本当は照れ屋さんなのかもしれないわね♡
女の子たちには興味がなさそう……そうね、それも本当。
でもね、冷血漢じゃないのよ。
むしろ、その逆だわ。
冷たい頭で、誰よりも熱い心を持っている少年。
矛盾しているようだけど、きっとそれが彼なのよ。
私は……そうね、気に入っている。
だって、楽しいもの、ね。
ーー宝生マーゴ
ヒロは強く唇を噛んだ。
誰もが魔女となって祈ったわけではない。
しかし、この場には十三人の少女がいた。
その偶然と、裁判によって波打った少女たちの感情の奔流が、彼女を呼び寄せてしまった。
地震のような揺れが収まると、裁判所の中央に大きな帽子を被った、一人の白い少女が出現していた。
「……なんか小さくね?」
ココが思わず口に出してしまったのも無理はない。
少女の容姿はまるで子どもだ。
小学生くらいのあどけなさに見える。
だが、目の奥に宿した光は深い知性と、静謐な狂気を湛えていた。
「エマ。ヒロ。久しぶりですね」
「まさか、そんなーーユキちゃん?! ユキちゃんなの?!」
「死ぬ前に声を聞いた時から、予感はしていたよ。まさか君と、こんなところで再会することになるとはね」
メルルが顕現した大魔女ーー子どもの姿をした、月代ユキに飛びついた。
「大魔女様! ようやく! ようやくお会いできました! う、嬉しい……良かった、良かった、ぁ……っ!」
ユキはメルルの頭を、フードの上からよしよしと撫でた。
「久しいですねメルル。あなたは少し、髪が伸びたでしょうか」
「はいっ……! すっごく、長い間、大魔女様をお待ちしてましたから……!」
裁判所内は異様な雰囲気に包まれていた。
ユキが受肉して突如現れたこと。
知己を思わせる、エマ、ヒロの反応。
態度を急変させたメルル。
誰もがその劇的な事態の進展に、ついていけなかった。
「改めまして、私は月代ユキ。最後の大魔女です。こんな姿になってしまったのは、あなた方の中途半端な儀式のせいでしょう。大魔女ですら予想外のことが起きる。面白いものですね」
ユキは上品な仕草で口を隠して、嗤った。
レイアがそれを受けて立つように、仰々しい仕草で恭しく礼をした。
「君が大魔女か。お目にかかれて光栄だ。私は蓮見レイア、舞台で煌めく一握の星さ」
「ああ……皆さんのことはよく知っていますよ。ですが、あなたがたと戯言を交わすつもりはありません。勘違いしないでくださいね」
ユキは冷たく言い放ち、エマとヒロに向き直った。
「全く……これでは、エマに全てを任せることもできません。手駒としては不足なものばかり。不愉快です」
「ゆ、ユキちゃん……ボク、ボクは……」
エマは常軌を逸した様子で、ガタガタと体を震わせている。ユキはその姿に満足そうだ。
「ああ、可愛いエマ。優しいエマ。あなたの変わっていない魂の姿。今はそれを間近に見れただけで喜ばしい。罪悪感に苛まれるあなたの姿は、本当に美しいですよ」
「おい二階堂……もしかして桜羽も、こいつと因縁があるのか?」
アリサの問いかけに、ヒロは気まずそうに目を逸らした。
「私とエマは、ユキと中学からの幼馴染、だった。当然魔女とは知らなかったが、不思議な少女だと思っていたよ」
[今はそれどころではないだろう。大魔女がわがはいたちをどうするかだ]
マーゴがユキを睨みつける。
「ねえ大魔女さん。あなたの魔法で、私たちをここから脱出させることはできるのかしら? それができないなら、あなたは私たちに何を求めているの?」
ユキは思案していたが、おもむろに口を開いた。
「エマに免じて、少し付き合ってあげましょう。私があなたたちを脱出させるなど、造作もないことですよ。それが望みなのですか?」
「ほ、本当ですの?!」
ハンナが驚愕の声を上げる。他の少女たちもざわめき出した。
ココは両手を上げて快哉を叫んでいる。
「そ、それじゃあ早く出してよ!」
「ええ、まあ。私が顕現したからには、どうせじきに人間は一人残らず死ぬのです。一人二人減ったところで、構いませんから」
ユキの何気ない一言で、裁判所の空気が一瞬で凍った。
静かになってしまった少女たちを目にしたユキは、くすくすとおかしそうに笑う。
「ああ、冗談ではありませんよ。私が準備してきた魔法を行使するだけです。それで、すべて終わりです」
「そん、な……」
意気消沈したミリアが、力なく腰を床に下ろしてしまう。
人類虐殺の衝撃を飲み込んだマーゴが、ユキに重ねて問いかけた。
「でも、あなたはまだそれをしていないわ。なら少なくとも、後者の理由があるということでしょう」
「宝生マーゴ。あなたは聡いですね。そう、その通り、私の用件は、そこの少年にあります」
ユキは千空を指差した。
「ようやくお声がかかったか。よう、大魔女。俺は石神千空だ」
「千空。そう、あなたの名は知らなかった。魔法も使えず、私がもたらす魔女の因子もない。あなたは特異点のような存在。だから興味が湧いたのですよ」
千空とユキは対峙する。
「思念を憑依していたエマを通じて、千空の行いを見ていました。メルルも世話になったようです。私はあなたを、ただの人間ではないと評価しているのですよ」
「それはお有り難えこった。それで? どうせ最後は俺も殺しちまうつもりなんだろ?」
千空は現実離れした登場を見せたユキを前にしても、ふてぶてしい態度を変えない。すっかりいつもの調子に戻っているようだ。
「あなたには……選択肢をあげましょう。大きな葛篭と小さな葛篭の昔話を知っていますか?」
「知ってるよ。意地悪婆さんと正直爺さんが箱の解釈違いで正反対の結果になる、っつー話だ」
雀を助けた正直で優しいお爺さんは、小さな葛篭を持ち帰って財宝を得る。
一方、雀を虐めた強欲なお婆さんは、大きな葛篭を選んで大変な目に遭う。
古今東西を問わず、寓話としてよくモチーフに描かれるストーリーだ。
「あなたが小さな葛篭を選ぶなら、あなた一人をこの島から送り出しましょう。あなたは新しい浴槽を作り、結果的に儀式を行い、魔女たる私の機嫌を取りなしたのです。その褒美ですよ」
「そりゃあ大層ご立派で悪くねえな。大きな葛篭の中身はなんだ?」
「あなたの願いを一つ、聞いてあげましょう。これは魔女の言葉遊びではありませんよ」
一度口に出した言霊は、重いものですからね。
「その代わり、千空、欲すならあなたの命を賭けてもらいます……その表情を見るに、何が起きるか、私が幻視を使うまでもないようですね」
ヒロが辿った結末では、千空はこの問いに失敗して命を取られたのだ。
それが最悪の結果をもたらした。
理解しているのかいないのかーークックッと千空は喉の奥で笑った。
「ああ、俺の答えは両方だ。両方の葛篭をいただく。科学ってのは強欲なんでな」
千空の予想外の答えに、並んだ少女たちは呆気に取られた。腹立たしそうに様子を見ていたヒロも、辿った選択肢が変じたことに驚愕している。
千空にリドルを投じたユキ本人すらも、口を開けて固まっていた。
「ふ……ふふっ。千空、あなたは実におかしな人間ですね。いいでしょう。大魔女の私相手にダブルアップを選ぶ覚悟、大したものです」
ですが、当然、あなたはチップを積み増さねばなりません。
「千空、もし私の賭けに負けたら、あなたが科学に抱いている信念を、粉々に打ち砕いて差し上げましょう。世界中の人間が魔法で滅んだ後で、死すら許さず、世界の終わりを永遠に、孤独に見つめてもらう。ええ、あなたは人類最後の生き残りとなるのです」
「ああ、構わねえよ。それで、お題はなんだ?」
ふ、とユキは口角を上げてニヤリと笑った。
「この屋敷の周りの塀を全て、打ち砕いて見せなさい。私が消える前に、です」
「ダメだ千空! そんなの無理だよ!」
ミリアが咄嗟に反駁する。ユキのあからさまな挑発に千空を乗せてはいけない。
「ですが、何もできずタイムアップでは、興が乗りませんからね。その時はあなたに死んでもらいます」
「……オーケイわかった。いくつか前提条件を確認させてくれ」
千空を止められず絶望的な顔を浮かべるミリアを横目に、千空は制限時間のカウントと、看守やゴクチョーの見張りの撤廃を要求した。
時間が限られている以上、徹夜の作業が必要となるのは明白だったからだ。
ユキは、おおよそ三日ほどでしょう、と言った。
屋敷のルールはメルルと相談しなさい。私が決めたものではありませんから。
そう言い残すとユキは、煙のように消えてしまった。
「大魔女様ーー!」
「メルル、千空との話が済んだら、あなたは私と共にいなさい」
ユキの声だけが裁判所に響く。
後には立ちすくむ十四人の少女少年が残された。
メルルの計らいで、ゴクチョーと看守の監視もある程度解かれることとなった。
具体的には、三日間の間、外出禁止時間の撤廃と、施設の破壊行為を不問とみなすこと、そして塀への接近を許可すること。
ただし、直接的な脱獄の企てーー例えば、飛行やその他の方法により脱出を企てた場合、それは脱獄とみなす、とされた。
「時間がねえ。とにかくマンパワーが欲しい。俺を手助けしてくれるヤツは、十分後にラウンジに集まってくれ。それまでに方針を決める」
千空は少女たちにそう宣言して、さっさと裁判所を後にしてしまった。
少女たちは互いに顔を見合わせる。
その場を動かなかったのは、ヒロとココだった。
「失敗するとわかっているものを、私が手伝う義理はないな」
無表情のまま嘲ったヒロの言葉を聞いたノアは、とても寂しそうだった。
一方ココは、ある意味で自分本位の理由だった。
「時間あったら手伝うけどさ、あてぃしは動画編集しないとだし。作業が嫌ってワケじゃないんだよ?!」
「沢渡、みんな死んじまったら動画も何もねえだろうが」
呆れるアリサに、ココは慌てて捲し立てる。
「だ、だから絶対間に合わせたいんだよ。センクーが上手くいくかはわからないけど、動画編集はあてぃしがみんなに任されたんだもん。できることをしたいんだよ」
ココはそう言って譲らなかったので、レイアがどちらも大事な役割で、それでいいとお互いを宥めた。
そうしてラウンジには、千空と十人の少女が集まった。
もはや千空にオールインする決意を固めたハンナ、アリサ、ミリアとナノカ。
ハンナと一蓮托生のシェリーは、もちろんここにいる。
マーゴは厳しい顔をしているが、少なくとも敵ではなさそうだ。
態度は中立寄りだったが、劇での千空への借りを返すことに決めたレイア、アンアン。
千空との付き合いの中で、魔法に自信を深めたノアも、アンアンの隣に立っている。
そして、ひとり沈んだ表情をしたエマ。
「さあ、科学と魔法の知恵比べだ。二度も負けるわけにはいかねえからな。まずは俺の目標をはっきりさせておく。これの達成に何か役立ちそうなことがあったら、どんな小さなことでもいいから教えてくれ」
大目標は全員の生還、生存だ。その次が脱出。
ユキにその目標を叶えさせるために、俺たちは、屋敷の周りのクソ高え塀を壊す。
「ダイナマイトでも壊せねえ壁だ。まずは調査の時間をしっかり取りてえ。エマ、ミリア、ナノカは塀沿いを歩いて、延長と高さの調査。それに変わったことがないか教えてくれ。もし塀の破片があれば、ついでに回収を頼む。どうだ?」
「わかったわ、千空。エマ、ミリアもそれでいいわね?」
エマとミリアも頷いた。彼女たち三人は、遙か続く塀の調査だ。
「レイアとアンアンは使えそうなものを片っ端から持ってきてくれ。そうだな……物置に廃材やら洗剤やらが揃ってるはずだ。他の部屋にも何かがあるかもしれねえ。頼んだぜ」
「ああ、任された。要するに、千空君が好きそうなものを探せばいいんだね」
[見繕っておくだけでも、何かの足しにはなるだろう]
レイアとアンアンは、他のメンバーに比べて、手伝ってきたクラフトの経験が少ない。どちらかと言えば、細かい作業よりも、新しい視点を持ち込むために協力してもらうべきだろう。
「ハンナ、ノアは設備作りを頼む。フラスコなんかのガラス器具も必要だが、それを支えるための実験台が必要だ。ハンナ、テメーに図面を渡しておく。どうにか形にしてくれ」
「もう、何を言われるのも慣れましたわ、千空さんの無茶振りには。やれるだけはやりますが、期待しすぎにはご注意あそばせ!」
「のあも手伝うよ、ハンナちゃん。二人でがんばろー!」
残りは三人。やはり鍵となるのは、主に火力担当のアリサとシェリーだ。
「アリサ、シェリー。それと俺の三人で、塀の分析調査だ。剛性なんかのステータスを改めて調査する。俺の手札も切るが、ほとんどは魔法頼みになる。テメーらが頼りだ」
「ああ、ここまで来たら、最後まで付き合ってやるよ。石神」
「わかりました! 力こそパワーですね!」
張り切ったシェリーは、両腕でファイティングポーズを取る。
一番賑やかなグループは、間違いなくここだろう。
「千空、私はどうするのかしら?」
「ああ、マーゴは本の分析に集中してくれ。可能ならもっと情報が欲しい」
「わかったわ。ううん、ヒロちゃんがいれば、裁判所で聞けなかった話も聞けると思うのだけど……」
二つ返事で了承したマーゴは、そっと愚痴を零した。
確かに、その通りだった。
ヒロの冷静な分析力、物怖じしない知性が味方になってくれれば、心強いことこの上ない。
腕を組んで考えに耽っていた千空が、ぽんと手を打った。
「ああ、アイツ自身がちゃんと言ってたじゃねえか。どんな処罰でも受けるってなァ〜!」
「あら、そうだったわね♡ヒロちゃんが約束を違えるはずないもの♡」
千空とマーゴが人攫いのような怪しい笑みを浮かべるのを目にして、アリサの背筋に言いようのない悪寒が走った。
「だから、ヒロちゃんは、のあの言うことを三日間聞いてもらいます」
「……確かに、どんな処罰でも受けるとは言ったが……」
自分の牢屋にいたヒロに、ろくでもない男に入れ知恵されたマーゴとノアが押しかけていた。
「ヒロちゃんはしばらくお説教禁止! マーゴちゃんのお手伝いをする! あと、たまに、のあのお絵描きに付き合う! いいね?」
「……はぁ、本当に、こう言うことばかり知恵が回る男だ」
ヒロは額を手のひらで抑えてうめいた。
わざわざ断りにくい相手を送り込み、自らがやってこないのも忌々しい。
やはりユキが言った通り、躊躇せずに殺しておくべきだった。
「うふふ、怒らないでねヒロちゃん♡これはノアちゃんの希望でもあるのよ」
ノアとヒロは、この島で最初にヒロがノアに食事を持ってきた時からの、長い付き合いだった。
生真面目なヒロと奔放なノアは、パズルのピースのように互いが互いを補完する、凸凹ながらも良いパートナーだったのである。
それだけに、千空との対決で理知的な態度を豹変させたヒロの姿は、ノアにとって大きなショックだった。
あの時のヒロは、ノアの知っているヒロとはかけ離れた姿だった。
思えば舞台の時から、千空のわずかな嘘に気付いた時から、ノアはうっすらとヒロに対しても違和感を覚えていたのだ。
ノアは、自らの安息地が軋んでいくような、そんな気配に耐えられなかった。
「ヒロちゃん、のあは怒ってるんだからね!」
むー、と頰を膨らませるノア。
社会性のない言動からは幼さが垣間見えるが、本質を見ると言う意味では、彼女がこの島の中で一番の適役だったのかもしれない。
「わかった、降参だ。ノア、君の言う通りにしよう」
ヒロは両手を挙げて立ち上がった。
うん、とノアは満足そうに頷いた。
「マーゴ、君の手伝いをしよう。あの時、言えなかった話もある」
「助かるわヒロちゃん。ノアちゃん、ヒロちゃんを少し借りるわよ」
マーゴはノアに向かって微笑んだ。
「マーゴちゃんも、頑張ってね」
「ありがとう、ノアちゃんもね」
三人は屋敷のラウンジで別れた。
一人きりになったノアは、もう一度、うん、としっかり頷いて、ハンナの待つ屋敷の外へと足を向けた。
「ゴクチョーたちに邪魔されて、なかなかよく見れなかったけれど……」
「この塀、どこまで続いてるの……」
一方、塀の周りを歩いているのはナノカ、ミリア、エマの三人だ。
屋敷の正面、湖、森、花畑、はたまた屋敷の裏手に回ってみても、塀は延々と続いている。
「千空は大魔女さんの話に乗っちゃったけど、これを全部壊すなんて……」
「普通なら、無理でしょうね。機械や何かがあっても厳しいでしょうし、ましてや人力でなんて……想像もつかないわ」
変わらぬ景色に歩き通しでいると、さすがに疲れてくる。
ミリアが休憩を提案し、三人は木陰に座り込んだ。
昼下がりの晴れた空気に、そよぐ風が心地よい。
屋敷の中ではあんなことがあったのに、世界は変わらず回り続けているようだ。
隙を見て、ミリアが唐突に切り出した。
「ねえ、エマちゃん。話したくないなら、いいんだけど、さ」
「えっ?」
ユキちゃん、だっけ。
エマちゃんが、ずっと元気ないからさ。
「あ、うん……」
「私には、ただならない雰囲気はあっても、面影は普通の女の子に見えたわ。大魔女と言われていなければ、あなたとヒロのように、何も気付かなかったんじゃないかしら」
ナノカとミリアは、エマが一歩遅れて後ろをついてくるのに気付いていた。
ユキの登場前後で、彼女は別人のように振る舞いが変わってしまった。
「おじさんで良ければ、何があったか聞いてもいいかな? いや、エマちゃんが嫌なら何も言わなくていいからね?!」
「ミリア……あなた、不器用すぎるわ」
それって悪口かなぁ?!
エマは二人の様子を見ていたが、小さく笑った。
「うん……ありがとう。ミリアちゃん、ナノカちゃん。たぶん、面白くない話だよ」
エマはぽつぽつと語り出した。
ヒロとは小学生からの幼馴染で、当時のエマはくっつき虫のように、ヒロにべったりであったこと。
中学に進級したエマは友人ができず、同級の中でも浮いていた月代ユキと知り合い、友人になったこと。
そこにヒロも加わって、三人でいつも一緒にいたこと。
「でも……ボクは、いじめの対象になったユキちゃんに、何もできなかったんだ……」
エマは思い出す。壊れたユキの目を。
無言で自分を責め続ける、狂気を孕んだ瞳を。
先刻現れたユキの眼差しは、少しもその時と変わっていなかった。
そうして、ユキちゃんは自殺した。
ヒロちゃんはそれをきっかけに、ボクへの攻撃を始めた。
しょうがないんだ。
ヒロちゃんの言う通り、友達に手を差し伸べなかったボクが、ヒロちゃんの信頼を裏切ったボクが、全部悪いんだ。
だから、ヒロちゃんはいつだって正しい。
ボクはずっとユキちゃんが死んでしまったのを忘れることで、自分を守り続けてきたんだ。
「エマ、あなたは……」
「でも、でも……やっぱり痛いよ……苦しいよ……嫌だよ……嫌だ……こんなボクのこと、誰にも見せたくなかったんだ……」
誰かに嫌われるのが、とても怖いから。
エマの呼吸が浅くなる。
「え、エマちゃん? 大丈夫?!」
かはっ、かはっ、ひゅー、ひゅー、とエマは喘ぎ喘ぎの呼吸をする。
エマは明らかに、過呼吸による急速な呼吸困難に陥っていた。
「ひっ……ひっ……うぅっ……!」
「桜羽エマ、息を吸って」
ナノカは震えるエマの頭をぎゅっと胸に抱きしめ、激しく呼吸を重ねる彼女の動揺を抑えた。
「そう、大きく吸ったら、いち、に、さんで吐いて。ほら。いち、に、さん。また吸って……大きく」
とくん、とくんとナノカの温かな心音が、エマの耳から鼓膜を打つ。エマが深呼吸するたびに、優しい匂いで胸がいっぱいになっていく。
「ナノカ……ちゃん?」
ミリアは、エマを優しく抱きすくめるナノカに、どう声をかけていいかわからなかった。
「私には姉が……いるの。子どもの頃、私が泣くと、私を落ち着かせるために、よくこんな風にしてくれた。エマ、少しは落ち着いたかしら」
「あ……うん、ありがとう、ナノカちゃん」
数度も繰り返すと、エマの呼吸は静まっていた。ナノカは自らの服の袖で、エマの瞳から溢れた雫を拭った。
「辛い思いをしたのね」
「で、でも……悪いのはボクだから……」
「それは違うよ!」
ミリアが大きな声で割って入った。
「エマちゃん、中学生だったんだよね? そんなの怖くて当たり前だよ! ヒロちゃんなら確かに、いじめを止めてユキちゃんを助けられたかもしれない。でも、エマちゃんはエマちゃんなんだ! 全部自分のせいなんかにしちゃダメなんだよ!」
本当なら、周囲の大人が、ユキちゃんたちを助けなきゃいけないことなんだ。
手を差し伸べられなかった優しい人が、優しさで自分を傷つけちゃダメなんだよ。
「ユキちゃんは魔女で、こうして生きてたわけだから、彼女がどんな思いを持っていたか、おじさんにはわからないけど……おじさんはエマちゃんはもっと、無邪気に笑っているのがエマちゃんらしいって思うんだ」
おじさんはエマちゃんたちの味方だよ。
ミリアの思いやりに満ちた言葉を耳にしたエマの瞳から、ぽろぽろと涙が無意識に溢れていく。
「あ、あれっ……なんでボク、泣いてるのかな……ミリアちゃんの言葉、すごく嬉しいのに、なんで……っ」
ぐすぐすと泣きべそをかくエマの肩を、ミリアとナノカはしばらくの間、無言で支えてやっていた。
「ご、ごめんね。もう、大丈夫だから……」
「気にしないで。私もミリアも、気にしていないから」
言葉とは裏腹に、ナノカのまなじりにも、うっすらと光る雫が滲んでいた。
エマにもらい泣きしてしまったようだ。
「お、落ち着いたんなら、千空にぼやかれる前に、塀の調査を再開しないとねぇ! は、あはは……」
空回り気味のテンションでミリアが口ずさむ。
答えは簡単、ミリアも少し冷静になって、今ごろになって押し寄せてきた恥ずかしさを、誤魔化そうとしていたのだった。
三人は立ち上がり、再び歩き出した。
今度はちゃんと、一列になって。
「よし、シェリー! 思いっきりぶちかましてやれ!」
「任せてください!」
シェリーは大きく振りかぶって、『岩塊』を投げた。
風切り音を立てて放り投げられたそれが、放物線を飛んでいって巨大にそびえる壁に激突する。
岩は落雷のように盛大な音を立てて、いくつかの破片に砕け散った。
「やったか?!」
「アリサ、それはやってねえんだよ」
塀から離れて観測していた千空は、やれやれと肩をすくめながら、ゆっくりと塀に近づいていく。
「直接触れずに、重い物を投げるのは、いいアイデアだと思うんですけどねー」
シェリーはぐるんぐるんと肩を振り回しながら二人と合流する。先ほど彼女が放り投げた岩は、軽く見積もっても数百キロはあるだろう。
「どうだ、石神?」
「上の方は傷一つ付いてねえ。下の方は……風化してんのか? 少し欠けてるな」
普段ならこの騒ぎで看守が駆け付けてくるところだが、管理者側に許可を取った今なら、過激なことも問題ない。
千空は早速今までできなかった、種々の重大な破壊行為を試すことにしたのだった。
「シェリーが投げた岩は、少なく見積もっても数トンの衝撃はあったはずだ。そいつを真正面から受け止めてもこの程度ってことは、爆発に耐えるのもマジだな。まあ、作れる量に限度はあっただろうけどよ」
「信じてなかったのかよ……自分のやったことだろうが」
自分で試さなきゃ、わかんねえことの方が多いからな。
千空はシェリーから虫眼鏡を借りて、塀の表面を観察していた。
鑿で叩き、ヤスリを当て、変化が得られないかを試している。
「ウチはどうする、燃やしてみるか?」
「一応聞くが、前の結果はどうだったんだ?」
何で誰にも言ってねえのに知ってんだよ、とアリサは千空に対して軽い苛立ちを覚えた。
深い理由はなく、千空はアリサがやりそうことを、十分に理解していただけだったのだが。
「ススが付いたくらいだよ。石なんだから当然っちゃ当然だけどな」
「スス、ススか……」
千空は考え込んだ。
この塀を見れば見るほど、まともな方法で壊れるとは思えない。
しかし、大魔女が月に帰ろうとした姫のように、不可能な難題を出してくるものだろうか。
卑小な人間が足掻く時間を見て、ただ愉悦に浸りたいのならば、もっとマシなやり方があるようにも感じる。
「何にしても、まだまだサンプルも情報も足りねえ。シェリー、何度も悪いが投げた岩のかけらで、また投石を試してみてくれ」
シェリーは勢いよく返事をして、まだひと抱えもありそうな石を担いで離れていった。
千空は大きく息を吐いた。ここから先の手立てがあるかは、他のチーム次第だ。
自分の予想が正しいのならーー手はある。
「アリサ、お前は俺を手伝え。酸……あるいは、アルカリを用意しておきてえ。魔法の塀の攻略の隙間は、きっとそこにある」
「酸……溶かすのかよ、アレを?」
含み笑いを浮かべる千空のもとに、レイアとアンアンが遠くから駆けてきた。
その手には、大きな袋を抱えていた。
「千空君! 君の言った通りだ! 物置にはあったよ、これが!」
「硝酸カリ……花畑か、どこかの肥料として持ち込まれたってワケだな」
[しかし、千空はなぜ、これがあると知っていたんだ]
アンアンは不思議な表情を浮かべ、首を傾げていた。
千空は会心の笑みを顔に貼り付けたままで言う。
「簡単なことだ、未来で爆薬に辿り着いた俺が、超重要素材のこいつを見逃すはずがねえ。硝酸の素は必ずこの屋敷のどこかにあると踏んでた。これで、百億歩前進だ!」
千空はレイアから大きな袋を受け取ると、中身を見て満足そうに顔を歪めた。
どうやら湿気てはいなさそうだ。
「アリサ、お前は硝酸作りの手伝いをしてくれ。気を付けろよ。混ぜかたと火加減を間違えれば一瞬で爆発するからな〜」
「んなモン、こっちで気を付けようがねーだろうが……オメーがなんとかしろよ」
肥料の硝酸カリを水に溶かし、水溶液から硝酸を分離する。取り扱い方を一歩間違えば、大惨事は免れない。
「まだ必要な素材があるがな……その答えは焼却炉にあるはずだ。レイア、アンアン、焼却炉の内壁にこびりついた堆積物があるはずだ。それを可能な限り集めてきてくれ」
「あ、ああ。わかった。私たちにはさっぱり何が起きるかわからないが、一応理由を聞いてもいいかな?」
千空の顔に浮かぶのは、闇のように昏い笑い方だ。恐ろしい怪物を生み出したマッドサイエンティストが、今ここに帰ってきている。
「硫化物の結晶を集めんだよ。硫酸作って、硫酸と硝酸の力で塀にアタックしていく。爆破や力押しがダメなら、科学の力、【腐食】で攻めるっきゃねえ!」
「硫酸……?!」
科学に疎い面々も、硫酸の名前くらいは聞き覚えがあった。非常に強力な酸で、その有害性は肌に触れることで醜い化学火傷となる、彼女たちにとってはそのように知られていた。
「硫酸はいいぞ〜。なんせ世界中の国の化学力を測る基礎中の基礎の化学薬品だからな。こんなに唆る化学実験の材料はねえってモンだぁ〜! ヒャーハッハッハッハ!!」
みんな、納得はしている。
しかし、それにしても……それにしても。
果たして、このゲスじみた哄笑を高らかに響き渡らせる男に、自分の、そして世界の命運を賭けても良いものかと、考えずにはいられないのだった。
それから、ハンナたちが無事にガラス器具を揃えた実験台を完成させたのもあって、持ち込んだ怪しげな液体と粉末をひたすら混ぜては溶かし、濾過しては熱しを繰り返して、千空は希硫酸と硝酸を程なく完成させた。
これで千空の手元には、硫化亜鉛作りで使用した希塩酸も含め、三種類の酸があることになる。
金属の廃材を水溶液に入れると、しゅわしゅわと泡を立てて溶けていく。
「クックッ、そろそろアイツらが帰ってくる頃だろ」
日は暮れかけており、じきに夜になる。
言うが早いか、視界の端にミリアたち三人の姿が映った。
手には小石の詰まった袋を抱えている。
「千空、言われた通り、風化してたところを集めてきたよ」
「塀の周りを一周してきたけど、高さと構造はどこも同じような感じに見えたわね」
集まっていた他の少女たちは千空に言われ、屋敷に戻り、早めの休息を取っていた。
「それで、千空くんは何をするつもりなの?」
「ああ。テメーらが持ち帰ったこのサンプルを変化させる方法がねえか、徹夜で試す。ここは選択肢の分岐だ。爆破ルートを取った俺は、最速を目指したはずだ。その失敗があるおかげで、もう一つの可能性に賭けられる。科学は、少しずつでも前に進むしかねえ」
千空は袋に詰められたガラの集まりを受け取った。色合いから、塀から剥がれ落ちたものだとわかる。
千空はミリアたちに礼を言い、明日の朝になったら分かったことを共有すると伝えた。
千空と別れたエマは、ここにいないメルルを思う。
(メルルちゃんはいま、どうしてるんだろう)
大魔女との再会という本願を果たした彼女は、何を感じているのだろうか。
千空を含め、たとえ自分たちが死ぬとしても、メルルはユキの選択を喜ぶのだろうか。
エマには、それを知る術もない。
「ふふ、やはりお風呂というものはいいものです。命の洗濯か、あるいは心の洗濯……そう思いませんか、メルル?」
「そ、そうですね……大魔女様……」
メルルは小さい体のユキと、一緒に入浴していた。
身長差がある姿は、姉妹のようにも見える。
「人間の知恵も侮れません。魔法と、この島のありもので、何もかもをやろうとしてしまうのですからね」
「それは、千空さんが特殊なのだと思います……」
今までメルルが見てきた少女にも、脱獄を図ろうとして失敗したものは数多くいたが、いきなりものづくりを始める人間はいなかった。
それに、千空の行動には裏表がない。
彼は自分の目指すものに、ただひたむきなように思える。
「千空さんは、どうしてこの島に現れたのでしょうか……」
メルルは返事を期待せずに呟いた。
濡れた髪から、水滴がぽたりぽたりと落ちて、水面にいくつかの輪を作っていく。
「……あなたは、理由があると思いますか?」
「えっ……?」
ユキが透き通った瞳で、メルルを見ている。
心を見透かされるようになってしまったメルルは顔を赤らめて、どぎまぎとしてしまった。
「そ、それは、わかりません。普通のことじゃないとは思いますが……」
「そう、正解です。普通のことではない。何者かの作為があって、千空はここにいる。ふふ……メルル、あなたには教えてあげましょうか」
「は、はい……?」
ユキに耳打ちされたメルルは、驚愕の表情でユキを見た。
「そんな……?!」
「だから、メルルはメルルのしたいようにしてもいいのですよ。幸福な結末への道は、そこにしか残されていないのですから」
ユキが湯船から立ち上がる。
魔法でお湯を操っているのか、水飛沫は立たなかった。
「私はああ言いましたが……千空は、やり遂げそうな予感がするのです。魔女の勘、とでも言いましょうか」
「大魔女様は、もしもそうなったらどうするのでしょうか……?」
ユキはゆっくりと瞳を閉じた。
「さあ……どうでしょう。壁がなくなれば、この島も、もはや外界と隔ててはいられなくなる。魔女の存在が許される場所は、世界から失われるでしょう。そうなれば私もあなたも……言わずとも、わかりますね?」
「私は……それでも、大魔女様のお側にさえいられれば……いたっ?!」
ユキがメルルの両頬を摘んで引っ張っていた。
情けない顔になったメルルが悲鳴を上げる。
「ひゃにふるんれふか! らいまじょひゃまぁ〜……」
「その気持ちは嬉しく思いますよ、メルル。ですが、あなた自身もよく考えておいてください」
ユキはタオルで体を拭かなかった。
彼女の肢体から自然に水分が弾かれ、暖かい風が吹き、みるみるうちに長い髪と肌が乾いていく。
服を着るそぶりもなく、服の方から宙を飛び回り、身に纏われていく。
小さいながらもその様は、魔法を欲しいままにする大魔女の姿そのものだ。
棚の上に着替えと一緒に置いていたメルルのスマートフォンが鳴動する。
浴槽から上がったメルルが手にとって覗き込むと、何人かの少女からメッセージが届いていた。
『メルルちゃん! どこかにアルコールってないかな?!』
『メルルさん、千空さんが探していましたわよ』
『橘のヤツが手を怪我してるんだ。治癒を頼めねえか?』
メルルの隣に立って、スマートフォンのディスプレイを覗き込むユキが微笑んだ。
「あらあら……メルルが人気者だと、私も鼻が高いです」
「だ、大魔女様?!」
メルルは慌てて画面を手で覆い隠した。
ユキの魔法で、メルルの肌の水分も吹き払われていく。
「ふふふ、あまり人を待たせてはいけませんよ」
「あ……うぅ……」
メルルは着信したメッセージに対して、一つ一つ丁寧な返事を返していく。
その中でも、エマからのメッセージが気になった。
『アルコールなら、医務室に消毒用のエタノールがあったと思います。私もこれから行きますので、少ししたら取りに来てください』
指でつ、と送信ボタンを押す。
メルルは自分を見るユキの視線が、妙に面映く感じたのだった。