「遅いな…」
そう言いながら爺ちゃんが時計を見る。時刻はまもなく六時になろうとしている。
「途中で渋滞にあったって話だったでしょ?もう少ししたら来るんだから落ちついてよ」
「しかしなぁ…」
不安そうな顔をする爺ちゃんを母さんが嗜める。
「これから過ごす時間と比べれば全然短いんだから。楽しみなのはわかるけど少し落ち着いてよね、お父さん」
「落ち着いとるわ!その…少しウキウキはしてたかもしれんが…」
大きく声を放った後にぼそっと爺ちゃんはつぶやく。それを聞いた母さんは最初は我慢するが、限界が来たのか笑い声が口から漏れ出す。
「笑うな!」
爺ちゃんがそう突っ込むと母さんは我慢することなく笑う。
何気ないやり取りではあったが、それでも俺達にとっては幸せなひとときだった。
それから五分ほど。長針が真上を向こうとした時、母さんの電話がなった。
電話に母さんが出る。
「もしもし、天夜です…あ、守田さんですか?」
施設長である守田さんが電話に出る。
そこに夕飯の準備で席を外していた爺ちゃんがお茶を持って戻ってくる。
「電話は誰かわかるか、優地」
「守田さんって言ってたよ」
そう聞いて爺ちゃんは息を吐いてから言う。
「やっと着くのか。せっかく四人前用意したのだから冷める前に来てほしいのじゃが…」
そうぼやきつつ、電話をしている母さんのもとに近づく。
「どうじゃ、もう着くのか?」
爺ちゃんはそう言うが母さんは何も言わない。
母さんの持っている電話からはツーツーという音が聞こえる。
「おい、どうしたんじゃ。電話切れとるぞ?」
「あの子が…」
母さんは明後日の方向を向いたまま言う。
「あの子が…事故に遭ったって…」
俺と爺ちゃんの時が止まり、爺ちゃんの手からお茶がこぼれる。
「なっ…一体どういうことじゃ…どういうことなんじゃ!」
爺ちゃんは声を荒げるが母さんは何も言わない。
耐えかねた爺ちゃんが廊下を駆ける。
「場所は何処じゃ!今すぐ向かうぞ!」
そうして爺ちゃんの運転で、俺たちは慌てて現地へ向かった。
いつもは賑やかに話していた車内も、今は暗く静かだ。
爺ちゃんからは駄目だと言われたが、俺は半ば無理やりついて行っていた。心配だったのだ。妹と最愛の母が。後部座席から助手席の母さんの横顔を見るが、その顔に笑顔はまったくない。
交通量が少なかったおかげで、事故現場の手前までは来たものの事故による渋滞でそれ以上先へは動けず、俺達は近くの駐車場に車を乗り捨てた。
そして爺ちゃんがその老体に見合わないスピードで走っていく。
少しして、俺と母さんが追いついた時、爺ちゃんは規制線の前で警官に止められていた。
「おじいさん落ち着いて!この先危険なの!」
「知るか!家族が巻き込まれたんじゃ!」
爺ちゃんが警官と揉み合いになっていると、
「天夜さん!?」
規制線の内側から聞き覚えのある声が聞こえる。守田さんだ。
警官が一瞬守田さんの方を見た隙に爺ちゃんは警官を振り払って規制線の中に入る。
「あっ、ちょっと天夜さん…!」
それについていくように、母さんも守田さんの静止を無視して走っていく。
一人残された俺は少し迷いつつも、遅れて二人を追いかける。
俺俺は二人を追いかけるように事故現場を走った。途中にはバンパーの外れた車やその残骸が多くあり、小さい俺は避けながら走っていた。
数分走ると、ようやく母さんたちの背中が見え始めた。
「お母さん…!」
そう言って俺はやっと二人に追いつく。しかし、二人の応答はない。
「お母さん…?」
そう言って俺は母さんが見ている
見えたのはブルーシート。そして―――
小さい手だった。
「あ…」
そして俺はそれの正体を察する。
つい少し前までは生きていたはずの命。
そして、家族になるはずだった命。
「あ…ああ…」
横で母さんの声にならない慟哭が聞こえた。
それから二週間後。
学校から帰ってきた俺は母さんの部屋の前へ行く。
「ただいま…」
そう声を出すが、返答はない。
俺は洗面所へ行って手を洗う。
「優地、帰っとったのか」
そう言うと爺ちゃんが後ろから現れる。
あの日以降、母さんは引きこもるようになってしまった。
自責の念が強かったのだろう。相当病んでいるようだった。
そうして部屋から出なくなってしまった母さんに代わり、爺ちゃんがあの子の死後のいろいろな手続きを行った。
「…声はしたか」
爺ちゃんはそう言う。それに対し俺は首を横に振った。
「…どうして、こうなってしまったのか」
あの日の事故は道路で暴走したトラックによる事故で、前方にトラックがいた彼女の車は逃げることができず、そのまま車ごとぺしゃんこになっていたらしい。無論、彼女は即死だったそうだ。
あの日、自分が迎えに行っていれば……。
あの日以降、めったに合わなくなってしまった母さんと会う時、母さんはそうつぶやいていた。
どうにかしたかった。母さんは悪くないと伝えたかった。またいつもの明るい母さんに戻ってほしかった。
そうだ、絵を書こう。折り紙でチューリップを作ろう。
いつも母さんに見せて母さんが笑ってくれたものを作ろう。
そう思って俺は絵を描き、折り紙を作り始める。
きっと見せれば元に戻ってくれる。笑ってくれる。
そう考え、ワクワクしながら作った。
一時間半ほどかけて、俺はようやく全てを作り終えた。
今まで作った中で絵は傑作だと思った。
俺はそれを持って母さんの部屋へ向かう。
「お母さん!見て見て!」
俺はそう言ってドアを叩く。
いつも通り応答はない。しかし―――何故かドアが少し空いている。
いつもはきっちり閉じていた扉が、僅かに開いていた。
そして俺は、その扉を開けた。
「お母さん…?」
そこにいたのは、地に足をつけず、宙に浮いている母さんだった。
それからしばらくのことは覚えていない。
相当ショックだったんだろう。自室に引きこもって何日も、ずっと泣いていた。涙が乾くことなく溢れ続けていた。
ショックのあまり、外部の情報を全て遮断していた。ちょうどその頃に起きていたアポカリプスのことすら耳に入らないほど泣いた。
そしてアポカリプスからさらに数日。俺は近くの河原にいた。
幸い、自分の住んでいたところはアポカリプスの被害が最小限で済んでいたようだった。
途中で通った商店街は既に元の賑わいを取り戻していた。
出かけた理由は爺ちゃんがうるさかったからだ。ここ2、3日の間、爺ちゃんが出てこいとうるさかったのだ。無論、爺ちゃんなりの気遣いなのはわかっていた。
しかし、今まで一番近くにいたものを失った喪失感は俺の心にあまりにも深い傷を刻んでしまったのだ。
いざ出てみたはいいものの、沈んだ気持ちが変わることはなく、雲一つ無い晴れ空とは真反対に、俺の心は曇っていた。
いっそ俺も、母さんと同じことをすればいいのではないか。そんなことまで考え始めた。
そんな事を考え始めると、我慢していた涙が再び目元から溢れそうになった。
寂しかった。ただ単純に、寂しかった。
そうしてまた泣き出しそうになった、その時だった。
「ねえ、どうしたの?」
ふと横から声が聞こえる。
顔を上げると、そこには一人の少女がいたのだった。