霊峰の頂上。
右足を完全に破壊され、立ち上がる事ができない雅人が、痛みに喘いでいた。
「くそっ」
悪態をつきながら、右手を前に伸ばす。
掌面を前方へ、マルグリットの足元の方に。
ずずず、と雅人の体が動き出し、地を滑った。
まるで見えないロープに引っ張られるように、彼の体が動いていく。
破れたシャツの間から露出する皮膚が地面と擦れ、雅人の肌を削る。
だがその痛みも右足の激痛に比べれば軽いものだった。
雅人が持つ
今は一番効力を弱くしているが、それでもその力は十分に大きく、男の体一つを大地に引き付けるには十分な引力を持っていた。
数十秒かけて、ようやくマルグリットの足元に辿り着いた。
震える両手に力を込めて上体を起こす。
見上げた先に見えるマルグリットの顔は、未だ茫洋とした様子で光に手を翳し続けている。
「ようやくだ」
絞り出すような声に含まれていたのは郷愁か、それとも安堵か。
そこには希望の色が確実に有った。
「ようやく、帰れる」
雅人の脳裏に、召喚されてからの事が蘇る。
突如の召喚。
仲間たちとの戦いの日々。
そして、
そこに子供が憧れる英雄譚など欠片も無かった。
自分達はただ浪費される資源であり、失敗作でしかなかった。
苦痛と苦難しか無かった旅路。
だがそれも遂に終わりを迎えようとしている。
雅人はぐっとマルグリットの足を掴んだ。
この女が鍵だ。
条件を満たした聖女候補。
それだけがこの山に入り、コンソールを起動させる事ができる。
「祈りが、届く」
ぽつりと、マルグリットが呟いた。
――来た!
雅人の心に歓喜が満ちる。
遂に起動するのだ、コンソールが。
マルグリットの言葉に呼応するように、光球が強く光を放つ。
世界を照らすように、白く、鋭く、周囲を覆う。
世界が光で塗りつぶされ、そして――
彼は今、そこに居た。
闇に包まれた空間。
周囲には漆黒以外何もない。
完全な虚無。
唐突に切り替わったかのような世界の様子に、雅人も面食らった。
――これが、コンソールの起動なのか?
きっと彼女もそれ以上知らなかったのだろう。
だから、こんな事が起きるとは彼も知らなかった。
隣に居るマルグリットも、先程までの何かに取り憑かれた様子から脱しており、少女らしい困惑を見せている事が気配から察せられた。
それに目の前に居る女。
全てが白で構成された、儚げにすら見えるこいつは、一体誰だ。
白の聖女とは――?
「神より奇跡を授かった最初の聖女」
呆然としたようにマルグリットが呟く。
「古の始まりの聖女だと言うのですか、貴方は」
「ええ、そうです」
ゆっくりと、たおやかに。
白の聖女エレクトラは手を広げる。
「私は始まりの聖女。貴方達に綿々と繋がる
「その、彼女は」
マルグリットは困惑したように、エレクトラの傍に居る未来を見やる。
「確かイリスといっしょに居た方だったと思いますが」
「彼女は私の客人でしたので、饗していた所です」
エレクトラは柔らかい笑顔で言った。
しかしそこにはそれ以上踏み入らせないような強い意思が潜んでいるようにマルグリットには感じられた。
ふふ、とエレクトラは軽く笑い、口を開く。
「おめでとう、今代の聖女マルグリット。貴方は見事試練を乗り越え、聖女たる資格を得ました」
ぱちぱちぱち、と。
エレクトラが手を叩いた。
乾いた音が虚空に響き、消えていく。
「まずは伝えるべき事を伝えましょう」
すっと手に持っていた本を開き、エレクトラはぱらぱらとページを捲った。
軽く目を通し、ああ、と小さく漏らす。
「変わりませんね。二対九十八です」
「え?」
唐突な数字の開示。
それが何を意味するものなのか、マルグリットには理解できなかった。
「ですから、二対九十八です」
ん?と小首を傾げながら、エレクトラは再度告げる。
「
困ったものです、と、実際眉を潜め困り顔をエレクトラはしていた。
はあ、と溜息を漏らし、出来の悪い生徒を見るような目でマルグリットを眺める。
「最早逆転は不可能ですね。ここから巻き返すには、余程の奇跡でも起きなければ無理でしょう」
「え? え?」
分からない。
一体何を言われているのか、何を告げられているのか。
その言葉が、マルグリットの中に入っていかない。
脳が理解を拒むという現象を、彼女は今初めて味わっていた。
「数が頼みであるはずの白の軍勢が数的劣勢になっている時点で、どうにもなりませんね。数と多様性で勝る白、少数ながら個として強力な黒という構図が完全に崩れています」
その言葉には一切の情が含まれてはいない。
白の聖女と名乗りつつ、エレクトラに人類を気遣うような雰囲気はまったく無かった。
「どうぞ、白の軍勢の皆様にお伝えください。貴方がたは滅びの瀬戸際にあり、後は死が待つのみと。それが聖女の役割ですので」
「聖女とは、勇者を支える神の使徒では」
震える声でマルグリットはそう声を絞り出す。
そう、そのはずだ。
聖女とは勇者を支え、魔王を倒すべく導きを与える神の僕のはず――!
「それは貴方がたが後付した役割でしょう」
だがエレクトラは冷酷に切り捨てる。
「聖女。それは
勇者伝説など、夢物語。
人が見出した希望に過ぎない。
その付属物を、神がわざわざ作る事など、有り得ない。
「貴方に課せられた役割はその情報を皆に伝える事。神と人の繋ぎ手である以上、それが義務なのです」
「そんな」
ぐらり、とマルグリットの体がよろめいた。
人類は既に負けている。
決して勝てない。
そう伝える為に、今まで自分はこの場所を目指していたと?
「神は」
縋るように、マルグリットが零す。
「偉大なる至天の神は、私達をお救いにならないのですか?」
「もう十分なまでに手助けはしていますよ、神は」
何度目でしょうね、とばかりにうんざりした表情を、エレクトラは見せていた。
「ですがそれを全て斬り捨てて来たのは
うんざりとした表情から、さらに呆れが加わる。
「傍目から見ていても、頭を抱える惨状でしたよ。特に
制限を課せば課す程、
だとしても
流石に復元要請以外全てを切るなど、想定外も良いところだった。
「しかし安心してください。聖女認定された貴方には全ての
どこまでもにこやかな様子のエレクトラと対照的に、マルグリットの顔は困惑に彩られ、呆然と立ち尽くしていた。
その様を、未来は観察するように眺めていた。
おそらく今言われた事の半分も理解できていないだろう。
魔導器による情報通信社会は実現しているが、地球に有ったような高度なゲームはこの世界に存在しない事を未来は知っている。
そのゲームに近しいようなこの世界のシステムを、マルグリットという巫女は理解できない。
あまりに異質な概念は、彼女の思考と相容れないのだ。
おそらくこれまでの聖女候補である巫女もそうだったのだろう。
このようなわけも分からない情報を与えられ、それを一人で抱えさせられ、好きにしろと言われる。
しかも、さらに
二対九十八など、最早勝負の土台にすら乗っていない。
先程エレクトラより説明されたように、人類は魔王の調整により生かされてるに過ぎない。
全ては壮大な茶番。
このような情報の数々に、
誰もが口を噤んでいた。
エレクトラは語るべき事は語ったとばかりに沈黙している。
マルグリットは、呆然と天を仰ぎ。
未来はただ静かに場を眺め、俯瞰している。
そんな中ただ一人、違う行動を取る者が居た。
「そんな事は、どうでもいい」
西浜雅人。
彼のみが、静寂を破り声をあげる。
「なああんた、あんたはシステム側の人間なんだろ? だったら、なんだって出来るはずだ」
圧をかけるようにも、縋っているようにも見える態度で、雅人は片足で立ち上がる。
「俺は、俺達はこいつらに攫われた被害者みたいなもんだ。だから帰してくれ、地球に。もう沢山なんだよこんな場所」
片足で小さく飛び跳ねながら、雅人はエレクトラへと詰め寄る。
その姿はあまりにも滑稽。
しかし、悲壮感が漂う程に必死だった。
「誰もこんな所に来たくて来たわけじゃない。責任を取ってくれよ」
なあ、と。
泣き笑いを浮かべながら、彼は進む。
「もう一度、
雅人の必死の懇願。
しかしそれに、エレクトラは不思議そうに首を傾げていた。
心底不思議そうに、何を言っているのか分からないとでも言うように。
「故郷が産まれた場所と言うのなら」
幼子を諭すように、エレクトラは言葉を紡ぐ。
「
詰め寄っていた雅人の動きが、固まるように止まった。
先程のマルグリットと同じように、何を言われているのか分からないというように、全ての理解を拒んだ顔をしていた。
「な、何を」
笑う。
雅人は嘲笑う。
ただ、理由も分からず嘲笑う。
「何を言ってるんだ……?」
「召喚、という現象が距離と時間を隔てた場所から物質を転送してくると定義されるものであるのなら」
わかりますか?と。
どこまでも優しくエレクトラは問いかける。
「何故たかが生物数体連れてくるのに、天文学的なエネルギーを使用する方法を取らなければならないのですか? 貴方は砂粒一つ飛ばすのに核爆弾を使うのですか?」
優しくはあるが、心底不思議そうな顔。
白い聖女の顔にはそういう表情が浮かんでいた。
「それは非効率的過ぎるでしょう。もし遥か遠く、遥か彼方の時間に有ったものを今に存在させたいのであれば」
次元の壁を越えて物体を移動させるなどナンセンスだ。
それは最早三次元を越えて四次元を統括する領域となる。
為すのであれば、途方もない労力とリソースを消費しなければならない。
人一人を連れてくるのであれば、あまりにも無駄なやり方としか言いようがない。
「
はるか遠方に有るものを今ここに存在させるのであれば、持ってくるよりもその場で制作する方が効率的。
「貴方達召喚者と呼ばれる人間は、遥か過去、
例え、人間であろうと。
設計図が有り、作り上げられる技術があれば。
それが一番手間がかからず、合理的な方法なのだ。