同じ頃。
男とマルグリットは山頂へと到着していた。
途中より吹雪も止み、抜けるような晴天が頭上には広がり、それまでの天気はまるで幻だったかのような快適さだった。
「ここが……」
二人の目の前には、まるで設えられたような円形の広場が存在していた。
尖った山の先を巨人が剣で切り落とし面を整えたような、そんな人工的であまりにも不自然な場。
想像とまったく違うそこに、男はやや面食らった。
広場の中心には、激しく輝く光の玉が浮かんでいた。
光そのものが固まって出来たようなそれは、内包しきれない光が漏れ出すように、周囲を激しく照らし、貫いている。
――ここだ。ここなら。
男の胸が激しく高鳴った。
遂に悲願の時だと、心臓が早鐘を打ち、彼を鼓舞するように血を体に巡らせる。
まずは、と男はマルグリットに行動を促そうと振り返る。
「おい――」
だがマルグリットは、その声より早く行動していた。
まるで夢遊病者のようにふらふらと、光に吸い寄せられるようによたついて歩いていく。
「聞こえる」
そう呟きながら、彼女は進む。
両手を掲げ、光を受けるようにして、一歩一歩近づいていく。
やがてマルグリットが光のすぐ真下まで辿り着く。
マルグリットは手を掲げたまま、光の玉を支えるような姿勢でそのまま手を翳し続ける。
その姿を男はじっと見つめていた。
何が起きているかはわからない。
だが、自分に不利な流れではないはずだ。
想像通りなら、あれは――
「そうだ、起動しろ」
祈るように、縋るように。
男は絞り出すように言葉を吐く。
「
知らずの内に、男は拳を握り込んでいた。
固く、血が出る程に。
そしてそれすら気づかぬ程、彼の手には力が込められていた。
四人は無限に続くような闇の中を歩いて進んでいた。
「これ、トトさん居なかったら詰んでません?」
方角すら分からない闇の世界。
今はトトが
ニノンに限らず、全員そう思っている事は間違いない。
「正直一人で放り込まれたって考えたら、恐ろしいわね」
ぶるり、とイリスが身震いをする。
「聖女認定の儀がこんなわけが分からなくて恐ろしいものだとは知らなかったわ」
「こんなとこ放り込まれたら頭おかしくなるのも納得です」
うんうんとイリスとトトが頷きあった。
少なくとも、ここから出たら二度と訪れたいとは思わない。
「でも、おかしいです」
不可思議な状況に、トトは首を捻った。
だというのに、何も見えてこない。
とっくの昔に目視圏内に入っているはずなのに、目の前に広がるのは変わらぬ闇だけ。
「もう見えるはずなのに、誰も居ないですよ」
「ここに来た事自体が、既に常識外なんだ」
未来は常と変わらず、冷静な口調で言った。
「普段通りにいかなくても、そういうものだと思えば良い」
「割り切りが良すぎですよ、ミクは」
徐々に徐々に、距離は縮まる。
それでもやはり何も見えてこない。
「なんか気持ち悪いです」
五十メートル。
三十メートル。
十メートル。
ほんの先に居るはずの犯人とマルグリットの姿はやはり見えない。
五メートル。
何も感じない。
気配も、痕跡も。
三メートル。
あと少しという距離ですら、そこに有るのは闇だった。
二メートル。
一メートル。
最早手の触れられる程に近づいても、やはり闇だけが広がっている。
「探知系の魔導式も展開してんですけどね」
ニノンはこめかみを押さえながら、神妙な面持ちで
視覚強化やその他視覚補助、魔導式を総動員しても何も見えない。
少なくとも、ニノンが知覚する限り、そこには何も無い。
「やっぱ見えませんわ、奴さん」
「一体どういう事よ」
イリスも困惑を隠せなかった。
もう少しでマルグリットに追いつける。
そう思いながら、この奇妙な空間にも耐えてきた。
だが辿り着いてみれば何も無いでは話が違う。
「ここにマルグリットが居るんじゃないの!?」
「確かにここですよ!」
トトもおかしいと何度も目をしばたたかせる。
彼女も
マルグリットはその先、十メートル程か。
だというのに誰も見えない。
「まいったな」
トトの
どうするか、と未来も頭を悩ませて。
「ああ」
響く、知らぬ女の声。
「
有り得ざる、五人目。
その声が、唐突に響く。
四人は弾かれるようにそちらを見た。
そこに居たのは、一人の女だった。
美しく流れる白い髪。
まるで透き通るような白い肌。
遠目からちらりと見える、緑の瞳。
白いドレスに身を包んだ彼女は、静かに椅子へと腰掛けていた。
座る女の隣には、小さなスツールが据えられている。
そしてその手には、古びた本が一冊、開いたまま収められていた。
何もかもが場違いに見える、あまりにも普通であまりにも異常な女がそこに存在していた。
「だ、誰ー!?」
思わずニノンが叫ぶ。
唐突な闖入者に、心だけではなく体も跳ねた。
だがそんなニノンの言葉を意に介さず、女は本をぱたりと閉じると、丁寧にスツールにそれを置いた。
そして、静かに立ち上がる。
「待っていました、天音寺未来」
お知り合い?とニノンは未来を見る。
だが未来は、いや、と視線で答えた。
「何処かでお会いした事が有ったかな」
努めて冷静に、そして慎重に。
探るような視線を向けながら、未来は問う。
「生憎と、貴方とは初対面と記憶しているが」
その言葉に女は静かに微笑む。
柔らかな表情に敵意は微塵も見えない。
「ええ、お会いした事は有りますよ。ですが
彼女は恭しく一礼する。
美しく整った、優雅な所作だった。
「エレクトラ=ⅩⅦ・茉莉と申します。久しぶりですね、こうして名乗るのも」
エレクトラと名乗った女は、親しげな友人に語りかけるような素振りだった。
丁寧だが気安く、まるで既知のように。
「ちょっと!」
横で聞いていたイリスが声を上げた。
「あんたの名前なんてどうでもいいのよ! マルグリットは何処よマルグリットは!」
掴みかからんばかりの剣幕でイリスが吠える。
彼女にしてみればマルグリットに会いに来たのに居たのは別の女という、わけの分からない状況だった。
「もしかしてあんたがマルグリットを攫った犯人なの?」
イリスはすっと拳を構える。
「だとしたらぶっ飛ばしてでも取り返すわよ」
飛びかかる気満々とばかりに凄むイリスに、しかしエレクトラは涼しい顔のままだった。
ふむ、と何事かに納得するように、興味深げにイリスを眺める。
「大分
エレクトラの手には、いつの間にか本が握られていた。
スツールに置いたものとは違う、また古びた本だった。
「貴方が伴ってくるのは、本来ならマルグリットだったはず。――ふむ」
ぱらぱらと本をめくったエレクトラは、得心がいったように本を閉じた。
「彼女は
エレクトラはすっと手を翳す。
何かに呼びかけるように、鷹揚に、虚空を撫でる。
刹那、イリス・ニノン・トトの姿が消えた。
「ああ、安心してください未来さん」
未来が動こうとするよりも早く、エレクトラの声が響く。
「ただ
じり、と未来が無意識に間合いを図る。
未来は感じていた。
目の前の女は今まで人生で出会った何者よりも強い。
完璧に統制された身体動作。
あまりにも見事なそれは、自分以外では初めて見る
彼女の本能が、人生数える程しか無い死の警鐘を鳴らしていた。
「あまり警戒しないでください」
たおやかに、穏やかに。
未来をなだめるように、エレクトラは手を振る。
「私には貴方と争うつもりも意味も有りません。ただ、対話をしに来ただけです」
「友好的なのは有難いが」
だが、未来は警戒を解かない。
「あまりにも胡散臭すぎる」
「そう言われると困るのですが」
うーん、とエレクトラは悩ましげに首を傾ける。
「とりあえず、楽にしましょう。お互いに」
エレクトラが再び腰掛けると同時に。
すっと音もなく、もう一つ椅子が現れた。
――座れという事か。
未来は大人しく椅子へと腰掛けた。
二人の女が静かに、闇の中向かい合う。
「では、話をしましょう。これからの事を」
やはりにこやかに、エレクトラはそう言った。
瞬間的に
闇から光に。
「にょわっ!?」
唐突な明るさに、思わずニノンは目を閉じた。
再び暗闇に閉ざされた視界の中、ニノンは気づく。
――風を感じる。
先程の闇には、空気の流れ一つ無かった。
閉塞的で苛むような無の空間。
しかし今感じているこれは、間違いなく――
「戻ったぁ!?」
自分達は今外界へと戻ったのだと、そういう確信が有った。
うっすらと目を開けると、まだ眩しいものの、外の景色が見えてくる。
抜けるような晴天に、開けた大地。
間違いなく戻ってきたと確信できた。
他の皆は?
そう、様子を探ろうとニノンが辺りを見回す前に。
「っしゃあ!」
イリスの裂帛の気合が、脇から飛んでくる。
何事!?
ニノンの眼前には、蹴りを見舞うイリスの姿が有った。
その蹴り足の先に居るのは見覚えの無い男が一人。
「お前が」
そしてその後ろ。
広がった場の中央には、探し人――マルグリットの姿が有った。
「お前が犯人かああああああ!」
叫びと共に、イリスは蹴りを放った。
男は腕を十字に重ね、イリスの蹴りを受け止める。
決して重くはない少女の体による蹴り。
だが推進力が合わさったそれは、自分より大きな男の体を確かに揺らした。
ぐらり、と男が態勢を崩し下がる。
ほんの僅かに下がった男の様子に、イリスは止まらずさらに進む。
蹴り足をそのまま下へ、だん、と踏み締めながら、イリスは姿勢を低くする。
崩れた男へ追撃するような、鋭いタックル。
残した軸足が大地を蹴り、エンジンのように彼女の体を推し進めた。
ぐらりと体を折り曲げた男には防げない、絶妙なタイミング。
確実に決まったかと思われたが――
「んなっ!?」
イリスの体当たりは空を切り、走り抜ける形になった。
――何処行ったのよ!?
一瞬にして消えた相手を探そうと、イリスは咄嗟に辺りを見回す。
横にも、後ろにも居ない。
だが彼女の勘が、
イリスはただ理由も分からず横に跳んだ。
とっ、と軽やかに大地を踏み締め、足を空に浮かせた瞬間。
イリスの足元から、手が生えてきた。
もし一瞬でもイリスのステップが遅れていたら、その手が足首を掴んでいたかもしれない。
「ッ!」
地面から手が生えているという奇妙な光景に、彼女は薄ら寒いものを覚えていた。
――これは、何?
戸惑うイリスの目の前で、
「いきなり何すんだよ暴力女」
男が吐き捨てるように言う。
「これだから嫌なんだよ、未開人は」
「やかましい」
距離を取ったまま、イリスは油断なく構えを取る。
「あんたがマルグリット誘拐犯ね。なら殴る」
それに答えるよう、男もまた剣をすらりと抜き、イリスに向かい合う。
「話を聞けよクソ女」
そしてゆっくりと青眼に刃を向けた。
「もううんざりなんだよ、こんな世界」
男の顔には、ありありとした侮蔑が浮かんでいた。
この世の全てを疎み、嫌悪する表情だった。