石造りの床の冷たさが、じわりと背中に伝わる。
......泣き声が、聞こえる。
重いまぶたを、ゆっくりと持ち上げる。
視界の先に、さっき助けた彼女がいた。
その子が顔を手で覆い隠している。
頬に、何か冷たいものが触れた。
......涙だ。
よく見ると、彼女の長い茶色の髪は乱れていた。
その雰囲気は、今にも消えてしまいそうで。
思わず、彼女に触れてしまった。
ぴくり、と彼女の肩が震える。
驚かせてしまったのかもしれない、すぐに手を引っ込めてしまった。
揺れる瞳が、真っ直ぐこちらを捉えた。
そのこげ茶色の瞳は、涙で赤く腫れている。
「......よかった」
彼女が安堵したように肩を撫で下ろした。
でもそれは、嗚咽混じりの声だった。
「不安だったんです...さっき白い服を着た男の人達が慌てた様子で、あなたを助けたって......」
「その後、女の人がみんな連れていってしまって」
「私......どうしたら、いいかわからなくて...」
声が、震えている。
そんな彼女の姿を見て。
「だいじょ――」
言いかけて、そこで止まってしまう。
――声が違う。
慌てて自分の手を見る。
白くて、細い。
明らかに自分のものじゃない。
そういえばさっき俺は......
「どうしたん......ですか?」
彼女が、涙ながらに問いかけてくる。
けど、今はこの子を不安にはさせたくない。
そこで、むくりと体を起こす。
少し寝たからだろうか体が少し軽くなっている。
「大丈夫です......」
「ちょっと、混乱してて」
状況が全然飲み込めない。
「本当に、大丈夫ですか?」
彼女が心底心配そうにしている。
「ほら、このとおり体も元気です」
そういって体を軽く動かして、見せる。
「それよりも、あなたの方が心配です」
「いまは、落ち着いて下さい」
そう言って彼女が落ち着くまで待った。
少し落ち着いてきたところで。
倒れる直前の言葉が。気になった。
でも、聞いていいのか?
さっき死にかけたばかりだ。
思い出したくないことかもしれない。
でもどうしても気になってしまった。
「さっき......なんて言おうとしていたんですか?」
つい、そんな質問をしてしまった。
「それは――」
彼女の表情が、曇る。
言葉が、止まってしまう。
「ごめんなさい、嫌だったら答えなくても...」
彼女が小さく首を振る。
「そういうわけでは...」
少し間が開いた後に続ける。
「あなたの顔を見たときに、
「それで、とっさに言葉に出てしまって......」
彼女が困ったように眉を寄せる。
「......わからないんです」
視線が、彷徨う。
その表情は、本当に分からないという顔だった。
「なんで、こんな言葉が出たのか...」
「でも、大事な......ものだったと、思うんです」
どこか寂しそうで――
それ以上、聞くことはできなかった。
——ひかり?
その言葉が、胸の奥で引っかかる。
何か......大切なもの?
自分のもののような気がした。
でも、......思い出せない。
「......ひかり?」
思わず、繰り返してしまう。
「はい...何か、知っていますか?」
首を振る。
わからない。
何も、わからない。
「あの、もしよかったら名前教えてほしいです。」
「今のままだと、なんて呼んだらいいかわからなくて......」
申し訳なさそうにそんなことを聞いてくる。
「名前は――」
そこで、言葉が詰まってしまった。
名前が......思い出せない。
そもそも姿も違う。
今の俺は、何なんだ?
何と名乗ればいい。
――個体識別番号
――No.7なな
脳内に、無機質な声が響く。
気づけば、口が動いていた。
「......なな」
「ななさん、ですか?」
「呼びやすい名前ですね......もっと長い名前かと思ってました。」
そう言って笑ったが、目元の赤さはまったく引いていなかった。
こちらを気遣って、無理に笑っているのがわかる。
この子、優しいんだな。
こんなわけのわからない場所で、俺の為に泣いてくれてさらに気遣ってもくれる。
助けたら、それで終わりだと思っていた。
でも、もう少しだけ......この子が知りたくなってしまった。
「そちらは、なんて呼べばいいですか?」
「あっ、ごめんなさい。まだ名乗っていませんでしたよね」
「私は白石しらいし 結ゆいって言います」
苗字は違うけど。
結ゆい...幼馴染ゆいと同じ名前だ......
「…結ゆい」
復唱するように口に出してしまう
「え......」
結が驚いた顔でこちらを見ている
「いや......知ってる人と顔が似てて...」
そうだよな、他人の空似だ。
「その人と名前も同じだったから、びっくりしちゃって...」
でも、少し期待してしまっている自分がいる。
「もし良かったら、そう呼んでもいいですか?」
「そうなんですか.......」
彼女が柔らかな表情で笑う。
「......はい、いいですよ。」
「そのかわり、私もななさんって呼びますね」
「ありがとう...」
そのあと、たわいのないやり取りがしばらく続いた。
――そんな空気を結が壊した。
「ななさんは......なんで私を助けたんですか?」
そんな質問を結がしてきた。
あの時、最後に幼馴染ゆいと約束した言葉が頭をよぎる。
『今度は私が困ってたら、君が助けに来てよ』
「...約束、したんだ」
それだけを、絞り出す。
「......その子との、約束」
「守れなかったから...」
結の表情がわずかに揺れた。
だめだ......
こんな顔をさせるつもりじゃなかった。
「だから」
「次は――」
言葉が、詰まってしまった。
......なぜか、続く言葉が出なかった。
「そうなん、ですね...ありがとうございます。」
「あの......」
「少し、私の話をしてもいいですか」
なにか、嫌な予感がした。
その声音が、あまりに虚無に満ちていたから。
彼女の瞳の奥に、かつての自分が抱えていたものと同じ、底冷えするような暗い色が見えたからだ。
本当は、聞きたくなかった。
それを聞けば、俺の選択が間違いだったと知ることになる気がして。
でも、目を逸らすこともできず――
頷いた。
結が口を開く。
「......私、どうしたらいいか分からなくて」
「こんなこと、助けてもらった人に言うことではないのかもしれないんですけど」
「さっきまで、本当は......」
言葉が、途切れる。
「......本当は、死のうとしてたんです」
結が泣いてしまう。
こんな時、なにをすれば、なんて声をかければいいんだろう...
結が続ける。
「お母さんが死んじゃ...て、頼る人も...頼れる人もいなくて」
「それで...」
「全部、どうでもよくなって......」
結の手が、無意識にナナの袖をつかむ。
その力は弱いのに、離れなかった。
「......ごめんなさい」
涙が、零れ落ちる。
「......ごめんなさい、こんなこと言って」
そんな彼女を見て胸が締め付けられる。
――この顔は知ってる。
あの時の、俺だ。
幼馴染が死んだ後。
何もかもが終わってしまって、それでも生き続けなければいけなかった。
死ぬことすら、できなかった。
どうしようもなくて。
みっともなくて。
惨めで。
なのに俺は、勝手に助けて......
また、間違えたのか。
それならいっそ――
結に手を伸ばした。
その瞬間――
「――勇者様。」
声が聞こえて、振り返った。
そこに立っていたのは、
魔法陣の向こうで見かけた、あの女性だった。
肩のあたりで切り揃えられた金髪、
透き通るような碧眼。
整いすぎた顔立ち。
頭には白いヴェールを被り
白いローブには金色の刺繡がびっしりと施されている。
周囲の神官たちとは、明らかに違う装いだった。
先ほど見せた慌てた様子は消え。
その表情は、聖母のようだった。
女性が、結に向けて微笑む。
でもその笑顔は、どこか悲しげだった。
「辛かったですね...」
「でも...その話は、もう少しだけ、待っていただけますか」
女性の目が、扉の方を一瞬見る。
「これから来る方には...まだ、聞かれない方が」
視線が、一瞬だけこちらに戻り俺を見た。
何かを言いたげな、そんな目だった。
――重い音を立てて、扉が開いた。
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