青い。あまりにも青い。
実数領域の空が映し出すその色は、どこまでも平穏で、どこまでも無関心だった。
次元宇宙。
人間たちが、その足元にある実体と、頭上の虚空に広がる意識の二重構造に気づかぬまま、日々の糧を求めて活動する場所。
だが、その平穏な海面のすぐ下では、目に見えない「虚数領域」の潮流が、死者の精神を集合的無意識へと運び、新たな命の種へと混ぜ合わせるという、果てしない循環を繰り返している。
そんな世界の理(ことわり)から、最も遠い場所に、その男はいた。
「……ふあぁ……。今日は、少し潮が静かすぎるな」
小さな島の港から少し離れた沖合。
一艘の年季の入った小舟の上で、クライムは大きくあくびをした。
彼にとっての宇宙は、今日の釣果と、適度に湿った海風、そして昼寝を妨げない程度の穏やかな波、ただそれだけで構成されていた。
クライムは漁師だ。
彼には、次元宇宙の危機を救う高潔な意志も、ましてや上位存在から与えられた特別な使命もない。
ただ、この小さな島の港で、悠々自適に、暇があれば眠り、腹が減れば魚を焼く。そんな「普通」の極致のような時間を愛していた。
クライムが再び瞼を閉じ、浅い眠りに落ちようとした、その時だった。
実数領域の物理法則では説明のつかない「音」が、彼の鼓膜ではなく、意識の奥底を直接叩いた。
同じ時、次元宇宙の別の場所。
「波動の番人」は、傷ついた精神を癒やすためにその掌から淡い光を放ち、「秩序の番人」は、その力が世界の上限を超えぬよう、冷徹な規律をもって空間を縛っていた。
彼らは知らない。
自分たちが振るうその力が、上位存在が「もしもの時」に自分たちを切り捨てるための隔離元素――『アニマ』と『アニムス』の模倣に過ぎないことを。
そして、その隠されたセーフティが今、原因不明の歪みによって軋みを上げ始めていることを。
「……ん?」
小舟の上で、クライムが片目を開ける。
青い空の向こう側に、一瞬だけ、巨大な「瞳」のようなものが映った気がした。
人知の及ばぬ領域から、ただ「観察」し続ける上位存在の視線。
だが、クライムはそれを「雲の形が変わっただけか」と決めつけ、再び使い古した麦わら帽子を深く被り直した。
この時、まだ誰も気づいていなかった。
のんびりと昼寝を貪るこの男の、指一本文にも満たない小さな無意識の揺らぎが、宇宙全体の「隔離システム」を書き換える最初のバグになることを。
次元宇宙と、上位存在の世界。
二つに引き裂かれた宇宙の運命は、一人の暇を持て余した漁師の、長すぎる昼寝から動き始める。