なんで私⁉ 野球知識皆無のJKが戦国時代で野球を広め、信長の恋女房になってしまう件~ 作:ハムえっぐ
伊勢長島を包囲する織田軍の頭上に、季節外れの猛烈な暴風雨が吹き荒れていた。
バチバチと音を立てて甲板を叩く大粒の雨と、立っているのもやっとの強風。
私は海上の巨大戦艦の物陰で、ガタガタと船酔いと寒さに震えながら丸まっていた。
「うう……伊勢って呪われてない? また暴風雨だよ。なんなの? 誰か雨男でもいない?」
私が恨み言を叫ぶと、隣で雨に打たれながらも爽やかな笑顔を崩さないイケメンが立っていた。
お犬ちゃんの旦那様、佐治信方さんだ。
「ははは、真昼殿は海が苦手のようだな。だが、この荒れ模様では一揆勢も小舟一隻出せまい。完全封鎖だ」
「信方殿の言う通りです。これで長島も完全に干上がりました。いよいよ戦も終わりますね」
具豊君も、安堵の表情を見せている。
確かに陸は織田の大軍、海は私たちの戦艦が塞いでいる。
長島は完全に孤立し、兵糧も尽きかけているはずだ。
終わる。ようやくこの泥沼の戦いも終わるんだ。
私はただ、安堵の吐息をついてそう思っていた。
この時の私は、追い詰められた人間の本当の恐ろしさを全く分かっていなかったのだ。
***
陸の織田軍陣地。包囲網の一角を担っていたのは信長の異母兄である織田信広や、弟の秀成、叔父の信次ら、織田一族の面々。
叩きつける雨の中、彼らの陣幕に数十人の人影がよろよろと近づいてきた。
本願寺から見捨てられた指揮官・下間頼旦に率いられた一揆勢の代表であった。
「……武器を捨て、降伏いたします。どうか、どうかお慈悲を……」
泥に塗れ、頭を地面に擦りつける頼旦たち。
陣幕で彼らを迎え入れた信広は、豪快ながらも抜け目ない一族のまとめ役らしく、鋭い眼光で頼旦を睨み下ろした。
「降伏は認めんと告げていたはずだ」
「はっ……ですが信長様はお優しい方。降伏を許さぬと言いつつ、諸国で多くの降将を許し、それどころか抜擢しておりまする。それがしどもも、お許し頂ければ本願寺への先兵として働く所存!」
額を土につけて呟く頼旦を見る信広の瞳は険しいままだ。
「……降伏するなら、懐に隠し持っている短刀を捨てて、縛につけ」
ビクッ。頼旦の肩が跳ねた。
信広が見破った瞬間、頼旦は顔を上げ、血走った目で絶叫した。
「仏敵に死をォォォォォ!」
降伏を装った数十名が、一斉に懐から武器を取り出して襲いかかる。
が、歴戦の猛者である信広たちは慌てることなく、手にした金属バットを容赦なく振り抜いた。
ガキィィィン! ゴシャッ!
鈍い音と共に、襲撃者たちはあっけなく吹き飛ばされ、血の海に沈んでいく。
「愚かな坊主だ。こんな見え透いた騙し討ちで、俺からアウトが取れると思ったか」
血濡れたバットを下ろし、信広が吐き捨てる。
――も、致命傷を負い、泥の中に倒れた頼旦は口から血の泡を吹きながら狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「……馬鹿め。引っかかりおったわ」
「なんだと?」
「俺たちは……ただの囮。……地獄への道連れの始まりじゃ……」
頼旦が事切れた直後。
ドズゥゥゥゥン……!
陣の外から、嵐の音をかき消すような地鳴りの咆哮が轟いた。
「な、なんだ⁉」
信広が陣幕の外に出ると、彼の目に信じられない光景が飛び込んできた。
暴風雨の闇に紅蓮の炎が広がる。
長島の大地が燃え、信広軍に一揆勢の生き残りが怒涛の如く雪崩れ込んできたのだ。
彼らは鎧も着物も捨て去り、全裸のまま、刀や農具だけを握りしめていた。
老若も、性別も、一切合切関係なく。
「極楽浄土などいらん! 織田の血をよこせえええええ!」
もはや宗教的救済すら捨て去った狂徒たち。
ただ信長に一矢報いるためだけに、自らの命を弾丸とする死の特攻。
竹中半兵衛が敷いた緻密な守備シフトも、この死を前提としたルール無視の暴走の前には全く機能しなかった。
刺されても、殴られても、腕が千切れても、彼らは止まらない。前のめりに倒れながら、織田兵の喉元に噛みついてくる。
「なっ……こいつら、自分の命を守る気がないのか!」
狂徒の波に呑み込まれ、織田の陣形は瞬く間に切り崩された。
信広は愛用のバットを振るい続け、何十人もの敵を打ち砕いたが、全裸の群れは彼を押し潰すように群がり続ける。
「ぐおおおおっ……! 信長……あとは、頼んだぞ……!」
無数の刃が身体を貫き信広は死んだ。
彼を皮切りに、秀成、信次、信成、信昌、信直……。
岐阜城の大広間で、お市の処遇を巡って大笑いしていた親族や兄弟たちが、泥と血の濁流の中で次々と壮絶に討ち死にしていった。
***
海にいる私たちの中で、陸の方角から聞こえてくる異様な咆哮と炎の明かりに、佐治信方さんがいち早く異変に気づいた。
「あれは……信広殿の陣! 陣形が崩れている! 一門の危機だ、我らも加勢する!」
信方さんは迷わず小舟を下ろすように指示を出した。
「待って! 危ないよ! この嵐の中で、しかも敵がどうなってるか分からないのに!」
私が必死に止めようとすると、信方さんは雨に濡れた髪をかき上げ、爽やかに笑った。
「真昼殿。俺は海賊上がりだが、織田の姫を娶った身。一門が見殺しにされるのを黙って見ていれば、愛するお犬を悲しませることになる。……それだけは、絶対にいかんのでな」
そう言い残し、信方さんは数人の部下と共に嵐の海へと小舟で飛び出していった。
私は掴もうとした。飛び乗ろうとした。
でも、暴雨風が追い風となって信方さんたちを後押しし、私のことは邪魔だと言わんばかりに逆風を浴びせてきた。
「信方さん……! 嘉隆さん、一益さん! 私たちも早く!」
「ぬう! 信方殿、無茶しおって!」
「今、船団を動かす! しっかり捕まってろ姉ちゃん! ぐっ……駄目だ! 船が進まねえ! 潮の流れが悪すぎる!」
「そんな……信方さあああああああん!」
私の叫びを、暴風雨は嘲笑うかのように飲み込んでいった。
上陸した信方さんは、一族を救うために狂乱の渦へと単騎で飛び込んでいく。
けれど死兵の波は、個人の武勇でどうにかなるものではない。
私たちは間に合わなかった。
爽やかな海賊の笑顔を最期まで崩すことなく、信方さんもまた、無数の刃を浴びて壮絶に散っていった。
***
昨夜の暴風雨が嘘のように晴れ上がり、澄み切った青空が広がる朝。
長島の地に広がっていたのは、言葉を失うほどの地獄の光景。
焼け焦げた大地に広がるのは、数万に及ぶ一揆勢の死体の山。
異変で駆けつけた織田軍主力部隊の反撃により、文字通り一匹残らず全滅したのだ。
織田軍もまた、全体数で言えば数百の被害とはいえ、犠牲者は織田の血を引く御一門衆にピンポイントで集中していた。
私は泥だらけになりながら、戦場を歩いていた。
信広様、信次様……そして信方さんの遺体を見つけ、その場に力なく崩れ落ちる。
「嘘でしょ……。みんな、こないだまであんなに元気だったのに。お犬ちゃん……ごめん……」
私の懐で、いつもなら騒がしいセンイチも、ノーガードの殺し合いの凄惨さに言葉を失い、光をどんよりと濁らせていた。
駆けつけ、集結した織田軍の将たちに歓喜の声は全くない。
あの勝三君ですら返り血を浴びたまま、ただバットを手にして立ち尽くしていた。
秀長は自分も震えているのに、青ざめて絶句している信忠君と具豊君を支えている。
半兵衛君も空を見つめ、天候を利用した狂徒たちの、死を前提とした策に自らの策が通用しなかった無念を噛み締めていた。
私は、ただ、こう思う。
こんなの、戦じゃない。ただの、呪い合いだ。
死体の山の頂上に、信長様が立っていた。
血に染まった金属バットを力なく下げ、ただ呆然と足元を見つめている。
信長様の足元には、味方の死体も、敵の死体も、もはや区別なく転がっていた。
信長様の身体が、これまでにないほど小刻みに震えている。
「……敵にも、生き残りがおらんのか」
絞り出すような、ひび割れた声だ。
一族を大勢殺された。
激しい怒りが湧き上がっているはずなのに、復讐しようにも、怒りをぶつける相手すら、もうこの世に一人も残っていない。
勝った。確かに勝ったのだ。
しかし何も得られなかった。完全な虚無が、信長様の背中を重く包み込んでいた。
信長様は数秒後には震えをピタリと止め、冷徹な仮面を顔に貼り付けた。
血塗られたバットを握り直し、振り返る。
「久助! 嘉隆!」
呼ばれた滝川一益さんと、九鬼嘉隆さんが、泥の中にサッと平伏した。
「久助。この長島一帯の所領、貴様に与える。嘉隆ともども……この血と泥に塗れた死地を、元の豊かな土地に再興せよ」
それは感情を一切排除した、統治者としての無機質な命令だ。
「「……ははっ! 必ずや」」
一益さんと嘉隆さんが重々しく応えた。
そんな中、私は感情を完全に押し殺して次の采配を振るう信長様の横顔を、ただ見つめるしかできなかった。
――【武士より手強すぎ、一向一揆殲滅編】完
【信長VS勝頼、新旧英雄激突編】に続く