──11年前──
午後の小さな公園は、子どもたちの声で賑わっていた。ブランコの軋む音、滑り台を滑る歓声。それらは春の風に乗り、木々の間を抜けていく。
だが、公園の端──遊具の影や砂場の隅には、人の気配がほとんどない静かな場所が広がっていた。落ち葉が積もり、どこか取り残されたような空間。
七歳の七罪は、その公園で無邪気に遊んでいた。ブランコを漕ぎ、滑り台を駆け上がり、砂を蹴る。ただ楽しいという気持ちのままに動いている。
ふと、視界の端に小さな人影が映った。
遊具の影に座り込む、金髪の少女。その手元に、赤いものが光っている。
七罪[あの子……怪我してるのかな……? ]
気になって、七罪は遊びをやめ、ゆっくりと近づいた。
そして、見てしまう。
少女は、小鳥を抱え、その血に指先を触れていた。
赤い雫が指に伝い、光る。
ヒミコ[……きれい……どうしてこんなに……好きなんでしょう……]
ヒミコは無意識に、その血を唇に近づける。
その瞬間──視線に気づいた。
ヒミコ「……え?」
顔を上げると、七罪が立っていた。
ヒミコ「……あっ……み……見ないで下さい……!」
慌てて頬を隠し、体を縮める。
ヒミコ[また……嫌われます……怖がられます……]
心臓が強く鳴る。逃げなきゃいけない。でも体が動かない。
だが──
七罪は、その場にしゃがみ込んだ。
七罪「大丈夫だよ。痛くない?」
ヒミコは固まる。
ヒミコ[……え? ]
予想していた反応と違う。
七罪の声は、ただ心配しているだけだった。
ヒミコ[怖くないの……? 気持ち悪くないの……? ]
七罪は、自然に隣に座る。
七罪「なぁ、どうして一人でいるの?」
ヒミコは戸惑いながら、視線を逸らす。
ヒミコ「……誰も……来ないから……」
少し間を置いて、続ける。
ヒミコ「私……普通じゃないので……」
その言葉には、小さな諦めが滲んでいた。
七罪は少し考える。
七罪[普通じゃないって……どういうことだろ……でも……]
七罪は、まっすぐ言った。
七罪「そっか……でも僕は、友達になりたいよ」
ヒミコの呼吸が止まる。
ヒミコ[……ともだち……? ]
そんな言葉、向けられたことがなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
ヒミコ[なんで……この人……]
七罪は立ち上がり、手を差し出す。
七罪「一緒に遊ぼうよ」
ヒミコはしばらくその手を見つめる。
ヒミコ[触っても……いいんでしょうか……]
ゆっくりと、その手を取る。
温かい。
ヒミコ[あったかい……]
そのまま、小鳥を草むらにそっと置いた。
七罪は、その手に血がついていることを気にしない。
ヒミコはそれに気づく。
ヒミコ[……触れてるのに……嫌がらない……]
七罪「もし欲しいなら、僕の血ちょっとあげてもいいよ」
ヒミコ「え……?」
七罪は、自分の指先を少しだけ切る。
赤い血がにじむ。
ヒミコの視線が、それに吸い寄せられる。
ヒミコ[……きれい……さっきより……もっと……]
胸がドクドクと鳴る。
ヒミコ「……いいんですか……?」
七罪「うん。友達だもん」
その言葉は、あまりにも自然だった。
ヒミコはそっと、指先に触れる。
温かい血が、指に伝う。
ヒミコ[……あったかい……さっきと違う……]
ヒミコはそれをじっと見つめる。
ヒミコ[なんで……こんなに……落ち着くんでしょう……]
そして、小さく口をつける。
ほんの少しだけ。
ヒミコ[……好き……かもしれません……]
その感覚の正体は、まだ分からない。
でも確かに、胸の奥が満たされていく。
ヒミコはそっと顔を上げる。
七罪は、変わらずそこにいる。
嫌な顔も、怖がる様子もない。
ただ、当たり前のように隣にいる。
ヒミコ[この人……怖くないだけじゃなくて……]
ヒミコ[……安心します……]
小さく、笑みがこぼれた。
ヒミコ「……七罪君は……優しいですね……」
ヒミコ[この人は……特別です……]
ヒミコ[もっと……一緒にいたいです……]
その感情はまだ言葉にならない。
だが確かに、芽生えていた。
歪み始めた“好き”の形が──静かに
──別れの日──
春の風が、いつもより少し冷たく感じる午後。
公園の端。あの日と同じ場所に、七罪とヒミコは並んでいた。
どちらも、あまり言葉を発さない。
七罪[どうしてだろ……いつもなら楽しいのに……]
七罪[今日は……うまく笑えない……]
ヒミコは俯いたまま、手をぎゅっと握っている。
ヒミコ[行ってしまいます……七罪君が……]
ヒミコ[嫌です……でも……言えません……]
沈黙の中、風だけが通り過ぎる。
やがて七罪が、ゆっくり口を開いた。
七罪「ヒミコ……僕、今日引っ越すんだ」
ヒミコの肩が小さく震える。
ヒミコ「……はい……知ってます……」
七罪「遠いところだけど……また会えるように、頑張るよ」
ヒミコは顔を上げる。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
ヒミコ「……本当に……会えますか……?」
七罪は少しだけ考えてから、頷く。
七罪「うん。絶対」
その言葉に、ヒミコの胸が強く締め付けられる。
ヒミコ[“絶対”……]
ヒミコ[信じたいです……信じたいのに……怖いです……]
七罪はポケットから、小さな包みを取り出す。
七罪「これ……よかったら」
中には、不格好に折られた小さな紙と、拾った綺麗な石が入っている。
ヒミコはそれを受け取る。
ヒミコ「……ありがとうございます……」
ヒミコ[宝物です……絶対に……なくしません……]
少しの沈黙。
そして、別れの時間が来る。
遠くから、車のクラクションが鳴る。
七罪「……呼ばれてる」
ヒミコの手が、ほんの少しだけ動く。
でも、引き止めることはできない。
ヒミコ「……身体に気をつけて下さい……」
七罪は、少しだけ笑う。
七罪「ヒミコもね」
七罪は背を向ける。
一歩、また一歩と離れていく。
ヒミコは、その背中を見つめ続ける。
ヒミコ[行かないで……]
ヒミコ[でも……言ったら……困らせます……]
声には出せない。
ただ、見送ることしかできない。
七罪は振り返り、手を振る。
七罪「じゃあね!」
ヒミコも、小さく手を振る。
ヒミコ「……はい……」
その姿は、どんどん小さくなっていく。
やがて見えなくなった時、ヒミコの視界は滲んでいた。
ヒミコ[……行ってしまいました……]
握りしめた手の中には、まだ温もりが残っている気がした。
──移動中──
車は静かに町を離れていく。
窓の外には、見慣れた景色が流れていた。
七罪は後部座席で、ぼんやりと外を見ている。
七罪[ヒミコ……泣いてなかったかな……]
七罪[また……遊べるかな……]
胸の奥が、少しだけ苦しい。
父親が前の席で声をかける。
父親「寂しいか?」
七罪は少し考えてから、頷く。
七罪「……うん」
父親「大丈夫だ。新しい場所でも、きっと友達はできる」
七罪は小さく「うん」と返す。
だが、心の中では別のことを思っていた。
七罪[でも……ヒミコは……一人になる……]
その時だった。
ドンッ、と鈍い衝撃音が響く。
車が大きく揺れる。
母親「きゃっ……!」
父親「くっ……!」
車が急停止する。
外から、重い足音が近づいてくる。
七罪[……なに……? ]
父親がゆっくりとドアを開ける。
父親「ここで待ってろ」
七罪「……うん」
ドアが閉まる音。
車内は、急に静かになる。
外から怒鳴り声と、衝撃音が響く。
ヴィラン「ヒーロー気取りが……邪魔なんだよ!!」
父親「子どもがいるんだ……下がれ!」
激しい衝突音。
何かが壊れる音。
七罪は、震える手でシートを掴む。
七罪[やめて……]
七罪[父さん……]
再び、大きな音。
そして──静寂。
七罪「……父さん?」
返事はない。
恐る恐る、ドアを開ける。
外に出た瞬間、目に入ったのは──倒れている父親の姿だった。
七罪「……え……?」
足が動かない。
理解が追いつかない。
七罪「父さん……?」
近づく。
返事はない。
動かない。
七罪の視界が揺れる。
七罪[なんで……]
七罪[さっきまで……話してたのに……]
ヴィランはすでに去っていた。
ただ、壊れた地面と、静寂だけが残っている。
七罪はその場に膝をつく。
七罪「……いやだ……」
手が震える。
涙が止まらない。
七罪[守れなかった……]
七罪[何もできなかった……]
その瞬間、ヒミコの顔が浮かぶ。
一人で、怯えていた少女。
七罪[ヒミコみたいな子が……]
七罪[また……こんな目に遭ったら……]
拳を強く握る。
七罪[嫌だ……]
涙を拭う。
七罪[助けたい……]
七罪[守れる人になりたい……]
小さな体に、強い意志が宿る。
七罪[誰も……一人にしない……]
七罪[絶対に……守る……]
夕日が、静かに沈んでいく。
その光の中で──
幼い少年は、初めて“決意”を手にした。
──それから2年後──
春の午後。柔らかな日差しが、公園の端を照らしていた。
あの日とよく似た景色。
だが、七罪の中身はもう違っていた。
七罪[あれから……何も守れてない……]
七罪[でも……今度は……]
買い物袋を片手に、公園の前を通りかかる。
その時──
かすかな泣き声が聞こえた。
七罪[……泣いてる? ]
足を止め、耳を澄ます。
確かに聞こえる。
七罪はゆっくりと、公園の奥へと歩いていく。
ブランコの陰。
そこに、一人の少年がしゃがみ込んでいた。
肩を震わせ、顔は涙で濡れている。
志村転弧。
七罪はその姿を見た瞬間、胸が強く締め付けられた。
七罪[……ヒミコと同じだ……]
七罪[一人で……誰もいない場所にいる……]
ゆっくりと近づく。
驚かせないように、静かに。
七罪「……大丈夫?」
転弧はびくりと体を震わせる。
ゆっくりと顔を上げるが、涙で視界が滲んでいる。
転弧「……うえっ……ひっ……」
言葉にならない。
ただ、怖さと不安だけが伝わってくる。
七罪はその場にしゃがみ、目線を合わせる。
七罪「無理に話さなくていいよ」
転弧の呼吸が少しずつ乱れる。
七罪は何も急かさない。
ただ、そこにいる。
七罪[大丈夫……焦るな……]
七罪[この子は……怖がってるだけだ……]
ゆっくりと、肩に手を置く。
転弧は一瞬だけびくっとするが、振り払わない。
七罪「泣きたいなら、泣いていいんだよ」
その一言で、転弧の涙がまた溢れる。
転弧「……怖い……」
七罪は静かに頷く。
七罪「うん」
転弧「誰も……助けてくれない……」
その言葉に、七罪の胸が痛む。
七罪[……同じだ……]
七罪[あの時の僕と……]
少しだけ、息を吸う。
そして、はっきりと言う。
七罪「大丈夫。僕がそばにいる」
転弧は顔を上げる。
涙で濡れた目で、七罪を見つめる。
転弧[……この人……怒らない……]
転弧[怖くない……]
七罪の手は、温かかった。
ヒミコの時と同じように。
だが今回は、少しだけ違う。
七罪[今度は……絶対に……]
その意志が、確かに込められていた。
少しずつ、転弧の呼吸が落ち着いていく。
七罪は、無理に笑わせようとはしない。
ただ、隣に座る。
同じ時間を共有する。
七罪「……少し、遊ぶ?」
転弧は迷うように視線を泳がせる。
だが、やがて小さく頷く。
転弧「……うん……」
七罪はゆっくり立ち上がる。
七罪「じゃあ、ゆっくりでいいから」
滑り台、ブランコ。
七罪は転弧のペースに合わせる。
急がせない。押し付けない。
転弧は最初、ぎこちなく動いていたが──
少しずつ、表情が緩んでいく。
転弧[……楽しい……? ]
転弧[こんなの……久しぶり……]
七罪はそれを見て、少しだけ安心する。
七罪[よかった……]
ひと通り遊び終えると、二人はまた座る。
少しだけ、沈黙。
だがそれは、苦しいものではなかった。
七罪「……明日も来る?」
転弧は驚いたように顔を上げる。
転弧「……いいの?」
七罪は頷く。
七罪「うん。友達だもん」
その言葉に、転弧の目がわずかに揺れる。
転弧[……ともだち……]
七罪は袋からお菓子を取り出す。
七罪「これ、よかったら」
転弧は恐る恐る受け取る。
転弧「……ありがとう……」
転弧[あったかい……]
転弧[この人……いなくならないで……]
小さな依存が、芽生え始める。
七罪はそれに気づかない。
ただ、優しくすることしかできない。
七罪[この子は……守らなきゃいけない……]
夕日が、公園の端を赤く染める。
二人の影が、長く伸びる。
まだ何も知らない、子ども同士の時間。
だが確かにそこには──
「救われかけた心」と
「守ろうとする意志」があった。
──数日後──
夕方の公園。
空は茜色に染まり、影が長く伸びている。
七罪は、いつもの場所に立っていた。
七罪[今日は少し遅いな……]
ブランコの近く。転弧とよく座っていた場所。
だが──
どこにも姿がない。
七罪は周囲を見渡す。
七罪「……転弧?」
返事はない。
砂場、滑り台の裏、遊具の影。
探しても、いない。
七罪[……おかしい……]
七罪[いつもなら……もう来てるのに……]
少しずつ、胸の奥にざわつきが広がる。
七罪「……転弧!」
声を上げる。
だが、返ってくるのは風の音だけ。
七罪は走り出す。
公園の外へ。
路地へ、通りへ、近くの店の前へ。
七罪「転弧!!」
誰も振り向かない。
誰も知らない。
誰も、気にしていない。
七罪の呼吸が荒くなる。
七罪[どこだ……どこにいる……]
七罪[一人で……また……]
足が止まる。
公園の入り口。
七罪は、そこで立ち尽くす。
七罪[……まさか……]
七罪[また……守れなかったのか……? ]
その瞬間──
胸の奥で、何かが弾けた。
ドクン、と大きく脈打つ。
七罪「……っ!?」
全身に、熱が走る。
七罪[なに……これ……]
背中に違和感。
重く、広がる感覚。
次の瞬間──
黒い翼が、背中から大きく広がった。
七罪「……え……?」
思わず後ずさる。
だが、翼は消えない。
七罪[これ……僕の……? ]
ゆっくりと動かす。
羽ばたく。
──ふわり、と体が浮いた。
七罪「……浮いてる……?」
驚きと同時に、理解する。
七罪[……探せる……]
七罪[上からなら……見つけられる……! ]
迷いはなかった。
七罪は大きく羽ばたく。
体が一気に空へと持ち上がる。
──空中──
町が一望できる高さ。
屋根、道路、細い路地。
すべてが見える。
七罪は必死に目を凝らす。
七罪「転弧……どこだ……!」
旋回する。
何度も、何度も。
同じ場所を見直す。
七罪[見逃すな……]
七罪[絶対に……いるはずだ……]
だが──
いない。
泣いている子も。
倒れている子も。
助けを求める影すら。
何も、見えない。
七罪の呼吸が乱れる。
七罪[なんでだよ……]
七罪[さっきまで……一緒にいたのに……]
さらに高度を上げる。
視界を広げる。
それでも──
見つからない。
七罪「転弧ぁぁぁ!!」
叫びが、空に消える。
返事はない。
ただ、風だけが通り過ぎる。
──夕暮れ──
空はすでに暗くなり始めていた。
七罪の羽ばたきが鈍くなる。
七罪[……力が……]
高度が下がる。
ゆっくりと、地面へと降りていく。
公園の端。
最初に出会った場所。
七罪は、そこに降り立つ。
膝が崩れる。
七罪「……はぁ……っ……」
息が荒い。
体が重い。
だが、それ以上に──
胸が苦しい。
七罪[……いない……]
七罪[どこにも……]
拳を握る。
震えている。
七罪「……なんでだよ……」
声が漏れる。
七罪「……なんで……いなくなるんだよ……」
ヒミコの顔が浮かぶ。
一人でいた少女。
転弧の顔が浮かぶ。
泣いていた少年。
七罪[どっちも……守れてない……]
地面を叩く。
七罪「くそっ……!」
悔しさと無力感が、胸を締め付ける。
七罪[僕が……守るって言ったのに……]
七罪[そばにいるって……言ったのに……]
その言葉が、自分を刺す。
七罪は顔を伏せる。
しばらく動かない。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
目は、まだ幼い。
だが、その奥にある光は変わっていた。
七罪[……探す……]
立ち上がる。
七罪[今日見つからなくても……]
七罪[明日も……その次も……]
翼に触れる。
まだ少し震えている。
七罪[この力で……]
空を見上げる。
七罪[絶対に……見つける……]
拳を握る。
七罪[もう……二度と……]
七罪[見失わない……]
夕日が完全に沈む。
夜が訪れる。
だが──
七罪の中の決意は、消えなかった。
むしろ、強く、深く、根を張っていく。