進撃の巨人の世界に15m級の無垢(?)の巨人として転生してしまった……   作:感謝君

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第九十二話

息が詰まるほどに濃密な殺気と、得体の知れない重圧。

薄暗い休憩室の空気は、まるで水飴のように粘り気を持ち、リヴァイの肌をヒリヒリと焦がしていた。

 

 

(来るか……!)

 

 

リヴァイは極限まで重心を落とし、不可視の刃を握りしめたまま、目前の『化け物』から一瞬たりとも視線を外さなかった。

 

 

背後で息を潜めるファーランとイザベルを庇うように立ち、己の命と引き換えにしてでもこの二匹の異常な存在を食い止める。その覚悟が決まった、まさにその時だった。

 

 

黒髪の女───暗殺の標的であるはずのアトラスが、自らの腕に絡みついていた金髪の女(リーシェ)から身体を引き剥がし、静かに一歩、前へ出た。

 

 

 

リヴァイの全身の筋肉が鋼のように強張る。

 

 

 

神速の刺突が来るのか、それとも噂に聞く巨人化とやらの閃光が弾けるのか。

 

 

 

彼の戦闘特化の脳髄が、あらゆる致死のシミュレーションを高速で弾き出していた。

 

 

 

だが、次の瞬間。

 

 

 

一歩前に出たアトラスの表情から、一切の険が抜け落ちた。

 

 

 

春の陽だまりのように柔らかく、微塵の敵意も感じさせない、ただひたすらに美しく純粋な微笑み。

 

 

 

それが、彼女の神がかった造作の顔にふわりと浮かび上がったのだ。

 

 

「こんにちは、初めまして」

 

埃っぽい休憩室の静寂を震わせたのは、どこまでも透き通るような、鈴を転がすような少女の声だった。

 

 

「…………は?」

 

リヴァイの口から、無意識に間抜けな声が漏れた。

 

理解不能だった。脳の処理が完全に追いつかない。

 

 

つい数秒前まで、空間そのものを歪めるほどのプレッシャーを放っていた相手だ。

 

 

それが今、まるで近所の住人に挨拶でもするかのような、あるいは貴族の令嬢が小鳥に語りかけるような、あまりにも無防備で平和的な態度を見せている。

 

 

(何の罠だ? 幻術か? それとも、俺たちを油断させて一息に刈り取る気か……!)

 

 

リヴァイは警戒を解くどころか、その異質すぎるギャップに更なる不気味さを感じ、眉間を深く寄せて殺気を研ぎ澄ませた。

 

 

問題は、アトラスの後方で未だに底知れぬ眼光を放っている金髪の狂犬、リーシェだ。あいつが動けば、すべてが終わる。

 

 

しかし、リヴァイの警戒を他所に、アトラスは困ったように眉を下げると、くるりと振り返って金髪の女と向き合った。

 

 

「リーシェ、大丈夫だよ、ほら」

 

アトラスはそう言うと、自分を値踏みしていたはずの狂犬の華奢な身体を、正面から優しく抱きしめた。

 

 

そして。

 

地下街で死線を潜り抜けてきたリヴァイでさえ、全く予測できなかった常軌を逸した行動に出た。

 

 

アトラスは、少しだけ背伸びをするように顔を傾け、リーシェの白く透き通るような頬に、自身の唇をそっと押し当てたのだ。

 

 

──ちゅっ

 

 

静まり返った休憩室に、ほんの小さな、しかし決定的なリップ音が響き渡った。

 

 

「…………え?」

リヴァイの背後で、イザベルが間の抜けた声を漏らした。

 

 

ファーランもまた、先程まで感じていた死の恐怖が嘘のように、口を半開きにして目の前の光景を呆然と見つめていた。

 

 

無理もない。彼らの視線の先では、先程まで「逆らえば一瞬で肉塊に変える」という絶対的な死のオーラを纏っていた金髪の悪魔が、アトラスから頬にキスを落とされた瞬間、まるで魔法をかけられたかのようにピタッと動きを止めていたのだから。

 

 

氷のように冷酷だったリーシェのアイスブルーの瞳から、スゥッと殺意が抜け落ちていく。

 

 

代わりに彼女の顔面は、耳の先から首筋に至るまで、信じられないほどのスピードで真っ赤に染まり上がっていった。

 

 

彼女は前を見据えたまま、キスの感触が残る自身の頬へ、震える指先をゆっくりと這わせる。

 

 

(……は? なんだ、今の)

 

 

リヴァイは、構えを解くことも忘れ、ただただ虚を突かれたように固まっていた。

 

 

張り詰めていた死の空気は、今や見る影もない。

 

休憩室は、砂糖を煮詰めたような、甘ったるくも小っ恥ずかしいピンク色の空気に完全に塗り替えられていた。

 

 

背後のファーランとイザベルに至っては、完全に毒気を抜かれ、肩からストンと力が抜け落ちている。

 

 

先程までの命がけの緊張感が、あまりにもバカバカしく思えるほどの凄まじいギャップだった。

 

 

「皆さん、新人さんですよね?」

 

 

事もなげに修羅場を強制終了させたアトラスが、再びこちらに振り向き、花も照れるような満面の笑みを向けた。

 

 

その顔は微かに赤らんでおり、本心から恥ずかしがっているのが見て取れた。地下のネズミが抱くような打算や悪意は、その瞳のどこを探しても見当たらない。

 

 

「私はアトラス・ベニアっていいます。良かったら、気軽にアトラスって呼んでくださいね!」

 

「…………」

 

リヴァイは、未だに脳内で警報を鳴らし続ける己の生存本能と、目の前で繰り広げられたあまりにも平和的な少女の自己紹介との間で、激しいバグを起こしていた。

 

 

これが、ロヴォフが暗殺を企てた対象? エルヴィンが「人類を滅ぼせる」と語った巨人?

 

 

ふざけるな。ただの世間知らずで、頭の中がお花畑の姉妹にしか見えねぇ。

 

 

リヴァイは深く、長く息を吐き出し、強張っていた筋肉から少しずつ力を抜いた。

 

 

これ以上、見えない敵影に怯えて殺気を放つ自分が滑稽に思えてきたのだ。

 

 

彼は特有の三白眼で真っ直ぐにアトラスを見据え、低く、ぶっきらぼうな声で応えた。

 

 

「……俺はリヴァイだ。エルヴィンに、先週辺りから調査兵団にぶち込まれた新人だ」

 

 

親指でクイッと背後を指し示す。そこには、まだ目を丸くして状況を呑み込めていない二人の姿があった。

 

 

「後ろにいる奴らは、俺の仲間だ。兵士じゃねぇ。手ぇ出したら、タダじゃおかねぇからな……」

 

 

まだ完全に信用したわけではない。

 

 

もしこいつらが少しでも二人に危害を加える素振りを見せれば、今度こそ容赦なく喉笛を食いちぎる。その明確な警告だった。

 

 

だが、アトラスはその脅しにも全く怯む様子を見せず、ふふっ、と優しく微笑んだ。

 

 

「手出しなんてしないですよ。───それじゃあ、私たちはエルヴィン団長の所に向かうので、これで」

 

 

アトラスはそう言い残すと、「アトラスから……私に、キス……えへへ……」と完全にフリーズして中空を見つめているリーシェの腕を引っ張り、半ば引き摺るようにして休憩室の出口へと向かっていった。

 

 

二人の姿が廊下の奥へと消え、その足音が完全に聞こえなくなるまで。

 

 

リヴァイ、ファーラン、イザベルの三人は、その場から一歩も動くことができなかった。

 

 

「……なぁ、兄貴」

 

静寂の中、イザベルがぽつりと呟く。

 

「地上の化け物って……みんな、あんなに頭ハッピーセットなのか?」

 

「……知るか」

 

リヴァイは舌打ちをし、疲労感と共に安椅子へとドサリと腰を下ろした。

 

 

地下の泥水を啜ってきた彼らの常識は、たった数分の不可解な遭遇によって、完膚なきまでに叩き壊されていた。調査兵団の暗部、人類最強の双璧。

 

 

 

それがどれほど狂ったものか、彼らは身を以て、そして最高に拍子抜けする形で思い知らされたのだった。

 

 

 

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