それは今から10年以上も前。
まだ幼かった翔子は、とある学校の体育館にいた。
数日前、町を巨大な地震が襲った。町の被害は甚大で、体育館を出れば、あたりに広がる建物は軒並み瓦礫である。
ひどいという言葉では表せないレベルの惨状だった。
避難所では何日にも及ぶ避難生活によって、疲れ果てていた。その中には、翔子も含まれていた。
「はいよ、昼ごはんな」
避難所で炊き出しを行っている人がおにぎりを2つくれた。
「…みんな、元気ない」
「まあ、この惨状にこの生活…おまけにここしばらくは季節外れの寒さだ、むしろ死人が出てないだけマシだよ」
「翔子ちゃんも、体調は大丈夫かい?無理はするんじゃないわよ」
なにかしたかった。
みんなを元気にしたかった。
しかし、何をすればいいのか。
ふと、悩んでいた私の耳に、何かが聞こえてきた。
音のする方へ向かうと、近所に住んでいる老夫婦と、そのご近所さんが固まってラジオの前に集まっていた。
そこから聞こえていたのは―――音楽だった。
「…なにこれ?」
「おお、翔子ちゃんじゃない。今ね、音楽を聞いてるの」
「最近の…ええと確か、『J-POP』?とやらか。昔の演歌とは経路が全く違うが、元気が湧いてくるわい」
「せっかくだし、翔子ちゃんも聞いていきなさいな」
勧められるまま、私はラジオの前に座ってその曲を聴いた。
素晴らしい曲だった。今までにない胸の高鳴りを覚えた。その歌は、疲れ切っていた私の心を潤してくれた。
気がつけば、私は先程流れていた曲を口ずさみ始めていた。
なんとなくで歌った曲だったが、気がつけば周りには多くの人々が集まっていた。
「ブラボー!」
「いい声ね〜!」
数分前に見た疲れ切っている人々とは一転、周りにいる人々は活気ある表情で私の歌を聴き入っていた。
それを見て、歌で人を笑顔にできることを知った。
みんなを笑顔にしたいと思った。
それが、歌手を志したきっかけだった。
ある日、その夢を親に話したところ、親はすぐにとある事務所に電話してくれた。
それからオーディションを受け、なんと一発で合格できてしまった。
それから、父の知り合いであったマネージャーの真音さんがサポートしてくれて、入所から3年ほどで歌手デビューした。その1年後には、初めてのCDが販売され、またたく間に売り切れてしまった。
それを境に、私は一躍大人気歌手となった。
当時のバラエティーには引っ張りだこだったし、隙を見て行っていたライブも毎回満席で、まさしく絶好調だった。
6年前のある日のことだった。
その日は、事務所のスポンサーからの誘いで会食をしていた。正直、こういうのは子どもながらあまり好きではなかったが、パパとママも一緒に来るということで了承したが…
「…美味しいですか?」
「はい…」
いざ来てみると、二人は5分と経たずに席を外し、30分ほど経っても戻ってこない。そのうえ、レストランを丸ごと貸切にしているせいで周りに客もいない。
スポンサーは度々私に話しかけてくるが、この雰囲気では話す気にもなれない。
「ところで…提案があるのですが」
スポンサーはそう言うと、一つの紙を取り出した。
紙に書いてあったのは、当時最も人気だった歌番組のレギュラー枠に関する書類だった。
「実は、この枠に君を入れたいと思っているんだ。どうだい、乗る気はないかね?」
「いいんですか…?」
私の夢はこの歌声をみんなに届けること。その夢を叶えるには、まさしくうってつけであった。
「ええ…条件がありますが」
スポンサーはそう言うと、私の手を強く握る。
「え、ちょっと…」
「君とは今後もいい関係を築いていきたいんだ。どうだい、今夜は私と過ごさないか?」
息が詰まる。
芸能界にこのような風潮があるのは知っていた。しかし、いざそれが自分に向けられるとなると、震えが止まらない。ただ単純に―――怖い。
「お断りしますっ…!」
私は手を振り払ってその場をあとにしようとする。
「待ちたまえ!」
スポンサーはすぐさま追いついて私の手を再び掴む。
「離してください!!」
「安心したまえ、この世界でやりくりするには仕方のないことだ。むしろ、私で良かったと思うことだな」
スポンサーはそのまま私を無理やり連れて行こうとする。
「いや…いや!」
私は近くの机にあったフォークを掴み、そして―――そのままスポンサーの右手に突き刺した。
「ぐあぁぁぁっ!」
私はそのまま無我夢中で何度も刺した。何度も。何度も。返り血が服につくのすら気にせず。
スポンサーの苦悶の声が聞こえたのだろうか、パパとママはようやく帰ってきた。
「パパ…ママ!」
これで一安心―――そう考えていた私の考えはすぐに粉砕された。
「お怪我はないですか!」
二人は私の横を通り過ぎてスポンサーの怪我だけを見ている。目の前にいる私には見向きもしない。
「パパ…ママ…?」
私が再び二人を呼ぶと、ようやくママが私の方を向く。しかし、ママが向けてくる視線は心配でも、安堵でもなかった。それは―――間違いなく
「何をしているの!」
「え…だって…」
泣きそうになる私なんかお構い無しでママは私を怒鳴る。
「あんたのことを考えてわざわざスポンサーに土下座までして頼んでやったのに…!」
ママは何を言ってるのか。理解できずにパパの方を向くが―――
「スポンサー、気分を損ねてしまって申し訳ございません…かわりと言ってはなんですが、今夜はどうぞお好きなように…」
―――その言葉を聞いて、私の中の何かが壊れてしまった。
溢れそうになった涙は一瞬で止まってしまった。
「ほら、今ならまだなんとかなる。謝るんだ」
「え…なんで…なんで?」
すると父は突然舌打ちをする。
あの優しい父が、どうして―――
「お前にいくら出したと思ってるんだ?確かに家には金があるが、お前のワガママにわざわざ付き合ってやったのに、その態度はどういうことだ?」
「そうよ、確かにあんたが儲けてくれたおかげで私たちも豪遊できたから不満はなかったけど…」
その後も続く二人の罵詈雑言に、私は呆然とするしかなかった。
「…というわけだ、お前もいい加減受け入れろ」
そう言うとパパとママが私に近づいてくる。動揺のあまり気づくのが遅れたが、すぐに私は逃げる。
なんとか外に出ると、入口の近くに真音さんがいた。送迎を任されていたので納得といえば納得だが、今は彼を頼るしかなかった。
「真音さん…!」
「翔子…って、どうしたのよその顔!」
真音さんが私に心配の言葉をかけた直後、二人が追いつく。
「ああ良かった真音さん!翔子をこちらに…」
「ちょっと、どういうことよ。少しは状況を説明しなさいって!」
「私から説明するよ」
そう言うと、二人の後ろからスポンサーが再び姿を表す。
「真音くん、その子をこちらに連れてきてくれないかな?この手のことについて、少し叱りたくてね」
「いや…あっち行ったら…!」
真音さんは私の様子を見るなり、顔色を変えた。
「まさか、こんな幼いガキに夜の誘いでもしたってわけ!?まだこの子は未成年なのよ!」
「それがどうした、それが断る理由になるとでも?」
「あんたねぇ…!」
すると真音さんは私の服を掴んで車に投げ込む。
「どうせあんたなら日常的に仲良くしてる女がいるんでしょう!今日はそいつで我慢しなさい!」
真音さんは私の服を掴むと、半ば強引に車へ押し込み、そのままレストランを走り去った。
後部座席でうずくまる私を見て、真音さんが言う。
「…ごめんなさいね、無理やり乗せちゃって。安心して、親御さんのところにはこのあとしっかり…」
「…嫌」
「え?」
私は小さな声で真音さんに言う。
「…帰りたくない」
そこから私が家に帰ることはなかった。真音さんが事務所に必死で頼み込んだことで社員寮の空き部屋を一旦私の就寝部屋代わりにしてくれた。
その上、色々あったものの、事務所のスタッフたちは味方をしてくれた。
「怖かったわよね」
「大丈夫、自分達は味方です!」
「皆さん…!」
「翔子さん、諦めずに頑張ってください!私たち応援してます!」
みんなの言葉がどれほどありがたかっただろうか。
しかし―――
「これは…」
早朝、慌てて私の部屋に真音さんが訪れ、一つの紙を見せてきた。
書かれていたのは先日の事件の記事だった。しかし、記事を読めば読むほど私は困惑した。
刺してしまったことだけじゃない、ありもしないやりとり、でっち上げのスキャンダル、嘘、嘘、嘘―――。
「何よこんなデタラメ…偏向報道なんてレベルじゃないわよ!」
「失礼します!」
真音さんが記事に苦言を呈していると、スタッフの一人が部屋に入ってくる。
「し、翔子さん…外に週刊誌の記者がぞろぞろ来てて…」
すると部屋の外で声がする。
「宇多田 翔子さん、翔子さんはここにいるんですか!」
「ちょっと、勝手に敷地内に入らないで…」
記者たちは部屋の入口の前まで来ている。
「翔子さん、記事の内容は事実なんですか!」
「翔子さん、説明を!」
記者たちはこちらのことなど全く気にせず押し寄せてくる。
「ちょっとあんたら!これ以上来るなら警察呼ぶわよ!」
その時はなんとか真音さんが記者を追い払ってくれたものの、執念深い記者たちは敷地の入口で待ち伏せをする者までいた。少し出ようとすればすぐにでも押し寄せてくる記者たちの光景は恐怖でしかなかった。
それでもなんとか名誉挽回しようと、真音さんの計らいでライブハウスでのライブを行うことにした。しかし―――
「…やっぱり人が明らかに少ないわね…いつもの3分の1程度しかいないかも…」
会場の脇から真音さんが覗いて言う。
ライブハウスにいる客は、今までのライブと比べて圧倒的に少なかった。それでも―――
「大丈夫です、いる人だけでも笑顔になってくれればいいですから!」
「…そう」
強がってはみたものの、私はなんとか頑張ろうと自分に言い聞かせた。
だが、ライブの結果は悲惨なものだった。
人が少ないとは言え観客の声は殆ど聞こえなかった。最後の方にはブーイングまで聞こえてきた。
ライブを終え、私はふらふらとおぼつかない足取りで楽屋へ戻った。
「翔子…!」
楽屋にいた真音さんが私の様子を見て慌てる。
気にせず楽屋に入ろうとするが、入った直後私は倒れてしまった。
「ちょっと翔子!大丈夫!?」
息が荒い。目眩も、吐き気もする。
何故だろうか。今まではなんともなかったのに―――なのに。
「怖い…私、観客の皆さんが…怖いです…」
つい先日まで笑顔で見ていてくれた観客たちが冷ややかな目でこちらを見ているのが怖かった。
吐き気が限界に達して私は咄嗟に近くにあったゴミ袋を手に取る。
「あ、それは…!」
真音さんが止めようとしたが、それより早く私はその中身を見てしまった。
『最低』
『死ね』
『見損なった』
ゴミ袋の中には破かれた紙がたくさんあった。
だが、ところどころ見える文字に書いてあったのは私への侮辱と軽蔑、そして失望だった。
「あ…あ…」
それが、私の中の大事な何かを支えていた最後の支えをへし折ってしまった。
その日以降、私がライブを行おうとすることはなかった。
それから半月。早朝に私は事務所の社長に呼ばれた。
「社長、これは…」
目の前の机にあったのは退所届だった。
「君はとても優秀な子だ。うちの事務所の名を広めてくれたのは感謝している…しかし、週刊誌はずっと付きまとってくるし、君のやったことが原因で複数のスポンサーが一気に離れてしまった。正直言って今の君は腫れ物なんだ」
社長はペンを渡しに差し出す。
「手放したくない気持ちは山々だが、他の社員やアイドルたちにも迷惑なんだ。申し訳ないが…」
「…いいです」
「え?」
社長は素っ頓狂な声を出す。
「…今までありがとうございました」
私はそう言うと、後ろでまだ何かを喋っている社長を残して事務所を永遠に去った。