「嘘だ」
唯一体を支えていた左足が力を失い、雅人が尻から崩れ落ちる。
「嘘だ」
嘲笑った顔が張り付いたように変わらない。
嘲笑っているのは、一体何に対してか。
世界か、それとも己か。
はは、と乾いた嘲笑いを漏らし、泣きそうに表情を歪め。
雅人は、その事実を否定する。
「嘘だ、そんなわけ無い」
彼は震える手を天に伸ばす。
その先にはっきりと見えていた。
かつての平凡で何もない暮らし。
日本という恵まれた国での満ち足りた生活。
在りし日の思い出が、翳した掌の指から溢れ出すように彼の目の前を通り過ぎていく。
「俺は、俺だ。ここにちゃんと居るじゃないか」
「ええ、そうですね」
もちろん、とエレクトラも頷く。
「記録時点とほぼ変わりない状態で再現されていますので、なんの違和感も無いはずです」
体格、健康状態、記憶に至るまで全て。
それは完璧に再現されていると、エレクトラ達は自負していた。
「ただ一つ、
だが、たった一つ。
たった一つだけ差異が有る。
異能を持つという、その一点だけ。
しかしそれこそが、彼が
そもそも異能が与えられたとして、それは如何なる器官を用いてどのような作用を齎しているのか。
既存の臓器にそのような力が備わっているわけも無く。
なんの変容も無く、生物が都合良く新たな機能を備えるなどという事は無い。
「元はできなかった事ができるようになっている。良かったじゃないですか、お得ですよ」
「違う! 違う違う違う!」
エレクトラの言、その何もかもを否定するように。
雅人は激しく首を振り、ただ叫ぶ。
「違う! 俺はコピーなんかじゃない! 俺は西浜雅人だ!」
認められない。
そんな事は認められない。
あの日、あの時。
日本に居た俺は、ここに居る俺なんだ!
雅人は自らの心に刻むように、ただそう思い続ける。
自分こそが本物だと、ただただ強く。
疑わず盲目的に、それはまるで信仰のようだった。
「貴方が西浜雅人であるのもまた事実なのですけどね」
困ったように、エレクトラも頬に手を当てる。
「意識が肉体に依存する貴方がたのような古い知性体は、その実存に自己の同一性を強く見出すのですよね。私達には理解できない感覚ですが」
あ、と。
何かを思いついたように、エレクトラが表情を明るくする。
「
いい考えが浮かんだとばかりに彼女はそう言い、ぱん、と手を叩いた。
乾いた音が、暗闇に響き渡り――
「は?」
目の前に唐突に現れた男に、転がる雅人は呆気に取られる。
それが誰なのか、一瞬理解を拒む。
自らの姿を外から眺める事などまず無い為、そもそもそれが自分だと一瞬で理解する事自体が困難だった。
初めて見るはずの男の姿。
そうとしか捉えられない。
だが少しずつ気づく。
その手や足が見慣れたものである事に。
身につけているものが、自分と同一である事に。
そこに居るのは紛れもなく自分だと、否応無しに気付かされる。
「は?」
そして困惑はもう一人、
ほんの一瞬前まで寝転んでいたはずなのに、自分は今立っている。
しかも破壊されたはずの顔面や右足が完全に治って、なんの痛みも無い状態で。
戸惑うように視線を左右に触れば、否が応でもそれが目に入った。
無様に転げている一人の男。
驚愕に目を見開き、こちらを凝視しているその姿に、気持ち悪いものを感じたのは偶然ではない。
「なんだよ」
震えていたのは、声か、体か。
か細く放たれたその言葉は、しかし痛烈なまでに周囲の者達の耳に届いた。
「なんなんだよ、これ」
恐怖を孕んだ雅人の問いに、悠然としたままのエレクトラが答える。
「これで、理解できたのではないですか?」
どうです、とまるで誇らしげに。
彼女はそう言い放つ。
「
ええ、と。
エレクトラは満足げに頷く。
「西浜雅人。貴方が情報より作り出された人間であり、再構成も容易い存在だと」
唯一無二の、掛け替えのないたった一つの命。
そんなものは、ここには存在しなかった。
有るのはただ複製可能な
そして、そこから作られた一体の人間だけだった。
「あああああああああああ!!!」
哀れな一人の男の絶叫が、虚空に飲まれる事無く響き渡った。
雅人には耐えられなかった。
伏した雅人は赤ん坊のように泣き叫び、地面に転がっている。
立っている雅人は、頭を抱え天を仰ぎ絶叫していた。
呆然としていたマルグリットが、その叫びに、びくりと体を震わせた。
そして目の前の、二人の雅人を見て思わず口を押さえる。
清廉な巫女にとっても、
魔法を用いて幻覚を見せる等すれば、似たような状況は再現できるだろう。
だがそのような幻には無い圧倒的な存在感が、本能に訴えかけてくる。
これは現実だと。
余りにも恐ろしい情報の波から戻ってきた直後、さらなる驚愕を与えられたマルグリット。
彼女は再び、身を固まらせるように硬直してしまった。
「どうにも同一根の存在が同時に存在するという事を受け入れられないようですね、
やれやれと呆れたようにエレクトラは首を振った。
「ですが貴方には、やはり動揺は無いようですね」
そう言って、隣に居る少女――未来を見る。
探るような視線で雅人を観察していた未来には、欠片ほどの感情の動きも浮かんでいない。
ただ冷淡に、彼の狂乱を見つめている。
「
当然のように、未来は言う。
「私としては答え合わせが済んだだけという感じだ。特に驚くような情報ではないよ」
ただね、と未来は付け加える。
「私を増やすのは遠慮して欲しいな――碌な事にはならない」
「それは承知しています」
天音寺未来を二人に増やし、対面させた場合。
何が起こるかもエレクトラ達は既に知っていた。
「
「理解してくれているならいい」
未来は未だ発狂し続ける雅人を眺め続けていた。
「しかし、己がコピーかどうかはそんなに重要かね」
軽く小首を傾げながら、呟いた。
「
「やはり貴方は話しやすいですね、未来さん。どちらかというと私達に精神が近い」
そうですよね、とばかりにエレクトラも頷く。
「複製して別々の意識となった瞬間、それは過去を同じくした別の個人として分化するだけです。自分が自分であるという事実に、なんら変容は無い」
主観の絶対性だけは、何者にも侵す事ができない。
それが例え神であろうと。
もし自身とまったく同じ存在が同一時間に何体存在していようと。
「情報を基盤とする知性体である私達にとって、自己を複製する事は自然な行為なのです。ですから、彼の苦悩も本当の意味での理解に到達はできませんね」
ちなみにですね、と。
「エレクトラ=ⅩⅦという名前も、十七体目のエレクトラという意味です。分化直前まで同一の経験を持つ別の人間。そういう意味が有ります」
「自分がそんなに居るのか。賑やかなものだ」
「実際賑やかですよ。昔は良く同一会を開いて集まっていたのですが、パーソナリティが似ているだけあってなかなか楽しいです」
「文化が違う……」
人間では決して持ち得ない価値観。
目の前の女は人間とは別種の生き物だと、改めて未来は理解する。
おそらく人類より遥かに進んだ知性を持つ存在。
その差は圧倒的だろう。
そのような存在を仮に表すなら、神と言っても差し支えは無いのかもしれない。
「あ」
二人が話している間、状況に変化が産まれた。
立っている雅人が、すらりと剣を抜き放つ。
そして、ゆっくりと伏している雅人に歩を進め始めた。
「俺が西浜雅人だ」
ぶつぶつと、言い聞かせるように。
立っている雅人――雅人=Ⅱは、雅人へと近づいていく。
そして未だ泣き叫ぶ雅人に、剣を突き立てた。
「うげぇあ……ああああああああ!!」
雅人から出た声は、痛みによるものか。
それとも、未だに心を占める絶望から続くものなのか、判別し難かった。
ただ一つ言えるのは――
「消えろ偽物! 死ね! 死ねよ!」
悲鳴はおそらく、あと僅かな時間で消えるはずだという事だ。
「痛ましいものだな」
あれが誰だか知らない。
会話の内容から、以前召喚された勇者だろうという事は理解した。
だとしたら、碌な扱いを受けていなかったのは自分達の例から想像できる。
それから逃れる為の旅の最後がこれとは、救われないなと未来は思う。
彼女の視線の先では、物言わぬ雅人が血まみれになって転がっていた。
体のあらゆる場所を滅多刺しにされ、傷口からは溢れるように血が流れ、その瞳は最早何も映さず虚ろに天を向いていた。
「俺が雅人だ。俺こそが、西浜雅人だ」
雅人=Ⅱが、静かにそう宣言する。
血塗れの剣を握りしめ、ものと成り果てた雅人を見下ろしながら、言い聞かせるように言葉を絞り出した。
そう呟く雅人に、エレクトラが首を傾げる。
そしておもむろに再び手を一つ、ぱん、と叩いた。
新たに雅人が三人、現れた。
「いやお前」
それまで平静を保っていた未来も、流石に少し引いていた。
「何やってんだよ」
「ええと」
少しごまかすように、白い少女は笑って舌を出しながら、言う。
「一人だと少なくてわかり辛かったのかな、と思いまして」
「気遣いがズレてるんだよなあ……」
二人の目の前では、四人の雅人が呆然と、互いに顔を見合わしていた。
最早彼らには声もなく、ただ視線だけがせわしなく蠢いていた。