進撃の巨人の世界に15m級の無垢(?)の巨人として転生してしまった…… 作:感謝君
第二百五十七話
849年2月27日
ザザァァァン……ザザァァァン……。
一定のリズムで重厚な外航船の船腹を叩きつける冷たい波の音と、遠くで響く潮騒だけが、一切の生活音を排除した静かな特等船室に響き渡っていた。
分厚いガラス窓の向こうには、どこまでも果てしなく広がる、冬特有の重く沈んだ鉛色の海原が横たわっている。
凍てつくような冷たい海風を真正面から受けながら、アズマビト家が所有する最新鋭の蒸気外航船は、白い航跡を長く引き、一路、悪魔の巣窟から神々の座へと変貌を遂げた島──パラディ島へと真っ直ぐに針路を取っていた。
私は、一人、豪奢な装飾が施された船室の机の前に腰掛けていた。
磨き上げられたアンティーク調の木製の机の上には、幾つかの海流が記されたパラディ島の周辺海図と、我が家の優秀な諜報員たちが持ち帰ってきた、分厚い外交文書や極秘の報告書の数々が散らばっている。
だが、私はそれらの書類へと視線を落としてはいるものの、その恐るべき内容のすべては、すでに私の脳髄に深く、呪いのように刻み込まれていた。
私は、手元に置かれたティーカップを静かに持ち上げ、湯気の立つ最高級の紅茶に一口だけ、ゆっくりと口を付けた。
芳醇な茶葉の香りが鼻腔を抜けるが、今の私の乾ききった心と胃の腑を潤してくれることはない。
(……新エルディア帝国)
数ヶ月前、あの百年間世界を恐怖と軍事力で支配し続けてきた超大国マーレが、突如として『無条件降伏』を大々的に宣言した対象国。
我々アズマビト家の正規の外交ルートで得た情報と、裏社会の諜報員たちが命懸けで裏付けた情報に、もはや殆ど差異は無かった。
「……三柱の女神、ですか……」
私は、紅茶の熱気を細く口から吐き出しながら、ポツリと、その常軌を逸した単語を零した。
机の上の報告書に記された、その存在の概要。
新エルディア帝国を根底から支え、民衆から狂信的な崇拝を集める、絶対的な『本物の神々』。
あの、殆ど血も流さずにマーレという大帝国を内部から解体させ、これ程までに強大な力と圧倒的な技術力を手にするに至った、すべての主因。
報告書の活字を追うだけでも、私の背筋には氷のような悪寒が走る。 彼女ら自身が有する力は、もはや人間の軍事力の範疇を完全に逸脱している。
一撃で大地の地形を書き換えるという『理外の巨人』アトラス。
二千年の時を超えて現世に受肉した、すべてのエルディア人の魂を束ねる『始祖ユミル』。
そして、一個旅団規模の軍勢を単騎で殲滅するという、人類最強の鬼神『リーシェ・ベニア』。
それこそ、全世界の軍隊を束ねて敵に回したとしても、お釣りが返ってくる程の、文字通りの『終末兵器』たち。
(……ヴィリー・タイバー様。……貴方は、この恐るべき事実をすでに完全に把握していたからこそ……私に、あの様な悪魔の提案をなされたのですね……)
私は目を閉じ、数ヶ月前の夏、マーレのタイバー家本邸の来賓室で交わした、あの背筋の凍るような密約を思い返していた。
マーレが保有する、数十年分の旧式兵器や膨大な弾薬といった『軍需物資』を、敵国である中東連合へと、私を通じて極秘裏に横流しするという契約。
自国の首を絞めるようなその不可解な行動の真意が、今になって、あまりにも残酷なまでに美しく繋がったのだ。
マーレ製の武器が、前線にいる中東連合の末端の兵士たちにまで大量に出回れば、当然彼らも気付くはずだ。
『マーレの上層部は完全に腐敗しきり、自国の軍需物資すら管理できずに敵国にまで横流しされている』と。
そうして、中東連合の兵士たちの心に「マーレ恐るるに足らず」「我々の勝利は確実だ」という強烈な慢心と、勝ち戦への揺るぎない確信を植え付けた。
その、彼らの熱狂と野心が最高潮に達した、まさにその絶妙なタイミングで。
マーレ政府は、突如として世界に向け、大々的に『無条件降伏』を宣言したのだ。
それも、中東連合に対してではなく……『新エルディア帝国』という、これまで歴史の表舞台に存在しなかった、強大で未知の国に対して。
中東連合の兵士たちは、その『エルディア』という忌まわしき名から、即座に連想し、気付かざるを得なかっただろう。
マーレが、あのパラディ島の悪魔たちに魂を売り渡し、屈服したという事実を。
そして、彼らが次に標的とするのは、侵攻の準備を整えていた自分たち『中東連合』であるという絶対的な恐怖を。
勝利の確信という名の高みから、突如として叩き落とされた『島の悪魔たちの目覚め』という絶望的な情報の羅列。
その、計り知れない心理的落差を利用することで、百万の軍勢を戦わずしてパニックに陥らせ、内側から完全に自壊させたのだ。
(これが、新エルディア帝国の頭脳……エルヴィン・スミスという男と、ヴィリー様が共同で描いた、世界を覆す盤面操作……)
そして、我々アズマビト家は、その裏取引によって、中東連合からヒィズル国の国家予算をも凌駕する莫大な資産と権力を手にし、ついに国を代表する『正式な外交使節』としての確固たる役割を得る事が出来た。
だが……私は、小さく震える手で自身の額を押さえた。
(まさか……私がこうして特使としてパラディ島へ向かうことすらも、彼らは最初からすべて予見して、あの提案をしたのでしょうか……)
もし、あの日私がタイバー様からの提案を怪しんで蹴っていれば。
没落の危機にあったアズマビト家は財政難で完全に力を失い、私がこの大役を担い、『特使』としてあの島へ向かうことなど決してなかっただろう。
彼らが、横流しで得た莫大な利益のすべてを、惜しげもなく我々に委ねた本当の理由。
それは、アズマビト家に富を与え、ヒィズル国の外交権を握らせることで。 遠回しに、今後のパラディ島とヒィズル国との『国交樹立と外交交渉』において、自分たちの都合の良いように、そして最も円滑に交渉を進めるための、完璧な『根回し』だったとしたら……。
「……恐ろしい……何重にも張り巡らされた、凄まじい盤面操作……」
私は、誰もいない船室で、心の底からの畏怖と戦慄を込めて呟いた。
政治も、軍事も、そして我々のような老獪な商人の欲望すらも、彼らはすべて計算式の中に組み込み、盤上の駒として完璧に操作しているのだ。
資源、武力、工作力、諜報力、政治基盤。 どれ一つ取ってみても、今の我々では、あの超帝国に対して全く手も足も出ない。
私は、冷めた紅茶のカップをソーサーに戻し、深く息を吐き出してから。
今回の訪問における『真の目的』であり、最後の希望とも言える、一人の少女について考えを張り巡らせた。
(……ミカサ・アッカーマン)
私の脳裏に、諜報員が持ち帰った一枚の隠し撮りの写真が浮かび上がる。 帝国で絶対的な人気を誇る天才画家、エレン・イェーガー。その傍らに常に影のように控え、彼女を護り抜いている、漆黒の髪を持つ東洋人の少女。
(私がこの極秘の特使として派遣された、真の目的……。我がヒィズル国に伝わる『失われた将軍家の末裔』である可能性が、極めて高い少女……)
百年以上前、パラディ島に取り残されたとされる将軍家の忘れ形見。
もし彼女が、その直系の末裔であることが証明されれば。我々アズマビト家は、何としてでも彼女を保護し、本国へと迎え入れなければならない。
彼女の血筋こそが、我が一族の権力を、ヒィズル国内で永遠に磐石なものとするための、唯一絶対の『大義名分』となるのだから。
私は今回の面会要請にあたり、表向きは『帝国が誇る天才画家の作品に感銘を受け、是非ともエレン・イェーガー殿と直接面を合わせたい』と、外交文書で伝えている。
彼女が同席すれば、必ずその護衛であるミカサ・アッカーマンも共に現れるという心理を突いた、商人としての老獪な一手だ。
だが、正直な話……これは、あまりにも危険な『賭け』だった。
もし、目的の少女が将軍家の末裔ではなかった場合。 あるいは、彼女に同席を拒否された場合。
我々は、新エルディア帝国に取り入るための最大の楔を失い、また一から別の手を考えなければならない。
(……いや。あの悪魔的な工作力と知謀を持ち合わせている、エルヴィン・スミス総司令です。……我々のこの遠回しな『真の目的』には、とうの昔に気付いていると考えるべきでしょう……)
あの男が、単なる一介の絵師のファンという名目を鵜呑みにして、のこのこと交渉のテーブルに現れるはずがない。
すべてを見透かした上で、あえて我々の要求を飲み、彼女たちを同席させる裏に、一体どんな恐ろしいカウンターの罠を仕掛けているというのか。
(……今のヒィズル国に、そしてこの私に、あの新エルディア帝国に対して差し出せる『カード』は……正直な話、皆無に等しい……)
技術援助を餌にしようにも、彼らはすでに独自で蒸気機関を実用化し、近代化を急激に推し進めている。
資源においても、パラディ島には世界を凌駕する莫大な未知の鉱物資源が眠っており、彼ら自身で完結している。
外交面でも、彼らはすでに旧マーレの植民地やレベリオを傘下に収め、強固な経済圏を確立しているのだ。
資源も、技術も、外交のパイプも、土地も武力も。何もかもを、彼らはすでに十二分に持っている。
そんな完全無欠の超帝国に対して、下手に強引な手を取ったり、少女の身柄を盾に不当な要求を突きつけたりすれば。
瞬く間に、彼らの怒りを買い、何十倍、何百倍もの絶望的な報復となって、我々に返されることになるだろう。
「……はぁ……」
私は、重圧で軋む胃の腑を押さえながら、深く、ひどく疲労した溜息をこぼした。
外交官として、一族の長として、決して抱いてはならない弱音が、静かな船室の空気に溶け出していく。
(……不謹慎かもしれませんが……。どうか、彼女が将軍家の末裔で無いことを、祈りましょう……)
私は、自らの無力さを噛み締めながら、皮肉な願いを心の中で呟いた。
(……すでに血筋が途絶えていると分かれば。……これ以上、あの恐ろしい帝国と関わる理由を失い、素直に諦めて、前に進むことが出来るのですから……)
窓の外では、容赦のない冬の波が、不気味なほどの静けさで船腹を打ち据え続けている。
私の乗るこの船が、希望の光へと向かっているのか、それとも底なしの深淵へと自ら身を投げ出そうとしているのか。
冷めきった紅茶の最後の一滴を飲み込みながら、私はただ、迫り来る未知の神々との対面に、己の商魂と命のすべてを懸ける覚悟を静かに固めるのだった。