進撃の巨人の世界に15m級の無垢(?)の巨人として転生してしまった…… 作:感謝君
848年8月7日
新エルディア帝国の政治と軍事の中枢、帝都ミットラス。
その一角にそびえ立つ、重厚な石造りの『帝国特務兵団』専用庁舎の諜報部フロアにて。
書類の束と格闘していた俺───レオンは、ふと羽ペンの動きを止め、窓から差し込む眩しい真夏の太陽の光に目を細めた。
(……俺が、あの地獄のようなマーレから、このパラディ島に上陸してから……早くも一ヶ月が経ったのか)
淹れられたばかりの温かい紅茶の香りが、微かに鼻腔をくすぐる。
マーレのレベリオ収容区の地下で、カビと鉄錆の臭いに塗れながら、いつ治安当局に踏み込まれて『楽園送り』にされるかという極限状態に身を置き続けていたあの日々が、もはや遠い前世の記憶のようにすら感じられた。
それほどまでに、この島での一ヶ月間は、俺の工作員としての、いや、一人の人間としての常識と価値観を、完膚なきまでに叩き壊し、そして再構築するのに十分すぎる時間だったのだ。
はじめに、俺たちを乗せた偽装工作船がパラディ港に到着し、その全景を海から視界に収めた時のあの衝撃といったら。
冷徹な工作員としての仮面を何十年も被り続けてきた俺でさえ、思わず甲板の上で動きを止めてしまった程だ。
マーレの誇る大規模な軍港にも一切引けを取らない、巨大なコンクリートの防波堤と、幾基も立ち並ぶ最新鋭の蒸気式クレーン。
海兵たちと作業員たちが笑顔で交差し、効率的かつ洗練された配置で稼働する、巨大な物流の心臓部。
そこから内陸の帝都ミットラスまでを一直線に結ぶ、約2000kmにも及ぶという超長大な鉄のレール。
黒煙を吐き出して疾走する蒸気機関車の車窓から見た、見渡す限りに広がる青々とした農地、稼働する巨大な工場群、そして氷爆石を掘り出す活気あふれる採掘場。
それはまさしく、長年迫害されてきた我々エルディア人が夢にまで見た『楽園』と称するに相応しい、圧倒的な文明の発展具合であった。
そして何より、俺の度肝を抜いたのは、この国の『信仰と力の象徴』であった。
先日、諜報部の任務の一環で、パラディ港から壁内へと向かう道中、俺は帝国の「観光地」───もとい「聖地」と称される『アトラス湖』と呼ばれる場所を案内されたのだ。
半径10kmにも及ぶ、途方もなく広大な円形の湖。 真夏の太陽の光を反射してキラキラと輝くその水面は、対岸が霞んで見えないほどで、まるで海がそのまま内陸に現れたかのように錯覚してしまう程の広大さだった。
その湖畔で、ふと、観光……もしくは三神教の巡礼に来ていたであろう数人の若い男たちの集団が、熱を帯びた声で話し合っている内容に、元来の工作員としての癖で無意識に聞き耳を立ててしまった時のことだ。
『見ろよ……これが、あのアトラス様が巨人体となって、拳で大地を叩きつけて生み出されたという伝説の湖だぜ……あの御方が帝国の柱として君臨し続ける限り、俺たち帝国民の未来と繁栄は、約束されたも同然だな』
『あぁ、全くだ。その上、息を呑むほどに見目麗しいってんだから……くぅぅぅ! マジで嫁にしたい……!』
『おい! 馬鹿言うな! 過激派の信徒に聞かれたらどうするつもりだ!? 命がいくつあっても足りねぇぞ!?』
『男であるなら誰でも一度は思うだろ!? あの神がかり的な黄金比のお美しい顔貌! ユミル様とリーシェ様も、勿論人知を超えた恐ろしいほどの美しさだが、やはりアトラス様の前では一歩届かない。……もし、あのお方を独り占めできたら……!』
『分かったから、頼むからもう喋るな! 冗談抜きで殺されるぞ!?』
周囲を憚ることもなく、興奮冷めやらぬ様子で交わされていた若者たちの会話。
それを聞いた時の俺の脳内は、完全にショートしかけていた。
(……『理外の巨人』が、ただ拳を叩きつけただけで、この湖を生み出しただと!? 半径10kmにも及ぶ、この果てしなく広大なクレーター湖を!?)
兵器だとか、戦略だとか、そういう次元の力ではない。文字通り、地形を書き換える神の暴力だ。
だが、俺の驚きはこれだけでは済まなかったのだ。
この帝国の絶対的な柱として存在するという、女神アトラス。
彼女が自らの硬質化結晶を用いて単独で創り出したという、直径1200km、高さ50mの超長大な防壁『ウォール・アトラス』。
太陽の光を反射して、神々しいまでの青白い光を放つその巨大な長城を潜り抜けた時の畏怖は、今でも俺の魂に深く刻み込まれている。
さらに聞けば、かつて存在していたという『三重の壁』はすでに彼女たちの手によって解体され、その壁の中に眠っていた約五十万体以上の超大型巨人は、すべて人間の姿に戻され、現在は帝国の新たな労働力として開拓や生産活動に励んでいるとのことだった。
街並みは清潔で、犯罪も少なく、すでに近代国家として在るべき発展を遂げている。
マーレに潜伏していた頃、『クモ』───カルヴィから、ある程度の島の異常な発展と、彼女たちの規格外の力についての情報は伝えられていた。
だが、ここまで常識を超えた、神話の世界がそのまま現実になったような存在であるとまでは、流石に伝えられていなかった。
「……ふぅ……」
俺は、羽ペンをインク壺に戻し、休憩がてら背もたれに深く寄りかかって、窓の外の青空を見上げながら深く息を吐いた。
考えれば考えるほど、マーレがこの島に勝てる要素など万に一つも存在しない。
俺たちが血反吐を吐いて命を懸けてきたあの陰惨な工作活動すら、彼女たちからすれば、ただの盤面の小さな埃を払う程度の出来事に過ぎなかったのだろう。
「おっ、レオンじゃん。どうだ? 諜報部の皆とは、もう上手く馴染めてるか〜?」
俺がそんな風に、自身の背負ってきた過去と現在のスケールの違いに黄昏ていると。 不意に、ひどく底抜けに明るく、馴れ馴れしい声が掛けられた。
振り返ると、そこには箒とチリトリを持った、燃えるような赤髪の女性清掃員が、ニカッと屈託のない笑顔を浮かべて立っていた。
「……あぁ、問題ない。皆、よくしてくれている」
俺は立ち上がり、壁にもたれかかりながら、少しだけ眉をひそめて彼女を見た。
「だがな……イザベル。前から思っていたが、お前は少し、俺や他の職員に対して馴れ馴れし過ぎるぞ。 そうやって裏表なく、所構わず誰にでも明るく話しかけまくるから……勘違いした男共に、妙なちょっかいを出されたり、言い寄られたりするんだぞ」
俺は、自分でもらしくもないと思いながらも、ついお節介な説教を垂れてしまった。
工作員として、他者に付け入る隙を与えないよう感情を殺して生きてきた俺からすれば、彼女のあの危ういほどの無防備な明るさは、見ていてどこか放っておけないところがあったのだ。
俺の堅苦しい小言に対し、イザベルは「えへへ〜」と悪びれる様子もなく頭を掻いている。
すると、廊下の奥から、苛立ちを含んだ低い男の声が飛んできた。
「おい、イザベル。お前、まだあっちの西区画の清掃が残ってんだろ。油売ってねぇで手ぇ動かせ」
現れたのは、モップを肩に担ぎ、やれやれといった表情でため息をついている金髪の清掃員、ファーランだった。
「あ〜、悪ぃファーラン! アタシ、ちょっと疲れちゃったからさぁ、残りはやっといて〜!」
イザベルは、全く反省の色を見せずに、自分の持っていた箒をファーランの方へヒョイッと押し付けようとする。
「はぁ!? ふっざけんな! お前、今日で何回目なんだよそれ!? 先週も同じ手口で俺に押し付けただろ!」
「良いじゃんかよー、ファーランは掃除上手いんだからさー!」
「上手い下手じゃねぇ! てめぇの仕事はてめぇでやれ!」
(……騒がしいな、マジで)
俺は、ギャーギャーと言い合いを始めた二人の清掃員を冷めた目で見つめながら、小さく息を吐いた。
諜報部という国家の最高機密を扱うフロアで、清掃員がこれほどまでに自由奔放に大声を出して喧嘩している光景など、マーレ軍では即座に銃殺されてもおかしくない。
だが、この庁舎の職員たちは、彼らの騒ぎを気にするどころか、どこか微笑ましいものを見るような目でスルーしているのだ。
俺が、これ以上彼らの痴話喧嘩に付き合うのも時間の無駄だと思い、場所を変えようと壁から背中を離した、その時だった。
「あっ、そういやさ!」
不意にイザベルが、ファーランの説教を強引に遮り、まるで「今日のお昼ご飯、何にする?」とでも言うような、買い物にでも行くような軽い調子で口にした。
「アトラス様達が、今日この庁舎に視察しに来るらしいぜ! 最近全然喋ってなかったからさ、ウチで飼ってる不機嫌顔な猫の話でもしよっかなー!」
「…………は?」
俺の思考が、一瞬にして完全にフリーズした。
「馬鹿野郎、仕事終わらせてからにしろ!」
ファーランがキレてツッコミを入れているが、俺の耳にはもはやそんなものは届いていなかった。
(……神が、視察だと? というか、コイツ今、『最近喋ってない』って言ったか?)
俺の頭の中で、情報量の濁流が凄まじい勢いで渦を巻き始めた。
一撃で地形を書き換え、新エルディア帝国の絶対的な柱として君臨し、百数十万の民衆から狂信的に崇拝されている、生きた最高神。
そんな雲の上の、いや、空のさらに上の存在に対して、「最近喋ってないから飼い猫の話をする」だと?
(何故、帝国の柱である三柱の女神たちと、こんな一介の清掃員が顔馴染みなんだ……? いや、そもそも……こいつらは、一体何者なんだ……?)
彼らが、あの『人類最強の男』、特務兵団兵士長であるリヴァイ・アッカーマンの同郷であり、かつて地下街で行動を共にしていた仲間だということは、すでにこいつら自身の口から聞かされている。
だが、俺は工作員としての疑り深い性分から、その話をどこか眉唾物だと疑っていたのだ。
(……もしそれが事実だとして。何故、これほどの上層部との最強の人脈を持っていながら、コイツらは特権階級にふんぞり返ることもなく、こんな庁舎で『ただの清掃員』なんかやってやがるんだ?)
そうだ。おかしい。 思えば、この特務兵団の庁舎にいるエリート職員や幹部たちが、こいつら二人を相手にする時は、常にどこか遠慮がちで、『敬語』で接している姿を何度も目撃している。
たかだか、掃除係の平職員相手に、だ。
そして、当の本人たちは、そんな特別扱いを全く意に介さず、俺のような新入りの工作員相手にもタメ口で気さくに絡んできている。
怪しいなんていう次元じゃない。
彼らの存在そのものが、この国家のパワーバランスの裏側にある「見えない闇」を象徴しているのではないか。
俺が、彼ら二人に対する認識と態度を根本から改めるべきか、冷や汗を流しながら真剣に悩んでいた、その時だった。
「……あ、おい!」 「……えっ?」
廊下の奥の方から、突如として、フロアの職員たちが一斉に作業の手を止め、息を呑むような『どよめき』の声が波のように押し寄せてきた。
「あっ、アトラス様だ! 久しぶりー!!」
ファーランに説教されていたイザベルが、そのどよめきの中心に向かって、燃えるような赤髪を揺らしながら、あろうことか大手を振って神の名を気さくに呼び捨てたのだ。
「あっ! ちょいイザベル! まだ俺の話は終わってねぇぞ!」
ファーランが慌てて制止しようとするが、時すでに遅し。
俺は、心臓を凍りつかせながら、彼女が手を振ったその目線の先を追うように、ゆっくりと廊下の方へと振り向いた。
──────その瞬間。 俺の網膜に、この世のすべての奇跡を具現化したような、圧倒的な『美の暴力』が飛び込んできた。
「久しぶり、イザベルさん。猫ちゃんは元気にしてる?」
鈴を転がすような、どこまでも透き通る清らかな声。
中央に立つのは、背中まで伸びる艶やかな黒髪を春風のように靡かせ、この世のすべての慈愛を込めたような眼差しでイザベルに微笑みかける、女神アトラス。
その黄金比で造形された顔立ちは、噂に違わぬ……いや、若者たちが熱狂するのも当然と納得させられるほどの、息を呑むような美しい女性であった。
「やっほー、イザベルちゃん! また掃除サボりー?」
彼女の左側には、アトラスの腕にピッタリと抱きつき、身を寄せるようにしながら、鈍色の金髪を揺らして純真無垢な笑みを浮かべる美少女。
二千年の歴史を司る神話の神、始祖ユミル。
「ふふっ。あなた、またファーランに仕事押し付けて説教されてたでしょ。少しは真面目に働きなさいな」
そして右側には、アイスブルーの透き通る瞳で、どこか出来の悪い妹を暖かく見守るような、それでいてアトラスの隣という絶対的な特等席を譲らない威厳を放つ、美しい金髪の女性。
一個旅団規模を単騎で殲滅するという、人類最強の鬼神、リーシェ・ベニアだ。
(っ……これが、新エルディア帝国を根底から支える、三柱の女神……!)
彼女らが廊下に立ち、微笑み合っているただそれだけで。 無機質な特務兵団の石造りの庁舎が、まるで荘厳な教会のステンドグラスを通して光が差し込むような、宗教画をそのまま切り取ったかのように鮮やかに映えていた。
周囲の職員たちは、完全に仕事の手を止め、頬を赤らめたり、恍惚とした表情で両手を組んだりと、すでに完全に信仰の対象として彼女たちを拝み倒している。
俺は、その圧倒的な神聖さと、イザベルのあまりにも日常的すぎる会話のギャップに挟まれ、完全に顎が外れたような顔をして放心していた。
そんな俺の横に、ファーランがモップを持ったまま歩み寄り、深々と、本当に深い溜息をついた。
「ったく、はぁ……あいつ、いつまで経っても物怖じしねぇガキのまんまだ……ヒヤヒヤするぜ」
ファーランのその呟きに、俺は硬直した首をギギギと動かし、彼へと顔を向けた。
「……ファーラン」
俺は、呆然としながら、長年マーレの暗部を生き抜いてきた己の常識が完全に崩壊していくのを感じながら、思わずそう聞いてしまった。
「お前達二人は……一体、何者なんだ?」
国家の最高神と気さくにタメ口で話し、人類最強の兵士と同郷でありながら、この庁舎で箒を振り回している彼ら。
どんな恐ろしい裏の顔を持っているのか。どんな特権階級の隠し子なのか。
だが、俺のその悲壮感すら漂う真剣な問いに対して。
「んあ?」
ファーランは、心底不思議そうな顔をして首を傾げた。
「……何者って聞かれても……俺たちは、見ての通り、ただの『清掃員』としか言いようがねぇんだが……?」
彼は、本当に、嘘偽りなく、一切の裏の顔などないというように、頭をポリポリと掻きながら素でそう返してきたのである。
(……何なんだ、本当に……この国は……)
マーレでの血で血を洗う権力闘争も、命を懸けた工作活動も。
このパラディ島に存在する、圧倒的な力と、それに裏付けされた究極の『平和と緩さ』の前では、すべてが馬鹿馬鹿しい茶番に思えてくる。
どうやら俺は、このとんでもない新エルディア帝国において、ひどく奇妙で、そして最高に気の良い清掃員たちと知り合いになってしまったらしい。
俺は、廊下の奥で「今度、猫ちゃん見に行ってもいい?」と目を輝かせる女神と、「おう! いつでも来いよ!」と笑うイザベルの、神聖さと日常の緩い雰囲気が見事に共存する目の前の光景を眺めながら。
これまで長年、マーレの暗部で冷徹に張り詰めていた自身の表情筋が、無意識のうちにスッと解け。
ふっと、自分でも驚くほど自然に、口角を緩めて穏やかな笑みをこぼすのだった。