砂煙に包まれた街の残骸を、馬が走る。
荒々しく獰猛に駆けるその音は聞く者に本能的な恐怖を与えた。
「ひいっ」
先ほどの男と同じように何か無いかと瓦礫を漁っていた
それが天の助けとは老人には思えなかった。
まるで遅れてやって来た死が自分を追いかけてきたかのような、そんな恐怖を彼の胸の内に叩き込んでいた。
ガッガッと荒れた街路を駆ける音がどんどん近づいていく。
――頼む、早く通り過ぎてくれえ。
老人は崩れた家の壁に張り付きながら、ぶるぶる震えて目をぎゅっと閉じ、ただ祈った。
ここ数日はこの世の終わりかと思うような事が続いていた。
街は吹き飛び、家は崩れ、炎は辺りを焼き尽くす。
これ以上はもう無いと思っていた所にやってきた何か。
――神は一体これ以上、儂らから何を奪おうと言うのか。
思わず天への嘆きが思い浮かぶ。
不敬であると分かっていても呪わざるを得ない。
自分たちの毎日の祈りは届いていなかったのかと。
バガラッ。
蹄の音が、すぐ近くで響く。
老人の胸が破裂しそうに、体を震わしながらドクドクと強烈に蠢いている。
まるで自分の体の中に小さな獣が入り込み暴れているような恐ろしい感覚。
それを老人は味わっていた。
無駄だと分かっていても、ぎゅっと胸を押し込めるように抱きとめる。
寒さを堪えるように激しい抱擁を自分に課したが、それでも胸の暴れは止まらなかった。
その音が
最早彼に出来るのは祈る事だけ。
ただ
だが老人の祈りも虚しく、カッ、という軽い音がすぐ隣から響く。
馬が、その動きを止めたのだ。
カッカッという軽い音が二、三度響く。
辺りを窺うようにゆっくり馬を歩かせる音。
隠れている老人を威圧でもするかのような、緩慢な響きだった。
老人が首をもたげていれば、馬上から騎士が壁を見下ろしていたのを理解しただろう。
視線も見えぬフルフェイスの兜はまるで虫が敵を見つめるかのように無感情で恐ろしい様を見せていたと、容易に気づいたはずだ。
だが老人は恐怖に震え、顔を膝に埋め全てから目を逸らしていた。
危険がすぐ傍に迫っていると、理解する事ができなかった。
騎士は手綱から手を離すと、ゆっくりと開いた掌を壁の方に向けた。
まるで何か照準を合わせるようにしっかりと、確実に、壁越しの老人の姿が見えているかのようにそこに合わせる。
老人は、やはり気づかない。
ただ「早く行ってくれ」とだけ、ひたすら頭の中で唱え続けるのみだった。
騎士の掌から、赤い光が漏れる。
それは炎だった。
燃え盛る炎が、崩れた壁に向かって放出されていく。
まるで竜の息吹の如く吹き付けられたそれは、瞬く間に壁を包んでいった。
「ギャアアアアア!」
炎の波は、崩れた隙間から老人の下にも押し寄せていた。
老人の体を舐めるように這っていった炎が、その体を食い尽くさんと焼き焦がしていく。
「熱い、熱いいいいいい!」
何かから逃れるように身悶えし、老人は地面を転がった。
鋭い瓦礫が体に突き刺さる事も忘れ、激しく左右に体をごろごろと転がす。
だがその間も炎は絶える事無く壁の向こうから放たれ、老人の体を燃やしていく。
やがて体の表面のみならず、喉すら炎が焼き、老人の声も外には届かなくなった。
焼け付く喉を押さえるようにしてのたうち回り、そして力尽きたように老人は倒れる。
青空の下という開放的なオーブンの中で、彼は丹念に焼かれていった。
後に残ったのは煙を立ち上らせ、不快な臭いを放つ焼け焦げた肉塊だけだった。
その様を見届けた騎士は手綱をしならせ、再び街の中を駆け出す。
次の獲物を探す為に。
外縁だった為、焼ける事無く残った倉庫。
そこには10人以上の住人が身を寄せ合っていた。
老若男女問わず、人種を問わず。
あの惨劇を潜り抜けた者達が集っていた。
誰もが皆、疲れ切った顔をしていた。
煤と砂に塗れた顔に表情は無く、呆然とした表情で座り込んでいた。
住まう家を奪われ、家族を亡くし。
生きる希望を根こそぎ奪われた者達ばかりだった。
彼らには何かしなければという焦燥感が無いわけではない。
だが、体を動かす何かが、体力以外のものが湧いてこない。
ただここに座り込んでいても何も始まらないと分かっているのに、立ち上がる気力すら無いのだ。
空腹が早く動けと催促をしてくる。
このままでは死ぬぞと。
それでも体は動かない。
ある男は傷だらけの手をじっと見つめ、座り込んでいた。
隣の子供は虚空の何かを眺め動かない。
寝転がっている女は、手を顔に当てたまま小さく呻くのみだった。
ここに居る者の疲労は蓄積され限界を越え、心は既にひび割れていた。
がたり、と入口の方が音が聞こえる。
誰かが倉庫に足を踏み入れた音。
だがそれに反応する者は多く無かった。
最早外界の事など気にならない者ばかりだった。
数少ない例外は、そこに奇妙な人物を見た。
古めかしい鎧を着込んだ、大柄の騎士。
それが、倉庫の入口に立っていた。
明らかに街の住人ではない、駐屯軍の人間でもないその人物の姿を見て、最初に感じたのは「何故?」という疑問だった。
何故こんな人がここに?
そんなシンプルで本質を突いた疑問が、頭の中に浮かんだ。
しかしそれ以上思考が進まない。
足りぬ栄養は頭に回されず、彼らの思考を著しく鈍らせていた。
ただぼうっと、なんで?という言葉だけが脳内で繰り返される。
騎士は腰の剣を抜かず、ただ両手を前に掲げた。
まるで虚空に手を伸ばすように、掌を前に向けて。
僅かにかちゃりと鎧が擦れる音がする。
その音すら、大半の避難者の興味を引く事は無かった。
だから、大半の人間は何に自分たちが殺されたのかすら認識せずに人生を終わらせた。
激しい稲妻。
騎士の手から、膨大な雷が迸る。
それは遍く避難民達を襲い、明滅する破滅の蛇がその体を尽く焼き尽くした。
強烈な電圧を持つ多大な電流が流れた体が、ぎ、と硬直する。
強制的に収縮した筋肉は自らの関節すら砕く自縛の檻となって彼らを傷つけた。
ぴん、と伸ばされた足が彼らの体を押し出し、滑稽なホッピングのような光景をそこに生み出した。
床に投げ出されるもの、壁に向かって突っ込むもの、様々であった。
また内部組織を流れた電流が、神経・血管・消化器を焼き、耐え難い苦痛を与える。
常ならば傷つくことの無いその部位の損傷は、激烈な痛みとなって襲ってくる。
だがそれも束の間。
脳すら焼き切れ、直に何も感じなくなった。
故に避難民達が苦痛を感じた時間は、数秒にも満たない。
ただそれだけが数少ない救いだった。
後に残ったのは所々が焦げ、体がねじ曲がった遺体の数々。
騎士はそれをなんら顧みる事無く踵を返す。
がちゃりという鎧の音が倉庫に響き残るのみだった。
幸運を掴み取ったはずの彼らは、理不尽な暴力でその命を失い、果てていた。
またある場所では、男が全力で走っていた。
極力荒れていない街路だった部分を選び、彼はひたすら疾駆する。
靴は壊れ既に裸足となっており、ちくちくと足元の小石が彼の足を苛む。
だが彼にはその痛みすら感じている余裕が無かった。
彼は今、騎馬に追われている。
鎧を着た騎士が、彼を執拗に追いかけてきていた。
手には長柄の武器を持っており、恐怖を煽っている。
騎士はまるで男を追い詰めるように武器を振り上げながら軽く走っていた。
「ひい、ひい」
肺がきゅうっと痛む感覚を覚えながら、それでも男は走る。
止まれば終わりだと彼も分かっていた。
あの長い刃が振るわれる範囲まで来てしまえば、確実に命は奪われる。
――せっかく生き残ったのに、死にたくない。
ただそれだけの思いが体を突き動かす。
極限状態で刺激された生存本能が、より生への執着を高めていた。
絶望的な死を潜り抜けたその経験。
それが「生きていたい」という当たり前の欲望を、彼に自覚させていた。
――何処に逃げればいいんだよぉこんなの。
男は働かない頭を必死に回して考える。
なんで、とか誰が、とかはこの際気にしない。
とにかくこの状況をどうやって切り抜けるか。
それだけを思考した。
――そうだ。街の真ん中だ。
今は抉れ、すり鉢状の穴となってしまっている街の中心部。
そこに逃げようと男は考えた。
見晴らしの良い、一見逃げるには不適切そうな場所。
だが傾斜が有るその場所なら馬は満足に走れないんじゃ?
もしかしたら、それで逃げ切れるかも。
そう思い立った彼は足の向ける先を変える。
本来なら近づきたくもない街の中心部へと。
ほんのちょっとだけ、男は速度を上げる。
あいつを振り切れるかも、と考えただけで足に力が入る。
希望無き逃走は、疲労を呼ぶだけ。
しかし希望が見えた今は、その疲労すら心地よかった。
「へへっ」
男の顔に自然を笑みが浮かぶ。
そうだ、着いて来い。
着いてこられるならな!
得意満面になっている男は気づかなかった。
背後の騎士が、まるで溜息を付くように軽く頷いた事に。
騎士は手に持った
男との距離は十メートル以上も離れており、これではただの素振りにしかならない。
だが男の体が、まるで何かに斬られたように両断された。
右の肩口から左の脇腹まで、袈裟斬りのように。
一刀両断に、滑らかな切り口が体に走った。
「あえ?」
痛みを感じるより早く、男の体がずり落ちる。
上体は斜め下に、軽い放物線を描き地へと叩きつけられた。
下半身は自らの司令塔を失った事にも気づかぬように、三歩ほど駆けてから思い出したようにがくりと膝をつく。
びろんと飛び出た臓物が、まるで互いに手を伸ばし合うかのように重なり合った。
だが分かたれた二つの体が元に戻る事は、もう二度と無い。
騎士が当てつけのようにもう一度刃を振るう。
やはり遠くで振られたそれは、地に伏した遺体をさらに吹き飛ばし、無惨に引きちぎった。
それを見て溜飲を下げたのか、騎士はゆっくりと戻っていく。
まだ生き残りが居るだろう区画へ向けて、騎士は再び駆け出していた。
あても無く崩れた街を彷徨っていたトトの耳にも、それは届いていた。
街路の石畳を叩く蹄の音。
そして、複数の悲鳴。
明らかな異常事態だと、彼女にも分かった。
「こんどは」
じわりとトトの目に涙が浮かぶ。
もう彼女はいっぱいいっぱいだった。
「こんどは何ですか!?」
今でさえ誰かに助けて欲しいと思う事ばかりというのに、この上さらに何が起きるというのか。
ただ何もかも忘れて泣き叫んでしまいたい。
そういう感情が湧き上がる。
――生きなきゃ駄目なんだよ、生きなきゃ!
だが、頭に浮かぶのはあのおばさんの声だった。
生きなければ家族が居た証すら消えてしまうという彼女の叫びが、耳から離れない。
涙を堪え、トトは動き出す。
皮肉な事に、砦からの一連の悲劇は、彼女にある種の耐性を与えていた。
非日常への耐性。
立て続けにそれを浴び続けたトトは、他の者よりも遥かに異常事態への適応力が高まっていた。
少なくとも、恐慌と混乱で動けなくなるような事は無くなっていた。
「とりあえず、隠れないと」
魔族かは知らないが、街を襲う
おそらくそうだとトトは予想した。
なら彼女に出来るのは、隠れるか逃げるかだけ。
トトが選んだのは後者だった。
「あそこに行くです」
トトが思いついたのは、自分が目を覚ました地下室。
半分埋もれたあそこなら見つかる事はまず無いと考えた。
幸いその場所までは遠く無い。
トトは気力を奮い立たせて一步、足を前に出す。
もう動かないと思っていた足は、思ったよりも軽かった。