なんで私⁉ 野球知識皆無のJKが戦国時代で野球を広め、信長の恋女房になってしまう件~ 作:ハムえっぐ
未明の静寂は、長篠城の南に位置する鳶ヶ巣山砦の方角から上がった火の手と、腹の底に響くような激しい銃声によって無惨に引き裂かれた。
設楽原、才ノ神の武田軍本陣。
張り詰めた冷気が漂う陣幕に、泥と血にまみれた伝令が転がり込む。
「申し上げます! 鳶ヶ巣山、中山などの五砦が陥落! 武田信実様、三枝守友様、討ち死に! 織田・徳川の別働隊に背後を突かれました!」
その凶報に、陣幕内の武将たちに衝撃が走った。
長篠城の包囲が破られただけではない。
退路である豊川の渡河点すら脅かされ、武田軍は前方の設楽原に陣取る織田・徳川連合軍3万8千と、背後の別働隊に完全に挟み撃ちにされる「背水の陣」に陥ったのだ。
「……叔父上たちが負けた、だと?」
上座に座る若き当主、武田勝頼の顔が歪む。
重苦しい空気を切り裂くように、重鎮である馬場信春と内藤昌豊が血相を変えて進み出た。
「御館様! 前後の敵に完全に挟撃される前に、直ちに退却の御決断を! 今ならまだ甲斐へ血路を開けます!」
馬場信春の必死の進言に同調するように、彼の懐からいぶし銀の光を放つ英霊ボール『タナベ』が浮かび上がり、無機質かつ現実的なデータを突きつける。
『勝頼、ここはコールド負けを避けるための撤退が唯一の正解だ。点差とイニング、そして兵站を考えれば、これ以上の試合続行はチームの消滅を意味する』
信玄の時代から数多の修羅場を潜り抜けてきた古参たちは、戦の引き際を熟知している。
「叔父上と守友が逃げなかったのに、俺が逃げろと言うのか……!」
「御館様、常なら個人の情は美徳でございます。ですが、戦は情ではありませぬ」
昌豊の説得に勝頼は軍配を握る手を震わせ、奥歯を噛み締めた。
それを無理やり、思考するために冷静さを取り繕う。
「逃げてどうなる? 退けば挟撃で壊滅。三河・遠江の国衆は離反。最悪、信濃と甲斐の国衆にも裏切り者が出る。信長がその隙を逃すか? 朝倉の末路を思い出せ。背後を見せ、瞬く間に滅ぼされた」
勝頼を是としない国衆は多い。
元々信濃の名家・諏訪氏の養子に出されていた勝頼を信玄の正統後継者とみなしていないためだ。
兄・義信様がご顕在なら。
躑躅ヶ崎にずっといなかったのに主君面するな。
譜代の臣を遠ざけ、若手ばかり周囲に置いている。
そんな陰口が聞こえたのは一度や二度でない。
この機を逃さず己を弑し、国衆どもに都合のいい者を当主にする機運も高まるだろう。
勝頼の焦燥を察知したかのように、彼の懐で黄金に輝く『ワカダイショウ』が、爽やかで熱い光を放ち始めた。
『リーグ戦で言えば13ゲーム差をつけられた状況。まさに背水の陣ってやつさ。……でも、背水だからこそ、人は信じられない奇跡も起こす。それがメイク・レジェンドだよ、勝頼』
ワカダイショウの光が、勝頼の背中を強く押す。
「聞いたか、皆。退けば朝倉になる。……ここは全軍、設楽原に向かい、血路を開くしかあるまい」
勝頼が持ち出した例え話、朝倉滅亡の流れが武田諸将の脳裏によぎる。
信長の恐ろしさは追撃戦で真価を発揮することを、まざまざと見せつけた刀根坂での朝倉殲滅戦。
下手に退却しては、しんがりどころか主力が全滅しかねない。
山県昌景には分かっている。
勝頼の危惧も、立場も。
だから進むことも。
昌景が諸将に咆哮していく。
「敵は奇襲に成功し、ホッと一息しているだろう。ならば、だ。背水の我ら、攻め込むなら今しかない!」
昌景に呼応し、彼の懐から毒々しい赤色の魔球のような光を放つ『アクタロウ』も飛び出し、好戦的に吠えた。
『背水? バカ言え。敵を全員デッドボールで退場させればいいだけ。それができない武田じゃないだろ? 昌景と俺が見本を見せてやる』
静まる陣内。
全員の目が据わっていく。
そこで勝頼はゆっくりと立ち上がり、軍配を前方の設楽原――信長が待つ陣へと力強く向けた。
「柵そのものを相手にするな。連吾川の浅瀬、柵の継ぎ目、敵の前進部隊――脆い箇所を探せ。そこを破り、敵陣を崩す!」
馬場信春が深く、一礼する。
「……御意。御館様、ご武運を」
タナベもまた、『……ベテランは若手を守る義務がある』と光を収めた。
戦支度をする武田勢の陣所の一角。
「喜兵衛」
馬に跨り、前線へ赴く真田信綱が本陣に残る弟に声をかけていた。
「御館様を頼むぞ」
信綱の横で、次兄・昌輝も呟く。
「奇策ばかり進言するなよ。直球9割9分の投手が1分変化球を混ぜる。それだけで敵は大混乱よ」
喜兵衛は顔色を変え、告げていく。
「生きて戻ってくだされ」
弟の真面目な返答に、信綱と昌輝は大笑いしだした。
「ハッハッハ。喜兵衛は心配性よ。源五郎だった時からそうじゃ」
「まことまこと、昔からそうよ。7つで躑躅ヶ崎に行く時、逆に我らを心配して小賢しかったわ」
去りゆく兄たちの後ろ姿を、喜兵衛はただ見ていることしかできない。
こうして武田軍は、設楽原へと進撃を開始した。
***
鳶ヶ巣山砦を陥落させた私たち奇襲部隊は、朝焼けの中で遠く設楽原を見下ろす尾根に立っていた。
「……えっ?」
眼下に広がる光景に、私は自分の目を疑った。
背後を突かれ、完全に挟み撃ちになった武田の大軍。
普通なら蜘蛛の子を散らすように退却するはずだ。
なのに彼らは反転するどころか、信長様と半兵衛君が構築したあの巨大な馬防柵に向かって、怒涛の如く前進を開始したのだ。
「嘘でしょ⁉ 後ろを取られたのに、あんな要塞に向かって正面から突っ込んでいくの⁉ 自殺行為じゃん!」
私の絶叫に、隣にいた酒井忠次さんや金森長近さんも絶句している。
「なんと……あれが甲斐の虎が育てた赤備えの意地か……」
「非合理的極まりない。だが、あの狂気こそが武田の恐ろしさというわけですか」
「逃げればいいのに」
そう私が呟くと、忠次さんがそっと囁く。
「我らの奇襲成功で、武田は退く危険を朝倉と重ねたのかもしれませんな」
「……この状況を作ったのは、我らです」
長近さんが補足した。
私の懐で、センイチが血の匂いを嗅ぎ取ったように赤く、哀悼を込めて光った。
『……負けるとわかって挑む試合など一度もない。無論、勝つとわかってやる試合もない。信長、慢心するなよ』
センイチの呟きに、私は泥だらけの金属バットを強く握り直す。
「信長様、半兵衛君……来るよ! 戦国最強の赤備えが!」
雨上がりの設楽原に、武田軍の法螺貝が雄大にして不気味に響き渡った。