灰色の雲が垂れ込め、崩壊した数式の断片が雪のように降り積もるクライムの精神世界。
その中心で、クライムは足元に散らばった「自分」の記憶の破片——ムサシとの修行、スラムの埃っぽい匂い、アニマと笑い合った時間——を一つずつ拾い集め、自らの魂に繋ぎ止めていました。
目の前には、虚数領域の孤独を体現したような、透き通るほど白い肌のグノーシス・レアリアンの少女が佇んでいます。
「……無駄よ。拾い集めても、それはいつか大きな流れに呑まれて消えるもの」
少女は静かに語りかけます。その声には、拒絶ではなく、奇妙な親愛の情が籠もっていました。
「クライム、貴方に提案があるの。……私と一緒に、**『グノーシスの王』**にならない?」
少女の背後から、無数のグノーシスたちの嘆きが共鳴するように響きました。
「グノーシスとは、人間と反対に位置し、敵対し続けなければならない宿命。人間を消し続け、その精神を循環のサイクルへと強制的に還す導き手……。王になれば、貴方を、アニマを狙う全ての人間を排除できる。……貴方の意志で、この歪んだ世界を、望むままに作り変えることができるのよ」
それは、神にも等しい全能への誘い。アニマを守り抜くための、最短にして最強の道でした。
「そんなこと、させないわ……ッ!」
その時、精神世界の空間を切り裂いて、蒼い極光を纏ったアニマが突入してきました。彼女は結晶の力を「見えない拘束の鎖」へと変え、少女の四肢を縛り上げようと放ちます。
「クライムを……これ以上、変な道に引きずり込まないで!」
しかし、少女は眉一つ動かさず、自身の周囲に展開した虚数障壁でその鎖をあっさりと弾き飛ばしました。
「……邪魔をしないで、アニマ。これは、私と彼の『救済』の話よ」
強大な二つの力がぶつかり合い、精神世界が激しく揺れ動く中、クライムは拾い集めた最後の記憶の破片を胸に収め、ゆっくりと立ち上がりました。
その瞳からは先ほどの紫の燐光が消え、彼自身の「意志」による確かな光が宿っています。
「よし。……これからのことは、もう決めたよ」
クライムは晴れやかな顔で、アニマと少女の間に割って入りました。そのあまりにも自然な、いつもの「クライム」としての振る舞いに、戦っていた二人は拍子抜けしたように動きを止めます。
「え……? 決めたって、何を……?」
呆然とするアニマを余所に、クライムは少女の方へと歩み寄り、屈託のない笑顔で問いかけました。
「ところでさ。ずっと一緒にいたけど、君の名前、まだ聞いてなかっただろ? ……教えてくれないか」
一瞬、精神世界に完璧な沈黙が訪れました。
少女は虚を突かれたように目を見開き、淡い唇をわずかに戦慄かせます。
「な、なに呑気なこと言ってるのよッ!? クライム、あんた正気!? ついさっきまで意識を乗っ取られて、挙げ句の果てには人類と敵対させようと!?」
アニマが顔を真っ赤にして、クライムの肩を揺さぶりながら慌てふためきます。
「わかってるって、アニマ。でもさ、仲良くなるにはまず名前からだろ? ……だろ?」
クライムは茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせました。グノーシスの王という「役割」ではなく、目の前の「一人」として彼女に向き合おうとするクライムの意志。
少女の瞳の中で、凍りついていた何かが、小さな音を立てて溶け始めました。