トトの家の有った辺りも、やはり他の場所と同様に瓦礫が積み重なるばかりの場所となっているように見えた。
ぱちぱちと木材が燃える音、もうもうと立ち込める煙。
そしてその煙すら覆い隠す大量の砂埃。
息をするのも苦しい中、トトは服の裾で口元を隠しながらそろそろと進んでいった。
「お母さん」
小さく、声をあげる。
確かめるようにしっかりと、そうしたようにトトには思えていたが、実際には布で覆われた口から放たれたのはくぐもった音だけだった。
煙と土埃に目をしばたたかせながら、瓦礫の山をトトは徘徊した。
ほんの少しの距離だったはずなのに、家までの道のりはやたらと遠く感じた。
ほんの短い、長い時間をかけて、トトはついに自分の家の前に辿り着く。
見慣れた家の二階部分は完全に潰れ、無くなっている。
石造りの一階部分も、その壁が崩れ、単なる瓦礫の山となっていた。
その光景を見た瞬間、トトは反射的に走り出した。
「おかあ、さん!」
ゴホゴホと咳込みながら、トトは叫び声を上げた。
自分の事など顧みている余裕はもう少女には存在しなかった。
ただ母の身を案じ、彼女は走り出していた。
瓦礫に足を取られて転びそうになる。
だがそれでも、トトは止まらない。
ただ一目散に、変わり果ててしまった自分たちの家へと駆けていく。
「お母さん!」
目当ての人物は、探すまでもなく目に入った。
ローネの上半身が、まるで瓦礫から生えるように突き出ている。
その下半身は屋根だっただろう建材の重なりに潰され、どのような状態か窺い知る事はできない。
何度かつんのめりながらも、トトは母親に駆け寄った。
近くで見るローネの顔は蒼白で、虚ろな目をしながら浅く呼吸をしていた。
「お母さん、しっかりするです!」
トトはローネの上半身を抱きかかえる。
その体は驚く程冷たく、まるで冬の水たまりに手を突っ込んだかのようだった。
一晩放置され、やや凍えていたトトの体よりもさらに冷えた、異常な状態。
医学の知識の無いトトでも、それが危険な状態である事は容易に理解できた。
ぎゅっと手を握る。
冷たい掌を温めるように、強く、しかし繊細に握りしめる。
「トトが帰ってきましたよ。返事してください!」
その声が届いたのだろうか。
ローネの胡乱げな目に少し力が戻り、ゆっくりと顔をトトの方に向ける。
「トト……」
弱々しげに娘を呼ぶ声。
だがトトの耳には、その小さな声は確かに届いていた。
「そうです、トトですよ! ここに居ますからね!」
トトの呼びかけに、ローネは弱々しく頷いた。
彼女はほんの少し笑みを形作り、娘に笑いかけるような表情を浮かべていた。
「待っててください、今助けるです!」
ローネの上に積み重なった瓦礫を押しのけようと、トトは試みた。
屋根の一部や焼け焦げた梁が積み重なり、幾重もの重しになっている。
周りではぱちぱちと音を立てて上がる小さな火の手が、幾つも見える。
早く助けなければいつここまで燃え広がってくるか、分かったものではなかった。
「ぐぅ、ぬううううう」
その力で重いそれらをどけるのは、あまりにも重労働だった。
ぐっと力を入れても、ほんの僅か持ち上がるばかり。
とても動かす事などできそうもなかった。
それでも、トトは止めない。
懸命に重い梁を持ち上げようと、細い腕と体に力を込めて全身全霊を傾ける。
「ううううううう」
折れてしまいそうな程に体に力を入れる。
人生でこれ以上無いというくらいに。
だが、動かない。
家を支えられる程に頑健で重い梁は、小さな子供の体で動かす事など叶わなかった。
ぺたんと、座り込む。
駄目だ。
動かない。
肩で息をしながら、トトはただ呆然とその場に腰を下ろした。
咄嗟に辺りを見回す。
人影は、やはり無い。
この惨状が街を襲ってからどれだけの時が経ったのか。
少なくとも、あの光を見た時は夕方だった。
そして今はもう昼。
半日以上の時間が経過しているのは間違いなかった。
だとすれば、生き残った人間も既に避難しているに違いなく、こんな所をうろついているわけがなかった。
そんな事はトトも十分理解した上で、それでも見渡さざるを得なかった。
助けてくれる誰かが、居ると期待したかった。
だが現実は、ただもうもうと街に煙が立ち込めるのみ。
動く人間は自分一人しか居らず、たった一人地獄に取り残されたような心地をトトは感じていた。
ずりずりと足を這いずるようにしてローネの傍にトトは戻った。
そして静かにまた手を握りしめる。
「ごめんです」
少女の瞳から、静かに涙が溢れる。
「お母さんの事、どうにもできないみたいです」
ぽろぽろと涙を流しながら、トトは力なく笑った。
そんなトトの言葉が聞こえていたのか、いないのか。
ローネはぎゅっとトトの手を握り返すと、一言呟いた。
「トトは、何処にもいかないで」
娘の温もりを確かめるように、僅かだけその手が握りしめられる。
「私と一緒に居てね……」
うわ言のようにそう繰り返すローネの傍に、トトは静かに寄り添う。
「大丈夫ですよ」
トトも静かに、手を握り返す。
幼い頃からずっとそうしてきたように、母の手を握りしめた。
「ずっとここに居るですよ」
煙と、熱と、ぱちぱちという炎の立てる音以外が存在しない静謐な孤独の中。
ただ呆然とトトは母の手を握り続けた。
――もう、ここまででいいかもしれないです。
何がなんだか、わからない事が多すぎた。
あの砦での下働きからとんでもない事が立て続けに起き過ぎて、トトの頭はもう限界だった。
おそらく本来なら一生味わう事の無い惨劇を立て続けに経験し、幼い彼女の心は悲鳴を上げ続けていた。
――ただ家族と静かに暮らしたかっただけなのに。
トトの望みはささやかだ。
家族と共に、なんでもない毎日を過ごす。
それだけで十分に満たされる。
富も名誉も何も要らない。
退屈な毎日が有れば、それで良かった。
だがその日常も既に過去。
父は戦場から帰らず、弟たちは死に、そして今や母までも。
もう、トトが欲しかった、きっと来る代わり映えのしない明日はどこにも存在しなかった。
ぼんやりと、霞がかった太陽を見る。
いつもなら直接見ると目を灼かれるような輝きで大地を照らすそれは、土煙に遮られ、あまりにも頼りない有様だった。
「おひさまも、もう見放したみたいです」
光の民の下に光が届かない。
神の愛は、既に遮られた。
お前達にもう用は無いと言われているように、トトには感じられた。
そしてその代わりとばかりに、ちろちろと燃える炎がトト達を囲みつつあった。
周りの廃材に炎が燃え移り、トトの家の一角をも侵し始めたのだ。
炎は地獄へと誘う熱い手となって、トトの頬を撫でた。
現世を離れて天へと帰れと熱く誘惑を投げかける。
徐々に広がる炎を見ても、トトにはもう何も感じられない。
それを恐ろしいと感じる心が既に枯渇してしまっていた。
――これでお父さんやシリバに会えるですかね。
死への恐怖よりも家族と再会できるか、ただそれだけが気になっていた。
ちりちりと、炎の熱が肌を焼き始めた。
しかしその軽い痛みが、何故か逆に安心できた。
ローネに覆いかぶさっている建材にも火が燃え移り始める。
いよいよ終わりの時が迫っていた。
トトは両手で母の手を握りしめる。
もう大分冷たくなって、氷のようになってしまった手。
それでも、大好きな手のままだった。
「トト……」
ローネのうわ言のような呟き。
もう意識も定かでは無いのか、目は虚ろで何処を捉えているのかも杳として知れず、何かを探すように彷徨っていた。
「最後まで一緒ですよ」
寄り添うように、トトは額をローネの胸に預けた。
親子二人、分かち難く。
美しい絵画のように、彼女らは一つとなった。
不意に、トトの体が持ち上がる。
「え?」
何がなんだか分からない。
トトの頭は混乱で占められ、一瞬思考する事すら忘れた。
呆然と真っ白だった頭の中が、急に鮮明になる。
きょろきょろと見回すと、自分が誰かに抱えられている事にようやく気づいた。
え? え?
ぺたぺたと、腕を触る。
誰? 誰これ?
上を見上げると、見知らぬおばさんの顔が有った。
でっぷりと太った、
必死な顔で走るおばさんの姿がそこには有った。
「何やってんだい!」
おばさんが、顔を歪めながら叫ぶ。
「あんた、死ぬ気かい!」
その言葉に、トトは自分は死ぬつもりだったんだと今更ながらに自覚できた。
「お母さんと一緒なら」
目をぱちくりさせながら、トトは答える。
「それでもいいかって」
「馬鹿言うんじゃないよ!」
おばさんの顔が歪んでいたのは、走る苦痛の為だけではないと、トトにも分かった。
「折角生き残ったんだ。生きなきゃ駄目なんだよ、生きなきゃ!」
「でも!」
その言葉に。
罅の入った心が割れる音を、トトは確かに聞いた。
「もうお父さんも、シリバも、ザバもカロも、みんな死んだです! お母さんだけ置いていけないです!」
もう、一人は嫌だ。
トトは自分の本心を、ようやく理解した。
家族と離れ離れは嫌だ。
ずっと一緒に居たい。
それが、自分の願い。
「だったら」
だがおばさんは、その願いすら否定する。
「尚更生きなきゃ! そうでなかったら」
おばさんは泣いていた。
滝のように、何かに耐えるように涙を流す。
「
まるで、心の叫びだった。
トトへの言葉のようで、それはきっと自分に言い聞かせるかのような、世界への表明。
トトにはそう聞こえた。
「だから生きるんだよ。どんなに苦しくても、辛くても、生きるんだよ……」
ただ静かに、トトも泣いた。
向こうでは、遠くなっていく母の姿が見える。
何かに縋るように手を伸ばし続けるその姿は、やがて炎の向こうに消えていった。
トトもおばさんも、ただ声も無く泣いた。
何処へ行くあても無く、走りながら二人は泣き続けた。
茫洋とした意識の中、遠ざかる娘の姿をローネは見ていた。
「いやだ、置いていかないで……」
ローネの瞳から一粒、涙が流れる。
彼女が持つ最後の涙が地へと落ちた。
「なんで、皆居なくなってしまうの」
戦に行った夫が帰らず。
長女は家計を支える為、幼い頃から働き家には居らず。
下の子達は、次々と消えていった。
自分が欲しかったはずの温かな家庭が、掌から溢れるように消えていく。
「どうしてぇ」
――どうして、自分ばかりこんな目に。
決して贅沢は望まず、清貧に生きてきた。
だというのに、自分が守りたかったものは何一つ残らない。
人生が終わろうとしている時に、ただ一人ぼっち。
――なんの為に、私は生まれたの。
――ただ、苦しんで死ぬ為に生きてきたの。
「ああ、神さま」
ローネは呪う。
このような運命を与えた神を呪う。
こうして絶望を迎え、奪う為に与えた、天の神を呪った。
炎がローネの体を侵す。
だが彼女は苦痛よりも、ただ無念を感じ、その生涯を終えていった。
安らかな顔など残せず、苦しみながら死んだ。