第160話 黒髪の男
誰もが寝静まった夜半。
シモン・ド・ベルモンは、足音を殺し、町長の邸内を歩いていた。
身には常に帯びていた
常ならば腰に佩いている剣は手に持ち、僅かばかりの音すらしないよう細心の注意を払われていた。
ほんの僅か、きい、という音がする。
静かに開け放たれた扉。
そこから出てきたのは、コント・アンゲランだった。
コントもまたシモンと同じように甲冑は帯びず、また手に
シモンもコントも共に聖女候補である巫女マルグリットを守る任を与えられた生え抜きであった。
大神殿を出発して二か月あまり。
か弱い彼女を守り、そして彼らはようやく目的地の足元にまで辿り着いた。
二人は互いを確認すると、無言で頷く。
これからの動きは僅かでも悟られてはならないと、二人ともよく理解していた。
彼らがこれから向かうは、この街の宿。
そこに宿泊する巫女イリスの殺害。
それが、彼らに与えられた使命だった。
如何様にしてか不明だが、かの巫女は刺客の手より逃れ生きてこの街へと現れた。
向かったのは数人とは言え手練。
しかもあちらには協力者まで潜んでいた。
失敗する確率は低いと思われていたが――
しかし巫女イリスは五体満足でロセリーヌへと辿り着く。
故に、彼ら自らが動き手を下す必要が出てきた。
既に
街に住む浮浪者一人を薬漬けにし、確保してあった。
金欲しさに宿に侵入した物取りが、不幸にも巫女を殺害した。
そのような筋書きが予め用意されていた。
巫女イリスが伴っていたのは何れも年端も行かぬ女子供だけ。
いかにも間に合わせな女どもでは、自分達には抵抗できまい。
気がかりなのは今起きている
女子供を殺すのに魔導式まで用いなければならないようでは、あまりにも恥。
だから有っても無くても関係はない、とシモンは考えていた。
僅かな足音も立てぬよう、そろりと二人は廊下を進んでいく。
一步進むのに普段の十歩分以上をかけ、まるで泥中を泳ぐかのような速度で二人は動いていた。
緩慢な動きは、だが一分の隙も無く。
衣擦れの音すら抑制し、静寂を侵さずに歩む事ができていた。
町長夫妻にも薬は盛ってあるが、音を立てぬのは万が一を考えてであった。
監視の類は既に無効化してある。
民間で使われている警報魔導式の一時的な不具合など良くある事。
その
事がこの町長宅内で起きていたならともかく、今夜事件が起こるのは別の場所だ。
予め裏口の鍵も開けてある。
そこまで辿りつけば後は早い。
宿の方も、既に買収済みだ。
下働きを味方につけ、スペアキーは手に入れてある。
最早失敗する方が難しい盤石な態勢。
故に、シモンの心に緊張は無い。
小娘数人斬って帰って来る。
それだけの、簡単な仕事。
ちょっとした小遣い稼ぎのようなものだと、気楽に構えていた。
数分かけて、シモンとコントは裏口へと辿り着く。
シモンはさっと周囲を警戒する。
人影も気配も無い。
どうやら不測の事態は起きなかったな、と胸を撫で下ろした。
そうしてシモンが警戒している間に、コントが裏口のドアノブに手をかけた。
ゆっくり、ゆっくりと。
軋む音一つさせないように、コントは慎重にドアノブを回そうとして――
そのノブを掴んでいるコントの手が、
唐突に起きた奇怪な光景に、声を飲み込む事が出来たシモンの精神は驚嘆すべきものと言えた。
彼は悲鳴一つ上げず、しかしそれを凝視し続けた。
ぐにゃぐにゃと、まるで肉が何かにかき混ぜられるかのように蠢いて、変わる。
生理的な嫌悪すら伴うその光景が続いた時間は、数秒も無かった。
そこに現れたのはやはり手だった。
しかし、それは見慣れた同僚の手ではない。
さっきまで有った白い肌ではない、より深い色の肌。
まるで別人のようになった手が、そこには有った。
はっと反射的にシモンは顔を上げる。
見上げればそこに有るはずのコントの顔もまた、まったくの別人と化していた。
深い闇のような黒い髪。
深淵を思わせるような茶色の瞳。
そして、何処か懐かしさを感じさせるような顔立ち。
シモンが見た事もない知らぬ誰かが、そこに居た。
「まいったな」
コントならぬ誰かが、小さく呟く。
「こんな早く効果切れるなんて。
あちゃあ、と軽く。
その男は失敗を隠すようにおどけて言うが、瞳はまったく笑っていなかった。
「戻るまでは保つ予定だったんだけどな」
そう言う男は、すらりと剣を抜き放つ。
「じゃあ、もう殺すしかないわ」
――こ、こいつ!
シモンの胸中に、様々なものが渦巻く。
こいつは誰だとか。
本物のコントはどうなったとか。
任務はどうするだとか。
こいつを倒さないとだとか。
いろいろな思考と感情がごちゃまぜになって、シモンを支配した。
ただ反射的に、手に持つ剣をシモンは抜き放とうとする。
こいつが味方でない事は調べるまでもない。
排除しなければと。
だが――
「ッ!?」
正確には、
その為、ほんの少しだけ抜かれた剣はそこで固まったように動かず、僅かばかり刀身を覗かせるのみだった。
「なんだッ!」
最早潜んでいた事すら忘れ、シモンは声を上げた。
どれだけ腕を動かそうとしても、親指だけが動かない。
まるで透明な穴にでも指を突っ込んでしまったかのように、頑としてそこから動かず、拘束し続けている。
そして最悪な事に、その穴は指を離そうともしない。
縦横斜め、押しても引いても、親指が動く事は無かった。
そんなシモンの様子を横目に、男が動く。
「あんまり騒がないでくれ」
男はシモンの後ろに回り込むと、その口を塞ぐ。
そしてそのまま、持っていた剣でシモンの喉を切り裂いた。
ゆっくりと、ステーキ肉を切るかのように。
じわりと喉に刃を押し当て、ゆっくりと押し切った。
「全員殺さなきゃならないから、起きてこられると困る」
ぐっと力が込められた刃が、鈍く喉を切り裂いていく。
襲う痛みと絶望に、シモンは悲鳴をあげようとする。
だが塞がれた口からは何も漏れる事はない。
ただくぐもった音が、副産物とばかりに闇に彩りを添えた。
ぐっ、ぐっ、と何度も、男は切り込みを入れる。
その度に喉の裂傷は深まり、血がだらだらと流れた。
やがて喉の中程にまでそれが到達すると、勢い良く血が吹き出してくる。
ぴゅっ、ぴゅっ、とリズムを刻むように吹き出た赤い噴水が、辺り一面を赤黒く染めていく。
男の両腕にもその噴水から飛び出たものが撒き散らされ、赤い染みを衣服へと刻み込んでいた。
だがそんな事にも構わず、男は無表情でシモンの喉を切り裂き続けた。
最早シモンの意識は消失していた。
脳への血流が全て遮断され、彼の魂というべきものは既にその体に留まっている事ができなくなっていた。
だらりとシモンが力を失った事を確認し、男はシモンの体を静かに横たえる。
男はさっと辺りを窺う。
まだ、誰も起きてきてはいない。
男は手早く逆手に剣を持ち替えると、
未だ完全に死んでいないその腹から、やはりだらりと血が流れ出てくる。
だがそれに頓着せずに男は腹をぐっと切り裂く。
そして切り取るように、腹の一部を千切る。
掌で包める程の小さな肉塊。
それを男は躊躇無く口に含んだ。
ぐちぐちとした粘着質で柔らかい音が男の口から漏れる。
返り血に塗れ、人の肉を咀嚼するその様は、まるで
ごくりと男が肉を飲み込む。
すると、奇妙な事が起こった。
まるで体を溶かしてどろどろにして、それを再び固めるかのような光景。
それが数秒間、誰も居ない廊下で繰り広げられた。
全てが終わった時、そこに立っていたのは。
死んだはずの、シモンだった。
倒れ伏すシモンと寸分違わない。
まったくの同一人物が、そこに現れていた。
生きたシモンが死んだシモンを見つめる。
無感動に、ただ転がっている
軽く手を動かしながら、何かを確かめるようにじっと見ていた。
生きたシモンが、転がる剣を手に取った。
鞘から抜き放たれていないそれを携え、ゆっくりと廊下を進む。
進む先は、先程まで目指していた裏口の外ではない。
邸内の客室。
他の騎士が眠るその場所へ、彼は悠然と歩みを進めていた。
翌朝。
「キャーッ!」
絹を切り裂くような悲鳴が、朝の冷たい空気の中響き渡る。
早朝の仕込みの為に町長宅を訪れた下働きの女性が、それの第一発見者だった。
いつものように裏口から入ろうと鍵を取り出した彼女は、既にそこが開いている事にまず気づいた。
――閉め忘れかしら。
裏口の鍵は、彼女が帰る際に閉める事となっていた。
昨日は確かに閉めたと思っていたが、習い性で閉めたつもりになっていたのかもしれない。
そのようなミスは、以前から何度か経験していた。
後で怒られないと良いけど、と思いながら、彼女はドアをゆっくりと開ける。
昨晩は来客も有り、その片付けも必要だろう。
てきぱきと仕事をこなさないと、と意気込んだ彼女の目に入ってきたのは、想像を絶する光景だった。
血まみれになった、地獄のような邸内。
目の前には、激しく切り裂かれた男の死体が転がっていた。
喉と腹を切り裂かれ、血と臓物を散らばらせた惨たらしい遺体。
それが何であるのか一瞬分からなかったが、女性はその現実を認識した瞬間、思わず悲鳴を上げた。
どしんと、尻もちをつく。
足が震えてとても立てそうになかった。
彼女は震える指で
そして扉の脇で、がたがたと震えながら彼らの到着をただ待ちわびていた。
衛兵たちが到着し、調べた結果。
不思議な事に、町長夫妻は傷一つ無く無事。
彼らは訪れた衛兵に起こされるまで、何も知らぬとばかりにぐっすりと眠り込んでいた。
そして先日よりこの館に逗留していた光神教の一行、巫女に随伴していた騎士達は全員が死亡。
巫女自身は拐かされたものと判断された。
街中に有る犯罪監視用の
巫女を肩に担ぎ、逃げ去る騎士の姿を。
だが、ここに奇妙な点が一つあった。
巫女を担いで逃げている騎士。
記録を照会した結果、この人物は
しかも記録された時間には、既にこの騎士は死んでいた。
――一体何がどうなってるんだ?
衛兵たちの疑問は、深まるばかりだった。
平和なロセリーヌで起きた、惨たらしい事件。
それは結局迷宮入りし、その真相は謎に包まれたまま、暫しの間語り草になるのだった。