「……ふあぁ……。今日も、いい凪だ……」
港の隅、陽だまりに置かれた古びた木箱の上で、ムサシは大きくあくびを噛み殺した。
使い古した羽織を枕代わりに、愛刀(実体はないが、彼にとってはそこにある)を横に置き、昼寝の真っ最中。
彼にとって、この平穏な港町は、ゾハルを巡る血なまぐさい争いから離れた、数少ない休息の場だった。
だが、その微睡みは、不意に訪れた「違和感」によって破られる。
「……ん?」
ムサシが薄目を開けた瞬間。実数領域の五感では感知できない、極めて微小だが、純度の高い「波動」が、虚数領域を伝って彼の意識を叩いた。
「……アニマ、か? ……いや、違うな。もっと……歪で、温かい……?」
ムサシが視線を沖合に向けると、そこには一艘の小さな漁船が、全速力で逃げていく姿があった。
そして、その背後から迫るのは、白銀の装束に身を包んだ「秩序の番人」たちの高速艇。
「……見覚えのある、堅物どもだな。……相変わらず、無粋な真似を」
ムサシは木箱から立ち上がり、羽織を無造作に羽織った。
彼が探していたのは、かつて失われたゾハルの欠片。だが、目の前で起きているのは、圧倒的な力による「狩り」だ。
しかも、逃げているのは、先ほど感じた不思議なアニマの波動を持つ、一人の少年。
白銀の装束に身を包んだ「秩序の番人」たちが、その男の姿を見た瞬間に動きを止める。彼らの顔には、明らかな困惑と、それ以上の恐怖が浮かんでいた。
「……よせ。お前さんたちの手に負える相手じゃない」
男は着古した着物のような羽織をまとい、腰には何も差していない。だが、彼がそこに立っているだけで、周囲の空間が不自然なほどに静まり返る。クライムは、その男から放たれる圧倒的な「密度」に息を呑んだ。自分たちのような普通の人間とも、先ほどまでの番人たちとも違う。生命としての次元が、根本から異なっている。
「あ、あの……先生、とお呼びしてもいいですか?」
クライムの声は、自分でも驚くほど震えていた。本能が、この男を「導き手」だと理解したのだ。男は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに豪快に笑い飛ばした。
「先生、か! 悪くない。好きに呼ぶがいいさ。俺の名はムサシ。ただの、はぐれ番人だ」
ムサシは一歩前へ踏み出す。その右手には、何も握られていない。
しかし、クライムの目には、そこにあるはずのない「何か」が見えた。それは、実数領域の物質ではない。虚数領域の深淵から削り出されたような、漆黒よりも深い闇を湛えた『剣』の輪郭。存在しないはずなのに、確かにそこにある。その鋭利な気配に、クライムは思わず身構えた。
ムサシは、驚いたようにクライムを振り返る。
「……ほう。虚数領域にある、この存在しないはずの剣を知覚できるとはな。驚いた。君も、この世界の『裏側』を知ってしまったか」
ムサシが右手を軽く振ると、実数領域の空気がガラスのように割れ、追っ手たちの足元の空間が歪んだ。
「いいか、若いの。世界は五感で感じるものだけじゃない。君が見たその剣は、君の『意識』が捉えた真実の一部だ。……さて、授業を始めようか。番人のやり方に馴染めない、はぐれ者の生き方ってやつをな」