進撃の巨人の世界に15m級の無垢(?)の巨人として転生してしまった…… 作:感謝君
うだるような真夏の熱気に包まれたレベリオ軍港。その喧騒から遠ざかるにつれ、空気は次第に重く、淀んだものへと変質していった。
マーレの巨大な軍艦群が停泊する表の顔とは対極にある、廃棄された古い倉庫街。 ここは、マーレの光が届かない『暗部』であった。
高く積まれたまま放置された錆びた鉄材や、腐りかけた木箱の山が、巨大な迷路のように入り組んだ影を落としている。
潮の匂いに混じって、カビと鉄錆、そして微かなドブの臭いが鼻を突く。
その人気の無いジメジメとした土の匂いが色濃く漂うさらに奥深く。
無造作に生い茂った雑草と、壁面を侵食するように這い回る気味の悪い蔦に半ば飲み込まれた、今にも崩れそうな小さな小屋が、艦長である彼の視界に入った。
前を無言で歩いていた案内役の男──マーレの軍服を着た工作員が、その小屋の前でピタリと足を止めた。
彼は周囲に監視の目がないことを視線だけで素早く、かつ完璧に確認すると、迷いなくその朽ちかけた木製ドアのノブに手をかけた。
ギィィ……ッ。 長年油を差されていない蝶番が、耳障りで鈍い悲鳴のような音を立てて開く。
「入れ」
男が振り返ることなく、短く、抑揚のない単調な声音で促した。 有無を言わさぬ、そして一刻の猶予も許さない冷徹な響き。
艦長は無言で顎をしゃくり、護衛の一人に先行を命じた。
特務兵団の精鋭である護衛は、腰のホルスターに隠した銃のグリップにいつでも手をかけられる態勢のまま、警戒を一切緩めることなく薄暗い小屋の中へと足を踏み入れる。
ミシッ……。 腐りかけた床板が、鍛え上げられた大人の男の重みに耐えかねたように、軋む音を上げた。
窓は木の板で完全に塞がれており、隙間から差し込む一筋の光が、宙を舞う埃を白く浮き上がらせている。
だが、中には『誰も居なかった』。 壊れた木箱と、ボロボロの農具が転がっているだけの、ただの廃屋。
(……罠か?)
彼の脳裏に、最悪のシチュエーションがよぎり、全身の筋肉が瞬時に鋼のように強張った。
もしここにマーレの治安当局が潜んでいれば、即座に全員を射殺してでも海へ逃れなければならない。
だが、案内役の男は、特務兵団の張り詰めた殺気など全く意に介する様子もなく、小屋の部屋の隅に無造作に敷かれていた、ひどく黒く汚れたボロボロのマットを足の甲で乱暴にどかした。
すると、そのマットの下から現れたのは、土や木材ではなく、周囲の腐敗した廃屋には到底似つかわしくない、分厚く重厚な『鉄でできた床扉』であった。
男が、その鉄扉の取っ手を両手でしっかりと握り込み、顔をしかめながら重そうに持ち上げる。
ギィィィ……ガチャンッ!
分厚い鉄が擦れ合い、ストッパーが外れる重苦しい金属音が、狭い小屋の中に響き渡った。
ぽっかりと開いた暗黒の四角い穴からは、カビと地下特有の冷たい湿気を帯びた風が、フワッと吹き上がってくる。
艦長と十名の護衛らが、息を飲んでその漆黒の入り口を見守る中。 案内役の男は、入り口の脇に隠されていた古びたランタンにマッチで火を灯すと、振り返ることなく無言で、その奥に続く急な石造りの階段を降りていった。
「……続くぞ。足元に気をつけろ」
艦長の極めて小さな囁きに、護衛たちが静かに頷く。
続くように一人ずつ、その床扉の前に立ち、闇の中へと身を沈めていく。
苔むして滑りやすくなった石の階段を、足を滑らせないよう、しかし決して音を立てないように、慎重に一歩ずつ降りていく。
降りている間、誰一人として一言も発さない。
衣服が擦れる音すら極限まで抑え込まれている。
彼らは、壁内のあらゆる暗闘と巨人の恐怖を潜り抜けてきた『帝国特務兵団』の精鋭なのだ。 暗闇の中の行軍など、慣れたものだった。
だが、それでも。 ここは海の向こうの大国、マーレの軍港の地下深くである。
彼らの頭上の地面を、今この瞬間もマーレの兵士たちが歩いているのだという事実が、空間の酸素を薄く感じさせるほどの極限の緊張感となって、彼らの心臓をギリギリと締め付けていた。
やがて、長く急な階段を降りきると、ランタンの淡い光が照らし出す、数メートル程真っ直ぐに続く幅1.5メートル程の狭い通路が現れた。 土壁は湿気で濡れ、不気味な光沢を放っている。
その通路の突き当たりに、分厚い鉄板で補強された頑丈なオーク材の扉が、彼らの行く手を阻むように重々しく構えていた。
案内役の男は、ランタンを少し高く掲げ、その扉の前でピタリと立ち止まった。 そして、独特なリズムで静かにノックを三回叩く。
──────コン、コン、コン
数秒の重い沈黙。
「泥は落とした。床は汚れない」
男が、扉の向こう側にいるであろう誰かに向けて、合言葉らしき不可解な言葉を、低い声で口にした。
カチャリ……
内側から、幾つもの重い鍵が外される金属音が響く。 そして、キィィッという鋭い音と共に、重厚な扉がゆっくりと内側へと引き開けられた。
「……彼らが、『クモ』の言っていた奴らか」
開かれた扉の向こう側から、薄暗い部屋の空気を背負って姿を現したのは、深緑色のベレー帽を深く被った、少しやつれた顔の細身の男だった。
ベレー帽の男は、ランプの光に照らされた艦長と、その後ろに音もなく控える十名の黒ずくめの男たちを、値踏みするように冷ややかな視線で一瞥し、案内役に向かって短く言葉を返す。
案内役の男が、無言のまま顎をしゃくって「中へ入れ」と合図を送った。
艦長は小さく頷き、先頭を切ってその部屋の中へと足を踏み入れた。
ぞろぞろと十名の護衛らも、死角をカバーする完璧な陣形のまま部屋の中へと展開する。
そこは、古い地下の貯蔵庫を改造したような、ひどく殺風景で淀んだ空気の広めの空間だった。
だが、彼の視線は、部屋の造りよりも、そこに居た者たちへと釘付けになった。
そこには既に、十数名程の男女が、壁際や木箱の上に腰掛け、あるいは武器の手入れの手を止めて、鋭く吟味する様に立ち尽くしていた。
彼らこそが、マーレの厳重な監視下で命を懸けて活動してきた、エルディア復権派の構成員たちだった。
彼らの瞳には、恐怖も、絶望もない。 あるのは、いつ『楽園送り』にされるかも分からない極限の死線の中で削り出された、狂気にも似た渇望と、研ぎ澄まされた獣のような獰猛な光だけだ。
「……遠路はるばる、地獄へようこそ」
部屋の最奥。古びた木机に腰掛けていた、顎に無精髭を蓄えた大柄な男が、ゆっくりと立ち上がった。
彼がこの場を仕切るリーダーなのだろう。 抑揚のない、感情を極限まで押し殺した単調な声で、歓迎の言葉と最終的な確認を口にする。
「お前達が、島からの『迎え』で良いんだな?」
「ああ」
艦長は、特務兵団の艦長としての威厳を崩すことなく、低く、しかし力強い声で応えた。
相対するように立ち並ぶ、傷だらけの彼らを見回し、彼は本題を切り出した。
「それで……我々が運ぶべき『積荷』はどれだ」
今回の作戦の最重要目的。 エルディア復権派の中から、今後の新エルディア帝国にとって有用な情報と知識を持つ精鋭を回収し、パラディ島へと無事に送り届けること。
彼の問いかけに、部屋にいる構成員たちが互いに顔を見合わせ、重い沈黙が流れた。
すると。
「────俺だ」
背後から、声が上がった。 艦長が振り返ると、そこには、先程まで彼らを案内し、ずっと無言を貫いていたあのマーレ軍服の男が立っていた。
「……ボス。本当に行くんですかい?」
先程のベレー帽の男が、案内役の男に向かって、ひどく切羽詰まった、焦燥感に満ちた声で食い下がった。
「いくら何でも、ボス自身が行くことは──────」
「『クモ』からの勅命だ」
案内役の男が、ベレー帽の男の言葉を、冷たく鋭い声で一蹴した。
「この言葉の意味を、理解出来ないお前らではないだろう」
「っ……」
その絶対的な一言に、ベレー帽の男も、他の構成員たちも、悔しそうに唇を噛み締めながら押し黙るしかなかった。
案内役……いや、彼らレベリオ収容区の復権派工作員たちを束ねる『真のリーダー』が、軍帽を深く被り直しながら、艦長ら護衛たちを通り抜け、復権派の仲間たちの前へと進み出た。
「俺がお前達の運ぶ『積荷』。『クモ』の腹心、レオンだ」
男──レオンは、これまで貼り付けていた機械のような無表情な仮面のまま、艦長らに向けて右手を真っ直ぐに差し伸べた。
「新エルディア帝国特務兵団所属、ヴァルターだ」
艦長──ヴァルターは、差し伸べられたその手を力強くぐっと掴み、互いの骨が軋むほどの固い握手を交わした。
その手は、幾度も血を洗い流してきたであろう、ひどく分厚く、マメだらけの無骨な手だった。
(『クモ』の腹心を、自らパラディ島へ送るというのか……我々に対する協力姿勢に、一切の出し惜しみはしないと言うことか)
ヴァルターは内心で、カルヴィ元帥──『クモ』が、新エルディア帝国とエルヴィン総司令に対して寄せる期待の大きさと、彼らが背負わされた任務の途方もない重圧を改めて実感し、背筋が粟立つのを感じていた。
「お前達が本当に命を預けるに足る、そして信頼に足る人物か、マーレの海を出し抜く実力を兼ね備えているか……ここまで、じっくりと見せてもらった」
レオンは、ヴァルターと握手を交わしたまま、彼の瞳の奥を真っ直ぐに見据えて語った。
表情は工作員特有の冷たい仮面を保ったままだが、その言葉の内容は、特務兵団に対する絶賛の嵐だった。
「もし、少しでも隙を見せるような腑抜けた奴らであれば、俺が行くリスクは冒さず、コイツらの中から何人か適当に見繕って乗せるところだったが…… 艦のマーレ軍への偽装具合、上官としての揺るぎない佇まい、敵地において一切警戒を怠らない慎重さ。そして何より、これだけの人数でありながら、足音や気配の消し方まで……俺の想像を遥かに超えていた」
「『クモ』の腹心に、そこまで高く評価して頂けるとは、大変光栄だ」
ヴァルターは、固い軍人としての表情は崩さないまま、しかしその評価に対しては、彼らが重ねてきた血を吐くような訓練の成果が実を結んだ証として、素直に受け止めた。
「積もる話は、無事にパラディ島に着いてからにしよう」
レオンはヴァルターの手を離すと、くるりと踵を返し、薄暗い地下室に残る十数名の同志たち──エルディア復権派の仲間たちへと向き直った。
彼らの瞳には、長年苦楽を共にしてきたリーダーとの別れに対する寂しさと、彼に未来を託すという悲壮な決意が入り交じっていた。
「お前達!」
レオンの、腹の底から絞り出した、熱く力強い声が地下の密室に響き渡った。
「俺はこれから、一足先にあの『エルディア人の楽園』へと向かう! ……『クモ』と、島の悪魔たち──いや、我らの真の同胞たちが描く、壮大な計画の足がかりとなるためにだ!」
レオンは、両手を強く握り締め、彼らの魂を揺さぶるように叫んだ。
「俺たちの百年に及ぶ屈辱は、もうすぐ終わる! 我々エルディア人の真の解放は、もう間もなくだ! いいか! 俺が必ず、パラディ島から迎えの船を連れて戻ってくる! 来たるその日まで……絶対に、誰一人として死ぬな!
──────エルディアの為に!」
それは、マーレの暗部で絶望と戦い続けてきた男の、魂の底からの激励であった。
「「「「エルディアの為に!!!」」」」
ベレー帽の男をはじめ、十数名の構成員たちが、涙を堪えながら、右の拳を天高く強く叩きつけ、自由を掴み取らんとする悲痛で、しかし圧倒的な熱量を持った咆哮を上げた。
薄暗く、カビ臭い地下室の空気が、彼らの熱気と希望によってビリビリと震え上がる。
ヴァルターは、背後に控える護衛たちと共に、そんな彼らの血を吐くような魂の叫びを静かに見据えていた。
彼らが百年間、壁の外でどれほどの地獄を味わい、どれほどこの解放の日を夢見てきたのか。
(……あぁ。我々が命を懸けて海を渡ってきた意味は、間違いなくここにあったのだ)
ヴァルターは、特務兵団の冷徹な仮面の奥で、己の心臓の奥底が、彼らの熱に当てられてどうしようもなく熱く、激しく滾り始めるのを感じていた。
必ず、彼らを救い出す。 新たなエルディアの夜明けは、もうすぐそこまで来ているのだ。