進撃の巨人の世界に15m級の無垢(?)の巨人として転生してしまった…… 作:感謝君
薄暗いマホガニーの机越しに、重苦しい空気が漂う団長執務室。
俺は支給された女性用兵団服の裾を所在なく握りしめながら直立し、隣では、人類最強の鬼神たるリーシェ・ベニアが、完全に骨抜きにされた状態でふにゃふにゃと身をくねらせていた。
「んふふ……アトラスのくちびる……柔らかかったぁ……っ、もう一回……」
両手で赤く染まった頬を包み込み、焦点の合わないアイスブルーの瞳を宙に泳がせながら、ブツブツと幸せそうに呟き続けるリーシェ。
そのあまりにも威厳を欠いた姿を前に、デスクの向こう側に座るエルヴィン・スミス団長は、深く深く眉間を揉みほぐしながら呻くように口を開いた。
「……どこから、突っ込めばいいんだ……」
エルヴィンの青い瞳が、俺と、そして俺の隣で蕩けきっている歩く大量破壊兵器を交互に見比べる。
その目には、人類の希望を預かる指揮官としての疲労と、純粋な呆れがない交ぜになっていた。
俺は咳払いをして居住まいを正し、自分が犯した小っ恥ずかしい罪状を白状するように、徐々に熱を帯びていく顔の火照りを自覚しながら正直に告げた。
「あの……ここに来る途中の休憩室で、リヴァイさんという方に遭遇しまして。
リーシェが彼を『獲物』としてロックオンしてしまい、一触即発の雰囲気を打ち消すために……私が……彼女の頬にキスをしたら、こうなりました……」
最後の言葉は、消え入りそうなほど小さな声になってしまった。
俺の前世からの人生を振り返っても、これほど恥ずかしい状況報告は他に類を見ない。
穴があったら入りたい、いや、今すぐ硬質化で自分専用の地下シェルターを作って引きこもりたい気分だ。
「…………」
俺の報告を聞き終えたエルヴィンは、何も言わなかった。
ただ無言のまま、デスクの引き出しを静かに開け、見慣れた茶色い胃薬の小瓶を取り出した。
そして、中から雑に三、四錠の錠剤を手のひらに出し、水も飲まずにボリボリと噛み砕きながら、ゆっくりと目を閉じた。
(……団長の胃壁が、可哀想なことになっている……)
沈黙が数秒続いた後、エルヴィンは深く息を吐き出して目を開けた。
「……それは、君にとって災難だったな。だが、流血沙汰を未然に防いでくれた君の……その、機転には、団長として心から感謝する」
どこか言葉を選びながら、エルヴィンは真顔で礼を言った。
「休憩室で会ったという彼は、君たちが特別施設で休暇を取っている期間に、我々が新たに加入させた新人だ。
まだ巨人との実戦経験はないが、陽の光も差さない地下街という極めて厳しい条件下で、他の正規団員を遥かに凌ぐ対人戦闘能力と立体機動の技術を持っていたため、私が直接勧誘した」
エルヴィンはそこで言葉を切り、少しだけ声を低くして、核心を突くように続けた。
「私がいずれ、この兵団における『第二の鬼神』として頭角を現すと期待している人物でもある」
その最後の一言が、執務室の空気を僅かに変えた。
今まで完全に自分の世界に入り浸り、「えへへ……」とだらしない笑みを浮かべていたリーシェの耳が、ピクリと動いたのだ。
スッ……と
憑き物が落ちたように、いや、正確には『アトラスのお嫁さんモード』から『戦闘狂モード』へと切り替わったように、リーシェの姿勢が一瞬で元に戻った。
しかし、彼女の顔には、春の陽だまりのような、ひどく穏やかで、気の緩むような明るい微笑みが浮かんでいた。
「……四十三手」
唐突に、リーシェが澄んだ声で呟いた。
「それは、何の数字だ?」
エルヴィンが怪訝そうに眉をひそめる。
「ん? 私があの男──リヴァイを殺すのにかかる手数よ」
リーシェは、まるで「今日の夕飯はシチューね」とでも言うような、微塵の殺意も悪意も感じさせない、事もなげな明るいトーンでそう言い放った。
「ちなみにエルヴィン、あなたは七手ね」
「……は?」
俺は思わず違和感を覚え、隣のリーシェを見た。
今のリーシェの異常な身体能力──俺の『道』から常時エネルギーを供給されているスペックと、あの神速の立体機動術をもってすれば、エルヴィン団長相手でも一撃でうなじを削いで勝敗が決するはずだ。七手もかかるわけがない。
エルヴィンも俺と同じように思ったのか、訝しげに首を傾げている。
その疑問に答えるように、リーシェはふふっ、と可愛らしく笑いながら補足した。
「私が丸腰の素手で、相手が立体機動装置込みの完全武装だった場合の話ね」
(……だろうな!!)
俺は心の中で激しくツッコミを入れた。エルヴィンも「なるほど、そういう前提か」と納得したような表情になりつつも、その絶望的な戦力差を改めて突きつけられ、額にじんわりと冷や汗を浮かべていた。
「まぁ、エルヴィンが何を考えて彼を兵団に引き入れたのかは、だいたい察しがつくわ」
リーシェは、悪戯っぽく首を傾げながら、ニコニコと微笑んだままエルヴィンの深層心理をあっさりと看破してみせた。
「私の独断専行を止めるための『楔』、あるいはストッパーとしてあの男を育てようって腹なんでしょ?」
ビクッ、とエルヴィンの肩が跳ねた。額の冷や汗が一筋、頬を伝い落ちる。
(もうやめてやってくれリーシェ……団長のライフはとっくにゼロだ……!)
だが、リーシェはエルヴィンを責める様子は全くなく、むしろ楽しげに目を細めた。
「……不可能ではないわね」
その言葉に、執務室の空気が止まった。
「……!」
エルヴィンの青い瞳に、信じられないものを見たような、強烈な光が宿る。
あのリーシェが。自分以外のアトラスを取り巻くすべての人間を「塵芥」と見なすあの絶対的な鬼神が、地下街から来たばかりの新人の実力を明確に『認めた』のだ。
いずれ己に比肩し得る、あるいは自身の首を脅かす刃になり得ると。
「……ふっ……ハハッ! 鬼神直々のお墨付きか……ッ!」
エルヴィンは、長年の重圧から解放されたかのように、この兵団に来てから初めて見る、清々しく晴れやかな表情で笑いを漏らした。
彼の計画が、決して無謀な妄想ではなかったことが証明された瞬間だった。
そんな上官の歓喜をよそに、リーシェは楽しそうに提案してきた。
「なんなら、私が直接彼に稽古をつけてあげてもいいけど? 徹底的にしごいてあげるわよ!」
満面の笑みで、後輩を可愛がる先輩のような明るい口調。
「やめてくれ」
すかさず、エルヴィンが一切の間を置かずに、食い気味でその提案を拒否した。
(そりゃそうだ。加減をミスって「あ、殺しちゃいましたテヘペロ」とかなったら目も当てられないしな……)
俺は心の中で深く同意しつつ、エルヴィンの瞬発力に密かに拍手を送った。
「ちぇっ……せっかく親切に言ってあげたのに」
リーシェは不満そうに頬をぷくっと膨らませた。
(可愛い……じゃなくて、エルヴィンの心労をこれ以上増やすな)
エルヴィンは軽く咳払いをして、無理やり場の空気を切り替えた。
「……それはさておき。休暇上がりで早々に悪いが、数日後に壁外調査が控えている」
いよいよ来たか、と俺は表情を引き締めた。
「今回の遠征には、新人のリヴァイ、そしてアトラス殿にも出撃してもらう。だが……」
エルヴィンは真剣な眼差しで、俺とリーシェを交互に見つめた。
「現在の我々の部隊は、リーシェ班長の圧倒的な武力に依存しすぎている。
このままでは兵団全体の練度が低下する一方だ。
そのため、今回の遠征において、リーシェ、そしてアトラス殿には……『部隊が壊滅の危機に瀕した緊急時』と、『君たち自身の身の危険を感じた時』以外は、極力戦闘に参加しないでもらいたい」
要するに、「お前ら二人がチートすぎて他の兵士の経験値が吸い取られるから、なるべく手出し無用で後ろで見学しててくれ」ということだ。
俺にとっては、前線で巨人と血みどろの殺し合いをするより遥かに安全で気楽なポジションだ。
特に不満点もないので、俺は素直に頷いた。
「分かりました」
リーシェも、アトラスが戦わない(=危険な目に遭わない)のであれば異論はないらしく、あっさりと同意した。
「ええ、分かったわ。アトラスのそばから離れないで済むなら、それでいいわ」
「助かる」
エルヴィンは安堵の息を吐いた。
それ以外に特に伝達事項はないようだったので、俺たち二人はそのまま敬礼をして団長執務室を抜け、本部内に用意された『姉妹同室(という名のリーシェの絶対領域)』のプライベートルームへと向かって歩き出した。
(いよいよ壁外調査か……!)
廊下を歩きながら、俺は内心で少しだけ気分を高揚させていた。
調査兵団としての、初の正式な任務。壁外の未知なる世界への出陣。
しかも、俺の隣には一個師団を無傷で殲滅するリーシェがいて、同じ部隊にはいずれ人類最強となる男、リヴァイまでいるのだ。
(これ以上ないくらい安全な布陣だ。気合い入れて挑もう!)
俺は両拳をギュッと握りしめ、来るべき初陣に向けて決意を新たにした。
…………ん?
いや、ちょっと待てよ。
(リヴァイとリーシェがいる時点で、そもそも俺が出る幕なんて一つもないのでは……?)
それに。
俺は自分の腰に巻かれた革ベルトと、支給品として部屋に置かれているであろう鉄の塊を思い出し、ハッと我に返った。
(よく考えたら俺、この世界に来てからずっと巨人化のクリスタル能力ばっかり使ってたから……『立体機動装置』の扱い方なんて、一度も教わってないし、一回も使ったことないんだが!?)
ワイヤーの射出ボタンも、ガスの噴射タイミングも、刃の交換の仕方も、何も知らない。完全にど素人だ。
もし馬から落ちたり、巨人に囲まれたりして、やむを得ず自力で空を飛ばなきゃいけなくなった時、俺はただの「無様に地面を転がるだけの美少女」になり下がるのではないか?
巨人化すれば解決する話だが、みんなの前でド派手に変身するのも気が引ける。
(……やばい。この数日で、立体機動の特訓しなきゃ……!)
初陣を前にして、思わぬ自身の致命的な弱点(物理)に気づいてしまった俺は、隣で「ねぇアトラス、部屋に戻ったらさっきの続き、しよ?」と甘い声で迫ってくるリーシェの言葉を適当に「無理」とあしらいながら、数日後の遠征に対する不安で胃をキリキリと痛ませ始めるのだった。