ムサシの加入によって、クライムの小舟は一躍「動く教室」へと変わりました。
水平線の彼方に番人たちの船影が消えたのを見計らい、ムサシは甲板の上であぐらをかき、奇妙な指導を始めました。
「いいか、クライム。虚数領域にあるものは、目で見るんじゃあない。そこにあると『定義』するんだ。お前さんが漁師なら毎日やってる、海面下の見えない魚の動きを読む感覚……それを空中に広げてみろ」
クライムは困惑しながらも、漁師としての長年の勘を呼び起こします。
「……網を打つ時の、あの手応えのない手応え、みたいなもんか?」
「そうだ! その感覚で、周囲に漂う粒を掬い上げてみろ。お前さんの『網』でな」
クライムが意識を集中させると、ポケットの中の結晶が共鳴し、虚空から光の糸のようなものが編み合わされていきました。それは実体を持たない、しかし確かな重みを感じさせる「目に見えない網」。
漁師としての技術が、図らずも高次元エネルギーを捕縛する「イマジナリー・オブジェクト」へと昇華された瞬間でした。
その様子を、アニマは冷ややかな、どこか警戒を含んだ瞳で見つめていました。彼女はムサシの前に歩み寄ると、その正体不明の男に問いかけます。
「……あなた、何者なの? その力、普通の番人のものじゃない。それに、その『存在しない剣』……ゾハルの波動すら感じさせないのに、なぜそんな密度を持っているの?」
ムサシは困ったように頭を掻き、ニヤリと不敵な笑みを浮かべました。
「これは困ったな。こちらからしたら、貴女様は大層な有名人なのだが……お嬢さんからしたら、私の名など無作法な浪人にしか聞こえんか。済まないな、私の名前はムサシ。無論、本名を明かすわけにはいかぬゆえ、偽名であることは許してくだされ」
ムサシは、何も持っていないはずの右手を軽く掲げました。そこには、やはりクライムにしか見えない「漆黒の断片」が揺らめいています。
「いかにも、私の剣は『神の庭』から送られた力によって生成されている。……お嬢さん、見えないのは知覚できないからと言っても、分からないのは無理もない。私の剣は、そういう風にできていると思ってくだされ。信じるか信じないかは、お嬢さんの自由だがね」
「神の庭……。上位存在の世界から直接引き出しているというの?」
アニマの顔に、驚愕の色が走ります。それはゾハルという「変換器」を通さず、純粋な理を直接力に変えていることを意味していました。
「さて、お喋りはここまでだ。クライム! 網の目が緩んでいるぞ。そのままじゃ、次の『波』に飲み込まれるぜ!」
ムサシの叱咤に、クライムは必死に虚空の網を握り締めました。
伝説の剣豪の名を騙る謎の男と、神の力を宿した少女。
その二人の間で、一人の漁師が宇宙の理を「釣り上げる」ための修行が本格的に始まりました。
「……っ、かかった!」
クライムが虚空に放った「見えない網」が、ずっしりとした異質な重みを捉えました。引き上げようとした彼の目に飛び込んできたのは、実数領域の生物とはかけ離れた、半透明で不気味な光沢を放つ異形の群れ。
それは、掴もうとしても指がすり抜けるのに、向こうからの攻撃だけは実体を伴って襲いくる、虚数領域の捕食者たち。
「気をつけて、クライム! あれはグノーシスと呼ばれる存在なの! 物理的な干渉が無効化される、意識の亡霊……!」
アニマが悲鳴に近い声を上げ、慌ててクライムを突き飛ばして庇おうとします。しかし、網にかかった数は尋常ではありませんでした。十、二十……虚空の裂け目から次々と溢れ出す異形に、アニマは鋭い視線をムサシに向けました。
「まさかムサシ! あなた、わざと呼び寄せたの!? 彼はまだ素人なのよ!」
ムサシは困ったように頭をボリボリと掻きながら、豪快に笑い飛ばしました。
「いやあ、面目ない。だが、これほど大量に『釣り上げる』とはな。クライム! いくらなんでも初心者が欲張りすぎだぞ!」
冗談めかした口調とは裏腹に、ムサシの眼光が鋭く据わりました。
彼は一歩前へ出ると、右手に握られた「存在しないはずの剣」を無造作に、ただ一振り、横に薙ぎ払いました。
——轟っ!
音よりも先に、世界が「震え」ました。
実数領域の空気がガラス細工のように粉砕され、虚数領域の理が剥き出しになります。ムサシの一閃は、群がるグノーシスたちを塵一つ残さず「無惨(むざん)」へと変え、存在そのものを宇宙の記録から抹消してしまいました。
その余波は止まりません。海面が真っ二つに割れ、巨大な津波が周囲を飲み込もうと逆巻きます。一振りの剣が、天変地異を呼び起こす神の裁きのように、次元宇宙の理を書き換えていく。
「……ひ、ひぃっ……!」
クライムは、その圧倒的な「密度の破壊」を間近で浴び、腰が抜けて甲板に尻餅を突きました。
ただの漁師である彼にとって、それはもはや戦闘ではなく、宇宙の終焉を見せられているような恐怖そのものでした。
「……やりすぎたか。だがクライム、これが『神の庭』に繋がる力の一端だ。お前さんの編んだ網は、これを受け止めるためにあるんだぜ」
ムサシは平然と、消えた剣の感触を掌で確かめるように握り直しました。
荒れ狂う波の中で、クライムは震えながら、自分が手にしてしまったもののあまりの重さに、ただ息を呑むことしかできませんでした。