その時、寝台の上のクライムが大きく背を逸らし、絶叫した。
彼の瞳がカッと見開かれる。右目はいつもの茶色だが、左目はアニマの髪と同じ、透き通った神の領域の色に染まっていた。
「……事象、変移……。確率の固定を確認……。……門(ゲート)が開く……」
クライムの口から漏れたのは、漁師の彼が知るはずのない、宇宙の設計図を読み解くための「未知の数式」だった。
「……っ、はあぁっ、はぁっ……!」
クライムは跳ね起きると同時に、自分の胸をかきむしった。
目の前の景色が、祠の薄暗い岩肌と『アベルの方舟』の無機質な計器類にピントを合わせるまで、数秒の時間を要した。
脳裏に焼き付いたのは、潮騒でも魚の跳ねる音でもない。
どこか遠く、この宇宙の設計図を書き換えるような場所で交わされていた、一組の男女の密やかな、そして絶望的な会話だった。
「レメゲトンを使いすぎた。この世界は近いうちに滅ぶ事が決まってしまっている。なんとかしなければならないな」
「人のためになるならと思って残していたあの本を残した結果がこんな事になるなんて」
「せめて集合的無意識に帰らない意識の理由を知る事が出来れば対処が出来るのだが」
クライムの震える唇から、夢の中で聞いた言葉が漏れ出して意識が現実に戻された。
「……レメゲトン……。使いすぎた、世界が滅ぶって……。あの本を残した、せいで……」
その単語が漏れた瞬間、祠の中の空気が凍りついた。
『アベルの方舟』の構成員たちが一斉に作業を止め、信じられないものを見る目でクライムを凝視する。ムサシですら、被っていた麦わら帽子を深く押し下げ、顔を伏せた。
「……あの男と女は、誰なんだ? 『集合的無意識に帰らない意識』……その理由を知れば、対処できるって……」
クライムの問いに答える者はいなかった。ただ、アニマだけがその「本」の名に聞き覚えがあるのか、青ざめた顔で自分の肩を抱いた。
「……チッ。そこまで視ちまったか。お前さんの左目は、どうやら時間を逆流して、この宇宙の『最初の設計ミス』にまで届いちまったらしいな」
ムサシが重い腰を上げた。その声には、いつもの余裕はなく、隠しきれない忌々しさが混じっている。
「レメゲトン。それは神の言葉を盗み、人間が勝手に綴った偽りの聖典だ。……その男と女は、おそらくこの隔離システムの……いや、これ以上は俺の口からは言えねえ」
ムサシは、祠の奥に設置された巨大なモニター——アベルの方舟が極秘裏に観測を続けている『宇宙の摩耗率』を示すグラフを指差した。
祭壇の上で、左目に神域の輝きを宿したまま、クライムは激しい呼吸を繰り返していました。脳内に焼き付いた数式の残光と、アニマの言葉が重なります。
「……グノーシス。つまり、さっきの化け物たちのことね」
クライムは、震える手で自分の顔を覆いました。漁師として生きてきた二十数年、嵐も大時化も経験してきましたが、「グノーシス」なんて不気味な存在は、島の伝承にすら登場しません。
「なあ、アニマ。……おかしいだろ。俺は、この海で生まれてこの海で育ったんだ。なのに、あんな恐ろしいものがうじゃうじゃいるなんて、一度も聞いたことがない。グノーシスってのは一体なんなんだ」