進撃の巨人の世界に15m級の無垢(?)の巨人として転生してしまった…… 作:感謝君
パチッ……と、爆ぜる薪の音だけが、不気味なほど鮮明に耳に届いた。
一通り語って満足したのか、あるいは我々という存在すら既に彼女の意識の端から消え去ってしまったのか。
リーシェ・ベニアは、自身の紡いだ狂気的な純愛の余韻に浸るように恍惚とした笑みを浮かべたまま、愕然として固まる我々を置いて、一切の足音を立てずにタープの下から立ち去っていった。
彼女の背中が夜の闇に完全に溶け込み、気配が消失してなお、タープ下の空気は凍りついたままだった。
数十秒、いや、数分はそうしていただろうか。
最初に沈黙を破ったのは、私の斜め向かいに座るミケ・ザカリアスだった。
「……嘘や虚張の匂いは、一切しなかった」
ミケは深く、ひどく深く息を吐き出しながら、忌々しげに鼻根をつまんだ。
「あれは狂人の妄言ではない。
あの女は本気だ。本気で『知性を持った巨人』に恋い焦がれ、本気でそいつを壁の中に連れ帰るつもりでいる。
我々三百人の命など、そのためのただの『荷運び』か『見栄えのいいパレードの観客』程度にしか思っていない匂いだ」
「狂っている……完全に正気を失っている……!」
先程彼女に凄まれ、椅子に崩れ落ちた分隊長が、両手で頭を抱えながら呻き声を上げた。
「我々は人質だ! あの化け物女の、恋心という名の狂気に巻き込まれただけの人質じゃないか! エルヴィン、どうする!? 今すぐ部隊に撤退の指示を出すべきだ!!」
「落ち着け」
私はズキズキと悲鳴を上げる胃の腑を左手で強く押さえつけながら、極めて冷静な、しかしいつもより一段低い声で分隊長を制した。
「今ここで馬首を返せば、十中八九、我々はあの平原で散った巨人たちと同じ運命を辿る。
彼女の目的はアトラスという巨人の回収だ。
それを阻害する者は、たとえ我々であろうと即座に『排除』される。
今日の彼女の動きを見ただろう。我々三百人が束になっても、彼女一人を止めることは物理的に不可能だ」
「なら、どうしろと言うんだ!? 明日にはその『アトラス』とやらが棲む巨大樹の森だぞ! 彼女が1000人いても数秒で処理されるような本物のバケモノを前に、我々にどう生き延びろと!?」
分隊長の絶望的な叫びに、私は目を閉じ、思考を高速で回転させた。
状況は極めて絶望的だ。前門の虎、後門の狼。いや、前門の『神』、後門の『鬼神』と言うべきか。
「……信じられない。信じられないよ……」
不意に、タープの隅で震える声が響いた。
ハンジ・ゾエだ。
彼女は自身のゴーグルを両手で押さえ、顔を真っ赤に紅潮させていた。
恐怖ではない。
それは、未知に対する狂気的なまでの探求心と、それを上回る圧倒的な畏怖の入り混じった、極度に興奮した様子だった。
「知性を持った巨人……! しかも、リーシェにあの理外の力を与え、自らは『人間に戻る』と宣言したという……!
エルヴィン、これは人類の歴史を根本から覆す大発見だ! 巨人の謎のすべてが、あの森にあるかもしれないんだよ!? でも……でもッ!!」
ハンジは頭をガシガシと掻き毟り、唸るように言葉を続けた。
「あの子の言う通りなら、その『アトラス』は生態系の頂点どころの話じゃない!
我々がこれまでに蓄積してきた対巨人戦術など、紙切れほどの役にも立たない次元の存在だ!
観察したい、対話してみたい! でも、一歩間違えれば、我々はおろか人類そのものが数秒で消し飛ぶ!!」
「ハンジの言う通りだ」
私は目を開き、焚き火の炎越しに集まった幹部たち全員を見据えた。
「我々の現在の状況を正確に定義しよう。
我々は今、調査兵団としての『壁外調査』を行っているのではない。
世界を滅ぼし得る力を持った女と、その女が狂信的に愛する『超越者』の逢瀬に、無理やり付き合わされているだけの存在だ」
自らの口で言い放ちながら、そのあまりの滑稽さと絶望的な事実に、私は思わず自嘲の笑みを漏らしそうになった。
人類の未来を背負って壁外へ出たはずが、実態はただの『最凶の痴話喧嘩(あるいは感動の再会)』の巻き添えである。
「生き延びるための最善の策を提示する。よく聞け」
私の低い声に、パニックに陥りかけていた分隊長たちが息を呑んで耳を傾ける。
「第一に、いかなる状況下においても、リーシェ・ベニアの機嫌を損ねる言動を固く禁じる。
彼女の指示がどれほど理不尽であっても、絶対服従だ。我々の生殺与奪の権は、完全に彼女が握っていると理解しろ」
間髪入れずに続ける
「第二に。明日、巨大樹の森へ到達し、その『アトラス』と遭遇した場合。
……絶対に、いかなる理由があろうとも、刃を抜いてはならない。
攻撃の意志を微塵でも見せれば、我々はアトラスに殺される前に、背後からリーシェにうなじを削がれる」
「第三に……これが最も重要だ」
私は胃の痛みを堪えながら、言葉に重みを持たせて念を押した。
「もし彼らが再会を果たした場合。我々はただの『背景』に徹する。
彼女が彼にすがりつこうが、巨人が人間の言葉を話そうが、一切の干渉をせず、空気と同化しろ。
恋人たちの時間に水を差すような真似だけは、絶対に避けるんだ」
「我々調査兵団が……ただの空気になれと?」
一人の班長が、屈辱と恐怖の入り混じった顔で呟いた。
「そうだ」
私は断言した。
「人類の誇りや、兵士としての矜持など、今はドブに捨てろ。
我々の現在の至上命題は『巨人の駆逐』ではない。
この常軌を逸した二つの厄災の機嫌を損ねることなく、三百人の兵士全員を無事に壁の中へ生還させること。
…それだけだ」
タープの下に、重く、粘り気のある沈黙が降りた。
歴戦の勇士である分隊長たちも、ミケも、ハンジも。
全員が己の無力さと、直面している現実の異常性を完全に理解し、深く頷くしかなかった。
「……会議は以上だ。
各班長は、兵士たちに『森の深部では一切の戦闘行動を禁じる。指揮は全てリーシェ班長に従え』とだけ伝達しろ。理由は伏せろ、無用なパニックを招くだけだ」
私が解散を告げると、幹部たちはまるで死刑宣告を受けた罪人のような足取りで、一人、また一人とタープの下から退出していった。
最後に残ったミケが、私を一瞥して低く呟く。
「……胃が、酷い匂いを発しているぞ、エルヴィン」
「分かっている。予備の薬まで飲み尽くしてしまいそうだよ」
ミケが立ち去り、ただ一人残されたタープの下。
私は残り少なくなった焚き火の炎を見つめながら、己の外套のポケットに入った小瓶──リーシェが執務室に置いていった、よく効くというあの胃薬──を強く握りしめた。
人類の真実を知るため、私は無数の犠牲を払ってきた。
だが、その真実の果てに待っていたのが、こんなにも理不尽で、絶望的で、そしてあまりにも個人的な狂気だとは、誰が予想できただろうか。
明日、巨大樹の森で何が起こるのか。
私は、冷え切った夜風に震える身体を抱えながら、ただ静かにその恐るべき夜明けを待つことしかできなかった。