ムサシの一振りが消し飛ばしたグノーシスの残骸から、キラキラと輝く光の塵が雪のように降り注ぎました。
実数領域では存在しないはずのその塵は、吸い込まれるようにクライムの身体へと溶け込んでいきます。それは、かつてグノーシスに呑み込まれ、集合的無意識の海へ帰り損ねた「誰かの記憶の断片」でした。
「……っ、あ、あがっ……!?」
突如、クライムの脳内に、自分のものではない膨大な映像と感情が流れ込みました。
燃え盛る星々、泣き叫ぶ人々の声、そして——冷徹に世界を切り捨てる「上位存在」の冷たい視線。
「う、うわあああああ!」
クライムは激しい頭痛に悶え、自分の頭を割らんばかりに抑えて甲板に崩れ落ちました。白目を剥き、全身を痙攣させるその姿は、ただの「情報の過負荷」を超えた、魂の変質を予感させるものでした。
ムサシはその光景を、いつになく険しい、底知れない畏怖を孕んだ目で見つめました。
「……チッ。まさか、これほどまでの適性があるとはな。ただの漁師じゃあなかったか……。虚数領域の『澱み』を、これほどまでに純粋に吸い込むとは……」
ムサシの独り言は、どこか予言めいた不気味さを帯びていました。彼は動こうとせず、クライムの中に芽生え始めた「何か」を見極めようとしているかのようでした。
「何言ってるのよ、ムサシ! 言ってないで、早く彼を安全なところに連れて行かないと!」
アニマが叫び、クライムの肩を抱きかかえます。彼女の手からは、必死に彼を繋ぎ止めようとするアニマの治癒の波動が漏れ出していました。
「このままだと、彼の意識が虚数領域の深淵に引きずり込まれちゃう! ムサシ! 早く! 早くして!!」
アニマの悲痛な訴えに、ムサシはふっと、いつもの不敵な笑みを消しました。
「……分かってる。だがお嬢さん、こいつはもう、ただの人間には戻れねえぜ。……神の庭の門を、こいつは内側から叩いちまったんだからな」
ムサシは無造作にクライムを担ぎ上げると、小舟の舵を、今度は自分自身で握りました。
「しっかり捕まってな。ここからは『最短距離』で島へ戻る。実数領域の理なんざ、知ったことか!」
ムサシが虚数領域を無理やり「漕ぐ」ことで、小舟は現実の海を無視し、空間の裂け目へと消えていきました。
ムサシが舵を切り、小舟が空間の断層を抜けた先は、島の裏側に隠された断崖の直下だった。そこには、波に削られた巨大な洞窟があり、その奥深くに古びた、だが異様な威圧感を放つ「祠」が鎮座していた。
「……ここが、安全な場所?」
アニマは息を呑んだ。虚数領域の密度が異常に高い。ここは次元宇宙の綻びであり、オリジナルのゾハルと直接的なパスが繋がっている「禁忌の地」だ。
「ああ、ここなら『上の連中』も容易には覗き込めねえ。……おい、開けろ。客人を連れてきたぜ」
ムサシが暗がりに向かって声をかけると、岩壁の一部が光学迷彩を解除するように揺らぎ、高度な科学技術と古代の呪術が融合したような居住空間が姿を現した。
そこに身を潜めていたのは、「アベルの方舟」と名乗る組織の面々だった。
彼らもまた、番人と同じ「アニマ感応者」としての波動を纏っていた。しかし、その質は決定的に異なる。秩序の番人のような「統制」も、波動の番人のような「慈愛」も感じられない。代わりに漂うのは、運命そのものに抗おうとする、鋭く、乾いた意志。
彼らはムサシを「先生」とも「盟友」とも呼ばない。ただ、絶対的な敬意と、拭いきれない恐怖を混ぜ合わせたような視線で彼を見ていた。「ムサシ……。その少年が、例の『特異点』か?」
組織の一人が、担ぎ込まれたクライムを見て低く問いかけた。ムサシは答えず、ただ無造作にクライムを祭壇のような寝台へ横たえた。
アニマは、ムサシと「アベルの方舟」の間に流れる空気を敏感に察知していた。
(この人たちは、ムサシが何者なのかを知っている……。そして、ムサシは彼らを利用しているのではない。彼らが、ムサシという『存在』を繋ぎ止めるための重石(バラスト)になっている……?)
アニマの知る歴史のどこにも、「アベルの方舟」の名はない。それは上位存在の「観察」から完全に零れ落ちた、あるいは意図的に抹消された歴史の断片。
「……あなた、本当に何者なの? ムサシ」
アニマの問いに、ムサシは暗い祠の奥、ゾハルの鼓動が聞こえる壁を見つめたまま、短く答えた。
「俺か? 俺は……かつて方舟に乗り遅れ、神の庭から叩き出された、ただの『燃え残り』さ」