真っ白に塗りつぶされる意識。
その光景に、大魔将ジョーフィアは己の死を理解した。
――これが、
闇の民の長である魔王。
彼は世界の根幹に手をかけ、遂には輪廻転生のシステムまでも掌握した。
現状その軛から解き放たれているのは魔将以上の力有るものだけだが、いずれ闇の民全てが死という苦しみから解き放たれる時が来る。
ジョーフィアはそう考えていた。
故にジョーフィアに死への恐怖は無い。
ただ敗北したという寂寥感と、それに伴う悔しさだけが彼女の魂の中には有った。
如何なる方法を用いたのか未だに理解できない。
だがあのアマネジ・ミクは倒してみせたのだ。
この種族の長たる
その事実に高揚が湧き上がるのを押さえる事ができなかった。
あらゆる
何れ敗北する時が来るだろうとは思っていた。
だがこんなにも早く、しかも最も脆弱と思われていた
――面白くなってきたの。
ジョーフィアは心中でほくそ笑んだ。
再戦が何時になるかはわからない。
だが遂に敵手となり得る存在が現れた事に、彼女は喜びを隠せなかった。
未だ戦争が成立する気配はない。
だがその闘争心を満たす相手だけは、ようやく見つけた。
永劫の時を戦い続ける彼女らにとって、それは何よりの救いだった。
――さて、そろそろか。
茫洋とした外界の感覚が、固まっていく気配がする。
もう少しでこの光の道を抜け、神殿に帰る事になる。
――戻ったらどう言い訳するかのう。
若い連中に散々弄られるな、と苦笑しながら、ジョーフィアは意識が覚醒していくのを感じていた。
目を、開く。
そこは薄暗い神殿の中。
そのはずだった。
だが目の前には、ジョーフィアがまるで思い描いていない光景が広がっている。
光り輝く美しい世界。
全てが光に満たされ、天も地も無い本当に自由な空間。
地上でもない、懐かしき故郷でもない。
ここは、この場所は――
『
呆然と、ジョーフィアは呟いた。
それは世界の始まりの場所にして、全てが還るところ。
神はその奥から現れ、世界を作り、全てを定めたという。
ここは世界の真実が眠る神秘そのもの。
光の民が「世界の果て」と呼ぶ場所に、今ジョーフィアは佇んでいた。
『な、何故じゃ!?』
光の塊でしかない体で、ジョーフィアは初めて動揺を見せた。
つまりそれは。
――自分は、死んだ。
その事実を、雄弁に物語っていた。
『魔王様は儂を
死という軛から解き放たれ、実質的な不死を手に入れた。
それこそが彼女の余裕の源だった。
だが今、その前提が覆されている。
一体何故!?
その言葉だけが、ジョーフィアの内を反芻した。
『まさか、魔王様に謀られたと?』
そんな有ってはならない思考すら浮かび上がってくる。
いやいや、とジョーフィアはそれを否定した。
太古より存在する六氏族、その
自分達の助力無くば彼は魔王になれなかったのだから。
だからこそ、この現象が理解できない。
起きてはならない事がこの身に降り掛かっている。
混乱と恐怖がないまぜになったような感情を抱えながら、ジョーフィアは辺りを見回す。
彼女の頭上には光り輝く大きな天球が存在した。
まるで太陽のように激しく輝き、しかし一切の熱は無い。
光そのものが固まっているかのような巨大な星が、そこに鎮座していた。
その天球に向かう数多の光は、自分と同じ、魂と呼ばれる存在になった者たちだろう。
光が徐々に天球へと引かれていく光景が彼女の目に入った。
自分の体も徐々にではあるが、天球に引かれていくのを感じる。
全ては還るのだ。
あの光の中へ。
『死ぬのか、儂が』
こんなどうしようもない世界だとしても、死にたいとは思わなかった。
永遠に続くかのような、光と闇の戦い。
その結末を。
運命として押し付けられた、この対立の先。
そこに何が有るのか知りたかった。
だからこそ、ジョーフィアは生きる事にしがみついた。
その為率先して
そしてようやく、その答えが手に入りそうな時代が来た。
魔王という稀代の天才が現れ、遂に世界に反逆し始めた。
あと数十年か、数百年か。
それだけあればきっと知る事ができるはず。
そう思っていたのに。
『そうか……』
だが、何故か妙な納得感がジョーフィアには有った。
生への執着以上に、これがあるべき流れだという当然の理解が湧き上がってくる。
人は死に、ここに還る。
それが当然なのだと自然に思えた。
『まあ、負けたのなら仕方ないかの』
本来ならば敗北とは死。
であれば、元に立ち返るだけ。
本来歪であった流れが正された、それだけだとジョーフィアは思う。
『それにしてもアマネジ・ミクか』
今起きているこの現象が、魔王の干渉でないのなら。
原因として考えられるのはあの少女しか居ない。
『一体奴は何者か』
だが直接戦闘力が異常であった、有る意味分かりやすい脅威だった奴とはまた違う。
何か異質な恐ろしさを彼女は少女に対し感じていた。
『まあ、儂が出来る事はもう無いがな』
後は後進に任せるしかない。
あの少女の攻略法を見出し、止めるのは若い世代の役目だ。
ジョーフィアは一步、無い足を踏み出す。
あの懐かしさすら感じる光へ、還るのだ。
他の光と同じようにゆっくりと天へと昇り――
唐突に、足首を掴まれた。
『ッ!?』
今のジョーフィアに、足首という部位は無い。
ただの光の塊としてここに存在していた。
しかし彼女は、「足首を掴まれた」と感じていた。
『な、何が』
ジョーフィアはいつの間にか、己の体に
黒い手。
どす黒く、おぞましく、闇よりもなお深い深淵のような黒き腕が、彼女の体に纏わりついていた。
ぞくりという悪寒がジョーフィアに走る。
これは、この手は。
この手は、不味い!
本能的にそう悟った。
表面から伝わる感覚は焼けるような熱さと凍えるような寒さが両立していた。
二律背反する二つが同居し、ジョーフィアを苛む。
それだけではない。
ぬめっとしているのに、がっちりと掴まれ。
軽く、重く、名状し難いとしか言いようがない、あまりにも不快な感触がそこから伝わってきた。
理解を越えた、本能的な忌避感。
決して相容れないと魂が感じる、冒涜的な何かだった。
『くっ、このっ!』
手からなんとか逃れようとジョーフィアは身をよじる。
だが黒い手はまるで張り付いたようにジョーフィアを離す気配は無い。
ぐい、と。
黒い手が、ジョーフィアの体を引く。
まるで光から彼女を引き離すように、徐々に、深く引きずり込んでいく。
――一体何処へ。
ジョーフィアが、手が伸びてくる先を見る。
彼女の足元、遥か下。
その先に、それは存在した。
そこもまた闇だった。
昏く暗く、深淵としか表現できない闇溜まりが、この世界にぽっかりと開いた穴のように存在していた。
そして恐ろしい事に。
夜よりも濃い黒で満たされているにも関わらず、何故かその中が見える。
そこには無数の人が居た。
ジョーフィアが言う光の民。
無数の者たちが、そこに囚われていた。
全員が例外無く、苦痛に顔を歪め、怨嗟の呻きを上げていた。
最早声とも言えぬ、単なる唸り声。
それが、そこに満ちている。
だが、一番恐ろしいのは。
まるで肉を押し潰したように混じり合い、ぐちゃぐちゃの肉塊が互いを喰むように噛み合っている。
血が彼らを満たし、臓物がお互いを縛り合う。
冒涜的なまでに恐怖を喚起させる光景が、そこには有った。
千年を越え戦ってきたジョーフィア。
その彼女ですら、目の前の醜悪な光景に吐き気を覚えずにはいられなかった。
そして、今自分がそこに引き込まれようとしている事に、恐怖した。
『逃げなければ』
ジョーフィアは全力で手に抗う。
だが黒い手はそんなジョーフィアなど介さぬように、じわりじわりとその穴へ彼女を引き込んでいった。
抵抗など、僅かばかりの反抗にもならない。
絶対的な圧力を以て、黒い手は大魔将を引きずっていった。
『嫌じゃ』
負けるのは良い。
死ぬのも良い。
だが、あそこには行きたくない。
輪廻の環から外れ、全てが生まれたあの場所に帰れなくなる事だけは、嫌だ!
『嫌じゃ!』
まるで童女に帰ったように、ジョーフィアは泣き叫ぶ。
じりじりと、ジョーフィアは穴に飲み込まれていく。
そしてその様を、穴の中の者たちは暗い悦びを湛えた表情で迎えていた。
『嫌じゃ、助けてくれ!』
穴の中の邪悪な亡者達。
その顔は見る者が見れば、誰であるか理解しただろう。
フレデリック・ド・カスタルノー。
コランタン・ド・ソンブルイユ。
その他、未来が殺意を以て殺してきた者たち。
哀れな犠牲者達の姿がそこには有った。
彼らは一様に血の涙を流し、醜悪な表情を浮かべながら新たな仲間の到来を喜んでいた。
この無限に続く苦しみを分かち合える同志。
その訪れに、心から喜んでいた。
『あああああああああ!!!』
悲鳴を残し、ジョーフィアは穴の中へと完全に消えた。
役目を終えた穴はまるで最初からそこに存在しなかったかのように、そこから消え去っていた。
美しく輝く光の世界は、再び静謐さを取り戻す。
ただ天に輝く光だけが、その全てを見ているのみだった。