祠の奥、ホログラムの青白い光に照らされた空間から、一人の男が静かに歩み寄りました。整えられた髪に、知性を湛えた銀縁の眼鏡。彼はクライムの横たわる寝台の傍らで足を止め、短く一礼しました。
「混乱しているところを済まない。だが、君の左目が視ている『数式』を正しく理解し、制御しなければ、この島ごと虚数領域の藻屑となるだろう。順を追って説明させてもらうよ」
ムサシが横から口を挟みます。
「紹介しよう。こいつの名前はオルムス。この『アベルの方舟』を実質的に動かしているリーダーだ。……まあ、元々のボスは別にいたんだがな。今は訳あって、この男が全権を握って運営しているそうだ」
オルムスは眼鏡のブリッジを指で押し上げると、空中に複雑な幾何学模様の図解を展開しました。
「クライム君。まず、この宇宙が何でできているかを知る必要がある。我々の世界は、単純な原子の集まりではない。根本にあるのは二つの相反する『元素』だ」
オルムスが操作すると、赤と青の粒子が渦を巻くホログラムが浮かび上がります。
「まずは実数元素について教えよう。我々が肉体で感じ、触れ、科学で証明できる物質。君の小舟も、この海の波も、実数領域のルールに従って存在している。これは宇宙の『肉体』でありマテリアと呼ばれている」
「次に精神、意識、そして死後の魂が還る場所を構成するエネルギー。通常、肉体を持つ人間には知覚できないが、宇宙の『神経系』として実数領域の裏側を流れている。これをエーテルと言い……君が網で捕らえたグノーシスは、この虚数元素が実数領域に無理やり染み出した『バグ』なのだよ」
「そして、この二つの元素を循環させ、宇宙というシステムを動かしている唯一の永久機関……それがゾハルだ」
図解の中心に、黄金色に輝く一枚の巨大なプレートが現れました。
「ゾハルは、ここではないどこか——我々が『神の庭』と呼ぶ高次元領域から無限のエネルギーを汲み上げる門(ゲート)だ。番人たちが使う力も、我々がこうして隠れ住むためのエネルギーも、すべてはこのゾハルから供給されている。いわば、この宇宙の心臓だ」
オルムスは、静かに自分たちの組織について語り始めました。
「我々『アベルの方舟』は、番人のようにゾハルを崇拝し、管理するために集まったのではない。我々は、ゾハルという心臓がいつか停止し、あるいは上位存在によって『隔離システム』が作動してこの宇宙が消去される未来……その終焉から、人類を救い出すために結成された」
彼はクライムの左目を真っ直ぐに見つめました。
「ムサシ殿が君をここに連れてきたのは、君の左目がゾハルの深層言語……つまり、宇宙の設計図そのものを読み解き始めているからだ。君は今、実数と虚数の境界線そのものになろうとしている」
「……マテリアとエーテル……。そんな話、初めて聞いたが…とんでもないスケールだな」
クライムは、あまりに壮大すぎる話に眩暈を覚えます。しかし、左目の奥で明滅する数式は、オルムスの言葉が真実であることを冷徹に肯定していました。