――ここは。
茫洋とする意識の中、雅人はゆっくりと目を開ける。
まず目に入ったのは木製の天井。
ゆっくりと横を向けば、どうやら民家の一室らしき場所に居る事がなんとか理解できた。
何をしていたっけ、と思いながら体を起こそうとするが――
「ッ!」
体に走る激痛が、その行動を掣肘する。
何処が、とも分からない程にあらゆる場所が痛む。
まるで痛みという鎖が全身を雁字搦めにしているかのようだった。
ほんの少し起き上がった体が、再びどすんと元に戻る。
そこで初めて、自分がベッドに寝かされている事に雅人は気づいた。
じんわりと残る痛みの中、段々と記憶が蘇ってくる。
魔族との初戦闘。
相対する魔将。
そして、唐突な衝撃。
「皆は」
そう思って部屋を見回しても、ここに居るのは自分一人。
――他の部屋に居るのか?
そんな考えが頭に浮かぶが、即座にそれを否定する心が彼の中に有った。
だって見たじゃないか。
体を消し飛ばされた仲間たち。
もう、皆死んだのだ。
「くそっ」
一体何が起こったのか。
魔将の攻撃だったのか?
途切れるような記憶と、朧げに垣間見た最後の光景。
状況を推測するには余りにも情報が少なすぎた。
ただ身を横たえ、どれだけ思考の海に浸っていたか。
不意に、部屋の扉が開く。
「目覚めたか」
入ってきたのは、白い肌の女だった。
人ではない程に抜けるような白さ。
それと対照的に髪は燃えるような赤に染まっていた。
背まで伸びる長い髪を靡かせて、女は雅人の下まで近づいてくる。
「あまり慣れてはいないのだが、ふむ」
動けぬ雅人の体を探り、女は納得したように頷く。
「容態は安定しているようだ。このまま安静にしていれば、命を長らえる事はできるだろう」
「……あんたは」
一体誰なんだ。
そう、なんとか雅人は絞り出した。
その言葉に一瞬だけきょとんと不意を突かれたような表情をした女は、ああ、と何かに思い当たるような素振りを見せた。
「私はヴォルシュ=マゴクのベアトリクス」
その名を聞いた瞬間、雅人は体に電撃が走ったかのような感覚を覚えた。
ベアトリクス!
その口上は戦いが始まる前に聞いていた。
その名前は――
「そう、君たちが魔将と呼ぶ存在だ」
女――ベアトリクスの言葉に、雅人は反射的に起き上がろうとする。
だがやはり体を苛む激痛はそれを許さず、彼をベッドに縛り付ける。
「無理をするな」
当のベアトリクスは涼しい顔のまま言う。
「こちらとしても争う気は無い。まずはゆっくりと体を休める事だ」
「何故」
どうして助けた。
自分達は敵同士ではないのか。
そう思いながらも、瞼に重さが宿る。
どうやら傷だらけの体が覚醒していられるのは、ここまでのようだった。
「私にも、恥は有る」
再び闇に沈もうとする中、ベアトリクスの声が聞こえる。
「自らの誇りを穢したくはなかっただけだ」
溶けていくような音を聞きながら、雅人の意識は再び暗黒の中へと落ちていった。
どうやらこの場所は、魔族に占拠された領域に有る民家のようだった。
長らく放置されていたそこで、雅人は療養する事となった。
そして、体を休める事一ヶ月。
「なんとか体は動くようになったな」
雅人はなんとか一人で動き回れる程度に回復をしていた。
軽く腕を回し、歩き回ってその具合を確かめるが、多少ぎこちない程度で怪我前と遜色の無い程度の動きにはなっていると雅人は感じた。
「驚くべき回復速度だ」
横でその様子を観察していたベアトリクスが、興味深そうな視線を送る。
「もしかしたら、君の
「俺の
自分の
だがもしかして、もっと隠された、自分では意識しない効能が有るのかもしれない。
「回復速度もそうだが、それだけ床に伏せれば体が弱るだろうに、その様子も無い」
そう言われて気づく。
確かに、寝たきりの後は筋肉が弱る為リハビリなんかが必要だと雅人も聞いた事が有った。
だが、そんなものが必要には感じない。
「私としては
一ヶ月間で、この魔将に敵意が無い事を雅人は理解していた。
そして、あの時何が有ったのかも彼女から全て聞かされた。
味方からの攻撃の巻き添えで皆が死んだ事。
唯一自分だけが生き残った事。
その自分をベアトリクスが助けた事。
「
雅人はそう思う。
これからの事を考えるなら、使いたくないでは済まない。
使わざるを得ない状況が確実に訪れるはずだ。
「何もしないで終われるか」
「良い意気だ」
だが、とベアトリクスは言う。
「今のままでは力が足りん。まずは、それを備えろ」
回復した雅人に、ベアトリクスは徹底的に剣術を仕込んだ。
召喚されてから教えられた形だけの促成栽培とは違う。
基礎から仕込んだ、正式な剣術。
その修練に、さらに一ヶ月を費やした。
今日も二人は剣を交える。
形稽古を終わらせた後の、打ち込み稽古。
打ち込み、とは言うが、隙が有れば容赦無く打ち返される、半実戦的なものだった。
「白の祭壇?」
稽古の最中。
ベアトリクスはそのような言葉を口にした。
「そう、
雅人の鋭い突きを受け流しながら、彼女はそう続ける。
「世界の中枢へと働きかけるあの場所であれば、あるいは」
受け流しからの切り返し。
刃と言葉を、ベアトリクスは同時に放つ。
「元の世界への帰還も叶うかもしれない」
日本へ帰れる。
その言葉に、雅人の心臓が一段と大きく弾んだ。
「帰れるのか、家に」
「確証はない。だが、可能性は有る」
暗雲立ち込めていた未来に、一筋の光が差し込んだように雅人には思えた。
暗中模索の中、ようやく現れた希望。
「異世界からの召喚など、まさに神の御業以外有り得ない。であるのなら、その神の力に縋る事で帰還が叶う可能性は、有る」
キン、と刃がぶつかる。
二人の間に僅かな鍔迫りの時間が訪れる。
「だがヴェネリサール王国の連中が大人しく君に協力はすまい。であるのなら、こちらから働きかける必要がある」
「それが出来る場所が
「残念ながら、闇の民の黒の祭壇へ君を連れて行く事は不可能だ。だが、白の祭壇であれば」
ヴェネリサール王国。
かつて光の民が一つであった頃は、宗教と文化の中心地であったこの場所には。
「そして幸運な事に、白の祭壇はこの
皮肉な事に、最も弱い人類生存圏に、最も重要な場所が集中していた。
人類は自分達の心臓がむき出しになって置かれていると、自覚できていない。
「帰れるのか」
その日雅人には目標が出来た。
絶対に帰るのだ。
あの懐かしくて平凡な日々に。
修行を重ねながら、自分の
その結果、興味深い事が分かった。
「こんな副産物が有るなんて」
自分が摂取した生物。
その力――筋力、生命力、その他生物が保有する全て――を、ほんの僅か、理解できない程微量だが、自分に取り込んでいる事が発覚した。
肉を食べれば、その動物の身体能力が数万分の1程度だが、取り込まれる。
本当に誤差のような量。
だが一日三食。
一年なら千食以上。
食べ続ければ、数%の上乗せになる。
たかが数%。
だが人より強靭で強い肉体を持つ動物の数%は、人に換算すれば馬鹿にならない数値になる。
少しずつだが、雅人の体は精強に作り変えられていく。
ゆっくりではあるが、着実な成長が可能。
彼の
そして――
ある日、体を鍛えていた雅人は水を飲もうと、無意識に水筒の方に手を翳していた。
届くはずもない距離で、ただ無意識にそうしただけだった。
だが、
ぱしり、と乾いた音をしながら手に収まる水筒を、驚愕の表情で雅人は凝視した。
「これは」
死んだはずの浩の
まさしくそれだった。
一度行えば、まるで何かが取っ払われたように、使い方が分かった。
浩のものと違い、他対象同士に能力を行使する事はできない。
だが自分とものを対象にして力を使う事ができると、当然のように理解できた。
「なんで」
「
呆然と呟く雅人の後ろから、声が聞こえた。
「ベアトリクス……」
「
その魂が潰える時、その残り香は仲間に託される。
「お前達の
何かを羨むように、ベアトリクスは目を細める。
「君の仲間は、最後まで君を案じて逝ったのだ。なんとも誇らしく、素晴らしい
雅人は無言で足元の石を拾い上げる。
おもむろに放り投げられたそれが、空中で止まる。
足に力を入れる。
地面がまるで水になったかのように、ずぶりと足がめり込んだ。
――千夏と哲也の
「馬鹿かお前ら」
最後の最後まで、お荷物の自分の事ばかり気にしていたのだ、あいつらは。
少しでも自分自身が生き残る事を考えれば良かったのに。
地面に一つ、二つ、雫が落ちる。
雅人の顔から溢れたそれは、留まる事を知らず数を増やしていった。
ベアトリクスは静かに踵を返した。
ゆっくりと雅人から離れ、振り向かずに行く。
この少年にはただ一人の時が必要だと、彼女も理解していた。
雅人はただ静かに泣いた。
あの日から初めて流した涙だった。
あの戦いから、三か月が経った。
「これでお別れだな」
今、雅人は身支度を整え、旅立とうとしていた。
決して長い期間ではなかった。
だが、充実した時間だったと思う。
「次
厳しく、だが笑顔で。
ベアトリクスはそう告げた。
「もう二度と会わない事を祈っている」
「ああ、俺もだ」
最低限だが、剣の使い方は身につけた。
まだまだ心許ない力しかない。
だが、もう決して無力ではなかった。
「最後の餞別だ」
そう言って、魔将はこめかみに手を当てる。
「請願要請――」
倒すべき敵として出会った。
だが思い返せば、この敵こそが一番親身な相手だったと雅人は思う。
「――戦地降臨」
最後の瞬間、雅人とベアトリクスの視線が交錯した。
言葉は無い。
だが、何かが確かに通じ合ったと二人は感じた。
雅人の姿が一瞬にして掻き消える。
魔族が占領した領域の際、そこへ雅人を転移させたのだ。
「さて、私も帰らねばな。皆も大分おかんむりだろう」
そう言い残し、ベアトリクスの姿も消える。
後に残ったのは、ただ荒れ果てた村だった。
先程まで二人が居たとは思えぬほどに静まりかえったその場所に、人が訪れる事は二度と無かった。