
「うーん……ハンナちゃん、すごく大変じゃない?」
心配するノアの声を耳にした千空は、何か差し入れでもしてやるかとぼやく。
ステージはなかなかの広さになりそうだった。単純な横幅だけでも、ざっと十メートルはあるだろう。
「音響は問題ねえ。マーゴ先生の出番だからな。スマホを使って、声マネの魔法で効果音を大量に録音してもらってる。ココと二人で、劇に合わせてガンガン鳴らしてもらう予定だ。タイマーを使えばもっと複雑な使い方もできそうだしな」
「ああ、それで彼女たちは脚本のアンアン君と打ち合わせていたのか! 素晴らしいよ千空君!」
千空がマーゴに説明した内容はこうだ。
少女たちのスマホを複数、舞台上に設置して、メイン音響となる二台はマーゴとココが手動で操作。部分部分のワンポイントは、通話かタイマーによる遠隔操作でスマホを鳴らす。
あとは音量の問題だが、千空は形状をすり鉢状に変化させた桶を用いることで、その弱点を補おうとしていた。
パラボラアンテナ状にした桶の中心にスマホを設置し、集音装置にする。これだけで音は意外なほど指向性を持つように変わるのだった。
「別に鍋蓋なんかでもいいんだがな。漏水を心配しなくていいんだから、風呂作りで余った端材を膠で貼っ付けるだけで作れる。こんなもんでも十分にスピーカーとして機能するはずだ」
「素材の再利用……いい! いいよ千空君!」
レイアはあまりにも感激しすぎて、そのままスキップで飛び去っていきそうな雰囲気だった。
「あー、感激してるとこ悪いがな。照明は難しいぞ。何もなきゃアリサ頼みだな」
スマホの充電に使ってる電気はあっても、被覆した導線が足んねえ。下手に屋敷内の施設をバラしたら、元通り復旧できるかわかんねえからな。
弱気な千空に疑問を呈したのはノアだ。
「せんくうなら、電気くらいなんとかなるんじゃないの?」
「時間が無限にあるならいいけどな……この屋敷は制約が多いんだよ。それに素材がアホほどあるワケじゃねえ。何かを作れば何かが無くなる、それを考慮しながらのDIYだ。魔法で明かりをなんとかする方法が他にあるか?」
例えば窓ガラスを叩き割って、ガラスだけを集めることはできる。しかし、形を変えてしまえば元通りに復元するのは難しい。
屋敷の周辺が鉱物資源に恵まれているわけでもない。せいぜい石や木材など、自然のものが自由に使えるくらいだ。
千空の知識とて無限に水が湧き出る井戸ではない。この場において使えるものと、残すべきものの扱いについては慎重だった。
「ふむ……例えばどんな方法があるだろうか」
「光源は電気がなければ火を燃やすしかねえから、燃料が必要だ。油はなんとかするとして、提灯、行燈とか灯籠…まあ、江戸時代くらいの明かりだな。屋外の舞台照明にするにはちいっとばかし頼りねえ。和風ホラーになっちまう」
レイアとノアは中庭が和な照明で飾り付けられている様子を想像してしまう。
ホラーモチーフの劇とはいえ、別な迫力が生まれてしまいそうだ。
「ううん、せめてゴシックな感じにできないものかな。屋敷の風景は悪くないのだし」
「ランプとかランタンみたいな?」
ガラスの加工は簡単じゃねえぞと千空が釘を刺す。
兎にも角にも、彼らは現代人並みのティーンエイジャーでしかなく、知識や魔法はあれど、卓越した技術の持ち主はいなかったのである。
「普通ガラス細工って言ったら、ガラスをドロドロに溶かして成形するワケだがな……触れずに空気と手捌きでなんとかすんだよ。ちょっと器用とかのレベルでどうにかなるもんじゃねえ」
それが、千空がガラス容器の試作にトライせずに、既成のガラス瓶を使う理由だった。
「ねえ、せんくう。ドロドロってことは、ガラスは液体なの?」
「あー……ガラスの状態ってのは液体と固体の両方だって言われてる。便利すぎて人間様が使い倒しているが、まだハッキリしてねえんだ」
千空がハッとしたように顎に手を当てた。
液体。ガラス。ノアのひらめき。
「マジかよノア、テメーまさか……!」
「ガラスが液体だったら、のあが自由に操作できるかもしれないね!」
ノアの魔法は液体操作。
普通、液体といえば想像するのは水や泥のような流体だ。硬いガラスは、液体という想像の範疇にすら入らない。しかし、ノアは千空からガラスの知識を吸収した。想像力で、創造が可能になった。
千空は白衣のポケットから空のガラス瓶を取り出し、ノアに手渡した。
「ーーすごい! すごいよノア君!! まるで魔法を見ているようだ!」
「いや魔法なんだよ。とんでもねえけどな」
ノアの手のひらの中で、ガラス瓶が飴細工のようにぐにぐにと姿を変えていく。
「えへへ……ほめられちゃった」
ガラス瓶はひどく形を変えているというのに、ヒビも入らず透明度も変わらない。ノアが完璧にガラスの形状を変化させている証拠だった。
千空は胸の中で快哉を叫ぶ。
「これなら、中庭にガラス照明も好き放題自由に置けやがる。良かったなあレイア。和風ホラーは早くも店じまいみてえだ」
「ふふふ、千空君。それは私の台詞だよ。なぜなら、これで君は、舞台上で一切妥協ができなくなってしまったのだからね!」
レイアは少しも怯むことなく、千空以上の喜びを露わにした。
二人のやりとりを目にしたノアは嬉しそうに微笑みながら、手遊びをしていたガラスの瓶をガラスの蝶に変じさせた。
リハーサルを迎える頃には、壇上への不参加を表明していたヒロやマーゴ、ナノカやアリサも劇の成否に大きな関心を寄せるようになっていた。
全員で作り上げた一世一代の娯楽であったこと、顔を合わせばレイアが否応なしにまくし立てたこと、そして何よりも、屋敷に漂っていた雰囲気が彼女らの心を浮き立たせていた。
理不尽に閉じ込められた彼女たちにとって、自分たちが作り上げた劇を演じるのは、一種の反抗の象徴になっていたのである。
出来そのものの問題ではない。
やろうと思ったことをやれるのだ。
少なくとも劇の準備に没頭している間は、少女たちはまだ、日常に帰るための事柄を、何も諦めなくていいと信じられた。
「ねぇ、メルルちゃん。劇、上手くいくといいよね」
「は、はいぃ……皆さん楽しそうです……すごい、ことだと思います……」
エマとメルルは一緒に入浴していた。
このところ、入浴順は自由になっている。
もともとお湯が使える時間であれば、アリサの魔法も必要ない。
浴槽の清掃だけはヒロの厳しい監督のもと、自分たち自身で行わなければならなかったが。
エマはメルルの言葉に含まれていた陰を見逃さなかった。
「どうか……したの? なんだか考え事をしてるみたいだけど……」
「あ……うぅ……」
メルルは瞳にうっすら涙を浮かべている。
裸の付き合いだからこそ、身軽になれる。
エマは思い切って彼女に真意を問いかけてみた。
メルルは口を開くかどうか悩んでいた様子だったが、少しずつ重そうに言葉を紡いで、ぽつりぽつりと話し出した。
「エマさん……私は……怖い、んです……」
「怖い? どうして……?」
私には、とても大切に思う人がいます。
その人に会うためなら、どんなことでもします。今までずっと、そう思っていました。
ずっとずっと、そうしてきたんです。
私の一生は、その人がいなければ意味がないんです。
エマにとって、メルルの話はいまいち要領を得なかったが、彼女の真剣な様子から、その内容は真実なのだと直感する。
「今はこの屋敷に閉じ込められてるから、その……人に、会いに行けないってことかな」
「うう……」
メルルは肯定も否定もしなかった。
あまり聞きすぎない方がいいのかもしれない。この館に集まった少女たちは、どことなく儚い雰囲気がある。エマにもそれがわかっていた。
心の傷とは、本人が無事だと強がっていても、必ずある日どこかで、最悪のタイミングで、絶対に思い出したくないことを、過去の自分が狂ったような叫び声を上げて見せつけに来るものだ。
自分の精神からは、決して逃げられないのだから。
「会えるといいね、メルルちゃんの大事な人に」
「え、エマさん……ありがとう、ございますっ……」
メルルは顔を伏せてぐすぐすと鼻を鳴らしている。
泣いているのだった。
「でも……怖いって言うのは……?」
会えなくなることが怖い、メルルの切迫感は、そう考えるには違和感がある。
まるで二者択一を迫られているような……
「皆さんとこの屋敷で過ごす時間が……こんなに穏やかに過ごすことが……私に許されていいんだろうかって。私は……」
「メルル、ちゃん?」
メルルは意を決したようにエマの方を向く。
湯気の立つ水面が、静かに揺れる。
エマさん、あなただけに話したいことがあります。
絶対に絶対に、他の人に言わないでください。
私の罪です。
私が【この屋敷で】犯してきた罪です。
私は、魔女です。
エマは絶句した。
メルルの独白は理解を超えたものだった。
それと同時に、メルルが時折見せる居たたまれない態度の理由を理解した。
メルルは自分たちを裏切っていたのかーー
「許してほしい、とは言いません。ただ、誰かに知って欲しかった。私の行いは無駄じゃなかったって、気付いて欲しかったんです」
突然話してしまって、ごめんなさい。
迷惑ですよね。
私は自分の都合で、皆さんのような女の子たちを手にかけてしまったこともあります。
私自身も、何度も疑われて、何度も処刑されて。
何度も、何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
それを繰り返して、でも、大事な人ーー大魔女様には会えなかった。
だから私はきっと、いつか大好きな皆さんを同じように殺してしまう。
こんなに苦しいのに、こんなに嫌なのに。
私は自分の願いを叶えるために、痛くて、苦しくて、辛い、死にたくなるようなことばかりやってきたんです。
それでも、私は大魔女様に会いたい。
私を家族と言ってくれた人に会いたい。
私を救けてくれた方に会いたい。
大魔女様は私の全てだから。
「でも、皆さんが優しくて……こんなの、初めてなんです。今までずっと、すぐに殺し合いが始まるばかりで、何も変わらなかった……だから、私はどうすればいいか、わからなくなってしまって……」
「メルルちゃん……」
エマにある人間としての倫理規範は、メルルに強い嫌悪を催している。
殺人者、裏切り者、その独善性は、およそ人間が理解できる範疇を超えている。
しかし、この島で暮らし、共に過ごした期間がわずかであっても、エマの無垢な心は、メルルの善性を信じていた。
だから、エマはそうした。
「ボクは、誰にも言わないよ」
「エマ、さん……!」
エマの瞳からも、はらはらと涙がこぼれ落ちる。
「きっと君のやってきたことは……許されないことだと思う。それでも、ボクはメルルちゃんの味方でいたい。メルルちゃんが悩んだり、迷ったり、困ったりしてたら……助けてあげたいんだ」
だってメルルちゃんは、ボクの友達だから。
メルルは声にならない声をあげて、エマに強くしがみついた。
浴槽の中で、エマとメルルは抱き合った。体の熱っぽさは、ただ二人がのぼせ気味なだけではなかっただろう。
「辛かったんだよね。メルルちゃんは一人で頑張ってたんだよね。だから、メルルちゃんの秘密をボクも背負うよ……共犯者、みたいに」
「うぅ……エマ、さん……エマ、さぁん……っ!」
ーーそれに、薄汚い過去を隠しているのは、自分も同じだ。
ぐずるメルルをあやすように抱き留めるエマの脳裏には、過去の自分を罵倒するヒロの姿が過ぎる。
(もう、ヒロちゃんとはやり直せないのかな)
おそらく、エマの行為ーーメルルの罪を見逃すのは、ヒロにとって正しくない行いだ。
ヒロなら、どんな致し方ない理由があれ、メルルを厳しい態度で断罪するに違いない。
ならばそれを知りながら隠したエマのことも……ヒロは軽蔑し、正しくないと切り捨てるだろう。
(でも、ボクには選べないよ。何が正しいかなんて、わからないよ……)
エマはメルルが泣き止むまで、震える彼女の肩を優しくさすっていた。